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No. 00094
DATE: 1999/02/09 12:19:21
NAME: ルルゥ
SUBJECT: 三面の悪魔〜箱庭遊戯・後編〜
からから、からから……。
音がする。
あれは、何の音だろう?
聞き覚えがあるのに、思い出せない……。
からから、からから、から…………。
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「はぁ〜」
ユクナックは清新施療院の前で、ため息をついた。手には写本と、羊皮紙の束を抱えている。目の下には立派なクマが出来ていた。
ここ数週間の間、学業が忙しいあまり翻訳のバイトの事が頭からすっぽり抜け、期限が明日に迫っていた昨日一晩で訳し終えたのだ。
もちろん、かなり内容があやしい……。
またあの「にこやか」な笑みを浮かべたままで、添削されるのかと思うと胃が痛くなった。いっそ間違いを怒ってくれたほうが、ずっとマシだ。
「こんにちはぁ〜」
玄関を抜け、廊下を通って書斎へ向かう。書斎の重い木の扉が、今日はいっそう重たく感じられた。
「先生、訳文持ってきまし……あれぇ?」
ユクナックは拍子抜けした。ヒムがいない。
診察中なのかな、と思いながら、書斎の椅子に腰掛ける。その時、部屋の隅に何か見慣れない物がある事に気がついた。
それは箱庭だった。一抱えもある大きな木箱の中に、ミニチュアの家や森、花壇などがある。家の前には、おそらく家族なのだろう、男女の人形が輪を描くように配置されている。
その輪から離れ、木々を隔てた平地にひとつ。ぽつんと男の子らしき人形が置かれていた。
「おや」
ふいに後ろから声が聞こえた。いつの間にかヒムが書斎に入ってきている。
「あ、こんにちは先生。あのぉ、これ何ですか?」
ユクナックは箱庭を指差した。ヒムは「ああ」と答えた。
「箱庭ですよ、とある患者さんが造ったやつですね」
「患者さんが? あ、もしかして治療の一環ですか?」
「そんなところですね」
ヒムはいつもと変わらぬ笑みを浮かべて、ユクナックの向かいに腰掛けた。
「ところでユクナック君」
「は、はい。これ、翻訳したやつです!」
ずい、と差し出された羊皮紙の束を受け取りながら、ヒムは微笑んだ。
「いえいえ、聞きたいことがあるんですよ。君の故郷のムディールに伝わる魔神のことで」
「アストラッハ……ですか?」
ヒムはうなずいた。
「前にもお話しましたけど、あたしも良く知らないんです。今はもう信仰されてませんし……」
アストラッハ。戦いの神。ルルゥ、いやリュシアンの人格のひとつである<無>が口にした名前。
それは三面六臂の魔神であり、それぞれ「慈悲」「憤怒」「嘆き」の表情を浮かべている。
己の慈愛を踏みにじり、悪行を重ねる人間に怒り、争いを起こしてその事を嘆く。それがユクナックの知っている言い伝えだった。
書物にもまた、味方には様々な加護と恩恵を与え、その一方で敵は皆殺しにする残忍な存在だとある。
『慈悲の光もて自軍の兵(つわもの)に力与え、憤怒の炎もて敵軍焼き払い、争い終わりてのち、滅ぼされたるものを思いて嘆き悲しみ、その姿戦場より消ゆ。』
これだけが、アストラッハと呼ばれるものに対する記述である。
どうやら、それが本当に神であるのかすらも不明のようだった。あるいは魔物である、またはかつて起こった戦争で活躍した英雄が、神格化され土着の神になったのでは、ともいわれている。
「確認したいのですが、決して邪悪な神ではないのですね?」
「ええ、そんな風には聞いてません……あの、リュシアン……君、あれからどうしました?」
「それが出てきてくれないのですよ。困りましたねぇ」
微笑みながらこういう台詞を言うので、「ほんとに困ってるのかなー?」とユクナックはいつも疑問を感じる。
「さて」
ぎく。
ヒムが訳文に目を通し始めたのを見て、ユクナックはたらたらと冷汗をかきはじめた。
「……おやおや、これはまた」
「あ、あははははは〜」
書斎には、いつも通りの空気が戻ってきていた。
箱庭の中では、家族の団欒から外れた少年が一人、はるか彼方を一人きりで見つめている。
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からから、からから……。
耳障りな音がする。
何て空虚な、乾いた音だ。
頭が痛い……いらいらする!
