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No. 00064
DATE: 1999/01/23 13:10:30
NAME: ルルゥ
SUBJECT: 三面の悪魔〜箱庭遊戯・前編〜
笑わない子供だった。
笑えない子供だった、と言った方が正しい。
いつも部屋の隅でうずくまり、じっとしていた。まるで、人の目に触れたくないとでもいうように。
両親とその家族は、子供を「いないもの」として扱った。目の前にいても、無視するのが普通だった。
使用人達は、子供を不満のはけ口にした。主に叱られた後、何かと理由をつけては子供を同じように叱りつけ、殴った。始めは泣き叫んでいた子供は、何年かすると、痛みを感じなくなった。
暴力を受けている間、子供はいつも、「もう一人の自分」が殴られ、虐げられている姿を、少し離れた所から見ていた。
解離現象。
耐え難い状況に追い込まれた時、人は自分を守るために、意識をシャットダウンする事がある。
一時のことであれば問題はない。が、子供はあまりにも頻繁に精神と肉体を痛めつけられすぎた。
逃避を繰り返すうちに、子供は完全に自分を切り離す術を覚えてしまった。何をされても、それは「自分」ではない「もう一人の自分」が受けている行為であり、「自分」は何も感じはしない。
「あれ」は痛みを感じないのさ。
だから、もっと痛めつけてもいいんだ。
殴られても声一つあげず、無表情に見返す子供が無気味だと、余計に殴られるようになった。
悪循環だった。
悲惨な状況が嫌ならば、逃げ出せばいい、と言う者がいる。
しかしすべからく、幼い子供にとって親というのはいわば創造主であり、世界の全てである。
虐げられても、否定されても、すがりつくしかなかった。
子供は親を愛せなかった。かといって、憎む事もできなかった。
冷たい視線をあびる度に、ただただ哀しみを覚えるしかなかった。
ある日、子供は雨の道を歩いていた。
子供は雨が好きだった。秋の冷たい雨は、人々を家の中へと追い払い、世界中に自分一人しかいないような感覚を与えてくれた。
みぃ。
小さな声に、子供は足を止めた。
みぃ。
もう一度聞こえた。声のしたあたりの茂みをかき分けると、黒い小さな塊があった。そっと触れると、柔らかな頼りない体を震わせた、小さな仔猫が顔をもたげた。
みすぼらしい仔猫だった。
濡れた毛は泥にまみれ、顔は目ヤニと鼻汁でぐしゃぐしゃだった。病気なのだろう、目には白い膜が張っていた。
子供はそっと、仔猫を抱き上げた。
みぃ。
か細い鳴き声をあげて、仔猫は子供の薄い胸にしがみついた。
子供は微笑んだ。
何年かぶりの、心からの笑顔だった。
家に仔猫を連れて帰ると、廊下で父親に見つかった。
黒い瞳が、子供とその腕の中にいる黒猫をねめつけた。
黒い猫は不幸を呼ぶ。
お前はこれこれ以上、災いの種をラオの家にまこうというのか!
大きな手で子供の腕から仔猫をもぎ取り、そのまま開け放した窓から、父親は仔猫を下に流れる川に捨てた。
子供は悲鳴をあげて、父親の胸を殴った。
初めての息子の反抗に、父親は驚いたように目を見開いた。
が、すぐに子供の細い腕をひねりあげ、使用人を呼んだ。
子供は涸れ井戸の中に閉じ込められた。
昔、この井戸に何人もの犯罪者が投げ込まれたと、村では語られていた。
中は完全な闇だった。
おぅおぅと風のうねりが、井戸の中では泣き声のように響く。
恐怖に身動きできない子供の指の上を、かさかさと何かが這った。
子供は手を振って「何か」を振り落とし、泣き叫びながら井戸の内壁を叩いた。
おそらくそれは、ただの虫だったのだろう。だが、恐怖で限界に達していた子供を、爆発させるには充分すぎた。
子供は泣きながら土を掘った。
そんな事をしても、この井戸から逃げられる訳はなかったが、逃げる努力をせずにはいられなかった。何かしなければ、気が狂いそうだった。
掘り進むうちに、血のにじみはじめた指先が、固い感触に触れた。
子供は一瞬手を止め、その感触を確かめる。
ゆっくり、ゆっくりと土を払い、それを掘り出した。
小さな青銅の箱。
それはずっしりと重く、固く、冷たかった。
子供は闇の中、手探りで蓋を開けようとしたが、溶接されているかのようにびくともしない。
ドクン・・・・・・。
手の中の箱が、脈打ったような気がした。
ドクン・・・・・・。
