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題名 【競作企画】魔法の聖印
登場人物 グリン
投稿者 松川 彰
投稿日時 2006/3/10 22:19:08




 マジックアイテムというものは、いわゆる『力ある品』だと聞いた。例えば合い言葉によって、何らかの魔法が発動する物。そうでなければ、使用者の意志に従って何らかの術を展開してくれる物。護符の類には、それを正しく所持していれば所持者の精神や肉体を活性化させてくれる物もあると聞く。理屈はわからない、けれど何らかの力が発揮されるものを総じてマジックアイテムと呼ぶのだという。

 ふむ、と頷いてグリンは自分の服の中から、薄汚れた聖印を取りだした。石で出来たそれの表面には聖十字が刻まれている。誰しもが知っているファリスの紋章だった。その聖印に繋がっている鎖は草原妖精であるグリンには少々長い。服の上に出しておくと聖印がへその下あたりまできてしまって、邪魔なことこの上ない。だから普段は服の中に隠しているのだ。
 神への信仰や、古代語魔法、精霊魔法などの、ルーンと呼ばれる『力』からもっとも遠い存在と言われている草原妖精が聖印を持つのは珍しい。それが人目を引いてしまうことも服の中にそれを隠している理由の1つかもしれない。
「えぇと……何と言ったかな」
 呟いてグリンは聖印の裏を見た。そこには、幾つかの祈りの言葉が彫り込まれているのだ。ただし、出だしだけ。全文を刻み込むには、聖印の裏はあまりにも面積が狭い。
「ファリスよ、この糧を……えぇと、そう、確か、与えてくださって感謝します。……だったかな。まぁいいや。そんなようなものだ」
 食事の前の祈り、そして朝の祈りと夕べの祈り。それが聖印に(出だしだけ)刻まれている全部だ。神官によれば、他にもっと祈りの言葉はあるのだろう。けれどグリンが覚えている祈りはそれだけだった。それだけのものを、それでも忘れないようにグリンは祈りの出だしをそこに彫り込んでいる。
「まったく……何故、俺が俺の力で手に入れたメシなのに、神とやらに感謝せねばならんのだ」
 ぶつくさと呟いてグリンは昼食を開始した。
 場所はハザードの河原。本日の昼食は、少し堅くなったパンと、新鮮なカエルを炙ったものだ。カエルは、つい先刻、冬眠明けで動きの鈍かったそれを河原で捕まえた。
 祈りの内容には文句をつけながら、それでも、とグリンは思う。
(それでも、今日は忘れなかった。朝の祈りとやらは忘れたが、食前の祈りは出来たな)
 それを誉めてくれた人物の顔を思い出した。その人物なら、今日の昼食──とくにカエルの炙り──にはいささか悲しげに眉を下げただろうと思う。


◆ ◆ ◆


 出会ったのは20年ほど前だったと思う。明確に数えているわけではないが、10年以上前なのは確かだし、30年は経ってないと思うから、だいたいそれで間違ってはいないだろう。
 イストンの街だった。アノス領内の中でも、ミラルゴにほど近い位置にある街だ。成人したてだったグリンは、両親と一緒にそこを訪れていた。ミラルゴ領内の草原で暮らしていた一家が、オランへ移動しようとしていたのだ。そこでグリンは家族とはぐれた。
 それまでミラルゴの草原しか知らなかった。だから、初めて見る人間の街で浮かれて歩き回っているうちに家族のいる場所を見失ってしまったのだ。数日探したが、やがて諦めた。どうせ巣立ちの時期が来ていた。ならばこれを機に親元を離れてもいいと思った。おそらくは親もそう考えたことだろう。どうせ、オランについたらそこで解散しようということになっていたのだ。
「さて……そうと決まればまずはじめに」
 ファーズへと向かっても良かったのかもしれない。親たちもオランへと向かうからには、ファーズ、ソーミーと辿っていくのだろうから、いつか合流出来ただろう。けれど、どうせならここで独り立ちしてしまおうとグリンは考えた。そして独り立ちするためにはまず金を稼ぐことを考えなくてはならない。少なくとも親からはそう教わっていた。街で金を稼ぐための手段も教わっているし、そのやり方も、ミラルゴ領内の幾つかの街で実践したことはある。だからグリンは、まず盗賊ギルドへと足を運んだ。


