|
続きを投稿する
|
MENU
|
HOME
|
題名
雨の森 3
登場人物
ソレイユ、リヴァース
投稿者
いりしお丸
投稿日時
2008/11/08 6:04:39
■■■ 聖古老の森
聖古老の森は、この島の絶壁に囲まれた西部にある。
漁港方面からたどり着くには、三日がかりで歩かねばならない。島は小さく距離は大したことはないが、道がないのである。道がなければ、同じ距離でも歩くのに何倍も時間がかかる。藪を掻き分け急な斜面を上り下りする。崖にロープを渡して越えねばならない箇所も多かった。橋の架かっていない川を何本も渡る。急な流れは半ば滝になり白くしぶきを上げている。
崖崩れも多発し、崩さぬよう注意して歩かねばならなかった。
人の分け入らぬ森の奥深くに踏み込むにつれ、原生林の本当の美しさが現れてくる。
木々の緑。苔の深緑。霧の白。
ほんとうに、緑が深いのだ。薄緑、深緑、輝くばかりの緑、しっとりと落ち着いた緑。あらゆる緑が、この森に内包されている。霧がそれを緩やかに包みこむ。幽玄の世界。
水の音が四方から響いてきて心地よい。
大樹にみっしりと覆いかぶさった苔。そこに無数の蔦や気根がぶらさがっている。植物の精霊界に迷いこんだのではないかと思うような幻想的な様だった。
霊気とも呼べる森の瑞々しさを生んでいるのは、苔だ。
石に、樹の肌に、地面に、至るところに水を含んだ苔が密集している。この苔がなんともいえない深い風合いの緑を醸し、森の緑の深みに大きな役割担っている。そして、苔はスポンジのように水を含む。降り注いだ雨は苔に保持される。それが、森の潤いとなる。苔は、天然の貯水池であり、森にいっそうの潤いを与えていた。
あらゆる木々と岩が、その苔の衣をまとっている。苔がこのように美しいものを作るとは知らなかった。濡れた緑というのはしみじみと麗しい。
木は、杉が多かった。多くの樹が、数百年、時には千年以上を経ているのではないかという大樹である。天を刺すようにまっすぐと伸びた杉。曲がりくねったもの。どれも、木目が詰った、硬い杉だった。
杉は、見た目の大きさに反して、地面に深く根を張らない。よって表土は保持されず流れやすい。加えてこの雨の量である。落ち葉や枯れ枝、下草などの養分はすぐに水に流されてしまう。そのため樹木の成長が遅く、寿命が長い。
「この森では、樹齢が千年を越えない樹は、若杉、小杉などと呼ばれています。多くは、エルフより長い年月を生きている木々なのです。中には数千年を生きている大樹もあります」
「数千年ということは…ここは、古代の森なのか」
ソレイユはうなずく。この森は、古代王国が存在するよりさらに前、神話の時代より存在し続けているのだ。
樹に限らずであるが、長く生きている生物には、それだけで畏敬の念を感じさせる何かがある。存在の力が深いのだ。長い年月を経た木々を擁する森は、荘厳な空気に充たされていた。
杉だけでも様々な樹がある。
根本はかつて見たことのないほど太いのに、途中から急激に細くなっている杉がある。二代杉という。幹の途中から代が変わったものだ。樹木の種が地に落ちても、ここでは水に流される。流されず発芽しても、養分が少ないので、根付かない。しかし、一度枯れた木株の上に落ちた種は、株そのものを養分として、発芽してそこに根付くことができる。かつての樹木の体を苗床とし、樹そのものを糧として、よくやく次代が育つ。
こうして育った樹が、いたるところにある。中には、これを2回3回と繰り返した、三代杉、四代杉というのまである。また、一つの株を共有しあって二本で別方向を向きながら伸びている木もあった。
また、メデューサのように、途中から幹が伸びず枝が髪を振り乱すように伸びている奇怪な杉がある。落雷や暴風などで幹が折れてしまい、そこから上に伸びていくことが出来ず、他の枝は横に伸びるしかなかったようである。
更に、一本の太い枝を、二本の樹が共有している杉がある。伸びた枝が、他の樹とぶつかった際、互いの樹はその枝を吸収したという。あたかも夫婦のように、くっつき合って枝を分け合っていた。
杉の大敵に、山車という樹がある。
山車は、ほかの木に巻き付きそのまま激しい力で締め上げながら伸びる。そしてその木が水分と養分を根から吸い上げるのを阻害し、最後には枯れさせてしまう。まさに絞め殺すのだ。
一方、巻きつかれた杉も、ただ枯れるのを待っている無力な被害者ではない。幹の締め付けられている箇所の上方から新たに根を生やして地に潜り込む。根が空中に浮いた形になる。結果、杉の幹の途中から根が地面に何本も突き刺さっている異様な光景となる。
とりわけの変な生き物が、榕樹(ようじゅ)だ。榕樹もまた他の樹に着生して生きる。珍しいのは、種が地面ではなく他の樹の枝に落ち、着床した樹の枝から、自らの枝とも幹とも根ともつかぬものを地面に向かって伸ばしていくことだ。最初は樹にヒゲが生えているように細い気根を無数に伸ばす。気根は次第に曲がりくねりながら太くなり、地に達する。根が土に届いた瞬間から、榕樹はすさまじい勢いで地面から栄養分を吸い上げ、元の木の幹に絡みつくように成長する。そして、多くの場合元の木を絞め殺し、樹を乗っ取ってしまう。ユーカリもかなわない生命力である。
たまに鹿などの動物を見たかと思うと、蛸のような触手に取り付かれて、ゆらゆらと歩いている。
「あれはハンガー・レッグですね。悪質な寄生生物です。あの触手から伸ばした針を頭に動物の埋め込んで体を乗っ取るのです。死ぬまで離れてくれません。繭の中で虎視眈々と獲物を狙っていますから、気をつけてください」
