No. 00053
DATE: 1999/01/19 03:29:56
NAME: ゼオライト
SUBJECT: 風の名は
「あ、旅の方もう行っちゃうんですか……?」
戸口で洗い物をしていた宿屋の娘が顔を上げた。見上げる先に、鎧を纏った騎士風の人物。彼は何も答える風でなく、しかしやんわりと少女の前で足を弛める。……そういう、無礼な物腰ではありえないのだ、この人物は。刹那、少女は狼狽しつつ目の前で息を潜める。正面きって見つめられるなどとは思っても見なかったからだ。
……仮面の奥の、表情は見えない。けれども、彼の瞳はしっかりと少女の視線を抑えた。威圧感……、そういうものでは、ない。ただ、少女を惹きつけてやまない優美さが、風が凪ぐかのようにその場に留まった。彼は、この少女との出会いをただ、祝福したかったのだ。優しい静寂が、少女の頬を撫でる……。
「あの……。もう、行っちゃうんだ……。」
名残惜しさよりはむしろ緊張感を含んだ、少女の声。まるで、やっと見つけた光る小魚を、逃すまいと、瞬きもせず追う様な……。
「遺跡の探索は終了した。次の町へ向かう。」
凛とした口調に穏やかそうな声色。重要事項のみを伝えてその声は止んだが、少女の次なる質問を律義にも待つかのように、彼のかすかな呼吸の音が未だそこに、居る。そして、やりきれない、少女の溜め息が一つ。……次の質問が来ない事を確認するように、彼は二呼吸置いて、再び歩みを始めた。
少し先に、彼の愛馬が、たおやかに頭をたれて主を待っている。
歩みを進める度、鎧から掛ける濃赤のマントがくすぶった。
「名前をまだ聞いてないのっ……!」
勇敢にも、少女なりの疑問文は、意外性を持って、もう一度彼の足を止めた。ゆっくりと、鎧の騎士は少女に振り返る。僅かに首が振れた様子が、彼の、静かなる微笑みを連想させる。少女は固唾を飲む。
「ゼオライト。」
少女の耳には、そう、届いた。風が、吹き抜ける音。
その方向を、仰いで……
やがて、彼は去った。よく晴れた冬の終わりの午前……。
風の、貫ける方向へ……