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題名 the pain
登場人物
投稿者 松川 彰
投稿日時 2008/6/03 1:21:14




 確かに、色々なことがどうでもよかった。例えば、盗賊ギルドの中で自分がどんな評価をされているのかとか、隣近所に住んでいる家族がどんな人間かとか、そういった些末なことを数え上げればきりがない。そして、本当は『どうでもいい』なんて言っちゃいけないんだろうなと薄々わかっているようなことさえも、どうでもよかった。その最たるものが自分の身の安全だ。別に死にたがっているわけじゃないし、命はそれなりに惜しい。冒険に出かけて生きて帰ってこられるだけの慎重さと臆病さも持ち合わせている。少なくとも今生きているということは、そういうことだろう。けれど、“それ”が最優先事項じゃないことは確かだった。ただ不思議なことに、精霊に触れる時は別だ。自分であることを強く意識する。周囲に満ちる精霊たちに自分が馴染みきってしまわないように意識する。
 それでも、自分にとって大事なのは自分の心であって、肉体は意外とどうでもいいのかもしれない。

 目の前で繰り広げられる光景から逃れるように、そんなことを考えてもみたが、目を閉じることは出来ても耳を閉じることは出来ない。両手を使って耳を塞いだとしても意味はないだろう。精霊たちがざわついている。
 くぐもった悲鳴がずっと聞こえている。布を噛まされているせいもあるが、もう声を出す気力も体力もないようだ。部屋の空気には、血と汗と汚物の臭いが混じっている。
 その部屋で、その男はずっと拷問を受けていた。
 確か、30代の半ばだった。癖のある黒髪に、焦げ茶色の瞳、やや目尻の下がった優男だった。……と思うが、今はあまり面影がない。汗と血に汚れ、頬や目のあたりは青黒く腫れ上がり、口元にはしっかりと猿ぐつわが嵌められている。たとえ友人だったとしても判別は難しいだろう。
 俺との関係性は薄い。この男──確かオリバーといったか──は薬に溺れたあげくに、ギルドの金を使い込み、ギルドの売人を2人刺し殺した。事情を知って追いかけてきた同僚に重傷を負わせた後、娼館に逃げ込んで娼婦を人質にして立てこもった。
 立てこもり、というのは良くない手段だと思う。逃げ道を自ら断つようなものだ。衛視相手だというのならともかく、ギルドの人間相手に、「言うことを聞かなければこの女を殺す」と叫んでも有効性は薄い。事実、半刻後にはオリバーは捕らえられていた。人質にとられた娼婦は宣言通りに殺された。
 オリバーが逃げ込んだ娼館というのが、たまたま俺が雑用を担当していた娼館だったせいで、俺はその場にいたわけでもないのに、こうして落とし前とやらを見せられている。これは、「おまえのシマを荒らしたヤツはこうやって仕置きしてるからな」という確認に過ぎない。別に俺が仕置きを求めたわけではないが、仕方がない。これは見ることが重要なのではなく、見せることが重要なものらしいから。

 ……殺された娼婦は可哀相だと思う。それに、今回のこの流れは、20年前にタラントで殺された女のことを思い出して不快だ。イカれた野郎に女が1人意味もなく殺されて、そうして俺は、事が済んでから呼び出されてのこのこと現場に行く、それらは全て20年前のことをなぞっているようで気分が悪い。ただ、今回そうやって殺された女は俺が愛していた女ではなく、食い詰めた農村からほんの2ヶ月前に売られてきた新入りだ。名前と顔を覚えて、一通りの挨拶はした、たったそれだけだ。俺はその女のことを何一つ知らなかった。
 殺されるというのは、大抵の人間にとって理不尽なことだが、農村で苦労したあげくに売られてきた先で首筋を切り裂かれるというのは、とりわけ理不尽な死だと思う。けれど、だからといって、その女のためにここまでの拷問を俺個人は求めていない。
 拷問室の中には、オリバーの他に拷問係が3人いた。その他に、今回の仕切りをやっているギルド員が1人とその部下が2人。立ち会い人が、売人グループの幹部と俺だ。さっきまでは駆け出しに毛の生えた程度の若い奴らが何人もいたが、そのほとんどは少し前に真っ青な顔で口元を押さえながら出て行った。我慢しきれずに部屋の隅で吐いた奴もいる。見学……いや、それはギルドの“教育”のひとつだろう。
 部屋の中には、拷問するための器具が幾つも揃っている。鎖や重石、棘のついた鉄球のようなもの、隅には幾つかの椅子とテーブルもあって、テーブルの上には何故か酒瓶やマグまである。こんなところで酒を飲もうという奴の気が知れない。

