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題名
Kyrie Eleison −前編−
登場人物
ラス
投稿者
松川彰
投稿日時
2005/6/30 23:46:30
──いつか君も僕と同じ気持ちを味わうのかな。
ふと風の中でそんな声を聞いた気がした。庭先をよぎる風は、現実にその言葉を伝えたわけじゃない。足元にじゃれつく猫を抱き上げて、少し考える。そして思い出した。
春に行った海賊の島。そこで出会った奇妙なエルフがそれを言っていた。
人間を友人に選び、当然の帰結としてその友人と死に別れたエルフ。長い時を経て尚、その友人のことは忘れられないと言っていた。……いや、違う。そのうちに忘れてしまうだろう、と言っていたんだ。けれど、忘れたくないとその瞳は語っていた。
そして俺とカレンを見て、そのエルフは言った。君も人間を友に選んだのか、と。
──いつか君も僕と同じ気持ちを……、
違う声を思い出した。
その声は俺の脳裏に、1人の半妖精の男の姿を描き、そしてもう1人……人間の女の姿を描く。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
タラントの街は、奇妙な街だと思う。
エルフの住む森が近くに幾つもあり、その国を治める王家にもエルフの血が流れているという。だからなのか、タラントは人間以外にも寛大な街だ。もちろん、人間と亜人間との間に生まれる幾つかの問題は、他の街と同様に……いや、ひょっとしたらそれ以上に抱えていただろう。けれど、表だった差別としてはあまり現れていなかった。
街を歩くエルフたちにどんな事情があるかは知らない。街を好んでいる風変わりなエルフなのかもしれないし、事情があって街に居を構えているのかもしれない。俺や父のように、所用があって一時的に森を出てきているだけなのかもしれない。どんな事情があるにせよ、他の街よりもエルフが占める割合は大きかった。とはいえ、それを実感として知ったのは、俺がタラントの街を出てからのことだったが。
なんにせよ、それだけエルフが多いとなれば、当然半妖精の割合も他の街と比べて増える。そんな半妖精たちに対する差別が全くないわけではない。けれどそれは、他の国と比べれば段違いに少なかったろう。
4歳の時にタイデルの街からエルフの住む森へと移った。それは父の故郷の森でもある。タラントから歩いて1日半。エルフの言葉で『白き宿り木の森』と呼ばれる、あまり大きくはない集落だ。
街で冒険者をしている母親と会うのは年に数度。年に一度会えるかどうか、といった年もあった。会うのは大抵タラントの街だ。母親から連絡が来るたびに、俺と親父は嬉しさを隠そうともせずにタラントへ向かった。
そんな生活を続けていたのは20歳になる頃まで。つまり、母親が冒険先で死ぬまでだ。それ以降、森からタラントへ通じる細い道を親父と2人で辿ることはなかった。
同じ道を1人で辿ることになったのは、俺が25を数えた頃。30歳になれば森には置いておけなくなるかもしれない、と親父の友人が俺に告げた。そのエルフの名はエルルーク。親父の友人でもあり、精霊魔法においては俺の師匠でもある。異端の者に対する嫌悪感をあらわにしながらも、友人の息子でもあり自分の弟子でもあるという立場の俺に、しぶしぶながらも便宜を図る、という微妙な感情を漂わせていた。
30になるまであと5年、その歳月が長いか短いかはよくわからない。けれど、エルフにとっては5年などあっという間だと思えたのだろう。そのためにそろそろ準備をしておけ、と言われた。そうして紹介されたのが、森と街との交流使という一風変わった役割を担っているエルフだ。歳は大きく離れているが、俺の従姉にあたるという。
ラシェジというその女エルフはタラントに居を構えていた。彼女のもとに厄介になって半年。その半年が過ぎると森へ戻ってまた半年。そしてまたラシェジの元へ半年……と、俺からしてみればまどろっこしいと感じるほど悠長に、けれど森の奴らにとっては性急に、俺は森から街へと馴染む準備をさせられた。それは恵まれていたことだろう。森のことしか知らないままにある日突然街に放り出されるよりは、格段にマシだった。