ソレイユの説明に、ぞっとした。
また、気根や榕樹に混じって、動物を絞め殺して地の養分にしようとと狙っている、キラー・クリーパーという蔦もある。
いずれも、古代の魔術に生み出されたものではなく、自然の生き物である。
この雨の森の中、生き物は、生存をかけて激しく争っている。かくも攻撃的な自然があったものかと思う。一見、緑の楽園のように見えるが、一枚幕を上げて裏を覗いてみると、そこは、熾烈な生き残り戦争の場である。
あたかも、命の展覧会だった。
命は、自ら生き残るために、少ない養分を奪い合って、身を進化させて、かくも鮮やかに、多様に、生きていく。
「彼らに比べれば、人間も妖精も、なんと独創性も工夫も乏しい凡庸な生き物かなと思うな」
そう、感歎するように口から衝いて出た。
「この森は、実は厳しすぎて、妖魔も住まないのです。一番強いのは、植物なのかもしれません」
そう、ソレイユは感慨深げに言って、杉を見上げた。
その視線の先、頭の上から、にゃあ、泣き声がした。
「汝が涙は何処也か。此れより流るる涙は土に染み海に出で雲となりて森に戻る。涙は森を潤す雨なり」
琥珀色の目の黒猫。島に入った時に会った双尾猫だ。こちらを見つめ、「ふん」と鼻を鳴らした。
猫はそれだけで、身を翻して木々の向こうに去っていった。
「そっけない奴だな。問答の仕様も無い。あれもこの森の生き物なのか」
肩をすくめて、それを見送った。
「多分猫の島カイオスから渡ってきたんでしょう。なんだか誰かさんに似てますねぇ」
とソレイユがこちらを見て言った。
ひときわ巨大な株があった。中に一つの家が入りそうな大きさである。すでに昔に不朽した杉の大樹の株だった。天井が朽ち果てて、中が見える。
中に入る。株の中に沢が注ぎ込んでいた。澄んだ水を口にすると、疲れた体に染みわたる。体の隅々まで、清清しさが行き届く。細胞の一つ一つが、産声を上げて、復活していくようだ。
その株の中から、地をもぐって細い道が作られていた。トンネルを抜けて崖下に続いている。崖そのものは木々に隠されて、外からは見えなくなっていた。
「この先に、聖古老と、森を守護するエルフがいます」
そういって、ソレイユは暗い道を降りていった。株が、聖古老の棲家への入り口になっていたのだ。
暗闇を抜けて崖下に出ると、周囲の気配がいきなり変わった。
植物の精霊力が、ありえないほどに濃く強く感じる。世界中の樹木を全て集めてきて凝縮させたような気配の強さだった。
せせらぎの音。梢の摺れる音。鳥の鳴き声。あらゆる森の音に充たされながら、そこは厳粛なまでの静寂に包まれていた。ただ、精霊力が輝くばかりにあふれていた。
「何だここは…」
驚いていると、金の髪のエルフたちが現れた。草木染の独特の模様の衣装を纏っていた。
「お待ちしておりました」
と、エルフはソレイユに、慇懃に礼をした。
「少し遅くなりました」
ソレイユは微笑して答える。
エルフに案内され連れられる。十数人が住む、ごく小さな集落だった。
奥に入ると、精霊力の正体は、すぐに分かった。
視界が、黄金の樹肌を持った樹に覆われた。
十数人で手をつないでも周りを囲めないような、巨大な幹。見上げると、枝が天を覆わんばかりに空間一杯に果てしなく伸びていた。樹皮や枝には、苔や小さな植物が無数に張り付いている。そしてその幹、枝、葉、すべてが金色に輝いていた。
数千年を生きた数千本の杉の大樹を重ね合わせたがごときの、偉大な、巨大な杉の姿だった。
歯が震える。思わずそこに跪き、拝みたくなる。神々しいまでの圧倒的な存在感。大気が、風が、土が、水が。すべてこの黄金の樹にひれ伏しているようだった。
「これが、聖古老。古代の…神代の樹か…。こんな、ありえない…」
震え呆然として、言った。
ソレイユがうなずく。
"人と森妖精の血を混ぜ持つ旅人よ"
声が降り注いできた。精霊語だ。心臓が跳ね上がった。
耳で聞くのとは異なる。頭といわず胸といわず、声が内側から沸いて鳴り響き、骨を震わせながら語りかけてくる。聞いているだけで、命の精霊力が活発になるようで、全身が震える。打ちのめされるような圧倒的な存在感。
向かい合い、頭を下げて跪いた。
"余が名はフロレスタ。全ての命の母なる世界樹の枝より生まれ継ぎし、黄金樹なり"
黄金樹。魔力を秘める大いなる古代の樹。
「まさか現存しておわしたとは…」
神々は、世界樹の枝を挿し木して太古の森林を作り上げた。その世界樹の枝が成長したものが古代樹であり、その子孫が黄金樹である。雨の島の聖古老の森。聖古老とは、世界樹の末裔であった。辺境の島に、誰に知られることもなく、エルフに守られて永い時の中、黄金樹は、この絶海の孤島に存在していた。
「リヴァース。聖古老の行く末を、問うてください」
ソレイユが言った。
どういうことか、と問う前に。すぐに異変に気づいた。
めきめきと音を立てて、聖古老の枝が落ちてくる。ずぅん、と低い音が地に響いた。
聖古老は、老いていた。
老人に深く刻まれた皺のような樹皮は、見る間にぼろぼろと剥がれ落ちて、地に積もっていた。枝もまた、枯れ落ちていた。聖古老の周りの地面は、かつて自らの体の一部であったもので埋まっていた。それを腐らせかろうじて自らの養分として地に立っているようだった。
幹はひび割れ、無残に中の空洞を晒していた。、幹の中を覗くように促される。
聖古老の中は腐り落ちて、すでに中に塔が建てられそうなほど、巨大な空洞になっていた。
招かれるようにして、その中に入った。