 縛った両腕で天井の鉤から吊されたオリバーの身体を、拷問係が棍棒のようなもので殴っている。腰から下をまず執拗に殴ったらしく、両足は通常の倍ほどにもふくれあがっていた。足の長さが左右で極端に違うのは、長いほうは膝の関節を砕かれているからだろう。棍棒がオリバーの体に振り下ろされると、オリバーの口からは濁った息の音が洩れる。そして、どこかでごきりとやや湿った音がする。それを聞いて思わず眉を動かしてしまう。
「……どこか折れたな」
 呟いて顔を上げると、仕切っているギルド員が表情も変えずに頷いた。
「ああ、そうだな。腰骨あたりか……それとも、吊り下げてる肩の関節が外れた音かもな」
「で? 俺はいつまでこの部屋に居ればいいんだ」
「まさか“音無し”、この程度でビビってんじゃないだろうな?」
「ビビるもビビらねえもあるか。俺には関係ない。ただ、この部屋は空気が悪い」
 澱んだ空気には、濃密な臭いが混じっている。血腥い、それらはひどくダークな臭いだ。
 拷問室には、絶対的な暴力がある。けれどそこには敵意がない。暴力だけがある。拷問される人間はひょっとしたら敵意くらい持っていたのかもしれないが、圧倒的な暴力の前にそれは難なく奪われる。ただただ受け容れるしかない。そして拷問する側は、オリバーを人間として認めているかどうかもあやしい。すっぽりと顔を覆う頭巾をかぶっているからその表情はわからないけれど、振り下ろす棍棒には躊躇がない。
「空気が悪い、か。確かにな。それは事実だ。地下室だから換気が難しい」
「そもそもこの拷問は何のためだ。あの男には仲間はいねえんだろ? 使い込んだ金の行方も全部知れている。……生かしておくつもりもねえんだろうが」
「けじめだよ、けじめ。ここはそういう場所だ」
「……苦痛のための拷問か」
 その時、ギルド員が動いた。音も立てずにそいつの腕が俺の襟元を掴んで、背後にあったテーブルの上に押し倒す。がたん、と音を立ててテーブルが椅子にぶつかった。
「…………いい仕立ての服を着てるじゃねえか、“音無し”」
 ギルド員の顔が近い。
「ああ。だからできれば汚さないでくれるとありがたいね。最近、気に入ってる服に限って汚す羽目になるんだ。血の染みは落ちにくい」
「汚しゃあしねえよ。おまえがギルドのやり方に文句をつけない限りはな。……何故、避けなかった? 避けきれなくとも、今のタイミングなら身構えるくらいは出来たはずだ」
「あんたに殺気が無かったからな。それに、ここで俺に手を出す意味もねぇ。あんたが意味のないことをするとは思えない」
 ギルド員が小さく片眉を上げて、俺の胸倉を掴んだまま、今度は引き起こした。
 そこへ、また濁った悲鳴と、今度は先刻よりもやや軽い音がした。ぱきり、とけれどそれも湿った音だった。
 直後に、俺の胸元に何か小さなものが飛んでくる。ちょうど鳩尾のあたりで受け止める羽目になり、薄い色の服に血の跡を残して、足元に白い小さな塊がかちりと落ちた。オリバーの歯だった。
 見ると、いつの間にかオリバーの猿ぐつわは外されていて、そこに突き刺された棍棒を抜かれたところだった。
 拷問係と目が合った。……ような気がした。相手は頭巾をすっぽりとかぶっているから視線も定かではないが。
 体格は細身だ。他の拷問係はどちらかというとたくましい体つきの男たちだったが、そいつだけはあまり背も高くなく、腰回りが細い。棍棒を握りしめている手はしっかりとしているものの、意外なほど色は白かった。
「結局、汚す羽目になったな。……最後まで見届けろとは言わねえよ。立ち会いの書類にサインして帰っていいぜ」
 ギルド員のその言葉を聞いて、俺とその拷問係は同時に視線を外した。