その時、薄く光が射した。
見上げると、井戸の蓋が開き、黒髪の青年の顔がのぞいた。
青年は子供の姿を確かめると、微笑んで縄梯子を下ろし、子供の元へやってきた。
(助けに来たよ)
青年は子供のてのひらに、そう指で書いた。
子供は無表情だった。
村で唯一・・・それはつまり、子供の世界で唯一・・・子供を思いやり、愛情を注ぐこの青年にも、子供は心を許さなかった。
いつかきっと、彼も自分を虐げる。他の人間と同じように。
子供はそう思っていた。
青年は子供を背負い、縄梯子を登って外に出た。
父親が子供を出そうとするのは、おそらく朝だろう。
それまで、どこか暖かいところで子供を眠らせてあげようと、青年は考えていた。
子供をおぶったまま、青年は村外れを歩いた。
冷たい風が吹いた。
何か聞こえた。
子供は青年の背から飛び降りた。
今のは人の声だった。そして、聞き覚えのある声だった。
青年が止めようとしたが、子供は道を外れて林の中に走った。
ひそやかな笑い声。
子供は足を止めた。
ねぇ、私をオランに連れ帰ってちょうだい。
追いついた青年が、子供の肩をつかんだ。
子供はぴくりとも動かない。
子供?・・・子供なんかどうでもいいわ。欲しくて産んだわけじゃない。
子供の目から、涙が一筋流れた。
そっと歩を進め、茂みをかきわける。
子供なんかいらない。リュシアンはラオの連中にくれてやる。
茂みの中では、男女がよりそっていた。
女が子供に気付き、夜叉のような表情を向けた。
何をしているの、こんなところで!
男の顔には見覚えがあった。絹を買い付けに毎年やってくる、商人の男だ。
女はまなじりをつりあげて、ヒステリックに叫んだ。
消えておしまい!!
・・・・・・ドクン。
子供は手の中の箱に視線を落とした。
呼んでいる。
何に、ともわからず、ただそう思った。
子供は箱を捧げ持ち、小さくつぶやいた。
「消えておしまい」
刹那。
箱の蓋がバクン!!と開いた。
女が悲鳴を上げる。箱の中から、何か黒い影が飛び出し、広がって女と男を飲み込んだ。
断末魔の叫びが、木々と草を揺らす。
形容し難い音と、血の匂いが辺りを満たした。
影はそのまま、青年に食らいついた。青年は目を見開いただけで、裂けた喉から悲鳴はあがらなかった。
子供はじっと、その光景を見ていた。
赤い唇の端が柔らかな微笑を作った。だが、その蒼い双眸からは、絶え間なく涙が流れている。
消えておしまい、何もかも。
子供は笑い声をあげた。
目の前で、ゆっくりと青年が起き上がる。血の気の失せた肌は、月光をあびて青白く光り、その目は赤く燃えている。
「!!」
ルルゥは目を覚ました。がばっと顔を上げると、目の前数センチのところに、ヒムの顔があった。
「わぁ!」
ルルゥはそのまま後ろにひっくりかえった。椅子が倒れて、派手な音を立てる。
「大丈夫ですか?」
リデルがルルゥの手をひいて、立たせてやった。ルルゥはあらためて周囲を見回す。
昼下がりの精神施療院。
そうだ、とルルゥは思い出した。
年の瀬がせまっているためか、神殿の仕事が忙しくて、ヒムの話を聞いているうちに眠ってしまったのだ。
「す、すみません・・・」
頭を下げるルルゥに、ヒムはいつも通りの笑顔を向けた。
「ルルゥ君も疲れているようですしね、今日はここまでにしておきましょうか。そろそろ患者さんも来る頃ですし」
残ったお茶を飲み込んで、ヒムは鼻眼鏡をかけ直した。
「院長先生、ユクナックさんがいらっしゃいましたよ」
「はいはい」
スタッフに声をかけられ、ヒムは書斎へ行ってしまった。
リデルが冷めたお茶を煎れ直している間、ルルゥはぼんやり窓から裏庭の花壇を見ていた。
(何か、夢を見ていたような気がする・・・)
「ルルゥさん、どうしたんですか?」
カップを差し出しながら、リデルが声をかけた。
「え・・・いえ」
それを受け取りながら、もう一度ルルゥは外を見た。
「良いお天気だな、と思って」
「・・・そうですか」
「こんにちはぁ〜」
ユクナックの明るい声と、ぱたぱたという足音が廊下を流れていった。
扉が開き、閉じる音が聞こえた後、再び静かになる。
二人は、日だまりでしばらくじっとしていた。
「今年も終わりですね」
ぽつりとリデルがつぶやいた。
みぃ。
足元にいたコットンが、小さな声で鳴いた。
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