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No. 00106
DATE: 1999/02/20 00:41:36
NAME: ギャリソン・エチゼン
SUBJECT: ザ・ビースト(中編)
(ここで使われている特殊用語や度量衡の単位などが一部swの世界観にそぐわないものがあると思いますが、どうかご容赦下さい)
空気が違うと思った。その違いに気づくほど、俺はここから離れすぎていたと感じ、改めて後悔がある。
山の匂いをゆっくり嗅ぐこともせず、俺たちは山を登り始めた。
すぐ左手が切り立つ断崖になっている、楡の木ばかりの森の中を歩いた。山頂へ向かう最短距離だ。
「うひーっ! さみいぃぃぃぃ…」
トナティウが白い息を吐きながら言う。奴はドルチで、一番ぶ厚い防寒着を買っていて、その毛皮は頬の入れ墨まで隠すほどすっぽりと全体を覆っていたが、それでも耐え難いらしい。身を両手で抱えることにようにして、ガチガチやっている。
俺はクロスボウで肩を叩きながら忠告した。
「登ってる時ァ少し黙っとけ。余計なエネルギーを使ってたんじゃもたねえぞ」
周囲の土に、白いものが混ざり始めている。
奴の住処は標高五千米にも及ぶ山の頂上近辺、狩り人たちにも冒されがたい聖域に存在する。あのブリザードの中、雪に転がされた俺の目は、巨大な岩棚や辺りの地形を鮮明に記憶している。間違いねえ、あそこは奴の家だったんだ。
「あそこに行けば必ず奴はいる」
トナに聞かれて、そう説明した。自分に言い聞かせる意味が大きかったかもしれねえが。
そこに至るまで道のりも俺のよく知るところだ。
俺たちは雪化粧にまみれたブッシュの中をまっすぐ進んでいった。
「おい…おっさん!」
だしぬけに、トナティウが後ろから緊張した声をかけてきた。
「あっ…あれ! アレ!」
指さすほうを見ると、木々が開いたところの小高い丘から一・五米はありそうな大型のイノシシが、こちらを睨めつけていた。
「イノシシか。…襲ってくる気配もねえから、ほれ、行くぞ」
「だ、大丈夫なのか!? じ〜っと、みてんよ! こっち!」
そのイノシシは、まんじりともせずこちらをうかがっている。トナティウは緊張したままだ。
俺はわかっていた。多分俺らが立ち去れば、奴も巣に帰るだろう。イノシシが立ち止まる場合は半ばこっちにおびえているってことだ。
だが、俺はそいつの姿を見つめ続けているうち、ふいにある思いがよぎった。
こいつもエストンの手下だ…もしかしたら、俺たちのことを偵察にきてるんじゃねえのか? あるいは、使者か? 何かを告げにきたのかもしれねえ。何か俺の気に触るようなことを。
…使者を斬って、敵意を証すのは常套手段だ。
俺は瞬時に肩からクロスボウを外し、すでに巻き上げている矢を放つトリガーを引いた。
どぶっという鈍い音。
狙い違わず、矢は奴の眉間に深々と刺さった。
火の爆ぜる音は心を落ち着かせる。
下は濡れていたが、近くに火床に適したとねりこの生木があったので、全く問題なかった。炎のまわりを串に刺された肉がずらりと囲んでいた。じゅうじゅうと音を立てながら油をたらしている。
「なんだもう食わねえのか?」
俺は肉を噛みちぎりながら、後ろで青い顔しているガキに声をかけた。
「おれ、あんま腹スいてねっから。」
という返事だ。
まぁ、胃がしめつけられる程歩き疲れた上、初めて獲物の解体を見せられた反応としちゃ、ましな方だ。普通の人間ならげえげえやっているだろう。
トナティウは海に出て漁をしていたらしいが、魚の死体と畜生のそれとじゃ、「全然違った印象」のはずだ。このガキはタフだと俺は感じた。
狩人の素質はあるかもな…。
だがこの晩、こいつは何も言わなかった。果たして眠ったのかも、俺はしらねぇ。
俺たちは谷や小川を通り過ぎ、森を歩いて頂上を目指した。
かなり歩いたと思う。五合目、六合目…。
寒さはいよいよ厳しくなり、ある点から風に氷つぶてが混じりはじめた。これからさらに吹雪いてくることだろう。水をみかけることがなくなった。氷と雪が一面を支配しだす。
「喉が乾いた」とトナティウが、辺りの雪を口にしようとしてふらふらとしゃがんだ。
「馬鹿野郎、めしまで待て」
俺はその身体を抱き留めた。雪を溶かさずにそのまま食べると、これは多大にエネルギーを消耗する。
ふとトナの唇を見ると、紫色になってひび割れ、血が出ている。
ち。これだから鍛えられてないやろうは…。
「おい、俺はガキの世話をしにきたんじゃねえんだぞ。お前がついてこれないなら、ここに置いていく」
「ひどいぜおっさん…」
トナは弱々しく笑った。そして自分で立って、歩き出した。
「熊を倒すとこ、ぜってー、見てやる」