 ビビってんじゃねえだろうな、とあの男は言った。肯定はしないが、否定も出来ない言葉だ。あんな容赦のない拷問を見せられてビビらない奴はいない。そもそもあれは、見ている人間を怯ませるためのショーだ。あの男から引き出すべき情報もなく、あの男を生かしておくはずもない。ただギルドという枠内でヤバいことをやればああいう目に遭わされるんだということを周りに伝えるために、あの男は痛めつけられていた。今回の拷問のことは口外は禁止されていない。つまりはそういうことだろう。
 書類にサインを終えて、俺は“稲穂の実り亭”で酒を飲んでいた。拷問室はこの店とは少し離れた建物の地下だった。ああいうものを見せられた後にわざわざギルド直営の店に寄る義理はなかったが、不思議と他の店に行く気はしなかった。うんざりだ。けれど逃げたくはない。それに、こんな気分で普通の店に寄れば、周りに物騒な気配をまき散らしそうな気もする。
(……この店はちょうど帰り道にあるしな)
 適当な理由を見つけて、その理由に満足して手元の火酒を口に運ぶ。
 お代わり、と店員に4度目を告げた時、背後に妙な気配が近づいてきた。殺気というほどでもない、けれど剣呑な色を帯びた気配。
「隣、いいですか」
 若い男の声がした。そして、そう尋ねたくせに返事を待たずに左隣の椅子に腰を下ろす。
 まだ若い……20歳になるかならないかというところか。見覚えがある。やや細身の身体、白い肌、黒い髪に、それよりも更に黒い、光を吸い込みそうなほど真っ黒な瞳。シェイドの色だ。
「ラスさんは変わりませんね。お久しぶりです」
「……サリか?」
 微笑んだ顔に面影が重なった。
「ええ。覚えていてくれたんですね」

 サリを覚えていたのは、その名前が変わっているからというだけじゃない。この男にまといつく精霊たちが独特の肌触りを持っているからだ。心を織りなす精霊たちがどこかざらついたような、育ちきっていないような、それは不思議な感触だ。
 サリと最初に会ったのは、8年前だ。俺がオランに来てすぐの頃で、サリはまだ13歳の子供だった。ギルド幹部の妾腹の息子で、幹部にとっては、跡継ぎにするつもりはないがサリがその気ならバックアップはしようという程度だったらしい。見習いとして、サリは幾つかの仕事に同行していた。俺もオランのギルドに慣れるために積極的に仕事をしていた頃だったから、何度か顔を合わせた。そのうち、互いに顔と名前を覚え、挨拶くらいは交わすようになった。
 サリが15歳になる頃、本格的に修行を始めるとかで仕事には出てこなくなった。俺もその頃から娼館の雑用担当になってあまり荒事に関わらなくなった。
 俺たちは友人だったわけじゃない。
 ただ、サリは特殊な子供だった。
 サリには人の感情がわからない。言葉や笑顔なんかの表面的なものは記号として理解するけれど、それに共感することが出来ない。だから言葉を交わしているとこちらが不愉快になることも多い。けれどサリにはそれは伝わらない。例えば笑いながら嫌味を言ってもサリにはそれがわからない。
 サリにとって、俺は『いいひと』と映ったらしい。いつも笑っているからだと言う。けれど、ギルドの仕事をしている時に、本当の意味での笑顔など浮かべた記憶はない。愛想笑いか、そうでなければ皮肉の笑みか、あとは苦笑、失笑、冷笑、その類だ。サリにとっては、それら全てが笑顔だった。
 くわえて、サリは痛覚が鈍い。痛みを感じないわけではないはずだが、他の奴らに比べてその反応は鈍かった。その分、怪我はしやすかったが、何度怪我をしてもそれを怖れることはなかった。一度、腕の骨を折って、その骨が皮膚を破って外に突き出たことがある。血まみれの腕と、その中に見える唐突に白い骨を見て、サリは眉を顰めて見せた。「これはさすがに痛いですね」と、困ったように笑った。
 サリは痛みに鈍い。それは自身の体の痛みにも、そして他人の痛みにも。
 けれどサリはいつだって、痛みを知りたがった。

