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No. 00124
DATE: 1999/03/03 16:12:17
NAME: リュシアン・ラオ
SUBJECT: 三面の悪魔/ふたたびの贖罪者
でぃんだ、でんだ、だ、だ、だだだ。
調子の外れた明るい歌声が、精神施療院の病室から流れてくる。
家族に連れられて診察に来たはいいが、ヒムが「さしあたっての治療の必要なし」と判断して、明日には帰宅する患者だった。
「多幸症といいまして」
抗議する家族に、ヒムは穏やかに説明した。
「常に幸福感を感じる病です。確かに精神疾患ではありますが、日常生活に問題はありませんし、それに何より本人が治療を拒んでいますのでね」
症状が治れば、この幸福感が消えてしまうのだから、患者にしてみれば無理はない、とも告げた。
「誤解を受けますが、私は普通の医者ではありませんので、病人だからといって片っ端から治したりはしないのですよ」
時折ヒムはそう語る。
「私が治療するのは、助けを求めてここを訪れる人間のみです。たとえ病んでいようとも、本人が助けを求めていないならば、私は治療を行いません」
だ、だ、だん、だ、ららら、ら。
歌声は弾むように扉を突き抜け、廊下を渡って行く。
何が楽しいのか、患者本人にも分かっていない。
ただ、彼は幸せでしょうがないのだ。
診察室の寝椅子に横たわり、ルルゥはじっとその声を聞いていた。
甘い香の匂いが、じんわりと脳髄を痺れさせている。体があまりに重く、捨ててしまいたい、とふと思った。
「おさらいをしましょうね」
ヒムはルルゥの前で椅子にかけ、いつも通りの穏やかな声で語りかけた。
「君の名前はリュシアン・ラオ。ムディールの支配者階級に生まれた。しかし父親にまったく似ていないがために、不義の子との疑いをかけられ、阻害される」
ルルゥは目を閉ざし、じっと聞いている。
「人はまず、生まれて最初に『家族』という社会に出ます。ごく狭いその社会で、信頼と不信を学びます。両親が自分を愛しているという信頼。そして、不満があって泣いているのに、その理由に親が気付いてくれないという不信をね」
ヒムは組んだ指の先で、眼鏡を押し上げた。
「ここでその二つのバランスが悪く育てられると、人間関係に問題のある人物になってしまう。簡単に言えば……わがままとかひねくれ者、みたいなね。
君はこの段階でまず問題を抱えてしまいました。『社会』である『家族』、自分を愛し受け入れるのが常識であるはずの存在が、君を否定した。君は『自分は拒絶される』というメッセージを心に刻みつけられたまま、育つ」
カーテンの隙間から、暮れかけた日差しが忍び込んでいる。香炉から流れる薄い煙が、ゆらゆらと陽炎のようにその中で舞った。
患者の少年は眠っているかのように、じっと動かない。ヒムは短い沈黙の後に、続けた。
「続いて、人は『家の近所』という社会に出ます。ここで家族以外の、様々な種類の人間と交じり合う事を覚える。他人に対する『好き』や『嫌い』といった、一般的な感情が芽生え始める。
ですが、ここでも君は問題を抱えてしまう。それは先に抱いた『自分は拒絶される』という認識を前提に人と関わろうとするが故、でもあるのでしょう。
君は自分が、村人に忌み嫌われ、陰湿ないじめ、虐待にあっても、しょうがないと思ってしまう。
抵抗しない君に、村人はさらにエスカレートした行為を行う。石を投げ、泥の中に突き倒し、罵声と嘲笑を浴びせ、欲望を満足させるために犯す」
小さな悲鳴が上がった。
少年は耳を押さえ、顔を恐怖に歪めて振るえ始める。
「君はここでまた、一つの誤ったメッセージを自分に刻み付けさせてしまう。『自分に近づく人間は皆、自分を虐げる』というね。
さあ困りました。周りは敵だらけですね。逃げ場はない。何故なら、どこへ行こうとも『受け入れられない』『虐げられる』と思ってしまうのですから、アレクラスト中を逃げ回っても、安息は得られません。しかしこのままでは、君は狂ってしまう。
ではどうするか?」
一息ついて、ヒムはつぶやくように言った。
「辛い事を、もうひとりの自分にまかせて、自分は心の奥へ逃げるしかない。
そうして、『無』が生まれた。何も痛みを感じない人格が。
そうですね、『リュシアン』君?」
らら、らーだだ、だらら、ほぅ、ほぅ!