 数ヶ月後。イストンの街で、なんとか1人で生活が出来るようになった頃。ふと立ち寄った酒場で、酔いつぶれた壮年の男を見かけた。更には、その男の懐を探ろうとしている男も見かけた。
「精が出るな」
 と声をかけて、いつもの馬乳酒を頼もうとした。だが、懐を探っていた側の男は、ひ、と短い声を上げて慌てて逃げていった。
 自分としては同じギルドに属しているらしい男にねぎらいの言葉をかけたつもりだったが、とグリンは首を傾げた。カウンターの奥の調理場に引っ込んでいた店員を呼び出し、馬乳酒を頼むついでにそのことを言ってみた。すると店員は苦笑して見せた。
「はは、そりゃ草の旦那。相手がモグリだったんでしょうよ。もちろん、モグリであろうとなかろうと、うちの店じゃそういうことは困るってんで、うちの主人はギルドにちゃんとそう言ってありますけどね。それを知らないでここでそういうことを働こうってんなら、やっぱりモグリなんじゃないですかね」
 それで、どうやら同業──ただしこちらは正規の──らしい草原妖精から声をかけられて、後で仕置きされてはたまらないから逃げだしたのではないか、というのが店員の見方だった。
「……ん。おや、眠ってしまってましたか……」
 壮年の男が目を覚ました。
「ダメですよ、神官さん。こんなとこで酔いつぶれちゃ」
 店員が声をかける。どうやら男は神官らしい。言われてみれば、その胸には聖十字の紋章が揺れている。
「ああ、申し訳ありません。隣り合った方に随分と杯を勧められて……」
 はたとあたりを見回すが、一緒に飲んでいたらしい男は見あたらない。
「ははぁ、さっき草の旦那が声を掛けたっていうのは、神官さんと一緒に飲んでいた男ですね。草の旦那、さっきの男の似顔絵は描けますかい? うちの店の店員たちに覚えておいてもらって、今度来たらギルドに突き出しますよ」
「いや、済まない。後ろから声をかけたんで、顔は見ていないのだ」
 なるほど、酔いつぶれさせて財布をいただくという技だったのか、とグリンは納得した。だが、少々投資と見返りのバランスは悪いのではないかと思う。
「そっすか。じゃあ、まず……神官さん、お代をいただきましょう。しめて74ガメルになります」
 投資はまだだったのか、とグリンは得心した。
「ははぁ……えぇと…………そうですね、まずお支払いしましょうか」
 得心していないのは、どうやらその神官だけだったようだ。


「ファリス様が私たちにお教えくださるのは、秩序の大切さです。もちろんそれは、力尽くで押しつけられる秩序であってはいけません。そのようなものは秩序とは呼びません。それに、奇跡を得るために神殿に秩序正しく列を成すのも……なんだか違うように思えまして」
 神殿勤めをしていない理由を、その神官はそう語った。
 ロイドと名乗ったその神官とグリンが再び会ったのは、数日後の街の広場だった。神官ならば神殿に行くのじゃないかと訊ねたグリンに、ロイドがそう答えたのだ。
「ふむ、秩序か」
「ええ、秩序です」
 胸に提げた聖印に指を触れながらロイドは微笑んだ。神官服ではないが、それを彷彿とさせるような白い麻の服。華美さや厳格さといったものは見受けられない。どちらかというと粗末な服だ。
「盗賊ギルドでも秩序を重んじるが」
「そうですね……それは否定できません。けれど、暴力によってなされる秩序の維持は、やはり少々哀しいもいのがあります。ただ、盗賊ギルドの中にもそうではない秩序も存在するでしょう。人と人とが交わる時に、無秩序であってはいけません。人と人との交わりや出会いから良きものが生まれますように、というのはチャ・ザ様のお教えくださるところですが、私はファリス様のお教えにも似たところがあると思います。人は1人では秩序を作れませんから」
「正直、よくわからん。そもそも俺は人間の街にようやく慣れたところだし。俺が少し前までいた家族の中や草原の中にも、秩序というものはあったと思う。けど、それはカミサマとやらがくれたものではなくて、俺たちが生活のために守っていた暗黙のルールだ」
 広場にある噴水の縁石に腰掛けてグリンは言った。
 ロイドが微笑んだ。
「ええ、もちろん。けれど、暗黙のルールを守ろうと思うあなたのその心は、ひょっとしたら神様が作ってくださったものかもしれませんよ?」
「……やっぱりよくわからん。俺にはそれよりも、今夜の宿を探すほうが大事なことだ」
「おや、宿がないのですか?」
「昨日まではあった。つまり、宿代が昨日までの分しかなかったという意味だが」
「えぇと……お仕事は」
「昨日やった仕事の入金が遅れている。明日か明後日には支払われるだろうから、そうしたらまた安宿を見つければいい」
 言いながらグリンは、がりがりと頭を掻いた。白いフケが散る。そういえば風呂に入ったのはいつだったろうと考える。思い出せなかった。
「私の部屋に泊まりますか?」
「おっさんの部屋に?」
 草原妖精としては成人したてとはいえ、実年齢からすれば、ロイドとグリンの間にそう開きはないだろう。ロイドのほうがやや年上なくらいか。けれどロイドは“おっさん”呼ばわりされたことは、さほど気に留めていないようだった。
「古い下宿の一室を借りています。神殿勤めをしていないので俸給はありませんが、近隣の住民の方から書写や代筆の仕事を請け負って暮らしてるんです。毛布もありますので、野宿するよりは快適かと思いますが。先日助けていただいたお礼ですよ」
 ロイドが微笑んだ。


