No. 00086
DATE: 1999/02/06 12:16:15
NAME: ルルゥ
SUBJECT: 三面の悪魔〜箱庭遊戯・中編〜
もうじき新しい年が来る。
墓守はランプを点けると、外へ出た。
今年最後の見回りが終わったら、酒をひっかけて寝よう。
ささやかな楽しみを思い浮かべれば、墓地の寒さも気にならなかった。湿った霧は闇の中を青く漂い、ランプの明かりの周りをゆるやかに流れていく。
街中だという事もあって、魔物が屍体を食らいに来る事はほとんどない。が、やはり夜回りは緊張する。
がぁ。
夜だというのに、突然鴉の鳴き声がした。幾つもの羽音が、霧を裂いた。
不吉な予感に、曲がった背をこわばらせ、墓守はその場に立ちつくした。ふわ、と暖かな空気が、白い髭を揺らした。
墓守は小走りに、墓地を回った。ぐるりと一巡した所で、その足が止まる。
墓地の外れに、小さな墓碑が二つ並んでいる。
その、片方。
双子のように並んだ墓碑の一つの周りに、こんもりと土が盛り上がっている。おそるおそる近付いた墓守は、驚愕の叫びをあげた。
そこにはむき出しになった棺があり、汚れた底面をさらしている。
その中にあるべき遺骸は、なかった。
墓守はぶるぶると震えながら、考えた。このままでは、自分に責任がふりかかる。
急いでスコップを小屋から持ってくると、墓守は空の棺の蓋を閉め、その上に土をかぶせ直した。
カーン。
遠くで、新年を告げる鐘の音が、まるで葬送の鐘のように響きはじめた。
* ***********
いざや新しきあしたよ
心清らにともしび持て
新年一番のミサに行こうと、神殿に向かう信心深い人々の讃美歌が聞こえる。深夜のオランは晴れ、丸い月が明るい輝きを地上へ投げ落としていた。
我らは歌えり御母のために
我らは祈れりみどりごのために
無意識に讃美歌を口ずさんでいる事に気付き、エーリッヒは苦笑した。やはり身についた習性は、肩書きをなくしても消えないものか。
エーリッヒが聖騎士位をアノスへ返上したのは、つい先月の事だった。
「アノスの命令と、ファリスの啓示が矛盾した。私はファリスと自分の意志に従う」
そう言って、彼は騎士団を離れた。もちろん色々な揉め事はあっただろうが、エーリッヒは神殿と団長が呼ぶ中、アノスへ帰る気はまったくなかった。ずっとオランにいるつもりだった。ここには、大事な弟、息子のような存在がいる。
(まさか、自分に庇護欲があったとは)
エーリッヒは静かにファリス神殿への道を歩いた。
戦場で生まれ、当然のように傭兵になった。何度目かの戦いで敗れ、捕虜、そして剣闘士としてロマールに送られた。昨日酒を酌み交わした友と、明日戦わなければならない、そんな生活の中で心が荒んだ。
そこでアノスの貴族、オイゲン公爵に見出され、その部下になった。迷いはなかった。地獄から抜け出せるという希望と、そしてもう一つ。
(父さん)
結局一度もそう呼ばなかった。
ひとめで分かった。母がよく語った、父の面影そのままの男だった。
彼は知っていたのだろうか、自分が息子である事を?
それで、自分を引き取り、騎士の家に養子縁組し、部下として育てたのだろうか?
もはや確かめるすべはない。自分はアノスと、騎士団と、オイゲン公の私設間諜組織『法王の耳』と、その創設者であるオイゲン公と、袂を分けてしまったのだから。
深夜であるが、今日は特別な日。ファリス神殿には灯かりが点っている。
鐘つき塔の上に、ちらと動く人影が見える。あと少しで訪れる新年を知らせるために、鐘をつく役目の神官だろう。
エーリッヒはややためらって、神殿内に足を踏み入れた。
ルルゥは何処にいるのだろう?