時に高く、時に低く。多幸症患者の歌は終わる事なく続いている。
少年は動かない。胎児のように体を丸め、顔をおおい、目の前につきだされた醜い怪物の顔から視線をそらすかのように。それを見たならば、即座に石と化してしまうとでもいうように。
どれくらい沈黙があったのか。
「いつ……」
先に口を開いたのは、少年だった。
「いつ、気付かれたんですか……『無』が本来の人格でない事に……?」
院長は眼鏡を外し、ため息をついた。
「『無』が、精神的にも肉体的にも、<痛み>を感じないと気付いた時ですよ」
すっかり暗くなった外から、冷えた空気が流れ込んでくる。いつしか香の匂いは弱まり、代わって、雨が近いのか水の匂いが鼻についた。
「矛盾があるでしょう。君は辛い仕打ちから逃れるために、他の人格を作っている。それなのに、苦痛を感じない『無』が、"何から逃れるために"、他の人格を必要とするんです?」
少年がそっと顔から手を離し、ゆっくりと院長の方を向いた。柔らかな表情は『光』のそれに似ているが、その瞳の涙を含んだ輝きは、弱々しさとはまた違うものを感じさせる。
「だから、私は思ったんですよ……『無』は本来のリュシアン・ラオの人格ではない。もう一人、本当の『リュシアン』がいる、と」
暗くなった部屋に、ぼんやりとランプの灯かりが揺らめく。
静かだった。
まるで、この診察室だけがどこか遠くにあるかのように、空気の色まで違うように見えた。
「……怖かったんです」
ゆっくりと、少年の細い体が寝椅子の上に起き上がった。
「ぼくはずっと思っていた……父、母、ラオ家の人間、村の住人……一人残らず殺してやりたいと」
まっすぐに蒼い双眸がヒムを捕らえた。
「村が滅びたのも、多くの人が死んだのも、全てぼくが望んだ事です。『無』は、その想いをぼくに代わって叶えたんです。ぼくがそんな望みを持たなければ、誰も死ななかった。ぼくが殺したんです。ぼくが『無』を狂わせたんです。
後で怖くなりました。自分がした事の重大さに気付いて、怖くて怖くてしかたなかった。怖い思いはしたくなかった。だから、オランに着いてからずっと、恐怖を感じない『無』が、ずっと『ぼく』として表に出ていたんです。ぼくは……ずっと逃げていました。
想像もしなかったんです。『無』が何をしでかすかなんて。
まさか、ルルゥを殺すなんて、思わなかった!」
(さあ おいでよ だいじょうぶだよ そらのとびかたを おしえてあげるから)
「君は出るに出れなくなった。だからと言って、このまま『無』の好きにさせておくわけにもいかない、暗示をかけられてルルゥの記憶を刷り込まれたのを幸いに、君は『光』を創り出した。人と付き合うための人格。他人を想い想われる、理想の自分を」
(そこのはじっこにたつんだよ さあ こうやって うでをひろげるんだ)
「罪滅ぼしのつもりでした。せめて、叔父と叔母が望むように、理想の息子でありたかった。だけど、ぼくは罪人です……彼らの望みには応えられない」
(こわいの? だいじょうぶだよ さあ とぶんだ ほら!)
だ、だ、ハハ、たんた、たーたーた、たたた。
行進曲のような軽快なリズムで、床を踏み鳴らす音が歌声に混じり始めた。
だがそれは潮騒のように、診察室では何の意味もない、ただの物音にすぎなかった。
「『光』は人と争わず、敬謙で優しく、少し気が弱くてそそっかしい、人に庇護される存在になった。だけれど、その反面敵意や反抗心、ファリスへの抵抗が君の中で強まり、『闇』が生まれた。
或いはそれは、支配者階級に生まれ、それに苦しめられていた人々からの復讐を受け続けた君の心に、ずっと以前からあったものかもしれませんが」
リュシアンの頭が小さく揺れた。
「もうひとつ……君がルチア君を刺した時、視力を失ったのは、自分の罪から目をそらすため、ではなかったんですよね?」
「……わかりません」
「君は自分の罪を、醜さを認めている。にも関わらず、君は視力を失った。それは逃げではない、おそらくは、自責の念がそうさせたのでしょう。
ルチア君はデーモン化していた。殺されても仕方が無い。でも、君はそれでも、自分が許せない。
だから自分の目をふさいだ。クリス君がセリス君の体を借りて現われ、君に『自分を受け入れてくれる人がいる』と、そう気付かせてくれるまで」
リュシアンは目を閉じた。
「ぼくは、先生やガルドさんが思っているほど、高潔な人間じゃありません」
だけど、と唇が動いた。
「そうなれなくても……そうあろうとして、良いでしょうか……?」
ヒムはうなずいた。
リュシアンの唇が引き結ばれ、その指がそっと胸の前にかけられていたファリスの聖印に触れる。
ゆっくりと首から外した聖印を樫のテーブルに置き、ややためらって、腰にさしていた一本のダガーも、同じように置いた。
今は鞘に収められている刀身は、リュシアンの瞳に似た紺碧をしている。それは、セシーリカが彼に与えた魔法のダガーだった。
「セシーリカさんは、ぼくが好きだと言いました。ずっと一緒にいたいと言いました。でも、ぼくにはできない」
立ち上がった小柄な体は、いつもよりもか細く、儚く見える。ヒムは眼鏡をかけ直して、じっとリュシアンの言葉を待った。
「ぼくは自分が許せません。自分の中に流れる、ラオの血を許せません。自分を愛せない人間がいつか他人を愛し、結ばれても、自分の血を引く子供を愛せるとは、思えない」
す、とそこでリュシアンは背筋を伸ばした。
「ぼくの代で、ラオの血は終わらせるつもりです」
リュシアンはヒムに一礼し、退院許可を求めた。
ヒムはそれを認めた。
「先生、先生」
診察室のドアから、ひょいと男の顔が覗いた。
「俺、もう帰っていいのかい?」
「ええ、かまいませんよ」
カルテの写しを受け取り、多幸症の患者は楽しそうに肩をゆすって笑った。
「なあ先生、俺はすっごく幸せだよ。俺はこのままじゃいけないのかい?」
ヒムはいつもと変わらぬ、柔和な笑みを浮かべて答えた。
「君が一番幸せになれるなら、そのままでもかまいませんよ」
ぼくは罪をあがなわなければならない。
全てぼくが始めた事なのだから、ぼくがそれを絶たねばならない。
それが、ぼくの心の幸福につながると信じて。
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