「おっさん、冒険者の仕事はしないのか。奇跡が起こせるのなら、冒険者の仕事の口もあるだろうに」
 いつしかグリンはロイドの部屋にすっかり住み着いていた。給金が思ったより少なかったり、幾つかの借金を先に支払う羽目になったりで、なかなか生活費が思うようにいかなかったせいもある。その度にロイドは、構いませんよ、とにっこり微笑んだ。グリンが実は成人したてだと聞いたせいもあるのかもしれない。
「それも魅力的な話ではありますけれど、私は街にいて、人々に神のお教えを伝えるほうを選びます。グリンさんは冒険に興味がおありですか?」
「うむ。俺はもともと街盗賊ではなく、草走りだからな。草原で弓を使うほうが得意だ。ただ、今はギルドで鍵の技術を学ぶほうが後々役に立つだろうと思っているが」
「グリンさんは、盗賊ギルドのほうではどんなお仕事を?」
「それは……あー……なんというか。うん、職業上の秘密というやつだ」
 ファリス神官の前で、窃盗や裏取引などという単語を口にするほど、グリンは愚かではなかった。
 けれどロイドとて、言外の意味を感じ取れないほどに世間知らずではない。盗賊ギルドに属する者がどういったことを生業としているか、相応の知識はある。同じくその知識によって、少なからず安心もしていた。グリンが草原妖精であることや、まだ駆け出しであることなどから考えると、後戻り出来ないほどの深刻な事には関わっていないだろうと思ったからだ。
「グリンさん。法というものは何故守られるのだと思いますか?」
「守らんと罰を受けるからだろう」
「ではもしも、守らなくても罰を受けないとなれば、グリンさんは法を守りませんか?」
「……事と次第によるな」
「殺すべからず。奪うべからず。犯すべからず。盗むべからず。他にもいろいろありますね。何故、そうしてはならないのだと思いますか?」
「仕返しされるから……かな」
「仕返しを相手に考えさせるほど、相手の気持ちを害するのですね。例えば私が、グリンさんの帽子を盗んだら、グリンさんは怒るでしょう。つまり、相手の気持ちを尊重することが……」
「俺の帽子はおっさんには小さすぎる。それに、そんなにこの帽子が欲しいのなら、おっさんにやるぞ。俺は別に怒らん」
「…………なるほど。そうきましたか……」