遠くから、また讃美歌が響いてくる。冷えた廊下には人の気配はなく、それが何処からか流れる音を、異界からの呼び声のように思わせた。
ミサの準備で、このところルルゥは精神施療院にも、家の方にも帰っていなかった。泊まり込みで仕事はつらかろうと、エーリッヒは陣中見舞いに来たのだ。
(他人を想う事が、こんなにわずらわしく、楽しいとはな)
ふと浮かんだ笑みに、エーリッヒは今の自分にある「余裕」に気付いた。
宗教と政治の癒着。それにからむ裏切りと、影で行われるペテンの掛け合い。かつては、それが世界のすべてだった。
いつかアノスを離れようと、エーリッヒはそう思っていた。だがどうしても、父への思慕と、保身の欲求がそれを許さなかった。
かように荒んだ自分にまで、神の声を投げかけるファリスの真意をはかりかねた。神の意志など、人間には理解できないとあきらめ、人間と国家の命令にのみ従う事にした。それで良いのだと、納得していたつもりだった。
だが、今は。
ふとエーリッヒは足を止めた。
中庭を横切る渡り廊下から、花壇の端にうずくまる、小さな白い影が見えた。
エーリッヒは微笑んで、中庭へと出た。
「ルルゥ、何してる?」
驚かせないようにそっと声をかけると、相手はゆっくり振り向いた。蒼い目。いつもびっくりしたように見開かれている、大きな目。
初めて会った時には、ただの軟弱な子供だと思った。一見して、その中に潜んでいる「もの」を見極められる者は、そうそういないだろう。
この少年の中の激情は不安定で、予期せぬ形で発現するのだ。それが多重人格症からくるものだと知って、エーリッヒは奇妙に納得した。
ファリスの信徒たる「光」。
ファラリスの申し子である「闇」。
そして、そのさらに深層で身を潜めている「無」。
憐れだと思った。
光の神の神官が、その内に闇の神に通じる力を持ち、それがために異端審問会にかけられ、背につけられたファラリスの刻印を焼かれ……。
(だが、それもすべて養父マリウスのエゴからなる茶番のため)
考える度に、はらわたが煮え繰り返る。
マリウス・レーンが「リュシアン」を「ルルゥ」に仕立て上げようなどと企まねば、今ここにいる少年は普通の人生を歩めたはずなのに。
エーリッヒはそっと手をのばして、ルルゥの頭をなでた。ああ、自分はずっと、兄弟が欲しかったのかと思いながら。
「ミサが始まる前に、聖堂に行かなくてはならんのだろう?」
ルルゥは小さくうなずき、立ち上がった。その時、「あ」と小さな声がもれた。
「どうした?」
エーリッヒは怪訝な表情で声をかけた。
「血」
「血?」
どこか怪我でもしたのか、とエーリッヒはルルゥの顔を覗き込んだ。
目が合った。蒼い瞳。高く澄んだ、夜明け近くの西の空と同じ色。
小さな手が伸びて、エーリッヒの首筋に触れた。指の感触を冷たいと思った次の瞬間、熱い痛みがそこに走った。
「!!」
エーリッヒは首筋を押さえ、後ろに飛び退った。ルルゥは笑っている。柔らかな笑顔の中で、その双眸から涙が流れている。
細い指の間に、鋭く尖った陶器の破片があった。
天高きには神々に栄光
地には善き人の栄光あれ
押さえた傷口から、温かなものがあふれ、指の間を伝って流れる。
ルルゥがそっと袖口から、何かをとりだした。
それは青銅の箱だった。土で汚れ、錆が浮いている。
「アストラッハ、餌だよ」
涙を流しながら、少年は微笑んだ。カタカタと小さな箱が震え出し、遠くから鳴咽のような声が聞こえてきた。
(猫を……)
遠のく意識の中で、エーリッヒは思った。
(そうだ、猫を貰ってきてやろう。仔猫がいい、小さな猫が。きっとルルゥは可愛がって育てるだろう)
あわれみたまえ
あわれみたまえ
我らが父よ
我らが母よ
箱の蓋が開いた。
闇の奥で、小さな赤い、三つの点が輝いた。
************
きぃ……きぃ……。
人形を抱きしめたルチアは、じっと揺り椅子のきしみに耳を傾け、その動きに身をまかせていた。
暖炉に火はなく、窓の無い地下の部屋は冷えていたが、すでに人の身ではない少女は、寒さを感じなかった。
ふと。
奥の部屋から聞こえていた詠唱が止んだのに気付き、ルチアは立ち上がった。
人形を揺り椅子の上に置き、黒いショールの端を直して、足音も無くすべるように奥へと向かう。
重い鉄の扉を開けると、そこには巨大なファラリスの祭壇があった。
祭壇の前には魔法陣があり、その中心には長方形のプールが掘られている。
だが、そこに湛えられた水は血にも似た生臭い異臭を放ち、時に赤く、時に青く、様々に表面の色彩を変えている。
ちゃりちゃりちゃり……。
黒いローブに身を包んだ神官達が、巻き上げ機を回す音が響く。液体の表面が揺らぎ、底から鎖につながれた何かが浮き上がってきた。
ルチアは、じっとその様子を見守っている老人の横に立った。
ゆっくりと浮かび上がってきたのは、鉄の板だった。その上には、一人の少年が横たわっている。
濡れた金の髪が後ろに流れ、白く秀でた額があらわになっている。肌にはいくつもの上位古代語が刻まれ、それはさながら鎖が全身を縛めているかのようだった。
「あの朽ち果てた死骸が、こうなったの」
ルチアは満足げな笑みを浮かべ、少年に近付き、顔を寄せた。
二つの顔は、まるで鏡に映したかのように良く似ていた。
老人が、苦しげに咳込んだ。二人の神官が、水を持って来て老人の世話を始めた。
「お前の話を聞いた時は、信じられなかったが……なるほど、本当に、ルレタビュ・レーンは死んでおったのか……」
ルチアはにっこりと微笑んだ。そっと指を少年の頬に伸ばし、慈しむように愛撫する。
「綺麗ね……とっても綺麗なお人形さん。でもやっぱり魂までは戻らなかったのね」
「わしには無理だ、それに魂があってはデーモンとの融合に耐えられん」
「私は耐えたわ」
老人はしゃがれた笑い声をあげた。
「お前は逸材じゃよ、闇の娘」
神官達は少年の体を水で清め、黒く長い衣を着せた。その間、少年はまったく動かなかった。
「他はそうはいかん……どうしても≪定着≫するまで、時間がかかる……」
再び老人が咳込んだ。
「ルチアンナ……それを使って、早く……早く闇の御子を、わしの所へ……」
「わかっていてよ、エバラード」
ルチアは椅子に座らせられた少年の前に立ち、「起きなさい」と命じた。すると、少年の目がぱちりと開き、蒼い瞳が表れた。ルチアはそれを見て、満足げな微笑みを浮かべた。
「貴方はデーモニック・ゴーレム。でもそうは呼ばないわ、よくってねルルゥ……」
そっと少年の頭を胸に抱え、ころころと鈴を振るように笑うその様子は、まるでとびきり素敵な人形を手に入れた、無邪気な少女のそれだった。
「誰か鋏を持っていらっしゃい、この長い髪を切るのよ。それから白い服を持っておいで。黒はこの子に似合わない。そうそう、できる事ならファリスの聖印も下げるのよ。私の可愛いお人形さん!」
************
夜明け間近のオランの裏通りを、一人の男が歩いている。
足をひきずり、ふらつきながら、まるで亡霊のように男は歩いている。
長く伸びた黒髪が乱れ、肌は沈みかけた月の光で蝋のように青ざめ、その瞳は赤く輝いている。
その様子をうかがう人影があった。アノスへの巡礼の姿をした、三人の男女である。
「エーリッヒ卿……」
小柄な男が、苦しそうにうめいた。女が後ろを振り返り、もう一人の男に問い掛けた。
「どうするのクラウディオ?」
二人の視線を受け止めて、美しいハーフエルフの男は表情も変えずに、言った。
「このままにしておく。ただし目は離すな」
リーダーの言葉に、思わず二人は顔を見合わせた。
「よろしいのですか、邪神アストラッハの『指先』となった彼は、復活に必要な餌を集めてしまいますが」
「かまわん。私たちはファラリス信者の動きを探っていればいい。それが『法王院』の命令だ」
それに、と内心でクラウディオはつぶやいた。
実の息子が邪神復活の手助けをし、殺人を犯したとなれば、オイゲン公はただではすむまい。
視線の先では、男の背中が郊外の遺跡へと続く暗闇の中へ、消えていく。
「私はアノスへ報せを出す。お前達は後を追いなさい」
渋い顔をしながらも、小柄な男と女は同じように暗闇の中へ潜って行った。
『法王の耳』のリーダー、クラウディオはしばらくそこを動かなかった。
(オイゲン公、命運つきたか。だがこれは好機。『法王の耳』は、もっと大きくなれる。公爵の手を離れ国家のものとなる事ができる)
ふと視線を落とし、手のひらを見つめた。彼の人物と手を握り合い、共に歩もうと誓ったのは、もう何十年前の事だったろうか……?
(あるいは先手を打ったオイゲン公が、私を倒すかもしれない。さもなくば、アルダシール……彼女が私を止めるだろうか?愛する男の復讐のために、私を殺しに来るだろうか……?)
風が吹き、マントのすそが翻ったかと思うと、次の瞬間、そこにはもうクラウディオの姿はなかった。