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題名
Kyrie Eleison −後編−
登場人物
ラス
投稿者
松川彰
投稿日時
2005/6/30 23:51:04
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
−497〜499年−
まだ駆け出しの文字はとれないが、とにもかくにも冒険者として生活出来るようにはなり、幾つか仕事もこなした。他の街にも何度か出掛けて、そこでタラントの『特殊性』を身をもって知ることにもなった。
世界が、ほんの少しだけ広がったように思えた。
その頃には、住む場所も変わっていた。師匠の家の居候ではなく、少し前に出会った女と一緒に暮らしていた。
艶やかな漆黒の髪と、深い夜陰の瞳、なめらかな琥珀色の肌を持った女。やや肉厚の形の良い唇で、キリエと名乗った。
「知ってる? これは神様への呼びかけの言葉なの。『我が神よ』と呼びかける神聖語を共通語の発音に近づけるとキリエになるんだって」
そう言って笑ったキリエは、俺よりも少し年上の、人間の女だった。出会った時は、俺が29、彼女が34。
「5つくらいたいした違いじゃねえじゃん」
年齢の話でそう笑う俺に、キリエは艶っぽく笑って見せた。
「馬鹿ね。たいして違わない、と言うのなら、今すぐ5年分の経験してらっしゃい」
その言葉に何も返せなくなる程に、その頃の俺は確かに世間知らずの子供だった。
師匠から個人的に盗賊技を習い覚え、そしてそのまま師匠の紹介でタラントの盗賊ギルドに属していた。もちろん入隊したての下っ端、それも半妖精に出来る仕事は限られている。雑用や使い走りが主な仕事だった。その一環として、ギルドが直接経営している娼館の1つに雑用として派遣された。そこで出会ったのがキリエだ。
キリエは、俺が行く1年ほど前までは現役の娼婦だったらしい。そこそこ売れていたと聞く。現役を退いた後も、女将の片腕として、そして若い娘達の相談役として店に残っていると言っていた。
「……でもね、本当の仕事は別にあるの」
そう言ったキリエの口元は微笑みの形を保っていたけれど、その声は哀切の色を帯びていた。
キリエの父親は薬草師だったという。父が営む診療所を母が手伝い、キリエもそれを手伝っていた。
「まぁ、よくある話よ。母が病気になってね。父の腕ではそれを治せなかった。神殿やエルフの治癒魔法を頼っても駄目だった。苦しんで、母が逝った頃には、父は借金を抱えていて、そして看病と借金とで心身ともに疲れていた父は自ら命を絶った」
一人娘だったために、その借金は全てキリエの負担となり、娼館に売られてきたのだという。
「借金はもう返したわ。利子まで全部すっきりね。だけど……今更この世界の外じゃ生きられないしね。それに……あたしの仕事がここにはあるのよ。あたしはここの専属の薬師なの。いろいろな薬があるわ。この世界でしか需要がない薬がね。……ごく軽い興奮作用のある媚薬。それに避妊薬。あとは……堕胎の薬」
歳の差は5年。けれど、経験の差は計り知れないほどだった。彼女と俺とでは、今まで生きてきた時間の密度が違うのだろう。
一緒に暮らしていても、それはいつでも感じていたことだ。彼女は大人で俺は子供だった。
キリエと暮らしている俺を見て、盗賊ギルドの連中は下卑た含み笑いを漏らした。曰く、鍵としちゃ半人前なくせに、ヒモとしちゃ一人前だ、と。俺はそれに反論しなかった。反論しても敵を増やすだけだし、路地裏のチンピラ相手ならともかく、本職相手に喧嘩になれば勝てるはずもない。それに、実際は2人の生活費はほぼ折半になってはいたが、明らかにキリエのほうが収入が多かった。だからはたから見れば『引退した娼婦と、そのヒモ』に見えるだろうことは、自分でも承知していたのだ。
「……なぁ、なんで俺と暮らす気になった?」
暮らし始めてすぐの頃に、そう尋ねてみたことがある。
「そうねぇ……理由って必要?」
「だって、これじゃやっぱ俺ってヒモみたいじゃん」
俺の言葉を聞いて、キリエは可笑しそうに笑った。屈託なく笑っているはずなのに、その笑い声はどこか艶めいていて。
多分キリエは見透かしていたんだろう。俺の問いは子供じみた確認以外の何物でもなかった。2人の間に愛情があって、だからこそ2人は一緒に暮らしているんだとキリエの口から聞きたかったのだ。
「それでもいいんじゃない? あんたはヒモの才能あるわよ」
「……ンだよ、それ」
「あら、誉めてるのよ。ヒモにもいいのと悪いのとがいてね。女が心おきなく仕事を出来るように、きちんと身の回りの世話をして、仕事で疲れて帰ってきた女を優しくいたわるのがいいヒモの仕事。女がそんな男に対して金を与えるのは、彼の仕事に対する報酬の意味もあるのよ。それに比べて、悪いヒモっていうのは自分勝手でね。女の稼ぐ金だけを目当てにして……それでもそれが惚れてる男なら、女は男が望むだけ金を与えちゃうのよ。いつか裏切られて、有り金持って逃げられるまでその関係が続く。……ラス、どうせヒモになるのなら、いい仕事しなさい」