「こないだ、ラスさんの噂を聞いたんですよ」
 葡萄酒を注文しながらサリが隣で微笑んだ。こいつは昔からこうだった。優しげな微笑みを浮かべて、丁寧な言葉で話す。そういう記号を表現していれば、他人に不快さを与えないと信じている。
「へぇ、どんな?」
「去年の噂ですが……ちょっと失礼します。……ああ、再生したんですね、左腕」
 ちょうどサリの側にあった俺の左腕に、そっと触れてまた微笑む。
 それに、とサリは続けた。
「本当だ。仕立てのいい服ですね」
 その言葉に、左腕に触れているサリの手を見る。細い体の割にしっかりとした手、なのに意外なほど色の白い手。
「……さっきのは、おまえか」
「ええ。僕に気付いてくれるかと思って歯を飛ばしてみたんですけれど」
「無理言うな。5年前の俺は今とたいして変わらねぇが、おまえは随分と違う。顔も見ずに気づけるか」
 それもそうですね、と笑うサリに、聞いてみた。
「最近現場じゃ見かけねぇと思ったら、あんな仕事してたんだな」
「ええ。僕には合ってますよ。ああいう仕事は、加虐的なというか、嗜虐的な性質を持つ人間が向いているそうです」
「おまえにそんな趣味が?」
「あるかどうかはわかりませんが、僕は躊躇いませんよ。それにね、僕は知りたいんです。痛みというものを」
 確かに、振り下ろす棍棒に迷いはなかった。痛みがわからないからだ。堪えきれないほどの痛みというものをサリは知らない。自分の傷に無頓着だから、他人を傷つけることにも躊躇わない。
「何年やってる?」
「本格的には、まだ2年です。……ラスさん、あの後、あの男がどうなったか知っていますか?」
「そんなもの」
 興味はない、と言おうとしたけれど、サリはもう話し始めていた。
「もう2、3度、口の中を痛めつけると、奥歯以外の歯はだいたい砕けるんですよ。顎までは砕かない程度にしておいて、戒めを解いてから台の上に押さえつけます。そうして、ペニスを切り取って口の中にいれて、唇を縫い合わせます。人間というのはすごいですよ。あそこまで痛めつけられているのに、そんなことをされるとまだ抵抗しようと体が動くんですよ。ああ、もちろん関節を砕いたところはあまり動かないけれど。僕はずいぶん、人の身体というものがわかってきました」
 そう言って、くすくすと笑う。
「……酒の肴には不向きな話題だな。小心者なんでね、そんなおっかねえ話はやめてくれるか」
「ラスさん、僕はあなたが好きですよ。一緒に仕事をしていたあの頃から」
 唐突にサリが言った。
 なら、あの時あいつの歯を飛ばして俺に当ててみせたのはサリのアプローチで、今こうやって拷問の仔細を話して聞かせるのは口説き文句か。