「神よ、今宵の糧を与えてくださったことに感謝致します」
 いつも提げている聖印に指を触れさせて、ロイドはこうべを垂れた。
 いつものその儀式を、グリンは黙って見ていた。最初は、スープが冷めるぞなどと言って、先に食事を始めていた。だが、それをするとロイドが哀しそうな目でグリンを見つめるので、最近は祈りが終わるまで待つことにしている。
「いつも思うのだが。それには何の意味があるんだ? カミサマが『どういたしまして』とでも言ってくれるのか?」
 パンにかぶりつきながらグリンが訊ねる。
「いいえ、神はそのようなお返事はなさいませんよ」
 じゃあ何故、と問うグリンにロイドが微笑んだ。
「そうですねぇ。いつか神に届くように。……そうでなければ、ある意味自己満足なのかもしれません。けれど、私は私が神に感謝していることを知っています。自身の感謝の意味を知っているから、私はそれを神に伝えずにはいられないのです」
「……感謝? このメシを作ったのは階下の女将さんだろう。そしてそのメシの金を払ったのはおっさんだ」
「食事というものは、存在に関わることです。私は私の存在そのものを神に感謝しているのですよ。それに……そうですね、もう少し別の言い方をしてみましょうか。例えば、今年が干ばつの年だったら、このように新鮮な野菜は手に入りません。街全体が荒んでいれば、私やグリンさんのお仕事もあまりなく、食事を手にするためのお金にも不自由するでしょう。平和で、そして幸せであることの証のひとつとして、この美味しいお食事が目の前にあるのです。それは感謝に値することだとは思いませんか?」
「……よくわからん。運がいいとしか思えんな」
 けれど、聖印を手にして祈るロイドの姿は幸せそうだと、グリンは思った。


「神よ、今日一日、私を照らしてくださったことに感謝致します」
 寝る前のロイドの祈りが聞こえた。道具を磨いていたグリンは、ふと思い付いてそれを真似してみた。
「神よ、今日一日、私を……えぇと、なんだったかな。感謝致します?」
 ロイドは嬉しそうに頷いた。
「ええ。『私を照らしてくださったことに』が抜けていますね。ファリス様は光の神です。沈みゆくあの太陽が、ファリス様の力の象徴です。朝から夕まで、ファリス様は我らを見守ってくださっています。そして、夜になっても、太陽の熱はしばし地上に留まります。ファリス様の御力を感じながら、私たちは眠りにつくのです」
 何度聞いても、ロイドの言葉はグリンには要領を得なかった。けれど、ロイドの後に復唱するようにして祈りを真似してみると、ロイドはとても嬉しそうだった。

 その夜、グリンは腹痛で目を覚ました。
 いつも、ベッドは使わずに部屋の隅に毛布を積み重ね、その上に自分の寝床を作っていたのだが、痛みで身をよじったのだろう。いつの間にか、毛布で作ったベッドから転がり落ちていた。その時に床に打ち付けたらしい肘や肩も痛むが、それよりも下腹部を襲う痛みのほうが深刻だった。
 今までに感じたことのない激痛だった。額を脂汗が伝う。意識せず、口からうめき声が漏れる。食あたりということはないだろうと、痛みの中でグリンは分析する。そういう危険を含んだ食べ物は夕食の中にはなかったし、そもそも同じ食事をロイドも摂っているのだ。
「……グリンさん? グリンさんっ!?」
 ロイドが肩を揺する。返事をしようと思うのだが、口からはうめき声しか出てこない。
「お腹ですか? このあたり? それともこちら?」
 ロイドが手早く服の下に手を滑り込ませる。もう片方の手はグリンの額に当てられた。
「少し熱もありますね。……ひょっとしたら腸の一部が腐る病かもしれません」
 そう呟く声を耳にして、グリンはどきりとした。草原にいた頃、5つ年下の弟が同じ病になった。10日ほど激痛にのたうち回り、そして弟は死んだ。自分もそうなるのかと、血の気がひいた。
「グリンさん、ベッドへ」
 今まで自分が使っていたベッドに、ロイドはグリンを運んだ。痛みに身を縮ませている草原妖精は普段よりも小さく見える。オリーブ色の肌は色を失って土気色に見えた。
「……大丈夫ですよ、グリンさん。少し待っていてください」
 気が遠くなりそうな痛みをこらえていたグリンの耳元に、ロイドの穏やかな声が届いた。
「我が神ファリスよ、この者の病を癒す力を我が手にお貸しください……」
 いつもの祈りと同じ語調で、けれど言葉はいつもの東方語ではなく。痛みのために自分の頭が混乱しているから聞き取れなかったのかもしれないとグリンが思い始めた時、下腹部の痛みは和らぎ始めた。
「どうです? 楽になりましたか?」
 完全に痛みが去ったわけではない。が、うめき声しか出ないほどの激痛ではなくなっていた。
「……少し、楽になった。おっさん、今何をしたんだ?」
「病を癒す奇跡です。ファリス様に御力をお借りいたしました。……4、5日もすれば元通りになるでしょう」
「……便利なものだな」
 そう言ったきり、グリンは眠り込んだ。