から、からから、からからから……。
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夢を見た。悪夢だった。
真っ暗なところを必死で歩いている。何処へ行こうとしているのかは、わからない。
すると突然足元ががらりと崩れ、ぱっくりと開いた崖のはしに、ぶら下がる格好になってしまう。
だがすぐに、崖の上から誰かが手を伸ばして、腕をつかんでくれる。
『誰か』はいつも違う。ガルドさんだったり、ヒム先生だったり、父様や母様だったり、ユーシスさん、リデルさん、セシーリカさん、レツさん、カールさん、ガーディンさん……いつも違う。
でも、起こることは一緒だった。僕が安心して、上にあがろうとすると、『誰か』はにやりと邪悪な笑みを浮かべて、僕の手を放してしまう。
僕は、楽しそうな『誰か』の笑顔を見ながら、死の恐怖よりも、裏切られた絶望に苛まれながら、叫び声もあげられずに、落ちて行く…………。
「……」
朝か、と<闇>は唇だけでつぶやいた。清潔なシーツの上で寝返りをうち、忍び込んでくる香の匂いに眉をひそめる。
<光>はまだ「眠って」いるようだ。もしかすると、まだ先ほど見た悪夢を反芻しているのかもしれない。
以前は気にせずとも<光>の記憶や思考を読めた<闇>であったが、近頃では相手の考えが読めないことが多くなった。
悪夢にしても、一時は自分が表層心理へ出たいがために、<光>を内側からつついて見せていたのに、今は自分までが見る側に回っている。
とはいえ、それで<闇>が恐怖をおぼえる事はなかった。
むしろ、そのような不快な夢を見せる「何か」に対する怒りと闘争心が、ふつふつと沸き上がるばかりだった。
「君は戦うための、立ち向かうための人格ですから」
ヒムの言葉を思い出し、<闇>はフンと鼻を鳴らした。
言われなくとも、自覚はあった。<光>にはない闘争心と、激昂、敵というものの認知。そういったものは、一手に自分が引き受けているのだ。
目を閉じて、<闇>はじっと集中する。他の二つの人格である、<光>と<無>を探ってみる。
<光>は苦しんでいた。やはり悪夢がまだ見えるのか。それともさらなる悪夢を見せられているのか。
一方、<無>は相変わらず沈黙している。主人格。「リュシアン・ラオ」の記憶を持つ、<光>と<闇>を生み出した人格。
(私たちの声は聞こえているのか?)
呼びかけてみても、返答はない。<闇>は目を開けると、舌打ちをひとつした。嫌な予感がする。何か企んでいるのだろうか……?
<闇>は考えることを止め、毛布にくるまり、もう一度眠ることにした。朝は嫌いだった。
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からから、からから……。
宴が始まる……滅びの宴が。
宴にはゲームがつきものだから、アストラッハのために面白い遊びを用意してあげるよ。
そう、駒ならいくらでもいるからね……。
から、から、からららら……。
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蛾が一羽、ぱさぱさと羽音をたてて、ランプの周囲を飛んでいる。時折その体が覆いに当り、かつんと小さな音をたてた。
ヒムは箱庭を前に、じっと考え事をしていた。
昼間ユクナックが見た箱庭。それはリデルが作ったものだった。ヒムはその中の、遠くで家を見ようともせずに、ひとり立ちすくむ少年の人形に、言いようの無いリデルの孤独と、他者を求める渇望のジレンマを感じた。
そして、もう一つ。
小さな木箱が、ヒムの膝の上にある。それもやはり箱庭で、こちらはルルゥが作ったものだ。
几帳面に整えられた、美しく暖かな自然の風景の中に、人間はいなかった。
ヒムはため息ともとれる微かな息を吐いて、その箱に蓋をした。
人間のいない風景。
あの少年は、そこに何を求め、一体何を待ち望んでいるのだろうか?
かつん。
灯に誘われた哀れな蛾が、ついに力尽きて机の上に落ちた。わずかに羽を震わせ息絶えていくその姿は、悦楽の絶頂を噛み締めているようにも見えた。
灯かりに魅入られたこの蛾のように。
何故ヒトは狂気に誘われるのだろうか。
自分では到達し得ない領域に、心動かされるためなのか?
それとも心の何処かで気付いているのだろうか。自分達の中にも、それが潜んでいることに。
ヒムは金鎖のついた鼻眼鏡を外すと、左目のうえに細い指を当てた。
そしてそのまま、静かな思索の海に沈んでいった。
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