No. 00056
DATE: 1999/01/19 11:43:15
NAME: ゼオライト
SUBJECT: 憶の響は
通関の手続きをすますと、彼は虚空を仰いだ。
「しかしまた、御厄介な。どういった理由で、あなたのような身分の方が、あてもないような長旅を?」
官憲の呟きは不信感の物ではなく、純粋に当然の物であった。手続きから開放され、建物の外でしばし空を見上げる彼を、官憲は興味の目で見ていた。
返事が返っては来ぬ事に、官憲の男は頭を掻いた。
「……もったいないよなぁ。」
鈍いような不安感いっぱいにぼやいていると、別の関が奥から顔を出す。
「あの人、もう行くんですかね?お茶くらい飲んでいけばいいのに。」
何やら、愛馬とかいう雌馬の手入れを始める彼を尻目に、官達は好奇の色を隠さない。
「大層な鎧ですよね。重くないのかな……。」「さてな。預かりもので、脱げないんだとか。」「顔、見ました?」
「いや、一級通関証だ。三人の地方領主の署名がある。国王様のは印だけだが……。」
「身分のいい方なんですね。顔を見せなくてもいいんですか。」「ごちゃごちゃ言ってないで、仕事に戻らんか。」
「多分、次の旅人が通るまでに今日なんかは半日空きますよ、先輩。それより……」「なんだ。」
向こうの方で、彼が、森の老人と会話を始める様子を目で追いつつ、官憲達はそんな話題をつつみ隠さない。
「先輩。それより、なんで旅してるんでしょうね。暮らしに不自由なんかしてないんでしょ?」
「……探し物、とか言ってたかな。」
「はぁ。モノ、ですか。」「いや、人、なのかな?」「何でしょう?」
関の周囲には森が広がっていて、見通しが効かない為、森の一部を柵が走っている。森の民は自由を剥奪されつつも柵の内側に移動を強いられた……などといった住人の愚痴を、彼は聞いている様子だ。
「サリケ……、ってな。」
「……は?」「お前、聞いた事あるか?」「人の名前でしょうか。」「いや、わからん。」
「最近の名前じゃないですね。」「だろうなぁ……。」
「あの人、何歳なんでしょうね。証明書にはなかったんですか?」「ああ。一級通関に、歳の証明はいらんよ。ただ……」「ただ?」
「署名のあった貴族のうちの一人は、さっき調べたが既に故人だ。……何歳なんだろうな。」
向こうでは、老人のぼやきが終わったようだ。彼が振り向き、こちらに歩むのを目で追う。
「声は……。声は、どうでした?」「いや、若かったよ。」
言いつつも、暇をもてあます官憲達は、いそいそと職務の振りに戻った。
「桶と櫛を拝借した。感謝する。返したいのだが。」
その、声が届く。官は再び顔を上げ、目を見張る。新任らしき若い官憲には、図らずも緊張の色が走った。
「ああどうも。そこを右に行った納屋に……。ああいい、私がやりますよ。」
彼から桶と馬櫛を奪うように取り上げると、歳の行った官憲は納屋に足を向ける。中肉中背のもう一人の官憲は、一人残されたじろいだ。しかし、この期におよんで注意深く彼を観察する目を緩めない。
静かに納屋の方を向いている彼に、声を掛けられずにいるのだが。
戻ってくる年配の官憲を、身じろぎしつつ待つ。
その手前に、日の光を背に受けた彼が、静寂を抱えて立っている。間近で見ると、可成の趣向を凝らした鎧だという事が見て取れる。若い官憲は、日光を反射し、美しく光る鎧に目を細めつつ、僅かに刻まれた文字に心奪われた。
若い官憲は、わずかながら、古代語の知識があった。
「サリケ……。」
微かに、彼の首が振れた。
「その名を、知っているのか?」
凛とした口調に、上品な声色が響いた。思いがけない、彼からの言葉に、官憲は耳を疑った。
「い、いえ。あなたの鎧にそう刻んであるのが見えたんです。」
どこか言い訳がましく、官は両手を振った。
「あの、あなたの名とは違うんですか?」
短い否定が、彼から発せられる。
「違う。」
彼が、若い官に向き直ろうとしたとき、年配の官が立ち戻ってきた。焦燥の顔色を見せる。
「すみませんな。若い者が、無礼を……?」
もう一度、彼からの短い否定。
「いや違う。感心した。」
若い官憲は、うつむいたままその声に目を見開く。
「感心したのだ。見事であるな、賢者の国の関所に古代語を司る者が居ろうとは……」
続く彼の言葉を、舞い上がり口調の若年の官憲が遮る。
「あ、いえ、少しだけ習った事があっただけです。全然、本当は知らないんです。本当です。」
緊張に内容が支離滅裂になっていることも恥じずに官はまくしたてた。彼は、少し、微笑んだ。
「上位古代語を操る人間を、国境におくのか。勇敢な国であるな。」
仮面の奥では微笑んでいる様子の彼の、冗談交じりの誉め言葉に、上官は頬を緩めた。
「いえ、コイツは前の夏からの新任でして。御無礼がなくてよかった。……我が国では、結構居ますよ。」
若い官は緊張して俯いたままだ。上官は続ける。彼は、僅かに頷いた。
「我が国の誇りであります。知識神の加護が、あなたの上にも惜しみない事を……」
彼は、言葉を待って、きびすを返す。
「サリケは、私の名ではない。」
関をくぐりぬけ、馬にまたがる彼を、二人の官が見送りに追う。
「親切、感謝する。任務、御苦労であるな。」
馬上からの深く静かな声に官憲は仰ぐ。
「いえ、あなたこそご苦労であります。旅の方……。これからどちらへ?」
彼の愛馬が一歩一歩歩み出す。それにつられるように二人の官は横を歩いた。
「先に、首都に向かう。機会があれば、また見えよう。」
言葉が終わるなり、手綱が響き、馬は走り出した。
二人の官憲は、その様子を、関から少し離れた路上で見送った。
彼は、行った。
「おい、何をぐずぐずしている。仕事に戻らんか。」
「先輩。今日みたいな日は、次の旅人が通るまでに半日は空きますよ……って、先輩が教えてくれた事じゃありませんか。」
「半日だと?馬鹿を言え。俺は『二日来ない事もあるぞ』とは言ったが。」
「……先輩。暇ですね……。」
「はっはっはっ。のどかで良いじゃないか。」
「……先輩〜。」
冬も終わりの、ある昼下がりの出来事である。
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