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No. 00179
DATE: 1999/05/17 18:44:27
NAME: アデニリボス&アデノシン
SUBJECT: 金色の瞳孔
彼は、少なくとも自分は凡才ではないと持っていた。下級貴族の三男という生まれは、食うのには一生困らないという点では、確かに幸運だっただろう。相続権のない貴族の子息の常として、彼は学院に入学した。それなりに努力するという事も知っていたのと、そこそこの魔術の才があったのとで、20代前半、決して遅くはない時機に、正魔術師の座を手に入れた。魔術師という時点で平凡とはいえないのではあるが、それでも彼はなにを為してもどこかうだつの上がらない風情であり、このまま灰色の象牙の塔の中で一生を終えると思われていた。
しかし、彼は、その人生の最期においてのみ、非凡となった。
アデニリボス。やや神経質そうな薄い色の肌の、学院魔術師。
◆◆◆◆
学院には、よく野良猫が迷い込む。裕福な生徒たちの弁当のお零れは、彼らにとって格好のご馳走だった。
彼は猫が好きだった。人間に媚びようとはしない。しかし、気紛れに引っ付いてくる。その、自分にはない気ままな自由さにあこがれていた。ずっと猫と、心を通わせられたらいいな、と思っていた。
その願いが叶った。彼は地味な修行の結果、小動物を使い魔とし、感覚を感覚を共有する魔法を、ついに身につけたのだ。
灰色にすすけた猫が、彼を見て、なぁ、と鳴いた。その色が、モノトーンのなかで目立つことなく過ごしている彼の人生と重なった。
彼はその猫に吸い寄せられたように拾い上げ、自分の名をとって、アデノシン、と命名した。
儀式を終え、猫と心を通わせる事に成功した彼は、非常に高揚していた。
猫の視野! 猫の聴覚!
すべてのものがふた周りも大きく、巷にあふれている一人一人の人間達が、あんなに大きく、おそろしく、威圧的に見える。それまでに見知った世界のすべてが、彼には新鮮に見えた。彼は、日夜厭わず、寝食忘れながら、もうひとりの彼・アデノシンを、町中いたるところへ走らせた。幼少時より親からあの地区にはいくなといいつけられていた場所、ふだん決して近寄らないような、うすぐらいところにも、彼の相棒は軽やかに忍び込んでいっては、彼の好奇心を満たしてくれた。縄張を荒らして他の猫に威嚇されるのも、猫の食欲のままにネズミを追い掛けてみるのも、また刺激的だった。
そしてある夜。月のぽっかり浮かんだ薄闇の中で、金色に開いた猫の瞳孔をとおして、彼は確かにそれを見た。
妖魔通り。幽霊があらわれたり行方不明者がでたり、となにかとぞっとしない噂の立つ、一角である。
アデニリボスの猫は、壁の脇で饐えた匂いのするなか、寝そべっていた。そこに、一人の男が、小柄な少女を伴ってあらわれた。彼は、不謹慎にも胸が高鳴らせた。深夜、人の通らぬ路上に、男と女の一組。後の事を考えると、そこからさっさと猫を去らせるべきだった。いかし、ナニが起きるか期待しそこに止まった彼を、だれも責めることはできない。彼は猫の目を一杯に見開いて、一目も逃がさじと集中していた。
そして彼は見た。男の、月明かりに白く妖しく光る歯が、少女の細い首元に、埋め込まれていく瞬間を。
少女の、何がおこったかわからない、といった驚きの表情。次に甲高い悲鳴。驚愕に歪んだ顔が、次第に恍惚とした悦びに変わる。そして彼女はぐったりと動かなくなった。
男は、その行為を終えると、凄然な笑みを浮かべて、確かにこちらを、彼の猫を見た。赤く紅く耀く瞳。
彼は、恐怖に打ち震えた。目撃してしまった。そして気付かれてしまった!アデニリボスはその正体を知っていた。ヴァンパイア。人の生き血をすする、暗黒神の加護をうけた邪なる不死の生き物。彼は、自分にその知識があったということを怨んだ。知識を重んじ、自分に一通りの博学を収めさせたラーダの神を、学生時代に試験で当てが外れたときとは比べ物にならないほどにののしった。
高い知能を持ち狡猾なその魔物が、現場を目撃してしまった自分を許すはずがない。 彼は、怖くていてもたっても入られなくなり、猫を即刻呼び戻した後、学院の一番奥の部屋にこもった。そこにいれば、少なくとも、関係者は入って来れない。しかし、どんな手を使っても、吸血鬼は神出鬼没にあらわれて、自分を殺しにこれる!