中もまた、痛んでいた。むき出しになった木の組織は、もはや光らず黒ずんでおり、触れるとぼろぼろと剥がれ落ちてくる。明らかに酷く痛んでいた。かつてみっしりと固く詰まっていたであろうその身は、無残に腐朽し続けているのだ。
それでも聖古老は、光り輝いていた。
長く生きてきたものはそれだけで、神聖であり、厳粛であり、畏怖心を催させる。強くて深い、存在感の光を持つ。降り注いでくるその力が、とても心地良い。
これで、老いて死の渕にいるなんて。
仮に、全盛期に出会っていたと考えると、それだけで恐ろしい。身も心もささげ尽くしてしまいそうな存在だった。それゆえにいっそう、老い衰えた姿が、痛ましかった。
"妖精と人の子よ。憐れむ可からず。余もまたこの世では定命のさだめにある生物の一なり"
再び聖古老の声が響いた。どういうことかと問うと同時に、聖古老の記憶が降り注いでいた。頭に映像が浮かんでくる。見るのではなく、直接脳裏に映し出される。
天に無限に枝を伸ばし、地に無限に根を張る、雄大な、雄大な、巨大な樹。
世界樹。
それが彼女の祖先だった。
聖古老の持つイメージが流れ込んできる。
彼女の祖。金色に輝く神々しさを放つ世界樹。始源の巨人の体毛より生まれたもの。幹も葉も黄金色に輝く、植物の神ともいえる存在。巨人の体の各部位より生まれた神々や、巨人の鱗より生まれた竜王と同列の、太古の種。
世界樹は、黄金の葉を茂らせ、光り輝く生命の実をたわわに実らせている、どこまで延びているのか果てしない巨大な樹。その先端は星界に届いているのではないかとすら思わせる。そして根は奈落の底の混沌の海に張り巡らされている。光る樹木だけが、その世界の実体である。光にのみ込まれ、他は何も見えない。
世界樹は、混沌の海から生命を選り分け吸い上げた。神々は、世界樹に実る生命の実を用いて、数多の生命を創造する。ヒトも、妖魔も、動物も、精霊も。物質界の多くの生命が、こうして生み出された。一方、世界樹から直接、植物とエルフが生まれてきた。彼らは神々の手を経ていない。世界樹そのものが彼らの祖である。
神々は、世界樹の枝を、大地に指し木した。それらは古代樹と呼ばれ、巨大な森の源となった。太古の森が次々に誕生した。世界樹は数多の生命を生み出し、やがて力尽き枯死寸前になった。神々は、始源の樹木たる世界樹を顕彰し、精霊界に導き、聖別した。世界樹は、そのものが世界となった。植物の精霊界である。植物の精霊界は、世界樹自身だった。
一方、神々は、まず世界に満ちる力を分化して精霊界を作っていた。そして、自らが住むための場として物質界を創生した。さらに、神々は、物質界と精霊界の次に、妖精界を生んだ。妖精界は、物質界に精霊力をコーディネートして伝えるために創られた。たとえば草原は、妖精界にて、植物、土、水、風、光などの数多の精霊界からそれぞれの精霊力を取り寄せ、草原の形として調整し、物質界に力をつむぎ出されたものだ。妖精界による調整や緩衝がなければ、物質界は直接精霊力が流れ込み、嵐や火災や暴風だらけの危険な、生物の住めない世界になる。
黄金樹は、森の力を紡ぐ妖精界を管理する者として、古代樹の枝から妖精界に生みだされた。フロレスタは、世界樹のいわば孫だった。
妖精界は、黄金の光に満ちた輝ける世界であった。太い幹をもつ木々は、なみなみと金色の葉を湛えさせている。影一つ見当たらぬ、光にあふれた世界。
そして、光り輝くばかりの存在、妖精たちが、この妖精界において、精霊界の精霊力を物質界に導く営みを続けている。その妖精達の姿を見守るフロレスタの姿があった。
一方、物質界では、神々や竜王たちの大戦が繰り広げられた。神々の破壊の力と竜王の炎で、物質界は疲弊した。神々の自らの住処として作り出されたはずの物質界は、至るところ修復不可能なほど破損した。そして神々は散華した。世界樹の枝から生まれた太古の森林もまた激しく傷ついた。世界樹の娘たる古代樹の数々は、太古竜の炎たる溶岩に身を焼かれ、世を去った。傷ついた森を癒すため、古代樹の一人が、フロレスタを妖精界より物質界に召還した。
フロレスタは、物質界に新しい森を育てるために、原始の杉の若木を寄り代として定め、その魂を移した。フロレスタは古代樹の意を継いで、力の限り、次代の森を創生した。広大な瑞々しい森林がいくつも生まれた
一方、世界樹も神々も古代樹も、もはや物質界にはない。彼女は、樹に魂を縛り付けたために、本来の在所である妖精界に還る手段を失った。神々の戦いのために召喚された多くの妖精も同様に、物質界に取り残された。
この世界にある彼女の姿は、かりそめのものだった。本体は妖精界に残されている。生き物は全て自らの住む界に束縛される。自力で異界に行くことは原則できない。これは、この世界の法則である。ただ、異界から召喚された場合のみ、別の世界に到ることができる。たとえば精霊の召喚がこれである。「招かざる客、来るべからず」が世界の基本法則なのだ。エルフやドワーフ、グラスランナーなどは、神々の召喚を受けて本来の棲家である妖精界から物質界に来り、そして戻れなくなった存在だ。
フロレスタも例外ではなかった。肉体に束縛された彼女は、自分自身の意思で妖精界に帰ることはできない。物質界に束縛されたフロレスタは、定命の者となった。
フロレスタのような樹は、物質界に何本も存在した。魔法樹「マグナ=ロイ」と呼ばれるのも同種のものだ。マグナ=ロイは枝、実、花すべてが豊かな魔力が秘められている。故に、古代王国時代に魔術の材料として乱伐された。主に人造生命の材料にされた。そして現在はほとんど残っていない。
