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No. 00131
DATE: 1999/03/11 17:09:20
NAME: シグムント他
SUBJECT: 忘れじの肖像
街道から外れた森の中の小道を、一台の馬車が走っている。曲がりくねった道はやがて、薄く木漏れ日の差す風景から、重い暗闇のベールのかかった風景へと変わって行く。馬車はいくつかの小川にかかった橋を渡り、どんどん奥へと進んで行った。
やがて木々が開け、行く手に一つの砦が現れた。遺跡とおぼしきそれは、朽ち果てかけた外壁にツタがからまり、さながら巨大な緑なす古木のような趣があった。
砦の周りには、深い碧の水をたたえた堀が、時折水面に白い筋を伴ったうねりを見せている。そこには異形の魚が住んでいるはずだ。
馬車が止まった。
御者がひゅいーぃ、ひゅうっ、と口笛を吹いた。
ほう、ほうっと、砦から合図が聞こえ、見張り矢倉の上で、ちらりと人影が動いた。
ややあって、砦の門が重々しい音と共に外へ倒れ、それが堀を渡る橋になった。馬車が砦の中へと進むと、門はまたゆっくりと対岸を離れ、その口を閉じた。
「おおーい」
砦の内部。広場になった空間に、喜びで興奮した声が響いた。
「皆の衆―っ。聖母さまが帰られたぞォ!」
おお、というどよめきと共に、ぞろぞろと砦の奥から人々が出てきた。
それを始めて見た者は、驚愕の声をあげるに違いない。
現れたのは、多くが異形の者―――街にいれば、いやでも人目をひくであろう姿の者ばかりだった。
半妖精、矮人、あるべき所にあるはずのものが無い者、或いは多い者、体中がケロイド状の傷に覆われた者、業病に冒されていると、ひとめで知れる者……。
しかしその全ての表情は明るく、朗らかな笑みが輝いている。
彼らの視線は、馬車の扉に注がれていた。その中で扉が開き、一人の少年が下りてきた。長めの黒髪が風に揺れ、首筋に巻かれた絹のスカーフの上を流れた。
その後から、女性が現れた。肌は光を透かして白く輝き、結い上げられた栗色の髪は、柔らかく渦を巻いている。彼女は質素なドレスの裾を優雅にさばいて、ぐるりと集まった人々を見回した。するとその顔に、温かな笑みがこぼれた。
「皆、息災でしたか?」
聖母様、と誰かが呼んだ。
それを皮切りに、人々は女性に手を差し伸べ、彼女の無事を喜んだ。聖母と呼ばれた女性は、その手をひとつひとつ握り、あらあらと嬉し気に笑い声をあげた。
「たった半月留守にしただけなのに、困った事。これでは私がいなくなったらば、一体どのようになってしまう事やら」
「悪いご冗談を……わしらァ、『聖母』さまがおられなんだら、こんな生き方できませなんだァ……そらァもう、この半月どんなにか心苦しかった事かァ」
『聖母』は涙ぐむ男の背を優しく叩き、集まった者達に奥へ行くよう促した。
先に馬車を下りた少年は、その光景には興味がないように晴れた空を見上げている。
「ニルヴァーナ」
『聖母』が少年に呼びかけて、初めて彼はこの貴婦人を見た。
「馬を出します。すぐお姉様のところにお行きなさい」
少年は一礼した。
御者を務めていた男が、一頭の馬を引き、やって来た。『聖母』は少年に、一つの麻袋を手渡した。
「今回の仕事の報酬です。よくぞ働いてくれましたね」
少年はその言葉に大した感慨も受けず、袋の中身を確かめると、無造作に懐へ放り込んだ。
「お姉様の具合はどうなのです?」
「良くありません。薬の量が増えました……」
そう、と『聖母』はつぶやいた。
「動けるようになったらば、すぐここへ連れておいでなさい。もしどうしても具合が良くないようならば、クスコという医師をお探しなさい。名医という話です」
「……お気遣いくださって……」
「良いのですよ。さ、お行きなさい」
「はい」
少年はひらりと馬にまたがり、再び開いた門から疾風のように駆け出して行った。
曲がった道の奥に砦が姿を消す直前。一度だけ彼は背後を振り返った。
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「蜘蛛の刺青?」
酒焼けした赤ら顔をつるりと撫で、老人は聞き返した。
「ええ、ご存知ありませんか?」
向かいに座った青年が、少しだけ身を乗り出した。直感的に、この老人は何か知っている、と感じたのだ。
「蜘蛛の刺青なんざね、珍しくないよぉ……何でも屋の兄さん……けどね、うなじに蜘蛛、の殺し屋ならね、そいつぁ『殿下』だろうよ」
「『殿下』?」
これはまた優雅だな、と何でも屋のエルフは内心ひとりごちた。
「東のほうじゃァね、素手ェ……で岩ァ割ったり、人を殺せる連中がいるのさぁ。……その技を使うらしいんだがね。ま、そいつはウワサで、本当はァね、絞首具をこう……使ってね、殺っちまうんだとさ」
「彼がどこにいるか、ご存知ですか?」
エルフはすっと人差し指で、銀貨を老人の方へ押しやった。
「あらあ『聖母』が飼ってるそうだよ」
すばやく銀貨をポケットに落とし、老人はサメのような笑いをもらした。
「こいつがまァ、大したべっぴんらしィがね。どこから来るやら、どんな素性やら、さっぱりさ」
エルフは老人のために、この薄汚れた酒場で一番いい酒を注文した。老人は舌なめずりをすると、ひったくるように酒瓶を抱え込み、エルフに顔を近付けた。息は熟柿のような匂いがした。
