No. 00193
DATE: 1999/05/31 18:42:58
NAME: ケルツ
SUBJECT: 悪夢、あるいは一つの現実
母親は不安定な心の持ち主だった。
自らに訪れる変化を拒み、昨日と同じ明日を願う人だった。
彼女は愛する男の不在を嘆き、その代わりのように子供を愛し、あるいは拒絶した。
子供には名前がなかった。母親のひとみが、いつも彼よりもはるか遠い人間を見ていることを、彼は知っていた。諦めは、意外と早くついた。そうすることが、母親の心を少しも動かさないと知りながら、父を憎み、母を慈しんだ。母の側にいられるのならそれでも良いと思っていた。
彼は一日の大半を独りで過ごすことが多かった。
森へ出かけ、あるいは自室に閉じこもりながら、考え事をするのが常であった。目に見えぬものの声に耳を傾け、体の中から湧きあがる感情を歌に乗せることが楽しかった。不完全とも見える生活の中で、彼は自分を不幸だとは思わなかった。
10をいくつか過ぎた夏の夕べに、その男は現れた。
扉から出てきた男の顔は、夕暮れ時であったためよく見えない。村人でないものがたずねてくるのは珍しい、そう思いながら家へと入り、少年は絶句した。
乱れた室内、床に落ちた様々な硝子瓶、それに入っていたと思われる薬草の数々(母は薬師だった)、そして床にうずくまり嗚咽を漏らす母親。
顔を上げた彼女の瞳に、狂気じみた光が宿っている。身動きできずにたたずむ少年の腕をつかみ、彼女は嫌というほど耳に染み付いた男の名を呼んだ。
「アーシュア!戻ってきてくれたの?」
ああ・・・・と息が漏れる。それでは、あの男だったのだ。母親が自分を見ていない、解っていたはずの事実に体が冷たくなる。
「私を置いていかないで!私を一人にしないで!」
そう叫びながらしがみついてくる母親の姿に冷たい汗が背を伝うのを感じる。白い項、細い四肢、乱れた黒髪、そして黒色の瞳。自分と母親とをつないでいたと思った絆が、簡単に汚されていくのを感じながら、夢だとつぶやく。
それは、見間違うことすら許されぬ、極彩色の悪夢だった。