フロレスタは一本の樹として、この世界を生き続けた。海は彼女の森を絶海の孤島として隔離した。そして彼女は、閉ざされた森の聖古老となった。やがて暗黒時代が過ぎ、古代王国が興る。その後魔精霊により古代王国が滅び、剣の世界となった。
魔力に充たされたその身を維持するために、彼女は妖精界から紡がれる植物の精霊力を大量に消費し続けねばならなかった。彼女自身がすさまじい量の地力を吸い続ける。それは、世界に負担を与えることだった。役目を終えたフロレスタは、自ら隔離した島と共に、緩慢に滅びるつもりだった。
当初こそ島は彼女の生んだ森林により豊かな自然に覆われていた。長い年月の中で、少数ながら、島には、彼女と彼女の森以外の者が住みはじめた。若い杉や木々、蛇や蛙、ナメクジ、虫に鳥たち。種々の魚が島近辺に棲み付いた。古代王国期には緑の島マフォロからエルフが渡ってきて、彼女を聖古老と崇め、古代魔術師に見つからぬようひた隠しに護るようになった。そして最近になって、銀や豊富な魚を産業として見込んだ人間たちが移り住んできた。
彼女はそこにあるだけで、周囲の精霊力を消費し続け、島を消耗させる存在であった。
島はそれを支えきれなかった。かつて島にあった豊かな自然は、彼女の身に精霊力を供給するために弱り、地は細り、土砂は崩れ、滋養は乏しく、生き物は少ない養分を奪い合った。雨の多さがそれに拍車を掛けた。
フロレスタは、もはや与える存在ではない。奪う存在だった。
彼女がそこにあるだけで、この島の数々の生命、数々の生活を脅かすことになった。
"人と妖精の子よ。余は、速やかなる死を望んでいる"
長い長い語りの後、フロレスタは、言った。
島の生命のためには、もはや一刻も早く、彼女は世を去らねばならない。それを誰よりも知っているのは、フロレスタ自身だった。
"余は子らが愛しい。愛しき子らを道連れし共に緩慢に滅ぶ事、是とす能わず。老いさらばえしこの身は、唯、去り行くのみ。余の肉体をすべて土に帰し、島の滋養と為すべし"
そう、フロレスタは締めくくった。
彼女は、今まで奪ってきた力を、我が身を、島に還元したいと望んでいた。
■■■ 聖古老の森2
聖古老の語りが終わり、ふらふらと、黄金樹の中から出てきた。
黄金樹の記憶と意思を受け止め、頭がぼうっとしていた。長い夢を見た後のようだった。しかしそれは、実際にはほんの一瞬のことだった。
「ソレイユ。お前の言葉の意味がわかった。聖古老は、死ななければならない…」
ソレイユは沈鬱な面持ちでうなずいた。彼もまた、フロレスタより同じ説明を受けたのだろう。
彼の周りに集まっていたエルフたちから、悲哀の声が漏れた。
物質界の生き物として肉体を持つ以上、人間もエルフも、例え古代の種族といえども、寿命の束縛からは免れない。魂は不変でも、本体が維持できないのだ。フロレスタが宿木に選んだ杉は、すでにとうの昔に寿命を迎えていた。そして、フロレスタは、自らの生命を維持するために島の植物の精霊力を吸い取り続けている。島の植物の精霊力が乏しくなったために、島の地面の滋養は衰え、木々は生き残るために果てしない生存競争を繰り返すようになった。山車や榕樹に苦しめられる杉たち、ハンガー・レッグやキラー・クリーパーの犠牲になる動物たちの姿が浮かんだ。
「やはり、ほかに方法はありませんか」
森のエルフの一人が聞いてきた。
「これ以上、聖古老を、かりそめの居場所である物質界に拘束させておくと、島の命が脅かされる一方だろう。たとえば緑の島マフォロや大陸の森に聖古老を植え替えれば、もう数十年や数百年は持ちこたえられるかもしれない。けれども、そんなことは、物理的に、無理だ」
ソレイユは頷き、切なげに目を細めて黄金樹を見上げた。
「聖古老は死ぬことにより、魂はもとの世界へ…妖精界へ戻ることになります」
ひとたび、別世界に召喚された者が、もといた世界に戻る方法は二つ。ひとつは「バニッシュ」という強制送還するファリスの神官の奇跡。ファリスは世界の壁を越えて異世界にいくことは秩序を乱すこととして忌み嫌う。それを正すための魔法である。しかし、この偉大な強制送還の奇跡を起こせる司祭は、アレクラストにも2,3名いるかどうかだ。この辺境の島には望むべくはない。
もう一つは、その存在が失われるような破壊を、肉体に与えること。つまり、「殺す」ことである。
世界を越えて物質界に存在する者は、物質界において、かりそめの肉体をまとう。それが物質界の束縛となる。ほとんどの場合、かりそめの肉体がある限り、もとの世界に戻ることはできない。狂った精霊が良い例だ。狂った精霊を精霊界に返すためには、かりそめの体を破壊ことで、物質界の束縛から解き放ってやる必要がある。そのように精霊を「殺す」ことは、精霊への慈悲であると考えられている。
この古代の樹を破壊する、ほぼ唯一といってよい方法。
集まったエルフを一人一人見る。そして、目を瞑り、感情を抑え、言った。
「聖古老を炎に包み、死をもって送還する」
ユーカリと同じだった。
島の生みの親を死して去らせることが、唯一の、島の癒しの方法である。
エルフから悲痛の声がもれた。泣き声が聞こえてくる。
エルフは、炎を忌み嫌う。破壊の象徴として。
よりによってその炎で、彼らが護ってきた聖古老を燃やせと、言わねばならなかった。
誰もが分かっていた。もはや聖古老は死なねばならないことを。そして、だれもがそれを言えなかった。
あたりまえだろう。一体誰が、開闢の時から、島を産み育て、長き時を共に生き護り続けてきたこの聖なる存在を、殺すということができようか。魂は妖精界に戻るとはいえ、物質界に生きる者にとっては永遠の別れ、死とまったく同じなのだ。
哀しみは否応が無く、大きい。
