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No. 00033
DATE: 1998/12/17 04:20:12
NAME: 犬頭巾
SUBJECT: 疑問
夜はその深さを増していく。
二番街のスラムの一角に、今は営業を停止した「小鬼の悪戯亭」という酒場がある。その裏手にある、地階へ続く薄汚れた階段を下りていったところに、そのカジノはあった。
上階と同じで、すでにつぶれた店である。内装は滅茶苦茶だ。壁の漆喰はところどころ、反り返って剥げてしまっている。遊戯盤であったらしい、大きなテーブルは半壊し、椅子はみな横倒しに倒れている。床には賭に使う胃様々な色のチップが散乱していた。
もっとも、今の時間、暗視能力を持つ妖精族でもなければこういった店内の様子を見通すことは無理だろう。
部屋の片隅に置かれた小型ランタンの光だけでは、その用を足すには到底事足りない。
腹に包帯を巻いた男が、そのおぼろな光に照らされていた。
「畜生っ。あいつらめ…」
口から、呪うような言葉が吐き出される。だが、その唇はすぐに歪んだ。
「痛ぇっ!! 痛えぞぉぉっ!」
包帯の下から、強く血がにじみ出している。
「くそ、やるか…」
彼は、苦痛に顔をしかめながら、脂汗の浮いた手を動かし、脇の地面をまさぐりはじめた。近くには、巾着袋が置かれていた。
やがて、濁った茶色の液体が入った小瓶を、震える手でとりあげた。
男の名はペキンバーといった。
昨今世間を騒がすドーマーという名の麻薬の密売に、彼は関わっていた。
だが、一昨日の晩、オランのはずれにある屋敷で、ペキンバーたち一味が取引を行おうとした時、冒険者の襲撃を受けたのだ。それはファークス以下、酒場きままに亭の常連である冒険者たちであった。
「犬頭巾」と名乗る乞食からの情報によって、その襲撃自体は予想されていた。だが、あの冒険者たちがあれほど手練れとはわからなかった。密売人のボスは屋敷から撤退、事実上ペキンバーたちの負けになろうとは、仲間内でも誰が予測できたか。
奴らに対する備えは万全だったというのに。
ペキンバーは取引現場での戦いのさ中、ハーフエルフリヴァースに重傷をおわされた。そして、屋敷が炎上してから、押し寄せてきた官憲たちから命からがら逃れ、この陋巷に身を隠すことにしたのである。
彼の当面の望みは、早く一味の所に戻ることであった。だが、仲間は散り散りになってしまい、それはたやすくできることとは思えない。
自分たち組織の当面の根城であった屋敷は燃えてしまった。新しいアジトはどこになるのか…
組織のボスの邸宅は把握しているが、彼は表向きは善良な資産家を装っているのだ。のこのこと顔を出しにいけるわけがなかった。
そこまで考えた時、何か面倒くさくなってきた。
「…フィ〜」
彼の右腕の血管には、針が突き刺さっていた。中に茶色の液体が透けて見える、ガラス製の小さな針は、彼の血管の脈動に合わせぷらぷらと揺れた。
彼の表情に変化が現れてきた。先ほどまでのような苦痛による歪みは消え、安堵したような、穏やかなものが見え始める。
幸せそうな心地。…そしてすぐに、明らかな快楽の表情に変わっていく。
「ウヘヘへェ…」
だらしなく口が開かれ、端からぼたぼたと涎が垂れ始める。肩が小刻みに痙攣し出した。両の腕は服を引き裂き、上半身の裸体をさらした。
舌を突き出してのばした。そして自分の腹の傷をうろんな目つきで見つめる。それを舐めたくて仕方かない、といった風だ。
「ちょ、ちょっと打(ぶ)ちすぎちまったかぁ。でも…へへへ、気持ちいいからいいかぁ」
彼はそう呟いた。痛みを止めて、眠れればそれでよかったのだが、しかし今の身体は眠りを欲してはいなかった。
ペキンバーは己の身体が恍惚を感じるにまかせた。
そして、小半時ほど立ったころ。ぼうっとする頭の中で、彼はコツコツという音を聞いた。
足音だ。誰かが、近づいてくる。
(…誰だぁ〜?)
そう思った。足音はどんどん大きくなる。彼は次に、声に出していった。
誰だ?