「それは俺がいつも笑っているからだろう?」
 多分、今のサリの微笑みと意味合いは同じだ。笑顔の仮面をつければ揉め事は減るから。そうやって一歩ひいたところにいれば、いろいろなことがどうでもよくなる。たいしたことじゃないと笑って見せれば、本当にたいしたことじゃなくなる。
「それもあるけれど……でも本当は、僕はあなたの、眉を顰めた顔が好きなんです。ほら、今みたいに『虫酸が走る』とでも言いたそうな、その眉と目と口元がね。あの男の肩が外れた時、ごきって音がしたでしょう? その時に眉を顰めた顔を見て、ああ、やっぱり素敵だなぁ、って思ったんですよね」
 だから本当は歯をぶつけてみればまたそれが見られるかと思って、とサリは笑った。
「ねぇ、ラスさん。聞きたいことがあるんですけど」
 唇の上に残った赤い葡萄酒を舌先で舐めとりながら、サリが俺の顔を覗き込んだ。
 ……やっぱり、これはこいつなりの口説き文句なのか。
「……なんだ?」
「ひとの事を知るには、そのひとの痛みを知るのがいいと母に教わりました。なので、僕はラスさんの痛みを知りたいんです。……その左腕、切り落とされた時はどのぐらい痛かったですか?」
 このタイミングで眉を顰めることはこらえた。
「そうだな、……今までで1、2を争うくらいは痛かったよ」
「例えば、僕が仕事で『対象』相手によくやるんですけど、爪を剥がされる痛みや歯を折られる痛み、骨を折る痛み、皮膚を切り裂かれる痛み、全部違うらしいですよね。なんといっても一番痛いのは股間を蹴り上げられる痛みだという人もいるけれど、それ以上の痛みを知ってる人もいると思うんですよ。腕を切り落とされた痛みは、たとえて言うならどれに近いですか?」
「……さぁな。そのどれとも違う、としか言えない」
「ねぇ、ラスさん」
 そう言って、サリはまた舌先で唇を舐めた。
「じゃあ、心の痛みは? 今までで一番耐え難い痛みというのは何でした? 例えば、半妖精として差別を受け続けたこと? 目の前で仲間が殺された時? それとも、愛する人や家族を亡くした時? それはその腕を切り落とされた時よりも痛かったですか?」
 眉が、動いてしまった。ただでさえ、今回の件は20年前をなぞっている。
「ああ、やっぱり好きですよ、その表情」
 サリが嬉しそうに微笑んだ。
 痛みを知らないサリの瞳が、やけに澄んで見えた。
「僕は、心の痛みを越える物理的な暴力があると思っています。だって僕は知ってますよ。どんな意志をも屈服させる絶望的な痛みがあることを。執拗に加え続けられる暴力にいつしか心が折れることを」
「……加虐的な趣味がありそうだな」
「そうですか? 僕は知りたいだけですよ。母の言葉通りに。不愉快な思いをさせてしまったのなら申し訳ありません。……でもラスさんは少し変わりましたね。最近のギルドの噂を知っていますか? もちろん、その左腕とは別の」
「噂? 何の?」
「ラスさんが穏やかになったようだって。性格が円くなったようだと言う人もいるし、女が出来て腑抜けたようだと言う人もいます」
「で? おまえもそう思うのか」
「変わったとは思いますよ。でも、根本的にラスさんは僕とよく似ているような気がするんです」

 ──サリの言葉には、傷つくことも怒ることも無意味だ。彼はその意味を理解していない。
 けれど、似ているというその言葉に、納得と反発が同時に、そして全く等量に、意識の表層に浮かび上がる。
 似ていると言われるのは不本意だ。けれど、確かに似ていたのだろう。つまり、自分の身の安全に対してどうでもいいと思う、その距離感が。サリに言われるまでもなく、あの拷問を見ながら考えてもいたことだ。確かに、俺はかなり自分の安全に対して無頓着だった。それはサリと同じように。例えば、女に恨まれたとして、その女が思い詰めた顔でナイフを握っていれば、彼女のために刺されてやってもいいかと思うくらいには無頓着だった。実際にそういう結果になったことも過去にはある。
「ラスさんは、いろんなことがどうでもいいんでしょう? それは僕と同じです。でも時々そうやって眉を顰めるのが……なんだか、とても意外な感じがして素敵なんです」
「意外かな。そうでもねぇよ」
 本当は、意外でも何でもないはずだ。少なくともサリ以外の奴らにとっては。眉を顰めるのは、苦笑や失笑の類とよく似ている。皮肉を口に出すのは、いつだって眉を顰めるのと同じ行為だ。けれど、サリにはそれが伝わらない。
「昔は、もっと似ていると思っていたんです。ラスさんも僕と同じように痛みに鈍いのかと思っていた」
「どうしてだ?」
「ラスさんは怪我を怖れる風がなかったから。それに、怪我をした後でも手当てを受けようとはしてなかったし、ギルドの医者が作る薬も断ってるのを何度か見ました」
 そういった場合の治療を全て断っていたわけじゃない。たまさか何度か、こいつがそういう場面を目撃しただけのことだろう。痛みに鈍いわけじゃない。とくに口に出す必要を感じないだけだ。下手なことを言って、妙な薬を差し出されるのも困る。それに、慣れる痛みもある。痛みというのは体内の精霊たちが発する危険信号だが、この程度なら大丈夫と知っている……またはそう思い込んでいるレベルは人それぞれで違う。
 ただ……そう、体の痛みなら、ある程度までは耐えられる。物理的な暴力が全てを凌駕すると考えているサリとは、その点で意見が違う。