エルフたちは決して感情の乏しい生き物ではない。感情を激しく表すと不可逆な過ちに結びつきやすいから、感情を抑制するように訓練されているだけだ。
「彼女が取り込んできた地力を、灰として地に返す。そうすれば、森はこれ以上の消耗は避けられるようになるだろう。あとは、どうやってフロレスタを送還するか。この雨の森で火をつけるのは難しい。炎の破壊の魔法を操る魔術師か、炎の精霊王を召還できる精霊使いが居れば別だが」
油を発していたユーカリと異なり、杉の大樹である黄金樹に火をつけるのは、この水に囲まれた森では、生易しいことではない。大量の燃料を運び込む必要があるだろうが、道なき道を運び込むのは途方もない人力がかかる。
「この濡れた森で、相当大きな炎を、それも長時間炊き続ける方法など…」
言ってから、口を止めた。あるのだ。
「炎の、精霊壁」
つぶやきに、ソレイユは頷き、言葉を受け取って続けた。
「岩の壁を立て土石流を防いだときのように。精霊の壁を打ち立てそれを燃料とすれば、あるいは」
「いや、炎の精霊サラマンダごときの力では、魔力に満ちた存在である古代種族を焼くことなどできない。望んで焼かれでもしない限り…」
自分で言って気づいた。フロスタ自身がその炎を受け入れれば。彼女自身が燃えることを望むのであれば、やがて、古老の肉体は炎を受け入れ、焼け落ちることになる。
ソレイユは、聖古老を炎で送るしかないと結論づけ、漁港でその方法を探しあぐねていた。そのときに出会った。そして、ユーカリの森を燃やした後、自分をここに連れてきた。
感情が、麻のように乱れた。
ソレイユの胸倉を掴みあがる。
「ソレイユ!…おまえはわかっていた。だから連れてきた。このために。やれ、と。あれを繰り返せ、というのか」
聖古老の森のエルフがソレイユに相談した内容は…黄金樹を殺す者をつれてくることだった。
エルフたちは既に何をなすべきかを知っていた。知っていてだれも実行はできなかった。
それは理解できる。どこの世界に、自らを育んでくれ心の柱そのものである親を、火で焼き殺せる者がいるのだろう。
彼らは知恵など必要としていなかった。欲していたのは、ただ、行動を行う者だった。彼らに代わって、手を汚してくれる者だった。
だれも、自ら死を与える罪を背負いたくはない。彼らは守護者でありたい。
エルフたちは、自分の痛みを少しでも軽くするために、他人に親殺し行為を押し付けようとしている。
ソレイユは否定も肯定もしなかった。それがなによりの答えだった。
「自分は破壊者となりたくない。それで超越者のような視点で人を試して。何様のつもりだ。これしかないとわかっていて、……っわかった上で!!」
「その意味を知る方だからこそ、そして痛みを知る方だからこそ、託したいと思ったのです」
この聖なる存在を。森の全ての母たる者を。殺すという行為を。悼める者に。
「ソレイユ。聖古老の護りたち。…おまえたちは、地上のだれよりも、傲慢で、残酷だ」
ソレイユから手を外す。たとえ最善の解答が分かっていても、様々な理由から、実行できないことのほうが多い。意思決定をし、それを行動に移すこと。結果として派生するその責を負うことこそが、至難なのだ。
ソレイユは、罵倒に一切反論せず、ただ悲しみを湛えた目で聖古老を見ている。
そうした決断をするのに、誰よりも苦しかったのは、ソレイユのほうだっただろう。自分でできれば良いと思ったのかもしれない。そして、肉親よりも濃い繋がりを持った大いなる存在と永遠に離別せねばならない聖古老の森のエルフたちが、誰よりも辛い。そう思い至ると、身がいたたまれなくなる。非礼を詫びた。
「聖古老の身に、触れても良いか…?」
そうエルフに言ってから、黄金樹の樹肌に、そっと触れる。それだけで、巨大なマナが流れ込んでくる。存在の力。命の力。癒しの力。森の力。
なんと瑞々しく、なんと健やかなことか。そしてそれが森から奪った力であることが、なんと、哀しいことか。
聖古老の身を抱きしめる。抱くといっても、両手を広げても、樹肌の一切れにもならない。ただ、聖古老の存在を感じる。その身に湛える精霊力を、受け止める。自分のマナを高め、黄金樹の果てしないマナと溶けこませる。
このマナは、森の、島の精霊力を吸って、醸されるものだ。
その巨大な力を提供し彼女を延命しつづける方法は見つからない。古代魔法王国時代に造られたという、無尽蔵に魔力を提供する装置でもない限り。
代替案が無い。
その非力さ、無力さが、悲しかった。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
……ごめんなさい…
嗚咽が止められなかった。
"妖精と人の子よ。嘆く可からず。長き友との別れは哀しからずや。而(しこう)して余は故郷に還る。これ、亦た愉しからずや"
黄金樹の記憶が流れ込んでくる。
妖精界。優しいそよ風が世界を撫でる。せせらぎに似た水の音がゆるやかに響き渡り、世界に存在する者をいたわる。
その妖精界で、精霊界より力を紡ぐ妖精たち。光り輝く種族。ハイ・エルフやハイ・ドワーフと呼ばれる、もはや物質界では目にすることのできない種族たち。他にもさまざまな種族が、自らの使命を今も果たし続けている。草原の力をつむぐグラスランナー。色を紡ぎ続け物質に形を届ける、色彩の妖精ヘイルダム。海の妖精マーマン。そして、火の妖精、風の妖精、水の妖精たち。世界における自らの役割を知っている彼らの姿は、誇らしげである。それを見守る黄金樹の、すべてを包み込むような慈愛。