母親を亡くして以来、親父の精神状態が不安定だったこともあって、森をあまり留守にはしたくないのが本音だったが、遅かれ早かれ森を追い出されるのなら、母親──父にとっては妻を思い出させる俺が、彼から少し離れることも必要なのかもしれないと思った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
−493〜495年−
教養はあるにこしたことはない、なければ困るが、あって困るものではない、というラシェジの言い分によって、下位古代語を始め、幾つかの知識を詰め込まれた。とはいえ、それはラシェジにとっても俺にとっても、暇つぶしの類であったように思う。へたなことをして、わざわざ森の長老の不興を買うことはないだろうと俺たちの意見は一致していたから。
勉強以外の時間は、『街に馴染むための社会学習』と称するものに費やされた。
最初に覚えたのは酒の飲み方だ。それまでも、親父と暮らした小さな家で、食事時にワインを多少飲むことはあったし、街で何度か酒場へも足を運んだことがある。が、酔うことを目的として、もしくは、酒を飲む行為自体を楽しむために飲んだことはなかった。
俺にそれを教えてくれたのは、タラントの酒場で出会った半妖精だ。ハノークと名乗ったその男は、人好きのする笑みを湛えて、俺の隣に腰を下ろした。
砂色の髪を揺らし、明るいブラウンの瞳で不器用にウインクをして見せる。見た目からでは年齢を判断出来ない。少なくとも俺よりは幾分か年上だろうと思えた。
「そう一気に飲むもんじゃないよ。せっかくだから味わったほうが酒のためじゃないか」
穏やかに笑ってそう言っていたが、彼はどうやらあまり強くはないらしかった。
「いいかい、ラストールド。自分の酒量の限界というものを知っておいたほうがいい。そうじゃないと……僕みたいな羽目になるから」
酒の飲み方を教えてやろう、と。これ以降、ハノークは何度も口にした。けれどいつだって先に酔いつぶれるのはハノークのほうだった。
ラシェジのもとにいた最初の半年の間、幾度となくハノークと酒場で話した。半妖精同士ということもあったろう。そして互いに冒険者ではない、ということも。
半妖精の大半は、生きる場所を見つけられずに冒険者になると聞いたことがある。タラントの街では例外的に、それ以外の道を見つけることも可能だが、酒場に行けば冒険者が大半を占めることは変わりがない。冒険者があまり行かない酒場へ行くと、自然と半妖精の占める割合は少なくなる。だからタラントでも、俺たち2人の組み合わせは少しだけ目立ったかもしれない。
自分は人間の街で育った、とハノークは語った。親のことは知らないという。タラントの街にあるマーファ神殿の前に捨てられていたのだと。
「親のどちらがエルフだったのか、それとも半妖精だったのかは知らないよ。ひょっとしたら、取り替え子だったのかもね」
そう言って笑った。自嘲するような笑みではなかった。
ハノークは画家だと名乗った。自分の絵を売るほどには、画家としての道を確立してはいないが、酒場の看板やメニューを描く傍ら、作品を描いては美術商へ売り込みに歩いているのだという。
「僕はね……いつか芸術の都と呼ばれるベルダインに行きたいんだ。あの街では、若い芸術家への支援も多いというしね。少なくともタラントでやっているよりは、道が拓けるだろうと思う」
夢を語るハノークの瞳は、酒精とは違うものに熱く潤んでいた。
「君の目指すものは?」
そう聞かれて、少なからず迷った。
「……多分、冒険者になると思う」
「どうして?」
「それ以外になれるものがないからな」
「まだ若いじゃないか。君も。そして僕もね。だから今から道を狭める必要はないんじゃないのかな」
「狭めてるわけじゃないが……」
「自分の可能性を信じないのかい?」
実のところ、可能性というものを考えたことがなかった。もっと幼い頃は、別の意味で純粋に冒険者になりたいと思っていた。それは、自分の出来る一番手っ取り早い方法で両親に楽をさせてやりたいと思っていたからだ。精霊魔法を身につけた自分であれば、ある程度のことは出来るだろうと。
ただ、母が死に、父も森から離れることはかなわなくなった今となっては、それは目的とは言えなくなっている。
「そうだな……じゃあ、次に来る時までに答えを考えておこう。数日後には一度森へ戻らなくちゃならないから」
俺の返答を聞いて、ハノークは満足したように笑み、そして酔いつぶれた。
