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No. 00157
DATE: 1999/04/29 23:29:31
NAME: ラス
SUBJECT: 夜の闇
「しょうがねえなあ…」
眠り込んでしまったカイの体が、見た目以上に軽いことに感謝しつつ、俺は彼女の体を
抱き上げた。そのまま、2階への階段をのぼりはじめる。酒場のカウンターでは、ケイが
まだ眠り込んでいるようだが、それはディックとロビンにまかせることにする。
店員に教えられた部屋の扉を肩で押し開けたとき、階下でロビンの叫び声が聞こえた。
「ケイ? あ…お、重い! 助けてくれぇ!」
鍛え方が足りないのだと苦笑するディックの声も聞こえてくる。…全くだ。力が足りな
いのならば、せめて精神力でカバーするべきだろう。…今の俺のように。
実際、いくらカイの体が軽いとはいえ、俺自身も、お世辞にも体力自慢とは言えない。
種族的なものだと言ってしまえばそれまでだが、こんな時には、人間やドワーフの筋力が
うらやましく思えてしまう。
幸い、限界を迎える前に、カイをベッドにおろすことができた。
「う……ん…ラ…スさ……ん?」
一瞬、目が覚めたのかと思った。が、目を凝らすと、カイのまわりには眠りの精霊の力
が働いていることがわかる。それに、あの酒を飲んで、そんなに簡単に目を覚ますとも思
えない。
彼女の体に毛布をかけながら、ふと、頬にかかった紫の髪をそっと払いのける。アルコ
ールで上気した彼女の顔は思った以上に魅力的だった。…考えてみれば、俺は彼女の赤い
顔しか見たことがない。いつもはうつむいているし、たまに顔をのぞき込めば、頬を染め
る。元来が内気なのか、それともハーフエルフという種族である以上、半ば必然的に差別
されてきて、身に付いたものなのか。
カイの安らかな寝息を聞きながら、俺は窓際に立った。あともう少しすれば、空は白み
始めるかもしれないが、今はまだ暗闇だ。その暗闇を見るともなしに見ながら、俺は溜め
息をついた。『寝てる女をどうこうするつもりはない』と、酒場の仲間には答えてきた。
実際、そんなつもりはなかった。…が、正直、心が動かないわけはない。テーブルの上の
ランプが作り出す明かりなど、微々たるものだ。その薄い闇のなかであまりに無防備に、
彼女は眠っている。いっそこのまま…。そうも思う。
「ラ…さぁ…ん…だい…じょ…ですか……」
寝言を聞いた瞬間、頬がゆるんだ。夢の中でさえ、俺の心配をしているらしい。『いっ
そ…』などと、一瞬でも考えた自分に苦笑が漏れる。酔っているのかもしれないと思う。
…あれしきの酒で? まあ、それも仕方がないか。実際、つい2、3日前までは寝込んで
いたんだ。自分が思っているほどには復調していないということかもしれない。
ふと、目をあげた。窓に映る自分の顔が目に入る。ひどく安らいだ表情をしている自分
の顔が。彼女のそばにいるというだけなのに。少し…気恥ずかしくなった。
ベッドに近づいて、彼女の顔をのぞきこんだ。今なら、照れたように視線を外されるこ
ともない。
(笑いながら寝てやがる…)
そのまま、彼女に覆い被さって、頬に軽く口づけた。
「今はこれで許してやるよ。…それと、さん付けはナシだぜ。呼び捨てでいいから」
耳元でそう呟いて、そのまま離れようとした。…が、できなかった。
覆い被さった時に、ベッドについた右手を、カイの指が捉えていたのだ。そんなに強い
力ではない。外すのは簡単だ。だが、それもできなかった。俺の手を握った瞬間、眠って
いるはずのカイの微笑みが深まったから。外そうとすると、眉を寄せる。
「…ここにいろってのかよ」
だがまあ、それもいいだろう。徹夜するのは慣れている。このまま、ここで彼女の寝顔
を見つめるのも悪くはない。
そう考えて、俺はカイが眠るベッドの端に腰掛けた。右手は握らせたまま。もうしばら
く、こうしていよう。彼女が目を覚ます前に帰れば、誤解されることもないだろう。
カイの寝顔を見つめていると、忘れていたはずのことをいろいろと思い出す。本当は忘
れてなんかいなかったという事実さえ思い出す。
『そんなに迫害されて育ったわけじゃないさ』
仲間の問いかけに答える自分の声が聞こえる。そう答えることでそう思いこもうとして
いた自分の声が。…些細なことだったんだろうと思う。石をぶつけられたことなどないし、
はっきりと言葉にされたことは…ないとは言わないが、数え切れないほどではない。それ
でも、あの目は覚えている。何もしなくても、何も言わなくても、視線が全てを物語る。
エルフの父親は愛してくれたし、ハーフエルフの母親は強く生きることを教えてくれた。
それでもあの視線に晒されれば、意志は萎えそうになる。冒険者になることで、その視線
のいくつかは緩和された。それだけでこの職業を選んだ価値はあると思っている。
そう、忘れた振りは続けられる。他人に告げる言葉を自分でも事実だと思いこむことは
できる。だが、カイを見ていると…思い出す。彼女の傷ついた瞳を見ると思い出す。
多分、俺達は愛しあえる。分かりあえる。同じ傷を重ねて、理解しあえる。傷を舐めあ
うことにしかならないかもしれないけれど。所詮は、癒しあうことなどできないのかもし
れないけれど。…それでも、安らげるなら。あんな風に微笑みあえるのなら、長い…人間
よりは長く、エルフよりは短い、この中途半端な人生の中で、抱きしめあって微笑みあう
ことができるなら、そんな時間も悪くはない。
「…あんたも、そう思ってくれるならいいんだけどな…」
呟きは、彼女の夢の中に届いただろうか…?
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