フロレスタの魂は、故郷に戻る。フロレスタにとって、数千年を過ごした物質界は第二の故郷である。生き物たちや森妖精との別れは哀しいが、故郷に戻るのはまた歓びであるのだ。
"また、人の世より妖精界に至る道、皆無に非ず。余が子ら、真に余との再会を欲さば、復た来る道あらむ"
聖古老のその言は、驚きだった。
「フロレスタ。物質界に生を受けた者が、世界の境界を越え物質界から妖精界へ至る方法があるのか」
"異界への移動は神の望むところに非ず。然れど物質界より妖精界に戻りし古の妖精も、又有り。道至らば、即ち門あらむ"
物質界より妖精界に戻った妖精たちも居るという。
方法が無いわけではないのだ。
「門はあるのか。あるとすれば何処に」
"汝、何故に道を欲すか"
「…自分の手で焼いたユーカリの森を回復させたい。それから、今、私的な事情を言うのは適当ではないかもしれないが…わたしの故郷であるノミオル湖畔の森もまた、人の戦で焼失した。願いがある。わたしが妖精界に至れば、この物質界に正しき精霊の力を紡ぐ妖精の技を教えていただけないだろうか。私が焼いたこの島の森を、そして、焼かれた故郷の森を、自分の手で精霊の力を紡いで回復させたい」
それは大それた事だとは分かっていた。戸惑いながら言った返答に、フロレスタはしばらく考えるように間をおいてから、言った。
"故郷なき者よ。流離える子よ。其は前例無き行いなり。可や否や余に知る術無し。されど其れが汝が切なる望みなれば、試さんと約せむ。古代樹の亡骸に門あり。マエリムの森の地下の空洞は是なり。影の森が深部に妖精界への接点あり。影の森を通り来るべし。我が故郷にて会わむ"
ノミオル湖とクロスノー山脈の間には、マエリムの森が広がっている。紅葉の鮮やかな色づきから「朱の森」という異名がある。多くのエルフが住んでいる。
故郷のノミオル湖畔の森は、その朱の森から分岐した、ノミオルの妖魔たちを警戒し朱の森を守るために作られた集落だった。
一方、朱の森の地下には、巨大な洞窟が広がっている。「影の森」と呼ばれ、森のエルフからは隠匿されている。そこには、網目のように巨大なトンネルが地下に伸びている。古代樹の樹海が、溶岩に飲まれて焼き尽くされて生まれたものであると言われている。そこが黄金樹の母、古代種族である古代樹の墓所であるという。
フロレスタが微笑んだ気がした。
物質界の者が妖精界に赴き精霊の力を紡ぐ。前例は無くできるかどうかはわからない。しかし試してみよう。そうフロレスタは約束してくれた。
そして、聖古老を送還する準備に取り掛かった。
類焼を防ぐために、周囲の樹木を水の壁で覆う。ただ、どうしても聖古老に近く一緒に焼けてしまう木は、切り倒さざるをえない。倒した木は聖古老を焼く燃料として使用する。それもまた悲しみを伴う作業だった。
聖古老の体の中の空洞に、たいまつを準備する。そして、かつて彼女の体の一部であった、枯れた大量の枝葉をその中に持ち込む。
精霊の壁は、生き物や障害物が既にある場所に打ち立てることはできない。
そこで、フロレスタの身体の中の空洞に、炎の壁を立てることにする。そして、その中に枯れた枝葉をつぎ込む。炎の壁のサラマンダはかつての彼女の体を攻撃し、木は激しく燃え立つ。これを繰り返すうちに、炎はフロレスタの本体に移る。炎はフロレスタの身体そのものを燃料として、フロレスタを焼き送る。こうした手筈だ。
聖古老の護りのエルフたちは、最後の儀式として、聖古老に清めた水をかけ、詩を織り、歌い、祝福の言を唱え、別れを惜しんだ。エルフたちは一人一人、聖古老に触れ、抱き、これまで聖古老がもたらした恩恵に感謝を捧げた。
聖古老は、エルフたちが皆生まれたときからこの地にあったのだ。聖古老は彼らの母であり、神であり、自我そのものであった。
"霧の森、水の音リーン氏族の若木、ソレイユ・ファル・エル・ファルファレッロ・ファルメティオよ。余の肌に芽吹きし茶葉を取るがよい"
儀式の最中、フロレスタはソレイユにそう促した。
ソレイユは、黄金樹の樹皮の上に、茶を植えていた。
ソレイユはフロレスタを送還する方法を探すことを、聖古老の森のエルフより依頼されていた。そして、黄金樹を養分とした茶の栽培は、聖古老より提案された謝礼だった。ただでさえ弱っている聖古老の負担になるとソレイユは最初は辞退したが、少量ならばほとんど影響はないと諭された。ソレイユは有難く受け取ることとした。
それは、淡い金色の光を発している茶だった。
「折角茶葉が育ったのに、これはとても恐れ多くて飲めないですね」
丁重に礼を述べて茶葉を摘み取ってから、ソレイユはそう嘆息した。量は多くない。三、四人分程度だ。
そういえば、雨の島に茶を植えてきたと言っていたが。まさか聖古老に直接植えたものとは思わなかった。
「この上なく身体に良さそうな茶だな。寿命が延びたり若返ったりしそうだ。王や貴族の女が欲しがるだろう。奪いあう争いの種にはしないでくれ」
「今ここに、聖古老に誓って」
と、ソレイユはなんとも言えない笑いを浮かべた。
やがて準備は終わる。エルフたちは、儀式の具や衣装など、聖古老との想い出ある物品を持ってきて、聖古老の空洞の中に重ねた。一緒に焼き送るためだ。
「どうか、尊きあなたの生を、次代の命に受け継がさせたまえ」
そう願ってから、精霊後を詠唱する。
―― 炎の精霊よ。来たりて炎の壁となれ。その熱さを以って、母なる黄金樹を肉体から解き放つ助けとなれ。
松明から火蜥蜴が現れ、炎を吐いた。炎は壁となり、聖古老の体内を煌々と照らす。
壁に、積み上げられた聖古老の枯れ木を投入する。炎が壁から立ち上り大きくなる。
聖古老の中から出て、彼女の体を見上げる。