 黙っていると、でも、とサリは続けた。
「そうじゃないんだと気付いてからも、でもやっぱり僕と似ているなって。なんていうか……そう、例えば、ラスさんが今付き合っている相手はマーファ神官だと聞きました。本来ならそういうのは一番縁遠いんじゃないかと思う、そこが似ていると思うんですよ」
「暴力を肯定してるところとか?」
 積極的に肯定しているわけじゃない。だが、こういう仕事をしていれば自衛以外の暴力を使うこともある。先刻の拷問室での光景に嫌悪感は抱くけれど、眉を顰めながらも見届けることが仕事だと思うくらいには肯定している。曲がりなりにも、盗賊ギルドに籍を置いて20年が経つ。それが許せないと思うくらいなら、とっくの昔に辞めていただろう。サリほど躊躇無く暴力を振るうことが出来ないのは確かだが、その違いをどう言い繕おうと、“一般市民”から見れば既に境界線は越えている。
「それもありますが、ラスさんは、結婚とか家庭とか子供とか、大嫌いでしょう?」
「……まあな」
「僕はそもそも女性に興味を持たないんですが、自分の子供なんて考えただけでぞっとしますよ」
「それはわかる」
 ……そう、それはわかる。
「ラスさん、いつか言ってましたよね。生まれる子供の種族で賭けをしたいとは思わないからって。でも、実は違うんじゃないかと思うんですよ。多分、僕と同じ理由なんじゃないでしょうか」
「それは?」
「僕は、人生をもう一度繰り返すなんてごめんです。子供をつくるっていうのは結局そういうことでしょう? 子供が生まれてから、その子供が辿る道を想像する。けれど自分が体験してきた人生は1つです。子供が辿るだろう道筋もそれと同じかもしれないと考える。そこで自分のこれまでを許せるなら……もう一度その道筋を辿ってもいいかなと思えるなら、子供の存在が許容できる。彼らがこれから歩むだろう道を肯定できる。そうじゃないですか?」
「でも……もう一度繰り返すなんてごめんだと?」
「ええ、そうです。だから僕は……いえ、『僕たちは』許容できない」
 多分、本当はもっと違うんだろう。愛情の結果とか、自分たちを繋ぐものだとか、そうでなければもっと本能に根ざしたものなんだろうと思う。けれど、自身の血脈を受け継ぐものを……という意識は半妖精には薄いようだ。そもそもが種族として安定していない。サリも似たようなものなんだろう。痛覚なんてものは、本能に一番必要なものなのに、サリはそれがあまり実感できない。サリにとって、小さな痛みはただの違和感でしかないと聞いたことがある。不必要な怪我をしないために、例えば関節を痛めずに走るだけのことさえ、サリは努力で補ってきたはずだ。
 俺にはサリの理屈がわかってしまう。本能でないとしたら感情のレベルだ。
 そして想像する。自分たちが生みだした者が何らかの感情を得る過程を。
 そして比べる。もしも自分なら耐えられるのかと。
 そして問いかける。生まれる前に、自分が辿る道を知っていたとしたら、それでも生まれてきただろうかと。
 『俺たちは』そうやって、想像する。
「だからラスさん」
 サリはそこで言葉を切った。じっとこちらを見つめてくる。痛みを知らない真っ黒な瞳で。
 ……いや、本当は知っているのかもしれない。折れた腕を見て、さすがに痛いと微笑んだように、周囲と自分との違いに傷ついて疲れ果てて、それが痛みだと気付いているのかもしれない。だから、『繰り返すのはごめんだ』と微笑むのかもしれない。
「僕はあなたに恋しています。おつき合いしていただけませんか」
「……おまえ、女には興味ないって言ったな」
「ええ。女はべたべたしていて気持ち悪いので。それに、僕は性的な快感も薄いので、女とベッドに入っても出来ることはあまりないんですよ」
「そうか、でも悪いな。俺は女のほうが好きなんだ。野郎と付き合う趣味はない」
「そうですか、残念です」
 いつか興味が湧いたら僕のことも思い出してくださいと言い残して、サリは立ち去った。