「アタシ、ですよ…」
暗闇の中でしゃがれた声が響く。そして、突如前方の暗闇に、眼窩のない犬の顔が姿を表した。
さすがの彼もどきりとした。
「な、なんだ!!」
「…アタシですよ、ペキンバーの旦那」
しかし一瞬のことだった。気付いた時には、犬の皮を頭にかぶった、見覚えのある乞食が暗がりの中にいた。
犬頭巾だった。
「おめえかっ。こなくそ、驚かしゃあがって…許しゃあしねえ…ぞ…う。う、うふっ」
語尾が快楽のために跳ね上げられた。いつもなら、この小汚い乞食が視界にいることだけで、彼にとっては不快だ。しかし、殴ってこの乞食を散らそうにも、今は身体を動かすことがおっくうだった。
「ずいぶんと心持ちよさそうな顔をしていますね、旦那?」
犬頭巾が言った。
「わはは、薬うってんだよ。たまんねえぜ。わが商売道具ながら、この味はすげえぇ…ポヘ〜」
「一体どのような塩梅で? どれぐらい気持ちよいですかね」
「あーん? チビっちまいそうな程、よ」
「成程…」
二人はしばらく押し黙った。ややあって、思い出したようにペキンバーは
口を開いた。
「そうだ、犬っころ、てめえに調べてもらうことがあるぜ! 一味の次の集合場所だ」
犬頭巾はゆっくりと答えた。
「早速依頼をいただけるので? 嬉しいことですねえ。…ですが、その前に聞いてほしいんことがあるんで。今日は少し、別件あって来たんでさ。旦那に頼みがあって」
ペキンバーは、別な用件と聞いて、一瞬間の抜けた声を出したがすぐに気色ばんだ。
「犬の分際で俺に頼み事だと! 身の程を…っ」
「ああ、怒らねえで下さいよ。ちょっと、二、三質問したいことがあるだけなんで」
犬頭巾は相手の言葉尻を制して言った。
「質問だァ? なんだ、いってみろ」
犬頭巾は深く礼のおじぎをした。そしてかすかな笑みを浮かべた後、口を開いた。
「旦那…ペキンバーの旦那は、いい身分でいらっしゃいますね。巨利を上げる麻薬組織の一員です。対して、このアタシと来たら、生ゴミを漁り犬並みの生活を送る、街乞食の一人。雲泥の差です」
そこで一旦言葉を切った。
「何が…うふ、いいてえ? あ?」
「旦那とアタシ、この違いはどこから来てんでしょう? 何故、こんなに生活が別なんですかね?」
辺りの寒々とした空気を、しばし沈黙が支配する。
やがてペキンバーは突如、それを破って笑いだした。
「わっはははは! こりゃおかしいぜ。犬の頭で疑問に思ったってわけか。
そんな、わかりきったことをよぉ」
犬頭巾はゆっくりと唇を動かした。
「わかりきって…いますかね?」
「おうよ。俺には実力があった。だから食いぶちにも、いい身分にもありつけた。おめえら落ちこぼれどもと違って」
犬頭巾は聞いて、言った。
「実力…確かに、アタシは無能かもしれやせんし、まともな仕事ができたかどうか自信はありやせん。しかし、はばかりながらアタシの仲間の中では、こいつは能力のある奴だ、と断言できる奴もたくさんおりやす。そいつらまでが食うや食わずの生活を送っているのは、何故なんでしょう?」
犬頭巾は、ペキンバーの不快そうな顔つきを見ながら言った。
「ペキンバーの旦那…旦那は、生まれが貴族のボンと聞いておりやす。子供の頃から旨いもん食べて、何不自由もなく生きてきなさったんでしょう…あんた様は己に実力があるとおっしゃったが、その実力ってえのは、そういう恵まれた環境があってはじめて発揮できたんじゃないですかね…実力が富と貧をわけるわけじゃねえですよ…」
それに実力発揮というが、この男は貴族から密売人になったのだ。堕ちている。
ペキンバーはしかし、なお笑いを浮かべた。
「ったく…へへへェ、このゾーキンどもはよぉ…そんなはっきりいってほしいか? そんじゃあいってやる、おめえと俺との違いをよ!」
彼は唾を飛ばして叫んだ。
「ツキだよぉ!! 俺はいつもついてたんだ。おめぇらと違ってな。この強運を単なる運と思うんじゃねえぞ、これは天からもらった、資格だぁ〜! 俺は大名生活を送り、てめえら乞食は道ばたで野垂れ死ぬ、こりゃあその資格があるかないかの違いなんでぇ!!」
ペキンバーは満面の笑みを浮かべて、かつて賭場であった廃屋の中を見渡した。
「俺は、人生という大ギャンブルおける、勝利者なんだよ! フハ、フハ、アハハハハハハハハ〜!!」
その時だった。犬頭巾がいつもと違う声を響かせたのは。
「なる程…よくわかりました」
そして、彼も笑っていた。
「旦那はやっぱり、よほどついている人のようです。クク…」
彼の背後の暗闇に、不気味に浮き上がる何人もの人影。
刃物のきらめき。凶暴な気配。ペキンバーも瞬間、笑いを止めた。
「頭が馬鹿ンんなってて、死ぬ時にも痛みを感じなくてすむとは…クク…本当…ついてますねぇ、旦那」
「まっ、まへ…待て!!」
ペキンバーは怯えきった目つきで、…己を取り囲む、十数人の乞食たちを見つめた。
「そろそろ覚悟きめたらどうなんです?」
犬頭巾が呟くようにいう。その方をにらんで、ペキンバーは唇をかんだ。
くそっ…こんな野郎の計画で。どうなってんだ…今まで、本当の犬ころのように従順だったはずだぜ。
その時ペキンバーの頭に、ある考えが浮かんだ。
手を乞食たちの方に突き出しながら、言う。
「おめえら! 落ち着け、俺を見逃してくれたら金をやるぞ! ボスにたのんで、たんまりだ!」
果たして効果はあったようだった。ゾンビのようにゆっくりと近づいてくる乞食たちの動きが、にわかに止まる。
「そ、そうだ…」安堵の表情。
そこへ、犬頭巾が進み出た。そして、一人から受け取った槍を、ピッとペキンバーの喉元に突きつけた。間を置いて、口を開く。
「みくびんじゃねえ。俺達は金で動いたりしねえんだ」。
…それは、まるきり棒読みのセリフだった。
一同が静まり返る。
「…一遍、いってみたかったんですよねぇ、こういうの。…へへへへ!」
槍を引っ込めた犬頭巾は、隣の乞食にそれを返しながら、言う。
「おい皆、信用できねえよ、この人のいうことは。第一、ボスなんかとは話したこともねえ下っ端だ。そんな言葉を信じるぐらいなら、事をすましてから身体をあらためた方がいい!」
その刹那には、動きの緩慢な乞食たちが雪崩をうってペキンバーに襲いかかった。麻薬づけの男の悲鳴が、飲まれていく。
醜い数の暴力。それが古びた部屋の壁際で、繰り広げられた。
犬頭巾は一人きびすを返して、歩き出した。
その僅かに覗いた口元には、傲然として凄みのある笑みが浮かんでいた。
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