「西の門の近くにな、廃虚になった屋敷があんのさ。そこの壁に、な……自分の癒せぬ苦しみ、絶望をしたためると、『聖母』の使いが現れてな、救ってくれるんだとよ……ひぇっひぇっ、そんなムシにいい話、あるわけがァねえがさァ……溺れる者は、って言うからよ。今度おれも書いてみようかと思ってるのさ」
老人はまた、ひきつけでも起こしたような笑い声をあげた。
エルフは礼を言い、老人のためていたツケを払うと、店を出た。
画商シグムントを狙った暗殺者が、少し近づいた。が、しかし……。
(『殿下』、『聖母』、救い主……ですか。思ったよりも事情は込み入っているようですね……。)
先刻聞いた話を反芻しながら、エルフは足音も無く路地裏の暗闇に姿を消した。
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「パイプはご遠慮願えますかね、アンブロシウスさん?」
ねっとりした声に一瞬眉をひそめ、シグムントはゆっくりと振り向いた。
太った中年男が、シャツの襟に首を締め上げられながら、にやにやと笑みを浮かべて立っている。
「絵にヤニでもついたら、大事ですからね、そうでしょう?」
シグムントは答えずに、視線を見ていた絵に戻した。
重厚な額縁の中で、横を向いた裸婦が本を読んでいる。女というよりは少女と言ったほうが良いような、幼い体つきだった。
「おぉ、お気に召しましたかね? それは今プリシスで宮廷画家をしているアインシスの絵ですよ。ほら、これは鑑定書です」
この画廊の主は、一枚の羊皮紙をシグムントに突きつけるようにして見せた。シグムントは表情も変えず、それを受け取ると一瞥し、手の中のパイプを逆さにして、灰をぽんと羊皮紙の上に落とした。
画廊主は絶叫し、羊皮紙を奪い取ると灰を払った。火とヤニで茶色く変色した"しみ"を恨めし気に見つめ、剣呑な目でシグムントを睨んだ。
「失礼、あまり芸術的価値の無い紙だと思ったもので」
悪びれもせず、シグムントは言った。画廊主は顔をひきつらせながら、甲高い声で叫んだ。
「いいか、お前の所で扱ってる絵は、ガキの落書きだ! ベルダインの芸術学校の師範が書いた、この鑑定書がなければ、みんな価値の無い物ばかりだ、覚えておけ!!」
画廊主はゆさゆさと体をゆすって、奥へ消えて行った。
にやにやと笑いながら、シグムントはこの商売敵をからかうのにも飽きて、帰ろうと踵を返した。
と、その足が止まった。
彼は無造作に置かれている、一枚の絵に見入った。それは美しい娘の肖像だった。
長い黒髪を洗うような仕種で抱え、顔を曲げながら目だけがこちらを見ている。白い肌に、内側から輝くような光を感じる。黒い瞳は、きらきらと輝き、上気した頬がたまらなく美しい娘、いや、美しい絵だった。
シグムントは近づいて、サインを確かめた。聞いた事の無い画家だった。
「……ん?」
ふと彼は首をかしげた。この絵に見覚えがあるような気がする。
しばし黙考の後、シグムントは奥の画廊主に向かって声をかけた。
「落書きを一枚買いたいのですがね」
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クスコは、患者の脈を取り終えて、ふと息をついた。
きままに亭で、ニルヴァーナと名乗る少年から、姉を診て欲しいと頼まれたのが一昨日の夜。彼は今日で三回目の往診だった。
今日、ニルヴァーナはいない。クスコと入れ代わりに、「仕事に行く」と言い置いて出かけてしまった。
「仕事」が何なのか、クスコは聞かなかった。少年は治療費にかなりの額を差し出した。ロドーリルから逃げてきた奴隷という身の上からは、考えられない金額だった。
(ロドーリルの盗賊ギルドで、暗殺術を習った)
ニルヴァーナはそう語った。彼がそれを生かして、姉の治療費を稼いでいるのは想像に難くない。
濡らしたタオルで患者の顔を押さえ、むくんだ瞼をめくって診る。
焦点の合わない瞳は、少年のそれと同じ漆黒だった。そう思って見れば、目の前に横たわる女性は、弟によく似ていた。主の息子と駆け落ちした娘は、その頃どんなに美しかったろうか。
長屋のある川床通りは、文字通り川のほとりにある。この長屋は川の上に張り出すような形で建っており、雨が降れば浸水するのだろう。部屋の床はドス黒く、濡れた木の匂いが鼻につく。
だが、クスコは気付いていた。この劣悪な見かけの割に、この部屋の中はそれなりに清潔さを保っている。
流しには洗い物も残飯も無く、調理器具はよく陽にあてて消毒してある。患者の寝ているベッドも、シーツはいつも白く、毛布は手触りが良かった。
そして、枕元には必ず、コップにさされた数本の生花があった。
これらはすべて、あの弟が姉のためにしているのだろう。愚かにも、傷の痛みを和らげるために阿片を服用していたため、すでに中毒症状の末期でこの患者は正気を失っている。
花があろうと気付くまいに、それでもたったひとりの家族への、これは愛の証なのだろう。
姉の名を聞いた時、ニルヴァーナはややうつむいて「セシェン」とつぶやいた。「綺麗な名だな」と言うと、わずかに彼の横顔が赤くなった。自慢の家族を誉められた、まだ子供の顔だった。
この姉弟の幸せの一端が、俺の腕にかかっている。
クスコはセシェンに与える薬と治療方針について、その場で腕を組んで考え始めた。隣から、争う夫婦の声と赤子の泣き声が聞こえてくる。だが思考に没頭するクスコには、その音は届いていないようだった。
水の匂いが満ちた部屋で、川のせせらぎが部屋を遠い世界のように閉ざしている。
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