「ベッドを占領してしまって済まないな。俺なら、いつもの毛布ベッドで十分なのに」
 ロイドの手から粥を受け取りながら、グリンが言った。
「いいえ。普段ならともかく、病人を床に寝かせるわけにはまいりませんよ」
「もう治った」
「油断してはいけません」
 あの夜から3日が経っていた。もう痛みもほとんど無く、動くのにも不自由はないのだが、ロイドはあと4日の安静をグリンに命じていた。
「おっさんは、どんな病もあの奇跡で治せるのか」
「私が治すわけではありませんよ。あくまで私は神様の御力をお借りするだけです。治りたいと願う本人の力も必要ですしね。……それに、神の奇跡が届かない病もあります。万能ではありません」
「カミサマは万能なんじゃないのか」
「神は万能でしょう。けれど、肉体を失った神々は、物質世界に干渉する手段を持たないのです。不完全な手段の1つとして、我ら神官の存在があるのです。ですから、この世界における神々の御力はその手段の不完全さ故に、不完全となってしまっているのです」
「よくわからん。でも、じゃあ俺が助かったのはファリスのおかげか」
 軽い塩味だけしかしない粥は、あまりに物足りないと思いながら、グリンが問う。ロイドは穏やかに微笑んで頷いた。
「ええ。そうです。そして、グリンさんが死にたくないと願ったからでしょうね。治りたいと思ったその気持ちに、ファリス様が応えてくださったのでしょう」
「ふぅん」
 けれどグリンは、それは違うと思っていた。あの時の自分は、確かに死には怯えていた。けれど、死にたくないとか治りたいと思ったわけではなく、ただ、同じ病で死んでいった弟のことを思い出して怯えていただけだ。
 ならば、と思う。
 ならば、自分が助かったのは、ロイドのおかげだろう。


 安静期間が過ぎ、仕事に復帰してから、グリンは時折ロイドに土産を持ち帰るようになった。
 ロイドが欲しがっていたペンやインクだったり、仕事先で貰った比較的新しい古着だったり。それらは、盗んだものではない。仕事の報酬としてもらった金で買ったものや、善意で貰ったものばかりだ。
「ありがとうございます。ファリス様とグリンさんに感謝を」
 ロイドの穏やかな微笑みが嬉しかった。だから、ロイドに後ろめたい思いを抱かなくても済むように、なるべく盗みに絡む仕事は受けないようにしていた。
 それを告げると、土産を渡した時よりももっとロイドは嬉しそうな顔をした。
「素晴らしいことですね。とても喜ばしいことです」
「それは、ファリスの御心とやらに適っているからか?」
「もちろんそのことも嬉しいのですが、グリンさんは私のためにそうしてくださったのでしょう? その心が嬉しいのです」
 グリンは、ファリスを喜ばせたかったわけではない。だからロイドのその言葉は、グリンにも嬉しかった。


「グリンさん、お祈りが短すぎはしませんか?」
「おっさんの祈りが長すぎるんだ。けど、街の神官はもっと長い祈りをしていたな」
「私のは略式ですよ。グリンさんが覚えやすいように」
「……こないだおっさんもサボったろ」
「……感謝の気持ちは変わりませんよ?」


「おっさん、塩スープは飽きたぞ」
「グリンさんが賭場で借金をこさえたせいでしょう」
「そもそも俺が賭場に行ったのは、おっさんの借金を返そうと思ったんだが」
「書写を頼まれていた方が破産してしまいましてねぇ……あの方にもファリス様のお導きがありますように」