森で育った俺にとって、母親以外の半妖精と親しく話したのは初めてのことだった。ハノークと出会う前にも、何人か他の半妖精を見知ってはいた。だが、その大半が俺を失望させた。
自らを卑下し、必要以上に斜に構えた態度、そして同族とみるや同じ傷を舐め合おうと、互いの傷を探り合おうとする。時には、自分の傷を悲劇的に見せびらかし、同情を買おうとする。
正直、うんざりした。
俺は、森の外で生きるために、その準備として街に出てきているのであって、傷を舐め合う相手を探しているわけじゃない。大仰に親の仕打ちを嘆いてみせる奴らは、自分たちだけで悲劇の淵に沈み込んでいればいい。巻き込まれてやる義理などない。
親に捨てられただの、石を投げられただの、まともな食事も与えられなかっただの、滔々と語り出した半妖精相手に一度、「それがどうした」と言ってやったら、恨みがましい眼をしてそれきり黙り込んだ。
だが、ハノークは違った。
彼に親がないという事実も、マーファ神殿に捨てられていたという事実も、改まって身の上話を聞いたわけではない。ほんのささいな……きっかけさえ忘れてしまうような他愛のない会話の中で、ちらほらと聞いた断片を俺が記憶の中でつなぎ合わせただけだ。
そもそもが出会いからして、ふざけている。
酒場のカウンターで、ハノークがほろ酔い加減でウェイターと話をしていた。曰く、昨夜は飲み過ぎて財布を落としたことにさえ気付かなかった。だから今日は一番安い酒をくれ、と。
「そんなにまでして飲みたいもんなのか」
店員とのやりとりに興味を抱いて、そう話しかけた俺に、ハノークはブラウンの瞳を細めてにっこりと笑った。
「君はまだ酒を楽しむということを覚えていないようだね」
それから、自分がいかに酒を愛しているかを語り、そしていかんせん自分は酒に弱い、それだけが残念だとため息をついた。
そして思い出したように付け足した。
「まぁそれより残念なのは、稼ぎが少ないことだねぇ。でも僕の酒量に似合いの稼ぎだと思うから、これもバランスというやつだろう」
酒の飲み方を教えてやろう、とそこで言いだしたのだ。
そして半刻以上も語っただろうか。酒代が足りなくなって、途中から水を飲んでいたハノークが、いきなり声を上げた。多分、そこで酔いが覚めたのだろう。
「なんだ、君! 同族だったのか!」
驚いたのはこっちだ。その内心を実際に口に出したかどうかは覚えていない。
その後、森へ戻り、そこでまた半年を過ごした。親父の世話と、精霊魔法の修行。エルフとは、と講釈を垂れる長老相手に「俺はエルフじゃねえよ、クソジジイ」と口答えして、その罰として真冬の水汲みをやらされてみたり。
それはそれで、俺にとっては馴染んだ日常だった。
ついでもあるからと言って、俺と一緒に森に戻ってきた従姉のラシェジが、そんな俺を見て、悪戯めいた微笑を浮かべた。
「さて……森と街と。おぬしにはどちらが心地よい?」
一瞬、迷う。だがすぐに、迷う必要などないのだと知った。
「ンなもん関係ないね。俺がどちらを選ぼうが、俺が森に居続けられないことだけは決まってる」
選択権など与えられてはいなかった。
半年の後、街に戻ると、新鮮さは相変わらず、そして少しだけ馴染みやすさがそこに混ざっていることに気付いた。気付かせてくれたのはハノークだ。
相変わらず酒場で夢を語り、酒に飲まれ、そして俺の顔を見つけると手をあげて微笑んだ。
「やぁ、久しぶり。おかえり、ラストールド」
おかえり、と。
そう言われることで、ここにも居場所があるのだと知った。いや、むしろこちらのほうが心地よいのかもしれないとも思う。森に戻った時に、その言葉を言ってくれたのは親父とその従妹の2人だけだった。
ハノークばかりではない。人間の知り合いも増えている。
しばらく見なかったな、どうしてた、と微笑む酒場の店主。
ヴェスター通りにいい店が出来たんだ、と肩を叩いてくる冒険者の男。
里帰りしてたんならお土産くらい持ってきてよ、と半ば冗談半ば本気で笑う商人の娘。
なるほど、これが人間の街なのか、と思った。何年か後には、それはどちらかというとタラントの特質なのだと知ったけれど。
選択権の有無は問わず、街を選びたくなっている自分がいた。
ハノークは人間の街で育ったというが、その性質や能力もより人間に近いようだ。どちらかと言えば、エルフ寄りの俺とは、同族とはいえ対極に位置するように思う。
そのことをあらためて思い知ったのは、路地裏で喧嘩に巻き込まれた時だった。
「ラストールド、君は敵をつくりやすいってよく他人に言われないかい?」
のんびりと尋ねるハノークに、俺は肩をすくめて答えた。
「身内にまで言われるよ」
「……君と一緒に歩く時はそれを忘れないようにするよ」
「でも今日のは、あんたにも原因の一端はあると思うけど?」
「彼らと僕との、酒に対する理解度の違いかなぁ」
あまりにのんびりと落ち着いているものだから、それなりの心得があるのだろうと思ってた。
そしていざ事が始まってから、ハノークの様子を伺うと、確かにその腕力は人間並……いや、ひょっとすると、冒険者ではないそこいらの一般市民に比べれば腕力は上のように見えた。だが、いかんせん、決して俊敏とは言い難い。しかも、どうやら心得は全く無さそうだ。
俺自身は、ハノークが指摘した通り、こういったことに心ならずも……そう、心ならずも、巻き込まれることは少なくない。もちろん、森ではこういった経験をすることは出来ないが、この街で、今と似た状況に遭遇することは何度かあった。
とはいえ、正式に体術を習っているわけでもないから、苦戦することもしばしばだったが。
その時も苦戦した。なにせ、最初は2人対2人で、俺の担当相手は1人だったはずなのに、途中から俺が集中攻撃を受ける羽目になったからだ。こちらのほうが腕力の面で片付けやすいと思われたのかと、思わず舌打ちが漏れた。
が、事を終えてみると、ハノークが地面に伸びていた。
結局、あちこち痛む自分の体の他に、大きな荷物を引きずってラシェジの家へ転がり込んだ。
「芸術家は指が命だからね。それを庇わなくちゃならないから、どうしても動きが制限されるんだ。……君も僕のように、1発で伸びてしまったほうが、怪我が少なくて済んだんじゃないのかな」
目が覚めたあとのハノークの言い分は、確かに正しいと思われるものの、自分とハノークの怪我の数の差を考えると、素直に頷けるものではなかった。
街での3度目の長期滞在が、1ヶ月近くなった頃、妙なことに気が付いた。
ハノークが酔いつぶれる回数が減っている。それどころか、ハノークが酒場に現れる頻度が減っている。酒を控えているというよりも事情を抱えている様子だ。
だが、何か変わったことは?と聞いても、何もないとしか答えない。
ハノークが酒場に姿を見せなかったある日、俺は酒場の店主や周りの友人たちに聞いてみた。
「ああ……最近、あいつの女房、よくねぇみたいだからな」
酒場の店主の返事に、少なからず驚いた。というのも、俺はハノークが結婚していることすら知らなかったから。
「へぇ、あいつ女房いたのか」
俺の内心と同じ言葉を発したのは別の友人だった。どうやら知らないのは俺だけではなかったらしい。
とはいえ、心の奥に奇妙な感情が生まれたのは事実だ。今まで、森で暮らしていて、そんな感情は知らなかった。
少し苛つくような、悔しいような、それは怒りによく似ている。けれど、怒りほど対象が明確ではなくて。
──何故、教えてくれなかったんだ。
ただその言葉だけが、表面に浮かび上がってくる。
後日、何気なさを装ってハノークにそれを尋ねてみた。誤魔化されたらどうしようとか、そういった迷いがあったのも事実だが、それ以上に、怒りに似た感情はどうやらハノークに向いているらしいと気が付いたから。
「ああ……うん、いや、隠すつもりじゃあなかったんだけどね。ただ、君には……」
「……まぁ、俺が頼りにならねぇのは認めるけど。世間知らずだし……」
「いや、そういう意味じゃない。逆だよ。……ああ、僕は絵で描くのならともかく言葉で説明するのはとても苦手なんだ。まぁ、今の気持ちを絵で描けと言われてももっと困るけれど。……ラストールド、今から少し時間あるかな」
場所は酒場だったが、まだ宵の口だった。時間については問題ない、と答えると、ハノークはカウンター席から立ち上がった。
「……一緒にきてくれないか」
困ったような微笑を湛えて、ハノークが俺を見下ろす。わかった、と頷いて俺も立ち上がった。
ハノークに連れられて向かった先は、大通りからかなり外れた場所にある集合住宅だ。あまり裕福じゃなくても暮らせる程度の家々。
タラントは決して薄汚れた街ではない。空に近い街と謳われるのは、山の頂にあるという立地条件のせいではあるが、その名が不自然ではない程度に町並みは整っており、とくに王城周辺や大通りに面した町並みは、十分に美しいと思える。だが、そんな街でもいわゆる貧民街は必ずある。向かっている場所は貧民街とまではいかないが、俺とラシェジが住んでいる家よりもかなり……有り体に言えばみすぼらしさが目立っていた。