俺の頬に手を添えて、もう片方の頬に口づけをしながらキリエが笑った。
「けどおまえはもう現役じゃねえし、俺はヒモになるつもりはないぜ?」
「あらあら、それもそうね」
確認したいことを誤魔化されて、けれど頬に受けた口づけは思いの外優しくて。それで許す気になった。
「うーん……本当はね、あんたが一番最初にうちの店に雑用で来た時から目をつけてたのよね。さすがにタラントでも、半妖精はそこそこ目をひくし。……ねぇ、あんた、今まで何人くらい、女を相手にしたことがある?」
「……娼婦もいれて?」
「うん、いれていいわよ」
「素人は……まぁ、5、6人かな。娼婦はその3倍くらい……だと思う。ってか、目を付けてたって、どんな風に?」
「育ててみたいなぁ、って」
「はぁ?」
「まだ若いし、こっちの世界に少し不慣れなところもあって……でもあんた、女が嫌いじゃないでしょ? 素質はあると思ったわ」
くすくすと、悪戯めいた微笑を浮かべると、キリエは少しだけ年齢不詳になる。
深い闇のような黒い瞳で、じっと俺を見据えた。その瞳に見つめられるのは心地よかった。
「……素質って? 何の素質?」
「そうね……あんたは嘘がつけるから。自分の感情を隠せるから。ラス、あたしがあんたを仕込んであげる。極上の男にしてあげるわ。あたしが知ってることは全部あんたに教えてあげる。女の喜ばせかた、あしらいかた……」
そんなのはごめんだ、と言い返すことは出来なかった。
彼女の望む男になれば、彼女と対等になれるかもしれない、と。そう思った。
ある日、仕事でちょっとした怪我をした。新入りの雑用でも頭数にはなるだろうと駆り出されたのだ。乱戦の中、相手のナイフが脇腹をかすめただけで済んだのは幸運だったろう。決して俺の腕じゃない。
そのまま部屋に帰ると、キリエが慌てて手当を始めた。
「そんなに大げさにしなくてもいい。たいした傷じゃねえだろ」
「素人は黙ってなさい。服も汚れてるところを見ると、あまり綺麗な場所じゃなかったんでしょう?」
「そりゃそうだけど……」
「そんな場所で傷を負えば、そこから悪い精霊が入り込むわ。……賭けてもいいわよ、この後、熱が出るでしょうね」
決めつけるようにそう言って、キリエは手早く手当をした。半ば強引に俺を着替えさせ、寝台に行くように命じると、自分はチェストの引き出しを探っている。
「はい、これ。飲みやすいように丸薬にしてあるわ」
傍にあった水差しから水を注いで、薬と一緒に俺に差し出してくる。
「……いらねぇ」
「いるかいらないかを決めるのは患者じゃないわ」
「ンなもん飲みたくねぇ。もう手当もしたし、寝てりゃ治る」
そう言い捨てて俺は毛布に潜り込んだ。するとすかさずキリエがその毛布をはぎ取る。
「馬鹿言わないの。化膿止めと痛み止めよ。飲めば治りが早くなるし、あんたも楽になるでしょう?」
「いやだ」
「……ラス、まさか?」
ふと気付いたようにキリエがその形の良い眉を上げる。そしてわずかにおもしろがるような口調。
「そうだよ、薬は嫌いなんだ。ンなもんさっさとしまえ! そして毛布返せ!」
「……馬鹿みたい。ガキじゃあるまいし」
「ガキでも何でもいい、とにかくそれは飲みたくない」
キリエの手から毛布を奪い返し、改めてその中に潜り込む。頭上で、キリエのついた溜息が聞こえた。
ひと眠りして、痛みで目が覚めた。体全体が疼くような熱っぽさも感じる。とはいえ、子供のように反抗した手前、キリエに泣きつくわけにもいかない。泣きついたあげくに薬を飲まされるのも冗談じゃない。
「夕食よ。……起きられる?」
寝台まで食事を運んできたキリエの口調は、聞き分けのない子供に対する母親のような響きを帯びていた。そうと感じるのもひょっとしたら俺の側に、自分の子供じみた態度に対する自己嫌悪があったからかもしれない。
「負担をかけないようにスープだけにしといたわ。だからせめてそれだけは残さずに食べてね」
反抗したい気持ちは残っていたけれど、それをやっても自己嫌悪を増すだけだろうとはわかっていた。だから、何も言わずにスープを飲み干した。
「……相変わらず、料理の腕は上がらねぇな」
強がりや反抗の代わりに悪態をつくことは忘れなかったけれど。
「ふふ……引っかかったわね」
「……なにが」
いつもなら、事実とはいえ料理の腕に難癖をつけられると大人げなく不機嫌になるキリエが、妙に上機嫌に呟いた。そこから推察されるものは1つしかない。なにが、と聞き返しながらも、その可能性に思い至って背筋を冷たいものが走る。
「このスープよ」
疼くような脇腹の痛みとは別に、胃の奥に何かが澱む。息苦しくなる。
「あんたが嫌いだって言ってたさっきの丸薬、その中に溶かしちゃった」