炎は、枯れ木から、徐々に聖古老の本体に移っていく。炎は聖古老の肉体を燃料にして燃える。しかし炎はなかなか大きくならない。くすぶり続ける。白い煙が立つ。
聖古老は、じっと耐えている。炎を受け入れるのも、苦痛なのだ。死は、この尊き生き物にも例外なく、苦しみなのである。
聖古老の痛みを偲び、エルフたちは悲痛に涙を流す。苦しみと悲しみの波動が森を包む。もっと魔力があれば。大いなる炎の魔人を呼び、偉大なる存在を長い時間苦しめずに送る力があれば。そう願うも、己の非力さは如何ともしがたい。黄金樹の痛みに、唇を噛んだ。
その時である。
「火蜥蜴の脚、炎の魔人の吐息、始原の巨人の憤怒の心…マナよ、破壊の炎となれ!」
古代語の詠唱が響いた。
炎の球が虚空に生まれ、聖古老の中の空洞に吸い込まれる。そして、爆発音。
炎が一気に燃え広がる。そして黄金樹は炎に包まれた。身を焦がすような熱が、閉ざされた森に広がる
ソレイユだった。
「お前、何で…」
驚きの目で見つめる。
「破壊の魔法。一生、用いることはないと思っていました。けれど、目が覚めました。この世界で人間と交わり生きるからには、エルフだけが、自分だけが、手を汚さずに無垢なままででいられることは、もはやありえない。誤ったもの、奪うものを止め、次代に本当に必要となるのであれば。忌まれた力を破壊に用いることも、時には是とせねばならないのでしょう…」
そうソレイユは、哀しげな目で述べた。
胸が詰まる。
「破壊が、破壊したものを補って余りあるその次代の生のためなのならば、それは汚れや穢れではない。陣痛だろう」
おそらく炎の火球の魔術の行使は、彼の価値観を崩すほどの覚悟が必要だったのだろう。エルフでありながら自らの変化に向き合ったソレイユに、尊敬の想いが溢れた。
「さようなら……さようなら……」
エルフたちの泣き声。
森を護るため、地を守るための、偉大なる存在との別離。
痛まずに嘆かずにいられる者など、ない。
エルフたちの嗚咽が、森に響く。彼らにとって、家族であり、父であり、母であり、自分たちを見守り続けてきた、神と等しきもの。
崇高なる魂が、今、この地を去ろうとしている。
悲しい。
悲しい。
悲しい……
雨が降り始めた。
水は燃える黄金樹の体に降り注ぐが、もはや勢いを増した炎は止められない。
ただ、エルフたちを慰めるように、雨が降り注ぐ。
雨は、降る。
宥め様のない、哀しみを。
救い様のない、弱さを。
限り様のない、やるせなさを。
雨は、唄うように、降る。
雨は、癒すように、降る……
森が泣いている。皆、泣いている。生けとし者、感情ある者、全て、泣いている。
常にこの偉大なる魂と共に在ったもの達。存在の全てを包み込んでくれていた大きな存在と、今、別れを告げる。
切ない波動。哀しみの精霊が森を覆う。
身体が磨り潰されそうな哀しみを、ただ、嗚咽と共に飲みこむ。
"友よ。子らよ。嘆くこと勿(なか)れ。悲しむこと勿れ。余はこれより、故郷に還る。灰となる余の体は永遠にこの森の一部として生きる"
産まれた時から彼と共にあったエルフ達ひとりひとり宥めるように、彼は別れを告げていた。胸が締め付けられるほどの慈愛だった。
ふと、森の地力の衰えは、聖古老が力を奪っていただけではなかったのではないかという気がした。聖古老はこの地を、島を、愛していた。そして、聖古老から生み出された娘、息子たる全ての樹木は、大いなる母に感謝していた。そして、自らが受ける妖精界から紡がれてきた力を、聖古老にささげていたのではないか。自らの意思で以って。
だからこそ、聖古老は、愛しき我が子たちに支えられねば存続できない、そのことに耐えられなくなったのではないか。
炎が黄金色に輝いている。あまりに荘厳で、美しい炎だ。
聖古老の身を焼く炎を通して、精霊界に呼びかける。一心に。
どうか、聖古老の炎が、森の再生の炎とならんことを。
祈り、願う。
わたしのマナなど、その揺らぎで吹き飛ばされてしまうような、小さな儚いものに過ぎないけれど。
いま、たとえこの一瞬でも、エルフ達の、森の、哀しみを受け止めたまえ。
古代樹を愛した全ての者達の願いを、受け取りたまえ。
どうか、受取り給え。
炎よ、再生の力となれ。
フェニックス。炎の精霊王よ。願いを聞き入れたまえ。
自分には精霊王に聞き届けさせる力はないけれど。その呼びかけ自体が、仮に健やかなる再生の力の一片となりうるのならば。
聖古老の慰めとなるならば。
願おう。
魂の底から、祈ろう…。
「あらゆる精霊を呼ぶことができる。哀しいのはちっとも答えてくれないのだが」
そういうことを冗談にしていた自分が、あまりに滑稽だった。
呼ぶだけなら誰でもできる。願うだけなら、誰でもできる。
この世の森を癒し育てた偉大なる黄金樹に、報いる力が、あまりに小さなものであるのが、ただ、哀しかった。
そのとき、すさまじい圧力の精霊語が轟いた。
"再生を司る大いなる炎の王、始源の巨人の希望の心を伝えるものよ…"
ブゥン…と。
空間が歪んだ。
おぉぉ!
空気がどよめき、歓声が上がる。
灼熱。炎の精霊力が膨張する。
そこに太陽が現れたような熱。皮膚を焦がすような熱さ。視界が一瞬、紅一色に染まる。
そして、天をつんざくような声。神経という神経がびりびりと痺れる。
世界が一瞬、開闢の軋みの声をあげたようだ。鼓膜が麻痺し、何が起こったのかわからない。
目の前にあるのは、炎の大鳥。ロック鳥のように巨大な。天まで覆わんとする、巨大な…大鳥。
全身を青白い炎に揺らめかせ明るく輝いている。長い数珠をつないだような尾。
フェニックス!