「……僕と妻が住む家だよ」
薄汚れた石壁の集合住宅を指さして、ハノークが言った。
「妻と言っても、結婚の儀なんかはしてないからね。ずっと一緒に住んでいる、というだけのことだけど。僕にとってはただ1人の女性だ」
軋む階段を上った先が、ハノークの部屋らしい。
軽くノックをして部屋へと入り、ハノークがただいま、と声を上げる。
「ヘレナ、ただいま。具合はどうだい? ……今日は僕の友人を連れてきたんだ」
ハノークの声はいつも穏やかだ。酔っている時でさえ、その穏やかさを失わない。けれど、ヘレナと呼んだ相手に対する声は、それよりももっと……切なささえ感じさせるような声音だった。
「ラストールド、入ってくれ。遠慮はいらないよ。狭いから、足元に気を付けて」
「……いや、ハノーク。俺はそんなつもりじゃ……」
「君に妻のことを教えなかったのは悪意じゃない。……多分、僕は今から君に少しばかり意地悪なことを教えようとしている」
その言葉に……正直に言えば、興味を惹かれた。
小さな古い部屋に足を踏み入れると、まず最初に絵の具の匂いが鼻をついた。そして壁や床を埋め尽くすように立てかけられたキャンバスや画板。隅にある小さな卓の上にはパレットと絵筆。
部屋の奥にはカーテンが見える。どうやらその陰には寝台が置かれているらしい。人影が身じろぎをする気配を感じた。
「ラストールド、僕の妻のヘレナだよ」
ハノークの手がカーテンを一方へ引き寄せる。
寝台の上の人物を見て、挨拶を、と考えていた思考が止まった。
──寝台の上に起きあがった妻の肩に、ショールをかけるハノークの手は優しい。妻に寄り添うように、寝台の端へ腰を下ろして、妻のために水差しから陶製のコップへと水を注ぐ。手つきも、そして妻を見つめる瞳も。愛情に満ちていることは疑いようもなかった。
「……初めまして。お見舞いに来ておいて、手ぶらで申し訳ない」
感情を誤魔化すことには、森での生活で慣れていた。浮かべてみせた微笑みは完璧だったと思う。
「いいえ、お気を遣わないでくださいね。こちらこそ見苦しい姿でごめんなさい」
寝台の上で微笑んで会釈した。
白髪の老婆が。
ハノークの部屋で平静な振りをして半刻ばかり過ごし、そろそろ腰を上げても不自然ではないだろうと思える頃、俺は立ち上がった。
「そこまで送るよ、このあたりは入り組んでいてね。わかりにくいから」
寝台の上に横たわる妻に毛布を掛けなおし、ハノークは俺の後について部屋を出てきた。
無言で階段を下り、無言で路地に出る。
月の光が差し込む路地で、最初に口を開いたのはハノークのほうだった。
「……驚いたかい」
「……少しな」
「ヘレナと僕は、同い年だよ」
俺の足が止まった。2、3歩行きすぎてから、ハノークも立ち止まる。そして振り返った。
「僕は今年、64才になる。ヘレナもだ。……君は幾つになる?」
「27……。そう、か……うっかりしてたな。あんたの年齢を聞いたことはなかった」
見た目だけなら、俺よりほんの少しだけ年上、くらいにしか見えなかった。
森では、エルフ相手に年齢を確認することほど馬鹿げたことはない。なにせ桁が違うのだから。だから俺には、相手の年齢を確認する習慣は無かった。
「僕が彼女と出会ったのは、君と同じくらいの歳の頃だったかな。もう30年以上前のことだ。彼女は若く、美しかった。もちろん今だって、僕にとっては美しいままだ」
それは、俺も感じたことだ。
ヘレナは年老いていた。けれど、穏やかな微笑みは俺の目にも美しく見えた。
「ヘレナは……彼女は、遠からず僕を置いて逝ってしまう」
ハノークが、月を見上げた。
満月まであと少しという、中途半端な丸さの月を。
空に近い街から見上げる月は、他の街から見上げるよりも大きく見えるのだろうか、と。そんな場違いなことを一瞬考えた。
ハノークの、艶のない砂色の髪が、月の光を受けてわずかに光を身籠もる。
「ラストールド。……君はいつか言っていたね。エルフなんか嫌いだ、と」
俺に向き直って、そう確認するハノークの声は、月の光よりも穏やかだった。
「……ああ。嫌いだよ。傲慢なエルフどもも、そして悲劇ぶる人間混ざりも」
「だから君には、妻のことは教えなかったんだ」