彼は、次の獲物は自分だと信じ込んだ。恐怖に真綿でじわじわと首を絞められる思いで、夜も眠れなかった。自分が殺されるという妄想と幻覚に、四六時中苛まれた。胃がきりりとしまって、何も食べ物を受け付けなかった。うとうとと眠り込めたとしても、断末魔の悲鳴を上げる自分に気がついて、目が覚めるのだった。
次は自分だ!次はジブンだ!
思い込みの強さによるノイローゼ、睡眠不足、栄養失調のせいで、皮膚はかさかさにどす黒くなり、落ち窪んだ目は充血し、頭に白いものが混じった。この1週間ほどで、彼は数十も年老いたように見えた。彼自身が、不死の者と見られてもおかしくないほどだった。
彼は誰にも自分の見た事を話せなかった。都市にあんな怪物が出るはずがない。だれに信じてもらえる訳はない。ただ、自室にこもって出てこない彼を心配した同僚が、そんなに困った厄介事があるのなら、冒険者にでも頼めば?とアドバイスした。
それ聞いて、かれは脳裏に、一筋の光明が指したのを感じた。冒険者の店にいこう。そう、ちからっぷしだけはある、アウトローの集団。こういう危険な魔物を退治し、不可解な問題を解決するためにこそ彼らはいるのではないか。訳のわからないものは、訳の分からない連中に頼もう。彼らに護衛を頼もう。自分を護ってもらおう。そして、ヴァンパイアを退治してもらおう。金ならある。自分は家のために、兄たちに資産を譲って、相続を放棄して、灰色の世界に身を投じたのではないか。自分の身を護るためなら、家にすがり付けばいくらでも出してもらえるはずだ。
しかし、ノイローゼが嵩じて錯乱状態となって酒場にあらわれた彼を、案の定、冒険者たちは鼻であしらった。異常現象が専門の彼らなら、信じてくれると思ったのに。仕事の種があるというのに女を口説くのに夢中で、全く別世界のこととばかりに、彼にまったく耳を貸さないものまでいた。一般民衆を護るはずの衛視らしい男もいたが、その彼にしても、一通り話しを聞いたあとは、飲んだくれているだけだった。
彼は、すべてのものを責めた。自分に知識と好奇心を与えたラーダを非難した。
知識自体に罪悪はない、ラーダは、信徒に対して邪なる知識に耐えるだけの心を身につけよとも教えている。とにかく落ち着くように。そう、エーベンは、ただでさえ細い目をさらに細めて諭した。ラーダの見習い神官たる彼だけは、アデニリボスの話に耳を傾けていたが、やはり半信半疑だった。彼の恐慌は、彼自身の想像が生み出した幻想だ、という事で安心させようとした。しかし、衛視が持っていた行方不明の少女の手配書と、アデニリボスが見た少女の特徴が一致したこともあって、逆効果だった。アデニリボスは、自分を信じてくれるものはいない、あとはもう殺されるのみ、と絶望した。
エーベンは、さらに方向を変えて説得した。
「貴方のおっしゃる事は現実です。全く疑いの余地などありません。貴方が見た化け物は実在します!そして化け物は貴方に気づいていました。貴方を襲いに来るかもしれません! ……アデニボリス殿、ここまではっきりしたからには、もうそんなにおびえても仕方ないのではありませんか? 建設的に、対策を考えるべきでしょう。 …どんなに恐ろしい怪物でも、正体が判れば、そこに想像というものがそぎおとされれば、それほど畏れる事はなくなってくるものです。覚悟をきめることによって、ある種のわりきりもできます… 」
それを聞いて、アデニリボスは顔を上げた。
「そのとおりです。ラーダの神官様。さすがは神殿にて、直に神の声を聞くお方です。恐れているだけよりも、方策を練る、それが肝要。そう、神殿、神殿にいけば、そうだ、光の神の神殿! そこならば、邪な魔物から自分を護ってくれるに違いない。事勿れ主義の無法者などに、頼もうとした自分が悪かったのだ!」
アデニリボスの錯乱した目に、光が戻った。
エーベンは自分の説得が、効を奏した事を知った。そう、彼は自分の事を信じてほしかったのだ。皆が彼の言う事を否定するから、よけいに彼自身が疑心暗鬼に陥り、こうまでおいつめられたのだ。彼のいう事をまず認めるということが、彼を安心させる第一の手だったのだ。
彼が店から出たとき、街はすでに煌めく朝日のなかにあった。
店の外で待っていた、彼の猫が迎えに走り出た。