「変わった口説き文句だったな」
 呟いて、手元の杯に残っていた火酒を飲み干した。
 ──いろんなことがどうでもいい、か。
 今だってその思いは変わらない。変わらないけれど……俺が変わったように見えるとしたら、それはセシーリカのせいだ。セシーリカが怪我をした時に、自分が怪我をしたほうがまだマシだと思ったことを覚えている。同じ思いを、俺が怪我をする度に味わっていたのかと、そのことに思い至った。以来、俺は自分の安全にも配慮するようになった。
 たったそれだけのことさえ、俺はセシーリカがいなければ知ることが出来なかった。
 今の俺とサリとの違いはそこだろう。確かに、以前の俺はサリと似ていたかもしれない。けれど、そのたったひとつの違いで、今は似ていないと言いきれる。
「……そういえば、言ってなかったな」
 俺の手元の杯が空になったのを見て、店員が近づいてくる。6杯目は断って店を出た。
 外は、白々と夜が明ける頃だった。東の稜線が明るくなっている。もう少ししたらあちこちの神殿で夜明けの鐘が鳴らされるだろう。
 確か、セシーリカは夜勤だったはずだ。
 俺はマーファ神殿へ向かった。


 施療院の裏口から出てきたセシーリカと、ハザードを見下ろす土手の上を歩いた。中州を中継してまるで大地の割れ目を繋ぎ止めているかのような橋も見える。上流の橋のほうがマーファ神殿からは近い。
「……なんか、ラスさん機嫌悪い?」
 ちょうど橋に差し掛かった頃、セシーリカが少し拗ねたようにそう尋ねた。
「なんで? 手だって繋いでるだろ」
「そうだね。迎えにきてくれて、手を繋いで帰って、それに朝焼けが綺麗で。でも、なんていうか……あ、ほら、ラスさんの服、ここ汚れてるし。血の染みだね。……危ないことしてきたの?」
「……さっき、神殿に行く前に告白された」
「えっ!? 誰にっ!」
「………………野郎に」
「え。それは……」
 笑いたいような怒りたいような、ものすごく中途半端な表情でセシーリカは黙り込んだ。
「なぁセシーリカ」
 中州を越えて、2本目の橋のちょうど中間で俺は立ち止まった。セシーリカも立ち止まって俺に顔を向ける。
「なに?」
「愛してる」
「……え? え、わ。……わ、わ」
「もしも、もう一度全てをやり直す羽目になったとしても、50年後におまえに会えるとわかっていれば、この50年をもう一度耐えられると思うくらいに」
 え、ともう一度小さく呟いて、セシーリカが俯いた。
 そして、顔を上げて俺を見据える。真っ直ぐに、その薄緑の瞳で射抜くように。
「もう一度やるとしたら、わたしはそんなに待たないからねっ!」
 それを聞いて、思わず頬が緩んだ。ギルドでは絶対に見せない類の笑みだ。
 ──こういうところは、やっぱり勝てない。
 ふと気付いた。サリは痛みを知らないのではなく、それが癒される時の心地よさを知らないんじゃないかと。
 繋いだ手は柔らかく、そして温かかった。


■ あとがき ■

ラストがラブラブなのに、メイン描写が暴力的な色合いなのはどういうことなのか、自分で自分を問いつめたい気分でいっぱいです。


この作品の感想をお寄せください
琴美さんの感想 (2008/6/06 1:36:42)[1]

色々しみじみ痛かったりするんですが(笑)、どんなことよりも、まずはおめでとう、と。
生と死は表裏一体、愛情はその構図に深く影響するんだよなとつくづく思う今日この頃だったりします。どうかラスとセシーリカが健やかで幸せにと(サリにもちょっと)願う次第。
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