「ハノーク、それは……」
ハノークがもう一度月を見上げた。
彼の言うとおり、俺がエルフも半妖精も嫌っているままだとしたら、俺がいつか共に過ごしたいと願う相手は人間である可能性が高い。
「……ラストールド、いつか君も、僕と同じ気持ちを味わうのかな」
俺は答えるべき言葉を持たなかった。俺はあまりに世間を知らなかった。
そして、あまりに自分を知らなかった。
「僕は……妻を見送ったら、ベルダインに行くよ。タラントは、ヘレナとの思い出が多すぎる。……ねぇ、ラストールド。僕はマーファ神殿で育った。だから……うん、マーファ様を信仰している。神官になろうとまでは思わなかったけれどね。……神様に感謝することは幾つもあった。ヘレナとの出会いもその1つだ。けれど……同じことで、神様を少し恨んでみたりもする」
「……恨む?」
神々のことは知識として知っている。けれど、俺にとっては信仰という言葉の意味すら実感としてはわからない。神に何を感謝するのかもわからない。
「そう。多分ね、これは無責任な期待をしているからだと思うんだけど……恨まれるほうもたまったもんじゃないよね。僕は……出来るなら、ヘレナと同じ時間を生きたかった。自分が半妖精として生を受けたことを恨みたくなる瞬間だよ。それ以外のことは……うん、君と同じさ。仕方がない、と思えた。生き延びられただけでも幸運だとさえ思った。でも……ヘレナは僕を置いて逝ってしまうんだ」
ねぇ、と穏やかな声で……その穏やかさは諦観と同じニュアンスだったのかもしれないが、ともかくも穏やかにハノークは続けた。
「神様は見守っていてくださるから、と言った神官がいたけれど。……見守るだけなのかなぁ」
その言葉にも、俺は答えられなかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
−496年−
数ヶ月後、俺は森に戻り……そして予定の半年が経つ前に街にまた戻ることになった。森へは戻らないことを前提として。
それまで危ういバランスで保っていた親父の精神の精霊が、バランスを崩した。本格的に治療を始めるにあたり、俺が邪魔だと、親父の友人──エルルークは言った。俺の顔立ちや瞳の色、半妖精であるという事実も、親父に、彼の妻のことを思い出させるから、と。
亡くした妻を求めて求めて……求めすぎて、親父は精神のバランスを崩した。
親父をエルルークに預け、出立の準備をしながら、俺はハノークのことを思い出していた。
そして俺は、以前は親父と2人で何度も歩いた道、ここ数年は自分1人で何度も歩いた道……森からタラントへと続く細い道を歩き出した。もう二度と戻ることはないかもしれないと思いながら。
タラントについて、そのままいつものように従姉──ラシェジの元へ向かう気にはなれなかった。もう、長老の意志を尊重する義務などない。ラシェジのことは嫌いではなかったが、以前とはあまりに事情が違う。
結局、ラシェジには挨拶だけをして、俺は別の知り合いのところへ向かった。
死んだ母親の友人だ。冒険者として盗賊をしていた母親の、元仲間。
そこに居候しつつ、盗賊技を仕込んでもらって、冒険者として生きていくつもりだった。結局、ハノークからの問いは、何度考えても、他に出来ることもやりたいことも思い付かなかったというわけだ。
冒険者の友人も何人かいるし、何軒かの酒場でも馴染みになっている。駆け出し冒険者として何とか生活していく分には困らないだろうと思った。
実際、それはその通りだった。もちろん、数え切れないくらい失敗もしたし挫折も味わった。けれど、もう自分には戻る場所などない。そう思えば、前に進めた。
エルフの森に居た頃よりもずっとマシだ。そこ以外に自分が生きられる場所はない、という感覚だけは同じだったけれど、森でのその思いは、自分を追いつめるだけだった。けれど、森の外では、無理矢理にでも前に進もうという意志に変わった。
森から出て、自分の生活基盤を整えて……そうして、酒場の噂で聞いた。俺が森に帰っている間に、ハノークがベルダインに発ったと。
そう聞いた時に思い出したのは、寝台の上で柔らかに微笑んだヘレナの顔と、路地裏で穏やかに呟いたハノークの言葉と。 あとは、あの晩、頭上にあった中途半端に丸い月だ。
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