「グリンさん……今日のこのおかずは……?」
「トカゲだ。さっき捕まえてきた。新鮮だぞ」
「……はぁ」
「なんだ、少し焦げているのが気に入らないか」
「…………いえ」
「おっさんは、バッタのほうが好みだったかな」
「いえ。そんなことは」


 ある日、ロイドが呟いた。仕事道具を磨くグリンの隣で、翻訳を頼まれた本を広げながら。
「グリンさん、私は神に感謝しています。……いつか私が、人は1人では秩序を作れないと言ったことを覚えていますか?」
「さぁ、そういえばそんなことを聞いたことがあるような気もするな」
「正しさを求める心というのも、同じだと思うんですね。人は誰かのために正しくあろうとする。グリンさんが、請け負う仕事の質を変えたように。後ろめたさというものは溝を作ります。人は願います、大事な人と接する時に、ありのままの自分でいられるように。だから人は、普遍の正しさを求めるのかもしれません。誰かと同じ価値観を持つために。その人の前で自分の視線が泳がないために。揺るがない信念というのも、もちろん大事でしょう。けれど、大切な誰かと同じ場所にいられることのほうが、他人を信念に巻き込むことよりも何倍も喜ばしいことなんじゃないでしょうか」
 幸せそうに話すロイドに、グリンは一言呟いた。
「おっさん……ペン先からインクが落ちるぞ」
 かろうじて、借り物の本の上にインクを落とさずに済んだロイドが、咳払いをしてペン先を拭う。
「……ですから、私はグリンさんに出会えて良かったと思います。グリンさんが『よくわからん』という度に、私は私自身の思いすらも見直すことが出来ますから。それに、私たちの生活は意外とよくまわっていると思いませんか?」
「ふん。俺は、ここにいると宿代がロハで済むから、ここにいるだけのことだ」
 小さく鼻を鳴らして、グリンは道具磨きに戻った。
 照れているのを見抜かれないように、ロイドに小さな背中を向ける。
 草原妖精は人間の街にいると子供扱いされることが多い。子供とまではいかなくとも、半人前扱いされるのは珍しいことではない。けれど、ロイドはグリンが何かを訊ねるたびに、その答えを真剣に考えてくれた。よくわからん、と口にするたびに、ロイドはその疑問そのものが嬉しいのだと言うように微笑みながら答えてくれた。言っている内容はわからなくとも、ロイドが語る時の穏やかな顔が、グリンは好きだった。
 祈りの真似をするとロイドは嬉しそうにしてくれた。土産を持ち帰ると子供のように喜んだ。巣立ったばかりの自分を、大人として扱いながらも保護してくれたようにも思える。それは少々気恥ずかしくもあるが、それは嬉しい気恥ずかしさだった。


