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No. 00111
DATE: 1999/02/22 01:51:38
NAME: ギャリソン・エチゼン
SUBJECT: ザ・ビースト(後編)
ガキのおもりをやめて三時間だ…。
吹雪は思ったよりひどくなってきた。今まで出会ったことのない強烈さだ。
俺の堅い皮膚も、氷つぶてを浴びて腫れ上がり始めた。
足の裏にも鈍い痛み。相当に足場がわるくなっている。ランタンを照らしつつ、おぼろげな記憶を頼りにして、俺は山頂へ続くごつごつした岩場を通る。
俺の心はエストンとの戦いを待ちのぞみ高揚していたが、だがここにきて…不安めいた感情が頭をもたげていた。激しいブリザードの中で、自分の身体がいかに弱いものかを、知らなければいけなかった。
なんで俺はこんなに弱っちいんだ?
動物の身体と比べるとわかる。獣には吹雪に耐える毛皮がある。岩場を駆け抜けられる足裏がある。闇の中を見通す眼、野生のカン…そして、敵と戦うための鋭い牙と爪。すべて備えていやがる。
俺は奴らとは違う。恥ずかしいことにな…人間、つるつるした肌の弱い人間なんだ。
まして俺は歳をとりすぎている。
右肩のホルダーに収納した愛用の武器に眼をやる。昔はこんな巻き上げのクロスボウに頼ったりしなかった。 一分で作った粗製の弓でも、 強く、遠くへ飛ばせたんだ。
弓矢をつがえたまま、低い姿勢で何時間も獲物を追うことだってできた。
今じゃ、それもできねえ。
そんな老いぼれた人間が、獣の王たるエストンに挑もうとしている。
いくら獣を倒しても拭いさることができなかったコンプレックス。
考えれば考えるほど…。くそったれ。
だがやがて俺は思い直すことができた。それができなくちゃいけなかった。
くだらねえことは考えなくていいんだ。
俺は奴を倒せる。それだけの資格があるんだ。てめえが人間だなんて考えなくていい、そうだ俺は奴と同じ獣なんだ。
俺は、ただのおいぼれじゃねえ。歳経た老獪なウルフだ。そう、クロスボウ、これは俺の自慢の牙なんだ。一撃で奴の喉笛を噛み破れば、勝機はある…!
くりかえし、俺は言い聞かせた。呼吸を整え…。みるまに、俺の中から弱い感情が取り払われ、再び奴への闘争心に心が満たされていくのがわかった。
憎いぜエストン、てめえが憎い。今こそてめえに受けた屈辱と恥をそそがせてもらう…!
あとは気にならなかった。身体の痛みも、寒さも。
ただひたすら歩いて、そしてとつぜん景色が開いた。
…よく覚えがある地形。
ハッとして左手の彼方を見る。そう遠くないところに、岩棚があった。
その上に、黒山のような姿の生き物がうずくまって、俺の方を見ていた。
「…よぉ」
呟いてからも、奴の姿から眼が離せなかった。時がとまり、世界には、俺とエストンと二匹しかいねえような気がした。ごうごうというブリザードの音が、再び耳に届くようになるまで、どれくらいかかったか。
俺は感情を煮え立たせながら、奴の動きを注視した。獣の王の尖った口から、白い息がもれている。
その時俺は気づいた。身体中の毛が逆立つほどの怒りを覚える。
こいつ…笑っていやがる。
奴は笑いを浮かべたまま、ゆっくりと身を起こした。
「ゴフォゴフォゴフォ」
俺は、肩からクロスボウを外して構えつつ、奴の方へ数歩進んだ。
…そして、俺は、わーんという、例の耳鳴りに似た感覚におそわれた。不快な感覚のあとに声が聞こえはじめた。
(また会うとは思わなかったぜ、ギャリソン)
エストンの声だった。奴は俺をその黒く丸い瞳で見据えたまま、語りかけてきたのだ。(つかわした手下を殺したところから見ると、がっはっは、おれ様に恭順する気は今もないようだな)
あたりめえだ。
(人間の分際で、山の主の座を奪おうなんて本気で考えてんのか? がはは、けっさくなやろうだなあ。そんなみっともねえ傷つけられて、まぁだ懲りねえか)
黙れ、クマ公。
俺はクロスボウのトリガーに手をかけた。
(わははは)
それを見たエストンは、俺を傲然と見下ろす姿勢をやめた。四つん這いになって、戦闘態勢をとる。
(退屈しのぎに、相手してやるぜ)
嵐の視界の中で、エストンの丸い両眼が光る。
俺はこれ以上奴の意識と同調するのに耐えられなかった。頭を振って追い払い、奴をギラリと再びにらみつけた。
やつは岩棚を駆け下りてこちらに突進をはじめた。
一撃だ。一撃で仕留めるんだ。老練の狼がやるように。俺の鋭い牙が奴の急所に刺されば、奴はあぶくを吹いて死ぬはずだ。
この瞬間のために生きてきた、外すわけにゃいかねえんだ。 自分にとって本当に価値あるもんを手に入れる時にゃ、試練ってもんが存在する。今がその時だ。しかもやり直しはきかねえ。
このプレッシャーにうち勝って、見事ぶちあててみせろ、俺よ…!