どくん、と心臓が脈打った。
その鼓動に押されるようにして、寝台から半ば転がり出るようにして部屋の扉へ向かう。
「え。ちょっと、ラス!?」
全て吐き戻して部屋に戻ってみると、キリエがまださっきと同じ位置で立ちすくんでいた。
「……なに? どういうこと?」
5才の頃に毒と紙一重の薬を飲まされて死線を彷徨って以来、俺は薬に対しては拒絶反応がある。さっきも、それと知る前は口に出来たように、それが薬と知らなければどうということはない。ただ、知ってしまえば、頭で何か考えるよりも体が先に反応する。自分の命を脅かすものを、一刻も早く外へ排出しようとする。
「エルフの薬草師……カノーティスとか言ったな。フルネームは知らないけど。エルフと人間混ざりとでは体のつくりも違うだろうから、さじ加減を間違えた、と言っていた。実際、多少は俺の体質のせいもあったらしい。だからまぁ……限りなく故意に近い事故、といったところだ」
俺の説明を聞いて、キリエは拗ねたように口を尖らせた。
「……馬鹿にしてるわ」
「そうさ、エルフなんてみんな……」
「違う。あんたがあたしを馬鹿にしてるって言ったのよ」
癖のある長い黒髪をかき上げて、キリエは俺を睨み付けた。
「何よそれ。どういうことよ。あんたはあたしのことをこれっぽっちも信用してないってことじゃない。あんたは、あたしをそのエルフと同じに思ったんでしょう? そのエルフが作った薬と、あたしが作った薬を、あんたは同列に並べたのよ。馬鹿にしてるじゃない」
……いつも思うことを、その時もまた思った。
この女はどうして、俺が反論出来ないことばかりを口にするのだろうと。
けれど、2人の生活は思ったよりも平穏に過ぎていった。大抵は俺の我が侭をキリエが肩をすくめて許してくれる、というパターンで。
それは俺にとって少なからず悔しくもあり、そして心地の良いものでもあった。キリエにとってどうだったのかは、俺にはわからないままだったけれど。
仕事にも慣れて、俺が“御用聞き”をする店が増えると、自然、キリエのいる店にいる時間は短くなる。けれど、その分を埋め合わせるかのように、2人で暮らす部屋に戻ってからの時間は濃密になっていった。
なのに2人とも、『愛してる』とは決して口にしなかった。
それが何故なのかはわからない。俺にとっては多分、くだらない気恥ずかしさからだろうと思う。
ただでさえ実際の年齢も下で、経験は遠く及ばない。いつでも子供扱いされていて、キリエは実際に大人だった。そんな自分がそんな言葉を口にすること自体、愛情を確認したい子供のように思われるんじゃないかと思っていた。それ自体がそれこそ子供のような論理だったことに気付いたのは、ずっと後のこと。
そして、怖くもあった。自分がそれを口にして、けれどキリエはそうとは思っていなかったなら、と。
育ててみたい、とキリエは以前言った。そしてその言葉通り、彼女は俺に様々なことを教えた。閨の中のことだけじゃなく、女が好む食事や酒、衣服や香水、化粧品のことまでも。彼女が俺を傍に置くのは、愛情故のことじゃなくて、好奇心と、自分で男を育ててみたいという欲のためだけだったとしたら。
けれど、それはそれでいいと思っていた。互いに口づけをかわし、寝台も共にして、同じ景色を見て同じ酒を飲んで。それでもキリエが俺を愛してはいないというのなら……、多分そこで俺の思考は止まっていたんだろうと思う。
ならばおまえはキリエを愛しているのかと、誰も俺に問わなかったから。
キリエは時折、馬鹿みたいに高い酒を買ってくることがあった。
「舌は肥えていたほうがいいわ。金があるとかないの問題じゃないの。美味いか不味いかの判断くらい、自分で出来るようになりなさい」
それが、彼女の言い分だった。
その頃の俺の稼ぎなどたかが知れていたけれど、キリエの稼ぎは悪くなかった。現役時代も、店では売れていたほうらしく、借金を返したあともしばらく続けていたせいで、貯えもかなりあると聞いた。
その日買ってきたワインは、1本1000ガメルを越えるという。
深く濃い色をしたワインをゴブレットに注ぎ、キリエはそれを無造作に口に運んだ。
「……美味しい。かなりの年代物なのよ、これ」
キリエが言っていたのは嘘ではないだろう。これも俺に対する『教育』の1つであったはずだ。
けれど、いつの頃からか俺は気付いていた。娼館まわりの雑用なんかをやっていると、耳は良くなってしまう。
キリエが高い酒を買ってくるのは、ギルド直営の店のどこかで、娼婦が堕胎をした時だ。堕胎をするための薬をキリエは調合し、煎じて渡す。薬の代価には、口止め料も含まれている。キリエはその金で、いつも酒を買ってくる。
飲み干して忘れるためなのか、全てを飲み込むためなのか。それは知らない。
「……血の色みたいだな」
そう呟いた俺に、キリエは妖艶に笑ってみせた。
「そうね、血なのよ。きっとね」
誰の、とは言わなかった。
「今月は少し多いな」