 そんな日々が7年ほど続いたろうか。それとも8年だろうか。少なくとも5年以上は経ったし、10年は経っていないと思うから、7、8年ということで間違いはないだろう。
 グリンは、病床にあるロイドの顔を見つめながら、今までの日々を思い返していた。
「……おっさん。自分の病気は、奇跡とやらでどうにかならんのか」
「ああ……なりませんねぇ……。以前にも言ったと思いますが、神々の御力は万能でも、この世界に干渉する力は不完全なのですよ」
 けほけほと乾いた咳をしながら、ロイドはそれでも微笑んだ。出会った時には、既に40代の後半だった。今は60に手が届く頃と思われるが、病気のせいかその顔はやつれ、実年齢よりもかなり老けてみえるようになってしまっている。
 最初は胃の痛みからだった。みるみるうちに食欲が落ち、頬がこけた。奇跡も試してはみたが効果がなく、街の医者に診てもらっても、そっと首を振られた。
 寝付いてからは衰弱する一方で、最近は咳も出るし、熱も下がらない。
「……なぁ、おっさん。カミサマというのは、今まで熱心にお祈りしていたおっさんのことを見捨てるのかな」
「グリンさん、神を信じる者にとっては、死ぬことはこわいことではありません」
「なんでだ」
「神のもとへ行けるのですから」
「そこはいいところか」
「ええ」
「でも俺とは会えなくなる」
「……それは、少し寂しいですね」
 力なくロイドが微笑む。
「俺がもっともっとお祈りしたら、おっさんの病気は治るか」
「それは無理でしょう。けれど、グリンさんが祈りたいと願う気持ちはとても嬉しいですよ」
 それはいつもロイドがグリンに言っていた言葉だった。そしてグリンは、だからこそ祈りの文句を唱えていた。
 いつ聞いても、何度聞いても、ロイドの言葉はグリンには難しかった。けれど、自分が祈ることでロイドが喜ぶのはわかった。
 命を救ってもらった感謝を。
 楽しい日々への感謝を。
 穏やかな微笑みで守ってくれたことへの感謝を。
 グリンはいつも、その感謝を祈りに込めていた。グリンが祈る先は神ではなかった。グリンはロイドに祈っていた。
 それは、ロイドの語る『神への祈り』とは違うものだとグリンも知っている。ファリスのことを何度聞いても、やはりグリンにはわからなかったのだ。けれど、ロイドがファリスに祈りを捧げる姿は好きだったし、意味はわからなくとも、それを真似るとロイドが喜ぶのも嬉しかった。
「俺は……ずっと祈る。おっさんがいなくなっても。時々は忘れるかもしれないけど、覚えている限り、祈る」
 誰に、とは言わなかった。
 ロイドは微笑んだ。
「では、私の聖印をあなたに授けましょう。本当は、神殿に一緒に行って、司祭からもらうのが良いのでしょうけれど……今の私には、神殿まで行く体力はありません」
 枕元に置いてあったいつもの聖印を、ロイドは筋の浮いた手で持ち上げた。それをそっとグリンの首にかける。
「……鎖の長さを調整したほうがいいかもしれませんね」
「いや。このままでいい」
 神殿で名も知らぬ司祭から新しい聖印をもらうよりも、ロイドの指によって角のすり減ったこの聖印のほうが、グリンには何倍も嬉しい。ただ、この聖印にある聖十字の紋章をロイドの指先がたどることはもうないのかと思うと悲しくなった。

 それから数日後の明け方。ロイドは逝った。太陽が昇るのを待って。


◆ ◆ ◆


 パンとカエルの昼食を終え、再びグリンは聖印を取り出した。鎖も傷んでいるし、刻印された聖十字は少しすり減っている。
 この聖印があれば。そして、ファリスへのおぼろげな祈りを口にすれば。
 いつでもあの日々が蘇る。少し悲しくもあるけれど、おおむね楽しかった記憶が蘇る。ロイドの微笑みも、あの穏やかな声音も、消えることはない。
 だとすると、とグリンは思った。
「これも『力ある品』だな」
 理屈はわからない。けれど、この聖印に指を触れて祈りの言葉を呟くと、ロイドがすぐ傍にいるような感じがする。もしもそれが魔法だとすれば、それは随分と気の利いた魔法だと思う。
 いつかロイドが言っていたことが自分にもわかる日は来るだろうか。ロイドが逝ってから10年以上──多分そのくらいだ──過ぎた今となっても、「よくわからん」という自分の気持ちに変わりはない。けれど、あと50年ばかりこの聖印を持ち続ければ、ひょっとしたら少しはわかるかもしれない。
 そうしたら、おっさんは喜ぶだろう。
 グリンはそう思っている。


■ あとがき ■

企画を利用した過去EP。

えーと、アレです。別EP『Kyrie Eleison』とある意味同じネタです。個人的に気になるテーマなのかもしれません。

ちなみに、盲腸と胃癌ということで(身もふたもない)。


この作品の感想をお寄せください
うゆまさんの感想 (2006/4/15 1:48:03)[2]

普通なら分かり合えることも出会うこともなき二人。しかし、出会い互いに言葉を交わし、互いを理解し、いつしか大切なものを互いの心に刻む。

手にした聖印は確かに魔法の品物です。暖かな思い出と共にこれからもグリン氏と歩むでしょう。

何だか哀しくも心暖まるEPでした。
琴美さんの感想 (2006/3/19 21:48:16)[1]

「らしからぬ2人」の出会いが生んだ物語だと感じました。それにしても、まに亭のPLとして、また『Kyrie Eleison』の読者として予感する、3つ目(?)の物語に思いを馳せてしまうのは、著者の仰る「テーマ」がこの世界に投げかけるもの故かもしれません。
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