俺はふるえる手で、突進してくる奴の顎の下に狙いをさだめ、トリガーを引いた。
ガチッ。
…なんてこった。本体の溝に、雪がつまっている。
「引けねえ」!
俺の身体は二秒後に、強大な力によって吹き飛ばされた。
(つまらねえなギャリソン。もう少し何かしてくれるのかと思っていたぜ)
エストンの声を聞きながら、俺は大量の血を吐いた。
あの時と、まるで同じような格好だった。泥の混じった雪の中に転がされている俺に、闇よりも黒く巨大な影が被せられている…。
右のあばらがほとんどいっちまった。肺かどっかに突き刺さっているみたいだ。
それに、なんてことだ…牙がおれちまった。
クロスボウは衝撃にもぎとられ、今頃はどこかの雪面に刺さっているだろう。どうしようもねえ。すぐ横に落ちていたとしても、あれを巻き直す時間もねえ。
…どうする。
(したねえな…死ぬか?)
奴は長い前足を振り上げながら問う。俺は、答えられない。
不自然に長い時間が流れた。いつのまにか、ブリザードも止んじまったようだ。
俺は瀕死だった。だが、とどめがこない。嫌な予感にかられた。
エストンの念が滑り込んできた。
(あそこまで屈辱を与えたのによ。おまえの奮起はその程度だったか…がっかりだぜ。…ようどうする、左頬にも傷をつくっとくか、ン?)
その言葉に、俺の中で何かが切れた。
俺がどれだけ恥に思ってきたか、わかるのかおまえに。
それにいったい…いったい俺に何を期待してたってんだクマ公っ!!
「うおああああああああ!!」
俺は素早く革靴のスリットからダガーを抜き取り、 エストンの腹に向けてなぎ払った。
「グルルル!」
奴はひるんだ。熊の言葉はすでに聞こえない。俺は激痛に耐え身を上げ、でたらめにダガーを振り回す。
「うおおっ、らあああああああ!!!!!」
殺してやる。
お前は俺を傷つけた、俺の誇りを踏みにじりやがった! このままくたばってなるか。お前も地獄に道連れだ!!
「殺してやらぁあああッ!!」
仇敵の胴体に幾本か血の筋ができる。だが奴は動じた様子がなかった。
…なんだその面ぁ、何を冷めた面で見てやがる! 気に食わねぇ、気にくわねぇっ!
(俺は無理をいっちまってたなぁ。…おめえ、もう寝ろや)
奴の言葉が届いた時、俺は気づいた。巨大な爪が俺の顔面に向かって振り下ろされようとしていた。
その時だった。
「おっさん…」
視界の端から聞こえる弱々しい声。森の始まる木々の間、視線をそこに合わせる。
俺は血が出るほどに唇を噛んだ。そこにトナティウがいた。
あのガキ…!! 追っかけてきやがったのか!?