「3本めね。……つまり、3人めよね」
俺が気付いているということに、キリエも気付いていたらしい。何気ない振りをしてそう呟いた。
「おまえが気に病むことじゃない」
俺も何気ない振りをして、そう呟いた。
「あたしが使ってるのは、鬼灯(ほおずき)の根よ。あれを煎じると子供を堕ろす薬になるの。あとは血止めと痛み止めと……少しだけ、夢が見られる薬。……鬼灯は嫌い。あの実を子供たちは笛にして遊ぶけど、あたしにとっては嫌な光景だわ。根を口にした子供は生まれてこられなかったのに」
この女の本質はどこにあるんだろう、と。そう思わずにはいられなかった。娼館にいる時には、気っぷのいい姐御肌の女として頼られている。俺といる時にはいろんな顔を見せる。妖艶な大人の女だったり、大人げなく拗ねてみせたり甘えてみせたり。そしておそらくは、俺の知らない顔もあるはずだ。
何もかもを諦めたように、キリエは薄く笑った。
「なぁに? 話だけでも、薬の話は嫌い? ふふ、ガキね」
「……そんなんじゃねえよ」
「ねぇ、ラス。……拗ねないでね。あんたが半妖精だってことは確かにハンディだと思う。けれど、あんたはそれを利点として活かすことも出来るはず。だから、この世に生まれてきたことを恨まないで。……生まれてこられなかった子供はたくさんいるの」
恨んでなんかいない、俺は多分幸せに生まれた半妖精の1人だから、と。何度か彼女にそう言ったことはある。けれど、それは強がりだったのかもしれない。
確かに俺は両親に望まれて生まれてきた。生まれた直後に捨てられたという、ハノークのような半妖精が多いなか、それは幸せの1つではあったろう。けれど、もし俺が半妖精でなければ、手に入るものはもっとたくさんあったはずだ。
タラントは差別が少ないとはいえ、全く無いわけではない。タラントの外で仕事をしたこともある。経験してきたことの全てを、仕方がないと笑って済ませられるかといえば……それは違う。
「今月は3人め……そうね、あたしが堕ろしたあたしの子供たちも、3人。そのせいでもうあたしは子供が産めないけれど……でも、もしまた子供を授かったら、今度こそ産むわ。それがたとえ半妖精でもね」
それを聞いた俺の肩が、びくりと震えた。それを誤魔化そうとして、けれど誤魔化しきれなかった震えが腕を伝わり、持っていたゴブレットの中身を揺らす。
キリエの諦めの笑み、それは後悔と懺悔とに彩られている。なのに、こんな時でさえ、どうしてこの女はこんなに綺麗なんだろう。
「キリエ、それは……」
「大好きよ、ラス」
俺の言葉を遮るようにして、キリエが唐突にそう言った。諦観の笑みを深くして、更に続ける。
「……でも、大嫌い。だってあんたは、あたしが石女(うまずめ)だってことに安心してるんだもん」
まただ、と思った。また俺は言い返せない。
「でもね……やっぱり嫌いになんかなれないの。だって、あたしもあんたと同じだもの。あたしも、自分に子供が出来ないことに安心してる。……そうでしょう? もし身籠もったとして……今更、どんな顔して子供が産めるのよ。あたしが今までに何人殺したか知ってる? あたしだってもう数え切れないわ。もしもあんたが許しても……誰が許しても、あたしの罪があたしを許さない」
血のようなワインをまた一口、キリエが飲み下す。
深く濃く、芳醇な香りを漂わせるワイン。それはキリエによく似ていると思った。舌に絡みつく濃厚な味、胸の奥を熱くさせる研ぎ澄まされた酒精、底を見透せない深い闇のような色あい。そして、人知れず澱んでいく柔らかな澱。
「数え切れないほどのあたしの罪を……神様はきっと見てるわ」
キリエはそう言って、小さく首を振った。
「そんなわけあるか。この3年、俺はおまえを見てた。けど、俺以上にカミサマって野郎がおまえを見ていたとでも?」
「……見てるわよ」
そう呟いて、キリエは歌うような声で後を続けた。
「ラス、あんたが呼んでるじゃない。あんたは神様を信じていないかもしれないけど……あんたがあたしの名前を呼ぶたびに、あんたは神様に呼びかけてる。キリエ。キリエ……『我が神よ』。あたしの名前の由来、覚えているでしょう?」
「その本当の意味もわからない奴が呼んだって、カミサマなんて野郎は気にも留めねぇだろう。精霊を本当の意味で視ることが出来ない奴が、形ばかり精霊語をなぞっても応えてもらえないのと同じだ。
……なぁ、キリエ。俺は確かに、さっきおまえが言ったように、多少はこの生まれを拗ねてるところがある。けど、あの日……最初に俺がおまえの店に行った日。俺が半妖精じゃなければおまえの目をひかなかったかもしれない。だから、少なくともその点でだけは、俺はこの生まれに感謝してる。だから……俺にとってそれが俺の救いになったように、おまえにとっても……」
「その先は言わなくてもいいわ。……ありがと」
昏い笑みに、わずかな生気が宿る。
「キリエ。俺が呼んでるのは、おまえだ。顔も知らねぇカミサマなんて野郎じゃない」
俺がもっと大人だったら、もっと気の利いたことを言えて、もっと彼女を喜ばせることが出来たのだろうか。
けれど、結局その時も言わなかった。愛してる、とは。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
−501年−
ハノークがタラントに戻ってきた。その噂を聞いて、俺はハノークが馴染みにしていた酒場へ足を向けた。ハノークと一緒にいた頃は俺もそこの常連だったが、盗賊ギルドの仕事に馴染むにつれ、その店から足は遠のくようになっていた。冒険者の店というよりも、どちらかというと一般市民のための店だったから、客層に対して奇妙な引け目のようなものを感じたからだ。
俺がその店を視界に捉えた時は、まだ夕陽が遠い稜線に隠れる前だ。酒場はまだ誰も集まっていないかもしれないが、店員からハノークのことを聞けるかもしれないと思っていた。
が、店に入る前に俺は本来の目的を果たした。
薄汚れた旅装束のまま、酒場の看板を見上げている砂色の髪の半妖精を見つけたのだ。
「ハノーク!」
ゆっくりと振り返ったその顔は、確かにハノークの顔なのに、受ける印象はまるで違った。砂色の髪、明るいブラウンの瞳、それらはいつも穏やかな空気をそこに漂わせていた。だが、今のハノークは、生気というものをまるで失ってしまったかのように見える。
「……ラストールド? ラストールドじゃないか。……久しぶり」
その微笑みさえも哀しげで。
どうした、と聞こうとした。それを口に出す寸前に、気付いた。
旅装のマントの、右腕部分が頼りなく風に揺れている。肩から落ちる布は、その内部にあるべきものを抱え込んでいない形だった。
「……ハノーク?」
俺の視線に気付いたんだろう。ハノークは、右腕を抱くような仕草をして……そして、それはむなしく布だけをかき抱いた。
ハノークは画家だ。いや、『だった』。画家が利き腕を失うことが、どういうことなのか、いくらそちら方面に俺が疎くても想像が付かないはずはない。その時俺の顔は色を失っていただろう。
知り合いがいない店がいい、とハノークは弱々しく微笑んだ。だから俺は、自分が知っている中で一番うらぶれていて、ハノークのことを誰も知らない店を選んだ。
「ラストールド。失望が絶望に変わる瞬間というものを、君は知ってるかい」
保存状態の良くない安いワインを前に、ハノークはそう言った。
ハノークがタラントを発ったのは5年前だ。俺はその時、森にいた。森から街へと出てきた時には、既にハノークは発った後だった。別れの挨拶も出来なかったけれど、ハノークの進む道に光が射していればいい、と。そう願った。
けれど、実際は。
「ベルダインにね……向かったよ。予定通りにね。途中、街道沿いには小さな村が幾つもあった。やっぱり、タラントを一歩出ると、半妖精というのは珍しい存在なんだね。久しぶりで忘れていた感覚だったな」
そういった小さな村々では余計に、『そういう視線』を浴びる。俺も冒険者として動くこともあり、タラントの外に何度も出掛けた。自分にとって世界が広がるということは、そういったことを知ることでもあった。
「うん、でもね。それは小さな失望だった。『ああ、やっぱり』という類のものでしかない。それは君もよく知ってることだろう?
ベルダインに着いてさ、まずは僕の描いた絵を見てもらおうと思った。……でも、街なかで絵を広げても、画商に持ち込んでも、誰かに師事しようと思っても。みんな、僕の絵を見るより先に、僕の耳を見るんだ。僕の絵は、ハノークという男が描いた絵ではなくて、半妖精が描いた絵として見られてしまう。まぁ……それもね、失望としてはそんなに大きくはなかった」
本当だよ?と言って、ハノークは微笑んだ。
酸味のきついワインをやめて、蒸留酒──これもまたあまり良い味ではなかったが──を口に運びながら、ハノークは大きく息をついた。
「半年前だよ」
そう言って切り出した話は。
──ベルダイン近郊の農村にスケッチに出ていたという。緑豊かに広がる畑が美しくて、それを題材に選んだのだと。
そのあたりでは、少し前から野盗の小集団が暴れていたという。噂では聞いていたが、そこの住人ではない自分にはあまり関係ないだろうと、ハノークはスケッチをしてまわっていた。そもそも絵の具と幾つかの保存食しか持ち歩いていない。奪われるものなどなかったのだ。
そして夕刻。夕陽に映える農村の色合いを写し取っていたハノークが、迫り来る闇に作業を諦めた頃。すぐ近くの農家に野盗の集団が押し入ったらしい。ハノークが荷物を片付けているそこを、野盗たちは駆け抜けていった。荷物は蹴散らされ、ハノーク自身も集団に突き飛ばされる。
ようやく起きあがった時、目の前には農夫が立っていた。鍬を手に、澱んだ光を瞳に宿して。
「……立ち上がろうとしてね。情けない話だけど、自分の荷物に躓いたんだ。そしたら……襲われると思ったんだろう。鍬を振りかざしてきてね。僕はちょうど、左手をついて、右手を前に投げ出した姿勢で転んだ。右腕の……肘の上にね……鍬が振り下ろされた。何度も……何度も何度も……」
「……ハノーク」
「村の自警団が駆けつけた頃には、ちょうど皮一枚で繋がってた状態でさ……はは、おかしいよね。僕ときたら、なんでそんな光景を見ていたんだろう。何度も気を失ったはずなのに」
「……ハノーク! ……もういい」
力任せにテーブルを殴りつけると、うらぶれた店にふさわしいテーブルは抗議の悲鳴を上げた。店員の不機嫌な声がかかる。何やかやと文句を付けてくる店員には金貨を放り投げるとおとなしくなった。
「あとで聞いたんだけどね……その野盗の集団にも実際に、半妖精が1人か2人混ざってたんだってさ。だから……うん、間違えたんだろうね。何度も襲われて、その農夫の生活もぎりぎりだったらしいし……少し前には娘も攫われたっていうし……正気じゃなかったんだろうと思う」
──狂気の精霊に引きずられながら、鍬を振り下ろす農夫の瞳が。
──返り血を浴びながら娘の名を叫ぶ農夫の声が。
けれど、その農夫の狂気を満足させるために犠牲になったものは。
俺がテーブルを壊さなかったのは、単に腕力が足りなかっただけだ。俺にもう少し腕力があれば、俺はとっくにテーブルをたたき壊していただろう。
「ねぇ……失望という雫をどれだけ溜めれば絶望という毒薬になるのかな。なんてね、詩人を気取るには語彙が貧弱だね、僕は」
「ハノーク……けれど、それは『半妖精だから』じゃ……」
「ああ、わかってるよ。うん。僕が半妖精だろうと人間だろうと……あの農夫にとっては関係なかったろう。種族は関係なかったと……でもそれは絶望を薄める役になんか立たない」
ハノークは、信仰を捨てたと言った。そして、後からハノークが聞いた話によると、その農夫もマーファへの信仰を捨てたという。その日の朝までは、毎日マーファへの祈りを欠かさなかったという2人が。
そしてベルダインの療養所にいた間にハノークは、野盗集団のリーダー格だった人間と半妖精が、ベルダインの盗賊ギルドに引き抜かれたと衛視に聞かされたらしい。
「ラストールド。……神は誰も救わない。神は、誰も裁かない。神は……神など、何が出来る?」
その日、俺たちは朝まで飲んだ。けれど、ハノークは最後まで酔いつぶれなかった。
翌日の夕方。外から戻った俺を迎えて、キリエは『おかえり』よりも早く、こう言った。
「……何があったの?」
「ダチが……ハノークが死んだ」
俺は、ハノークのいう『絶望』を本当の意味では捉えていなかったのかもしれない。
昨夜……いや、今朝まで一緒にいた。ハノークよりも俺のほうが先に酔いつぶれた。飲んでいた酒場の店員に、ハノークは自分の財布を握らせて俺の世話を頼んだという。今日の昼近くになって、俺はその酒場の二階の部屋で目を覚ました。
昨夜チップ貰ったからサービスですよ、とその店員が笑ってた。俺が金貨を投げた店員だ。ハノークから受け取った財布には、銀貨が16枚しか入っていなかったと笑った。
俺は、自分の甘さを悔やんだ。絶望したハノークが、それでもまだ生き続けてくれるなんて、どうしてそんな期待が出来たのか。
ハノークを探そうとして、思い浮かんだ場所はひとつだけだった。
──共同墓地。ヘレナはそこに埋葬されている。
ヘレナの墓石の上で見つけたハノークの顔は、疲れ果てていて、それでも眠れる場所を見つけた子供のようだった。
キリエに問われるままに、俺はハノークのことを語った。出会った頃のこと、彼に教わったこと、彼の妻のこと、そして彼の最期のこと。
「また……俺はまた、あいつに別れが言えなかった」
「……あんた、馬鹿ね、ラス」
「そうだ、馬鹿だよ。あいつが死ぬために帰ってきたことに、俺はついさっきまで気付かなかった」
世間知らずにも程がある、と思った。人間の街で暮らして8年以上になる。最初の頃はともかく、最近は少し世慣れてきたかと思っていた。とんだ思い上がりだ。友人の心ひとつ察してやることが出来ない。
「そうじゃないわよ。……こういう時には泣くものよ。なんで堪える必要があるの?」
そういえば、お袋が死んだ時も泣けなかったっけ、とそんなことをふと思い出した。あの時はすがる相手がいなかったから泣けなかった。今はキリエがいる。……けれど、今もしも涙を流せば、それはハノークのための涙ではなくなってしまう。何も出来なかった悔しさと、置いていかれた自分を哀れむための涙になってしまう。
「キリエ……」
「なぁに? 泣いてもいいわよ。店の女の子たちには黙っててあげる」
俺は泣かなかった。ただ、キリエの肩を抱いた。
「キリエ、おまえは……神の眼に怯えるな。あんなやつ、何も出来ない。何も救わないし、何も裁かない。全てを見ていたって、何も出来やしねえじゃねえか!」
俺はハノークの呟きを思い出していた。
神など……何が出来る?
「……ラス。神様って、そういう存在じゃないわ」
けれどキリエは……神への呼びかけの名を持つ女は、ただ微笑むだけだった。
キリエが死んだのは、それから数ヶ月後だった。
娼館で、薬で気のふれた男が暴れ回っていると連絡を受けて駆けつけたのは真夜中。衛視と盗賊ギルドの人間とが何人もうろついている。それでもう、事はおさまったのだと知った。娼婦たちやその客たちが店の中に人垣を作っているが、それももうすぐ散らばっていくだろう。
連絡を受けたのは、俺がその娼館の雑用担当だったからに過ぎない。多少の刃傷沙汰は、娼館ではさほど珍しくもないから、その時もいつもと同じだろうと思っていた。
俺の顔を見つけて、人垣の中から若い娼婦が1人駆け寄ってきた。
「ラス!」
泣きながら走ってきて、その勢いのままに俺に抱きつく。動揺の仕方から見て、この女がとっていた客が暴れたのかとそう推測した。
「ラス……、キリエ姐さんが……っ!」
彼女の口から、俺は自分が呼ばれたもうひとつの理由を知った。
その翌日、娼館の連中と一緒に地味な弔いを済ませ、俺は1人で部屋に戻った。
2人で暮らしたのは5年。
1つしかないベッドの上で、暮らした年数を指折り数える。
いつか君にも……と、ハノークは言った。随分と以前、ハノークがまだヘレナを見送る前に。
これがそういうことか、と思いはするが、ハノークと俺とでは事情が違う。というよりも、ヘレナとキリエの事情が違う。
『ねぇ、ラス。よかったじゃない。あんたが置いていく側になってしまったら、その友達が今のあんたのように悲しんだわ。見送ってあげる側でいてよかったじゃない。その友達は、あんたと最期まで過ごせて……あんたに見送ってもらえて幸せだった』
ハノークが死んだ日の夜、キリエはこのベッドの上でそう言った。
キリエも死ぬ瞬間はそう思っていただろうか。
昨夜の食事は、その前の日の残り物だった。ライ麦のパンとソーセージ入りのポトフ。それに492年ものの赤ワイン。2人で食べた最後のものが、それだ。
いつものように過ごして、食事をして、酒を飲んで。そしていつものように互いの肌に触れあった。けれど、いつものように、2人とも愛してるとは言わなかった。
結局、最後まで。
キリエは俺を愛してくれてたんだろうか、と思う。いつも自信が持てなかった。だから、自分からも口に出せなかった。心の奥にそれを追いやるごとに、自分も彼女を愛しているのかどうか自信が持てなくなっていった。
キスは上手ね、と誉められるのは嬉しかった。キリエの肌の柔らかさが好きだった。
それだけで、十分だと思っていた。
キリエの遺品と、残した金は全て、キリエがいた店の女将に預けた。若い娼婦たちを気に掛けていたキリエだから、彼女たちのために使ってくれと。
「あんたは何かとっておかなくていいのかい? 気に掛けていたというのなら、あんたこそキリエに気に掛けられていたろうに。金くらい持っておいきな。邪魔になるもんじゃないよ」
女将はそう言った。見栄じゃなく、俺は首を振った。
「いいや、いらねえよ。俺はもう十分過ぎるほど彼女から貰った。形に残るものも残らないものもな」
「そうかい? ……まぁね、アタシもね。キリエのことは若い頃から知ってるけど……うん、あんたと暮らし始めてからキリエは楽しそうだったからねぇ。お互いに幸せだったんなら、せめてもだよ。ま、あの娘は……おっと、もう娘っていう歳じゃあなかったねぇ。でもアタシにとっちゃ、キリエはいつまでも娘みたいなもんさ」
寂しそうに笑って、女将はあとを続けた。
「あの娘は素直じゃなかったからねぇ。いつだったか、ここであんたを待ちながら酒を飲んでてさ。それこそ、若い娘みたいに恥ずかしそうに言ってたよ。『ねぇ、愛してるってどう言えばいいんだったかしらね』なんてね」
──こんなおばさんに言われても困るかしらね。
──ねぇ、いつ言ったらいいと思う?
──ああ、やだ。んもう、あたしったら小娘みたいじゃない。
全く馬鹿な娘だよ、と女将は泣き笑いの顔を見せた。
「……ごめん、俺、急用思い出した」
店を出て、俺は走った。
こんなに全速力で走ったのはいつ以来だろうと思うくらいに走った。途中で、ああ駆け出しの頃にゴブリンに追いかけられて以来だな、と思い出した。
走ってももう決して間に合わないのに。
共同墓地の片隅に、小さな墓石がある。
「キリエ……」
切れた息を整えながら、俺は墓石に向かって名前を呼んだ。
「キリエ。……キリエ」
馬鹿みたいだと思った。周りには誰もいない。俺の声は誰の耳にも届かない。……けれど、キリエには届いていると思っていた。
「────っ!」
今まで言えなかった、いや、言わなかった言葉を俺は何度も何度も口にした。
墓石の前に膝をつく。まだ真新しい土が膝を汚した。溢れた涙が頬から顎を伝い、土を握りしめた手の甲に落ちる。土のついたままの手でそれを拭うと、頬に土の感触がした。
からからに乾いた喉の奥で、声がかすれる。けれど、俺は何度もその言葉を唱え続けた。まるで呪文のように。
キリエが言わないのなら、と子供みたいなことを思っていた。たった一言で済んだはずなのに。キスをする寸前に。肌に触れる瞬間に。体温を味わいながら。いや、ワインを飲みながらだって良かったはずだ。ソテーした魚の骨を外しながらでもいい。いつでも、どんな時でも、言えばよかった。
「……ごめんな。俺が言えば良かったんだ。……鈍くてごめん。子供で……ごめん」
涙が後から後から溢れた。弔いの時にすらそれは流れなかったのに。
──キリエ・エレイソン。
墓碑銘に刻まれているのは、名前とは違う、けれどキリエと書かれている。弔いの時に、神官が説明してくれたのを思い出す。古くからある聖歌の一節だと聞いた。
キリエ・エレイソン──我が神よ、憐れみたまえ。
ハノーク。そしてキリエ。おまえたちが神に求めていたものが少しだけわかったような気がする。
期待するのではなく、何かを願うのではなく……行き場のないやるせなさを、おまえたちは神に向けてたんだ。
愛する妻と同じ時間を生きられない自分を。罪のない命を生まれる前に摘み取ってきた自分を。いつか自分もそこに逝くまで。
求めていたのは、生ある者からの哀れみじゃない。
それが信仰というべきものなのかどうか、俺は知らないけれど。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
──いつか君も僕と同じ気持ちを味わうのかな。
種族が違えば、生きる時間は確かに違う。それは天寿を全うすることを前提としてるだろうと笑い飛ばす冒険者もいるけれど。……そういうことじゃないんだ。寿命の差なんかじゃなく、それはおそらく、時間の密度の違い。
たった5年しか歳の違わなかった俺とキリエがあれほど違っていて、むしろ、30才以上も離れていたハノークのほうが俺に近かった。それが、寿命とは別の、生きる時間の違いだろう。
ハノークとヘレナのように。あの頃の俺とキリエのように。人間の友人を喪ったあのエルフのように。忘れたくないと思う必要もないほどに互いを互いの心に刻みつけて生きていけるのなら、それは哀しいことではあっても、不幸なことではないと思う。
だから、同じ気持ちをこれからも味わうのだとしたら……それは、そこまで心を傾けられる存在が確かにいたという証にもなるだろう。
ただ……そう、ただ、すまないと思うことは止められないかもしれない。同じ時間を生きられなくて、すまない──と。
森のエルフたちは、忘れないことを償いにする。長い時をかけて、心に刻み続けることを。それほどの時を持たない者たちは、その気持ちを別の存在へ向けるのかもしれないが……けれど俺は。
エルフなんか、と口にしながらも、エルフとしての生き方が叩き込まれている。それは容易に変えられるものじゃないし、そもそも俺は神という存在に何かを向けようとは思わない。
けれど、ほんの時折……そう、例えば3年に1度くらい、そうじゃなければ、『彼ら』と同じ気持ちを味わった時。昔の女の名前を呟いてみるのも悪くないだろう。そして、それにまつわる幾つかのことを同時に思い描いて、そして結局はこう呟くんだ。
キリエ・エレイソン、と。
■ あとがき ■
このエピソードと同じ時期(というかその前後)は、このへん(http://www.mb.megafit.net/~river/mani/ras_ep.htm)の過去EP付近にあります。
でもそれらを読んでなくても通じる……はず。
なんていうか……長くてごめんなさい。えへ。
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いりしお丸
さんの感想
(2008/11/18 1:19:25)[7]
これは、苦情なのです。
打ちのめされたことに対する、苦情なのです。
てやんでぃ、惚れさせるないっ!
と思わず江戸っ子になってしまったことへの苦情なのです。
特異さや華美さや意外性に頼らず、衝撃と味わいを伝える深い感性とか。
そういう形ないものを筆にして伝える筆力とか。
いつの間にか感情を同調させるような引力ある表現力とか。
そうしたものも、もちろんあるんですが。
こんな魂の根幹に突き刺さるような人間関係を経てきたラスに、どうやって絡めっちゅーんじゃ、という。
苦情です。
枝鳩
さんの感想
(2005/7/03 1:54:12)[6]
淡々とした語りの中で、時折早まる調子が印象的でした。
人(やエルフ)との関わりの中でラスが体験したことが、幻燈のように浮かんで見えたような気がします。
高迫
さんの感想
(2005/7/02 0:29:10)[5]
上がってすぐに呼んだのに、感想が遅め……
読み終わってなんて言葉にすればいいのか解らなかったのですが、きっと忘れられなくて忘れてはいけないものなのだろうなとか………。
心に突き刺さるような作品でした
Ken-K
さんの感想
(2005/7/01 23:48:38)[4]
現在のラスを形作っているものがよくわかる一篇でした。
U-1
さんの感想
(2005/7/01 14:38:36)[3]
長いなんて感じませんでした。まったく。
軽く読み進められるテーマでは無いのに気が付いた時には読み終わっていた、そんな風に感じるほど惹き込まれ、一気に読んでいました。
読み終えて、色々と考えて、読み返して、また考える……そんな感じです。本当に心に残る作品だと思いました。
蛇足ながら、個人的にはキリエ姐さんが素敵さクリティカルヒットでした(笑)
うゆま
さんの感想
(2005/7/01 1:39:01)[2]
ソードワールドの世界観で、このエピソード。驚かされ、そして深く重い命題に考えさせられました。
忘れるほど残酷な事は無い。だけど忘れてしまう。共に居た時間が色褪せてゆく。種族としての苦悩、社会の複雑さ、生きる上での苦難、その全てにおいて、其の中で語られている多くの生と死。
ひとつのドラマというべきか。けして、薄っぺらな感情だけでは語られない物語。暖かく熱いものが、寂しく故に冷たいものが同時に胸をよぎった。
人生の断片、一片の語り、ただそれゆえに強烈。
琴美
さんの感想
(2005/7/01 0:43:36)[1]
正しい意味での四苦八苦(生・老・病・死、愛別離苦、怨憎会苦、五蘊盛苦、求不得苦)が全てそこにある作品でした。
つまりは、ひとの生そのもの。
その苦に対して、ひとは何を口にするのか、何を祈るのか。
ラスの口をついて出た言葉は、言葉の意味するままでありながら、加えてこころの浄化と存在の許容の意味で祈りに等しいのかもしれないと、感じた次第。
とにかく、胸に迫る作品でした。
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