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No. 00057
DATE: 1999/01/19 18:57:40
NAME: コルシュ・フェル
SUBJECT: 望郷(下)
「……50年近く前のことだそうです。長雨による土砂崩れでこの一帯が壊滅して……その集落は未だ当時のまま放置されているそうです」
ハイダルの言葉に、目の前が真っ白になった。頭部の血が下りて、一時的な貧血状態になったのだ。
私に……私には過去を偲ぶことすら許されていないのだろうか?
「いかがなさいますか?」
訊ねる彼の方が辛そうな顔をしていた。
その表情を見て、私は彼にかけさせている心配が普通の度合いでないことに気付いた。
「行くのはお止めになりますか?」
私は頭を振った。どのような状態であろうとも、私は見ておかなくてはならないような気がしたのだ。義務とかそういったものではなく、なんといか……成すべき事、のように思えたのだ。
ここで引いては、これから二度と事を成すことができない、とも思った。
なにより現実から目を背けないだけの強さが欲しかった。
「わかりました」
ハイダルが少し微笑んだ。その笑顔は、私の選択は間違っていなかったのだ、と実感させた。
「よしなに」
私たちは翌朝宿を出立し、ゆっくりと馬を進めた。
空は少し曇りがちだったが、雨は降りそうにはなかった。
宿で作ってもらった昼食を摂り、一休みする。私の体力は未だ長時間の旅に耐えられるほど回復していなかった。
「この分だと、今日中にはなんとか着けそうですね」
私はコクリと肯いた。
ふと。
嫌な風が頬を撫でた。
何かがいる。
私はハイダルの袖を引っ張った。
「はい?……!」
彼も気付いたようだ。
「コルシェローズ様、お任せください」
彼は傍らに置いてあった長槍を手に取った。
丁度その時である。
「おうおうおう、有金全部、置いていってもらおうかぁ」
噂の主が現れたのは。
見るからに悪党面した賊が6人。ハイダル一人には手に余る数だ。
「命だけは助けてやっからよぉ」
この手の言葉は信用しないに限る。
ハイダルが動いた。右手一本で支えた大槍を突き出す。
……速い。
一突きで一人の喉元を捉えた。
崩れ落ちる仲間を見て、他の面々が色めきだつ。
下卑た笑みが消え、それぞれの得物を持つ手に力が入る。
ハイダルは血糊の着いた大槍を構え直し、にやりと笑って相手を挑発した。自分一人に賊を引き付けるためだ。
私は何も出来ない自分がもどかしかった。
見ているだけしか出来ない自分が情けなかった。
5人相手にハイダルは善戦した。一歩も引かず、迫る刃全てを叩き落としていた。
しかし、さすがに疲労の色はかなり濃い。
思った以上の相手に、賊は戦法を変えてきた。
一人が、私を人質に取る為に戦列を離れたのだ。
「コルシェローズ様!!」
迫り来る賊に、私は覚悟を決めた。
(身体は刃。心は力。精霊の導きのままに!!)
剣の師から教えられた戦いの為の文句を心の中で唱える。
そうすると、乱れていた心がすうっと落ち着き、自分が何をするべきかわかった。
片腕がないことを気にし過ぎてはいけない。ただ、バランスが悪いことを考慮しなくてはいけないだけだ。
相手は油断しきっている。勝機は今しかない。
私は伸びてきた腕を副木で固定された左腕で払った。ほぼ同時に左足を一歩踏み出し、右足で地面を蹴って身体を相手の背面に回り込ませる。
激痛を堪えて左腕で頭を押さえつけ、そのまま押し倒さんとした。
相手が非凡な戦士ならば、そのまま逆らわずに倒れて、私の目論見は脆くも潰えていただろう。
幸い、相手にとっては不幸なことに、彼は凡才以下の戦士でしかなかった。
彼は左足と首に力を入れて耐えようとした。自然、首の右側面ががら空きになる。
私が万全な状態であったならば、ここに右手に持った短剣を突き立てていたところだが、あいにくと右腕はない。
私は残る一つの武器で−文字どおり−『噛み付いた』。
視界が一瞬にして真紅に染まり、左腕の抵抗感が消えた。
口腔に鉄の味……つまりは血の味が広がり、ゆるく開いた唇から唾液と共に溢れ落ちる。
その時、私の思考は完全に停止していた。
その男の首が転がっている不可思議さにも……喉笛を食いちぎっただけでは首は胴から離れないのだ……、鼻の入り口でべっとりとついた血糊が鼻提灯をつくっていることにも、私の異常さに気付いて賊が逃げ出したことにも、ハイダルが槍を捨てて駆け寄って来たことにも私は気付かなかった。
ただ、私に流れる血がひどく疼くのだけを感じていた。
走りだしたい、叫びたい、全ての筋肉を使いたい。
開放を求めて全身が震え始める。
「コルシェローズ様!?」
ハイダルの声も聞こえない。
「あ……あ…あ……」
せめぎ合う力にわずかに残っていた理性が消えようとしていた。
刹那。
「フェル!!」
それは魔法の言葉のように私の中の野性を消した。
ぼやけた視界の先にいたのは、確かに、確かにハイダルではなく、我が良人、フェディアンだった。
そして、私の意識は急速に落ちていった……。
……誰かが泣いている……膝を抱えて……
……私は……何の為に……?