それは、聖古老が召喚した炎の精霊王だった。
皆の意思を感じ取り、物質界に存在する自分の黄金樹としての最後の力を振り絞って、この地に、召還したものだった。
自分の灰を糧として。森に再生の力を宿すために。
フェニックスの炎が、黄金樹を真紅に包む。すさまじい熱がその場を渦巻く。
フェニックスは叫び、天高く舞い上がった。
金色の灰が、森に降り注ぐ。きらきらと輝きながら。
灰は、大鳥の起こす風に舞い、森中に、島中に、降り注ぐ。
再生の力が、森に降り注ぐ
光の祝福のように。
唖然としてフェニックスを見上げていると、炎の大鳥は、ふと、燃え落ちる聖古老の肉体を見た。
"種の混ざりし流浪の子よ。余が枝を取るがよい"
聖古老が、最後の力で語りかけてくる。黄金の炎に包まれた聖古老の幹に、炎に負けずに輝く、小さな枝があった。
"そは余の在りし日の一部なり。そを持て、妖精界に来たれ。さすれば余は汝を導かん"
自分自身も燃えそうな灼熱の中で、その枝をつかむ。すると枝は手の中に納まり、淡い光を放った。自分の体の存在の力、マナが沸き立つような昂揚を覚えた。
"我が意思は偉大なる炎の王の力を持て果たされり。再生の力は、すべからく島を満たさん……"
そう聖古老は森に宣言する。
その声を受けて、もう一度、フェニックスは甲高く鳴き、森の上をぐるりと周回した。
と同時に、炎は天高く渦巻き、聖古老の肉体はすべて灰となって天に上がっていった。
精霊界へ去る瞬間。フェニックスはエルフたちを見回した。そして自分を見た。深い瞳。その中に一つの星界を抱え込んでいるような。その神秘的な瞳に、魂が吸い取られるような気がした。
"己が内のマナを高めよ"
そういって、炎の大鳥は去っていった。
へたりとその座りこむ。
「…あんな…あんな存在があるなんて……」
呆然と、偉大なる炎の精霊王が飛び立ち消えた空を眺めた。
聖古老の黄金の灰が、森に降り注いだ。
森は、一瞬、黄金の輝きに包まれた。再生の産声を上げるように。生けとし者すべてが、再生の祝福の歌を歌っているようだった。
やがて輝きも去り、森は静寂に包まれた。
雨は変わらず、降り注いでいた。
黄金樹の焼け跡。
そこには、一本の杉の苗木があった。もはや光り輝いてはいない。そこにあるのは普通の一本の樹だった。
黄金樹の魂は妖精界に還り、肉体は一本の幼木として、物質界に残されたのである。
エルフたちは、泣き咽んだ。
もはやそこには聖古老の魂はない。しかし、それは彼らが永遠に近い時を過ぎして森とともに生きていた命の記念碑であり、これからの友人であった。
聖古老の護りのエルフは、これからはこの幼木を護りながら、この深い森のなかで、変わらず、生きていくことになる。
希望は、黄金樹と森からの、贈り物だ。
希望を、ありがとう。
癒しを、ありがとう。
ありがとう……。
エルフたちの感謝の祈りが、雨とともに、森を潤した。
「ご苦労様でした。…大丈夫ですか」
へたり込んでいた自分にソレイユが声をかける。
「ソレイユ。腰が抜けた。立てない」
「あなたを助け起こすのは、何度目になるのでしょう…」
くすりと笑って、ソレイユは手を差し伸べた。
■■■ 船上にて
漁港から船が出航する。
船から眺めると、島が、雨を受けて、きらきらと光を反射している。
来たときから照葉樹林は美しかったが、今は再生の力を受けて、よりいっそう命の力で輝いているように見える。
これから、熾烈な生存競争を繰り広げていた森林は、豊かに、恵まれた穏やかなものとなるだろう。
焼かれたユーカリの森の痕は、すでに青々とした雑草を生やしていた。これから年月を掛けて、元の原生林に戻っていくのだろう。
「再生は、大いなる巨人の希望の心だと、聖古老は言ったな」
「フェニックスの召喚の呪文ですね。再生は希望。素敵な摂理です」
そうソレイユが嬉しそうに応え、遠ざかる雨の島を見つめて続ける。
「この聖古老の森、そして雨の島の森が持っていた哀しさは、この世界に普遍的な傷であるという気がします。奪わねば生きていけない。それは世界に生きとし者たちがすべて持つ、大きさや形こそ違えど、本質は同じ痛みの傷なのでしょう」
ソレイユの、世の真理を凝縮して結晶化させたかのような言葉が、心の琴線に響く。
「だからこそ、癒す、という行いは、幸いなるものなのだろう。人は、自分が生きていく中で奪ったものを少しでも補完できように、あるいは奪う行いの言い訳であるかのように、生み、育て、癒す。それは、所詮、ごまかしや悪あがきに過ぎないかもしれないけれども。多分、癒すという行い自体が、奪うしかない自らの、癒しとなる」
奪わねば生きていけない。それは誰も逃れられない原罪だ。その業と同じ痛みの傷を、大きかろうと小さかろうと、誰もが皆、有している。
だからこそ、癒すことが、最高の、癒しとなるのだ。
「ソレイユ。森を癒し、わたしが癒されるきっかけを与えてくれて、ありがとう…」
癒す機会を、癒される機会を。
与えてくださって、感謝します。
それを聞いて、人の世に慣れた霧の森のエルフは、花咲くように笑った。
雨は、降る。島に、降り注ぐ。
生けとし者たちすべてを包み込んで。
癒すように、いたわるように。
雨は、癒しのひかりとともに、降る。
(続く)
この作品の感想をお寄せください
名前
感想
パスワード(英数6桁以内)
記事番号:
パスワード:
パスワード: