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No. 00105
DATE: 1999/02/19 00:51:37
NAME: ギャリソン・エチゼン
SUBJECT: ザ・ビースト(前編)
革靴のスリットにダガーを差込み、胴金石の入った袋を腰にまく。そして丸めたテントが縛り付けられている背嚢を背負った。入っているのは少しばかりの食料、だが多すぎはしねえ。なるたけ身軽であるためだ。
まだ用意することがあった。髭はそらねえ、それ以外に。胸ポケットの片方に酒瓶をねじこみ、もう一方に俺の好きな菓子を入れた。 緊張をほぐすものだ。熊を殺しにいくときに持っていくものとしても、これは許される。
熊を、エストンを殺す。そう考えた時、頭のてっぺんからつま先に向けて何かが駆け抜けた。俺は身震いをした。 わきおこる激情を、なんとか、抑え付ける。だが奴にやられた頬の傷、ケロイドとなった部分に手をやると、そこは火傷しそうな程熱をもちはじめていた。
その朝も寒かった。俺は澄んで張りつめた空気の中を独りで歩き、北門を出た。そしてゆっくりとオランから遠ざかっていった。
エストンというのは山の主の、大熊の名だ。俺がつけた。奴のすみかはエストン山脈に列する山で、あそこで最強の力を持つ生物に、この名はふさわしい。
俺は長年奴を殺すことへの魅力にとりつかれていた。それがかなえば、実に多くのものが俺の手に入るからだ。
…一度戦い、敗北した。
負わされた傷の敵討ちという意味がくわわってから、俺はより強い妄執をもってエストンを追っている。
十中八九、返り討ちにあうと分かっているが、俺はあの化け物と再戦しなくちゃあならねえ。
いかに奴が強いかを、知っている奴はすくない。
「熊とはね」「たかが熊だろ」
パダの酒場にいた冒険者はそういって肩をすくめた。
そいつは、同じエストン山脈のどこかで、仲間と一緒にキマイラというモンスターを倒したことがあると自慢した。キマイラってのァ、火を吹き魔法を使う魔獣だそうだ。
明らかに俺の話に当てつけて言っていた。「何なら仇をとってきてやるぜ」そいつは俺の傷をさし、皮肉げに笑ってつけくわえた。
俺はこんな馬鹿に何をいってもムダだと感じ、何も言わずに酒を飲んだ。
エストンに挑むということは、山に挑むということだ。奴はあの厳寒の山の寵児で、そこにある全てを支配している。森も川も谷も動物も、全て奴のフィールドであり仲間だ。奴はその中に交わって自由に動く。いやそいつらを自由に動かす力を持っている。
剣を振り回すだけの馬鹿が、山に、エストンに挑むなどお笑いぐさだ。奴と同じで山を自由にできる存在だけが、奴を死に際に立たせられるんだ。
ドルチ村から目指す山の麓まではあと少しだ。おれはこの最後の人里に立ち寄り、飯を食っていた。今思えば失策だったが。
「おっさん! ギャリソンのおっさんじゃねーの!?」
俺はスープをかき回す手を止め、顔をしかめながら振り返った。耳にうるさいこの声は、紛れもなくトナティウのガキのものだった。
なんでこんなとこにいやがるのか、聞いてみると、なんでも頭を冷やしたいから山の滝に打たれにいくところらしい。…この馬鹿ヤローが。
以前こいつを猟に連れていってやる約束をしていた。ここで、熊退治のことを話すと、必ずついてくると言い出す確信があり、それはまったくご免だった。
…だが、隠しきれるもんでもねえ。
「えーっ、熊退治!? おっさん、俺も連れてけー!」
トナのガキは、そうだな、三十ぺんほどこういって、俺も同じだけつっぱねたと思う。
だがずっと後ろについてきて繰り返すこいつに、結局根負けするしかなかった。
「仕方ねえ。まず、そのナリを何とかしやがれ。半袖ってのは山をナメる以前の問題だからな」
近くの仕立て屋に走らせたが、長袖に変えてきただけだったので、一発こづいた。
俺達は村をあとにした。
山に近づくにつれ、寒さは厳しさを増していく。
だが反して頬の傷は熱くなるばかりだ。ただれきって発汗作用の失われた皮膚は、俺の心情を映して火のように赤熱する。
「まだつかんの? 俺、歩きに慣れてないからよー、やっぱきついな!」
トナティウは絶えず何かいってたが、ほとんど応えなかった。
俺はエストンを殺さずにいられない。
奴は、戦いに破れた俺を食わなかったばかりか、雑菌のついたツメで顔を一掻きし、敗北の烙印をつけて帰らせることをした。この傷がその時の無念を忘れさせねえ。
いや、本当に屈辱だったのは。
…本当に屈辱だったのは、傷をつけられたことじゃなかった。殺さずに、生きながらえさせられたことだ。こんなことは山の生き物のルールから外れている。奴に俺を山に棲むものと認めなかった。俺にとっちゃこの上ない恥だ。
奴に代わってあの山を支配するのが俺の夢だった。長年ハンターをやってて、いつか思うようになった。俺は山の主になりたかったんだ。
その俺が、こんな恥ずかしいヤロウにされてしまった。許せねえ。
遠くに、俺の慣れ親しんだ山の稜線が見えている。
そういえば、トナティウに俺の気持ちは話した。俺は振り向く。このガキはあくびをしながら、何の緊張もない様子だ。
だがこいつ、その時何かいってたな。エストンが俺を殺さなかったのは、死への欲望。
俺が再び殺しに来るのを、奴は待ってるんだと。
は、馬鹿くせぇ。あれはなぐさめたつもりだったのかよ?
トナがごねるので、俺はしょうがなく小休止してやった。このガキめ、話していないと生きられねえのか。俺の山での生活を聞いたり、自分がいた海のことをよくしゃべった。
船を出しての猟は孤独にやるものではないらしい。
「よし、ここからだぜ…」
ついにエストン山脈の裾野、俺のよく知る森の入り口までやってきた。トナティウもにわかに姿をあらわした樹海を見渡して、しきりにすげえだのなんだの、言っていた。
…だが俺は聞いてなかった。俺の聴覚は別のものをとらえていたからだ。
はじめて感じる、奇妙な感覚だった。
俺は精霊の声などきこえねえ。だが、その時、確かに聞こえた。くりかえしくりかえし。あれは思い返しても、精霊とか、木々の声だったのだろう。
(何しにきた、負け犬)
(クスクスクス)
(もう山の生き物やめたんでしょ? バカギャリソン)
(というより、資格ないよね)
(みっともないったら。戻ってこないで)
俺は揶揄の声に囲まれていた。精霊たちの…。
確かに。俺は決戦のあともおめおめ生き延びた。それだけじゃなく、街に戻って、この…トナティウやバルダッシュたちと会い、生ぬるい人間の生活に時間をつぶしてしまった。
お前らがそういうのもわかるさ。だが、それも今日までだ。
トナに声をかけずに、一歩を踏み出した。精霊の声にひるまずに、前へ前へと進む。
待っていろ。エストンの、主の首を見せてやる。
お前ら全員、俺の足元にかしずかせてやらァ…!
(続く)
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