「…ル?フェル?」
……誰……
「……フェル、君はまだそんなことを悩んでいるのかい?」
……そんなこと……
「人はね、他人の気持ちを理解することなんてできないのさ」
……でも……
「人はいつも独りだ。自分の世界から出ることはとても難しいんだよ」
……あなたも……
「ぼくは君を愛してる。それはぼくにとっては本当のことだ」
……愛して……?
「でもね。君がぼくを愛してくれているかどうかは君にしか解らない」
……私は……
「ふふふ。もしかしたら、ぼくの言ってることは嘘かもしれないよ。でもこれはぼくにしか解らない」
……だけど……
「だから、君は君の思うように、生きるんだ。少なくとも、僕らに縛られることはない」
……ぼく……ら?
「生きているものが一番だよ。思い出は、永遠であるが故に変わらない」
……変わらないもの……
「変わらないことは、進まないことでもあるんだよ。生きているなら、進まなくちゃ」
……何を……何をしたら……
「やりたいこと、やれないこと、できないこと、そんなものは屋根裏にでも放り込んでおくんだ」
……なら何を……
「『できること』から順番に、だよ。それが何かは君が探すんだ。それに、君の周りには君を心配してくれる人がたくさんいるじゃないか」
……うずくまる人影の側に、もう一人の影が立つ……
「……さま?母さま?」
……誰?顔が……よく見えない……
「あたしね、母さまみたいなお歌うたう人になるの」
……明るい声……どこかで……
「だってね、だってね、母さまのお歌を聴く人はね、みんなおんなじ気持ちになれるもの」
……同じ……気持ち……
「みんながおんなじ気持ちになれば、みんな幸せになれるもの」
……幸せ?……
「さびしくても、いっぱいつらくても、みんなおんなじだったらきっとだいじょうぶだもの」
……あなたは……誰?
「母さまのお歌聞いてるとね、あたしひとりぼっちじゃないって思えるの」
……あなたは……
「だからね、母さま。母さまもひとりぼっちじゃないのよ」
……そしてもう一人……
「立ちなさい」
……今度は…誰なの?
「あなたは、自分の言ったことを忘れるほど耄碌しているの?」
……何のことを……
「過去に苦しんでる人に、『人は生きてる限り仕切り直せる』だの、『悩むことが生きること』だの言ったのはあなたよ?」
……フェザーさんの……こと
「自分で出来ないなら、大きな口きかないことよ」
……あなたは……その資格があるというの?
「それはあなた次第よ。わたしはあなた、あなたはわたし。……さあ、立ちなさい」
夢を……見た。
懐かしい、とても懐かしい声が聞こえた。
私の最愛の人、フェディアン……私の娘、レスティアーノ……そして、いつからか聞こえなくなっていた私自身の声。
……ファークスさん、私の答えは間違っているのかもしれない。でも、見つけたような気がする。
『人の気持ちを一つにさせることができること』
詩人だけでなく、芸術家全てが目指すべきもの。
芸術家だけでない。人が目指すべきもの。
あなたの答えとは違うかもしれない。
間違っているかもしれない。これだけではないかもしれない。
きっとそうだ。ならば、探そう。
まだ答えはあるはずだ。
探しつづける限り、私は人でいられる。
まずは『やれること』
これを探さなくては。
歌えないことは悲しい。
でも、こんな身体になっても、私はきっと次にあなたに合う時、笑顔でいられる……
目が覚めた私は、(こればっかりは)ハイダルの手を借りずに近くの小川で全身の血糊を落とした。
私が意識を失っている間にハイダルが随分と拭いとってくれてはいたのだが、やはり一度身を清めておきたかったのだ。
「さて、行きましょうか」
ハイダルはいつもどおりの笑顔で私を促した。
故郷の現状は想像していたものとは異なっていた。歳月が、時間がただ破壊を司っているものでないことがわかった。それだけでも、収穫だ。
もちろん、私が過ごしていた頃の面影はまるでない。家屋の影すらもない。しかし、一面土砂で覆われているものと思っていたその場所は、疎らながらも木々が根付き、丈の短い草の茂る草原となっていた。
ここにあるのは死でも絶望でもなかった。転生と希望だった。
視界が滲んだ。
頬を伝う涙の温かさが、心地よかった。
「コルシェローズ様、これからいかがなさいますか?」
私の包帯を取り替えながら、ハイダルが訊ねてきた。
二つの故郷を訪ね、失っていた目標を取り戻すことが出来た。
ならば、今は帰ろう。
一時に多くのことが起き過ぎて、すこし疲れた。
左の指で苦労して「オラン」と書く。
左腕が回復したら、字の練習をしよう。
時間だけはたっぷりある。
「わかりました。私も行きます」
彼の腕を指で軽く叩く。
《村ヘ帰レ》
「そうはいきません。コルシェローズ様のお怪我を治すまでは帰れません。でないと、帰っても『老』に合わせる顔がありませんよ」
その後しばらくゆっくりとした押し問答が続いたが、結局、私には彼の決心を覆させることはできなかった。
〜完
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