だが後ろ姿に力はない。
無理もねえな。
寒さだけじゃねえ。熟練の木こりでも根を上げる、ハンターと獣しか通らねえ道を通ってきたんだ。道なき道をだ。疲労は相当のものだろう。
トナの限界が近い、と俺は思った。
その晩はブリザードが吹き荒れた。
今夜のビバーク(宿営)は、雪洞を作ることにした。寒さをしのぐのにも最適だ。
ドーム状に作った天井は、熱の対流をつくり中の空間全体を暖める。
トナティウは寝袋にもぐりこんで、向かいで寝ていた。そのやつれた顔を蝋燭の灯りが照らす。奴の体力はほとんど失われ、もう気力だけできているようだった。
俺は黙って考え事をしていた。考えているのは、ほとんどがエストンとの決戦に関することだった。もう、ここからはあと数時間で、目的の場所にたどり着くだろう。
俺の身体は、明日の戦いに備えて高揚していた。
ずいぶん長い間、俺たちはだまっていた。
「よー、おっさん」
トナティウがひび割れた唇を開いた。
「独りで考えてねえで、何か話してくれよ。おれ、沈黙って好きじゃねーんだ」
「おれ、ちょっと話すのつらいからさ…」
かっ。この時に及んで、他人の言葉がほしいとは、よええ奴だ。
悪いが俺の脳は今、エストンのことで一杯だ。
俺は黙っていた。
「ちぇ…」かすれた声。
「おっさん、なんでそんな無愛想なん…? 昔からそうだったんか?」
突然そんなことを聞かれ、思わず苦笑がもれてしまった。
トナティウよ、今頃気づいたのか。こんな男に興味もつんじゃなかったんだよ。
俺は口を開いていた。
「誇りがよ…。持てなくてよ。昔から、俺ァ自分が嫌いだった」
なぜこんなことを話しはじめたか? 俺にも全くわからねえ。だが、俺はいつも独りでビバークし、夜を明かしてきた。二人で向かい合った、この雰囲気がそうさせたのかもしれねえ。
「だから、人も好きになれなかった。人に好かれようとする努力をしなかった…。なぜなら、自分が何にもねえ、恥ずかしいやろうだからな。嫌いだった。人の中に映る俺の姿もどうでもよかったわけだ…」
「だからおれにもかまってくれないんか? 俺がおっさんを悪く思っても、どうでもいいんか?」
そうだ。と答え、空気はまた沈黙した。
俺の方から今度は口を開いた。
「だが…俺は自分の唯一の取り柄として、狩りを見つけた。だから…エストンを倒して、山の主になれりゃ、俺は誇りを持てるんだ。自分を大事にできる。そうすりゃあよ、そうすりゃあ…」
俺の手が何か言いたげに、あてもなく宙をうろついた。
しかし言葉が出てこず、舌打ちで俺は話を終えた。
「山の主になったら、おっさんは、おれやあの、酒場で出会った連中と仲良してくれるんだな? ときどきオランにも戻ってさ…」
明るい調子でガキはいい、俺は、その言葉に何か色んなことを、いちどきに考えさせられた。
何もいわなかったが。
トナティウはだが、満足した様子で、ごろりと寝返りをうった。
俺はしばらくその背中を見ていたが、不意に言った。
「お前、もう山を降りろ」
トナティウは仰天してこっちを向いた。
「バ…おっさん! それはいやだっ!」
「お前も気づいてんだろう。もう全然歩けなくなっていることをよ。足の感覚はあるか?」
「あ…ある」「ウソだな」
俺は背嚢に手をのばし、中から燃料と食料を出してトナティウの方に投げた。
「最低三日はここでおとなしくしていやがれ。…歩けるようになったら、南に向かってずっと降りて行け。切り株での方角の見分け方は、教えたな? そしてずっといったら、多分一日ぐらいで古いそま道に出るはずだ。あとは道にそって下れば、安全に麓まで行ける」
俺は淡々と説明した。これでいい。いや、こうしなくちゃならなかったんだ、もっと早くに。
「イヤだ…」弱々しい声。
「言うことを聞けクソガキ」
俺がエストンのところまでこいつを連れていったら…。復讐心のため獣のようになった俺が、こいつの事をかまってやれるはずはなかったんだ。お遊びはおわりだ。
「無理だったんだ、お前みたいなガキにはどだい無理な話だったんだよ」
「無理じゃねー」
俺たちは、繰り返した。無理だ 無理じゃねー 無理だった 無理じゃねー 無理だった 無理じゃねっ 無理だったってんだよ 違う… 無理だろ むりじゃ… 無理だ!
「む…」
トナティウの返答がなくなるまでやった。かすれたような息づかいしかできなくなるまで、俺は無意味な問答をした。「やはり無理だ」。
俺は奴を残してそのまま雪洞を出た。
夜中になって、吹雪は強くなっている。たが寒くねえ。俺の心は煮えたぎっているから。
奴のいるところ、そこに狙いを定めて歩き出した。
(続く)
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