エーベンは彼をほうってはおけぬと、アデニリボスの後を追った。光明を見出し、安心したアデニリボスは、途中くらりと路上に膝を突いた。
アデニリボスは、何日も食事もせず、眠ってもいない。外見が老化して変貌するまでにやつれたのである。もはや歩き回る体力もなくなっているといって良かった。
「これから朝です。不死の怪物どもが動く時間ではない。どうです?午前中は少しお休みになって、午後から赴かれては?神官たちに、貴方の身に起きた事を説明するのも、また根気が要る事でしょう。今は、闘うための、鋭気を養われてはいかがでしょう。」
アデニリボスは、もっともだと考えた。何日も着替えてない服、振り乱れた頭の自分に気がついた。この格好で神聖なる神殿に訪れる訳にはいかない。先ほどと同じく狂人扱いされるのがオチだ。しばし自室に戻り、休養し、身支度を整えてからにしよう。
そう考え、彼はエーベンと別れて、暖かいベッドの待つ自分の部屋へ戻っていった。
◆◆◆◆
その数日前。
オランの学院に新規にやってきたシンクレアは、同じ建物の中に、見覚えのある猫を見つけた。それはとある魔術師の使い魔であった。その猫は、エンヴィリアの「狩り」の現場に居合わせていた。
首にヴァンパイアの噛み痕を持つ、感情のない魔術師。シンクレアは、エンヴィリアに同調していた。彼は、再び見えたヴァンパイアに、使い魔に見られていた事を告げた。エンヴィリアはゆっくりと頷くと、慌てた風もなく、赤い唇に艶然とした笑みを浮かべた。
アデニリボスが深い眠りから覚めて気がついたとき、外はすでに日が沈み、闇が迫っていた。自分が助かるという安堵をみいだし、安心して、何日かぶりに熟睡してしまったのだ。不覚だったが、今ならまだ間に合う、と根拠なしに考えた。昨日は真夜中に酒場までいったのに、無事だったではないか。
さあ、神殿にいこう。あのラーダの神官が前もって説明してくれていたら話しは早い。これで自分は救われる。邪悪なる不死の者よ。光の神の天罰を食らうがいい!
これで、これで自分は助かるんだ!!もう悪夢に悩まされる事はないんだ!!
ああ、晩讃の鐘が響く。神殿が見えてきた。白い柱の影。あそこに。あそこにいけば、助かる。自分は救われる...
闇に浮かび上がるその姿に、一つ脈打つ間でも早くたどり着こうと、アデニリボスは猫を片手に足を進めた。
不意に、アデノシンが、彼の手から離れた。路地裏へ向かう猫を、反射的に追った。
裏道を覗き込んだが、彼の相棒の姿は見えなかった。
頭上から、水滴が落ちてきて、頬に当たった。
雨かな?とおもって頬に手をやった。その手が、紅く汚れた。
...血?
そう思って上を振り向くと、彼の愛猫が、落ちてきた。それは、しかし愛らしい耳、宝石のような瞳孔。彼がより愛したその首より上の部分は、どこにもなかった。ただ、代りにしゅうしゅうと、赤いものが吹き出ていた。
彼は、内臓が喉から絞り出されるほどの、叫び声をあげた。
背後から、彼の両肩に、白い手がかけられた。
長い白い指。なんてなめらかな手なんだ、とおもった。ドワーフの彫刻でも、かくも優美さはあらわせまい。
かぷり。彼は熱い感覚を感じた。陶然、恍惚たる感覚。
自分の精神が、その熱い所から、みな、とろとろと溶けて流れ出すような感じを覚えた。頭のなかに紫煙が漂った。精神がそれにかき消されて、消えていくんだな、とおもった。
薄れ逝く意識の中で、彼は、今まさに自分を殺めようとする存在を眺めた。
闇に溶ける黒い髪。華麗なる微笑を浮かべる整った顔。
美しいと思った。なんて、なんて、甘美な。
ぱしゃり、と彼はそのまま、路地の水溜まりに突っ伏した。
◆◆◆◆
夜影の舘。エンヴィリアの居城。
紅い絨毯の敷き詰められた廊下に、執事のレンフィールドの無機質な顔をはじめとして、数人が並んでいる。そこで彼は、一人増えた従順な召し使いを無造作に眺めやった。
一人、精神にあきらかな異状が見られた老召し使いを処分した後だったので、ちょうど補充する形となった。
オランの裏に姿をあらわしたヴァンパイア。
これからの行く末を慮って、彼はまた、艶然たる薄い笑いを浮かべた。
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