山の主の剛腕は振り下ろされない。奴はガキの方を見ていた。ぴくりと身を振るわせる。
俺は、痛む身体にかまわず、トナティウに向かって全速で走った。
「おっさ…!」
どがっという音。
俺はたぶん本気でトナティウを突き飛ばしていた。
ガキは坂下になっている森の方へ、雪にまみれて二・三回バウンドしながら転げ落ちていった。 木に当たって身体が止まるのを最後まで確認もせず、俺はエストンの方へ向き直る。
「悪ぃな…。妙な邪魔を入れちまってよ。さァ、仕切り直しだ」
しゃべるたびに口から血があふれるのがわかる。だがまぁ、そんなことはどうでもいい。
この決戦は続行されなくちゃならねえ。ここで死んだとしても、以前みたいに負けたまま帰らせられるのよりはずっとましだ。
コイツを倒す望みだってまだ消えてねえ。
俺の中の獣はまだくたばっちゃいねえんだ。まだやれるんだ…。
山の主は何も言わず、背を丸めて構えをつくった。
嬉しいぜ、本気を出してくるのか。
「死ぃぃんでもらうぜぇ!!」
俺は雄叫びを上げながら、ダガーを握りしめて巨体に向かって駆けた。
「うおあーーーーーーーーっ!!」
どれぐらいの時間がたったか。
なんでだ、とふと疑問に思った。俺は、傷を負ったまま、奴の腕の一撃をかなりの回数、かわし続けた。いや、それ以上に、たくさん、攻撃を食らったはずだ。
しかし生きている。
俺の血は熱く、闘争する力は失われていねえ。
今も雪の上に大の字になっているが、まだ、立ち上がる力が残っている。
俺はふと右腕を、月明かりにかざしてみた。そして、その理由がわかった。
ああ…。
これがほしかったんだ。
これがほしかった。
俺の右腕、銀色の毛並みに覆われ、鋭い紫の爪が生えた腕。
いったい俺は今、どんなに勇壮で美しい姿をしているんだ?
「どれ」
俺は身を起こした。
前方の、血しぶきで汚れた雪の上をふらつく、敵を見る。
荒い息づかい。血塗れの身体。その巨体はすでに満身創痍だった。
(俺様の攻撃が通じねえとはな…ぐはっはは…)
苦しげに呻く思念が届いてくる。
一つだけ残った眼が、俺の方を驚きの眼で見つめていた。
「よう、エストン。お前をこのまま生かしておくって手もあるが…」
俺はわざといってやった。
(勘弁しろよ。このままとどめ刺してくれや)
トナのガキの言うことは正しかった。長く絶対的存在であったこいつは、自分を殺してくれる相手を探していた。タナトス。死への欲望にかられ、自分の認める者に主の座を渡して消えたいと考えていたらしいな。
先の戦いで、傷をつけて帰したのも、俺が自分を殺してくれる見込みがあると思ったからってわけか…。
それでこの結果だ。俺としちゃ、感謝するべきところなのか? こいつに。
俺達の周りは静まりかえっている。心なしか空間が紺色になってきて、もう朝が近いのかもしれない。
だがもうケリはつく。礼の意味をこめて、苦しまずに殺してやろう。先代を。
俺は大きく口を開けて、奴の喉笛にとびかかった。
俺はもう人間に戻れるかどうか分からねえ。この姿のまま、いつまで人間の意識や知能を保持していられるかも不明だ。
だから、後始末は早く済ませるつもりだ。
雪洞でトナティウに言ったことも反故になりそうだが、もし俺が再び人間の生活に戻ってみることがあったなら、あのときの言葉が理由になるのだろうか。
妙に眠い朝の空気の中で、俺はそんなことを考えていた。
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トナティウはエストン山脈の麓で木こりに発見され、無事に保護された。
身体中が傷ついており、何かよほど辛い眼をみたらしかったが、回復は早かった。
少年は何より、笑うことを忘れていなかったのだ。
「またきっと会おうなっ!」
彼は樵と、エストン山に向かってそう言い残し、少し暖かくなった空気の中、オランに向けて元気よく歩きはじめた。
(了)
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