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No. 00035
DATE: 1999/07/26 15:19:23
NAME: Thieves
SUBJECT: Crimson Rond(2)
3.
夕刻。
<常闇通り>の一角を目指して歩く、一人の青年の姿があった。
上下を浅葱色に統一した衣服と紺碧のタバード(陣羽織)で、色白の長躯をすっぽりと包み込んだ小奇麗な姿は、オランで最も風評の悪い往来では異様に映えている。
赤金の柔らかな髪を後ろに撫で付けた、顎の細い端正な面立ちの若者で、小振りの銀縁眼鏡をかけていた。眼鏡の奥に覗く切れ長の碧眼には、知的さと神経質さを湛える光が浮かんでいる。
頭から爪先までの全体の印象が、<常闇>の名を冠するこの往来には全くそぐわない青年であった。一見、常闇通りの内情を知らずに入り込んだ世間知らずの公子といった風情である。
しかし、道端にたむろするごろつき達は、そんな青年に一瞥をくれるだけで、敢えて絡もうとする者もいない。皆、彼がその細い腰に佩いている銀柄の短剣を見逃してはいないからである。常闇通りに生きる者なら、誰もがその意味をよく知っている。たとえ、その青年は恐くないとしても、その背後に潜む組織を恐れない者はないのだ。
彼の名はベネディクト。盗賊ギルドの一部門に所属する若き盗賊である。”鷹の瞳”の二つ名を持ち、遠方を見通す魔力を秘めた銀縁眼鏡の名が、そのまま由来となっている。
愛用のリピーター(弾倉を備えた、連続発射が可能なクロスボウ)を手にした時、彼の二つ名の価値は存分に発揮されよう。
ただ、それをして他者の命を奪ったことは、まだ一度もなかった。
通りの奥まった一角に、その建物はある。
名を”オーガーのため息亭”と言い、オランに数ある「冒険者の店」の中でも、特に気風の荒いことで有名な店である。
治安の良くない場所にあるからか、この店に舞い込む依頼の殆どは荒仕事であり、故にそれを求める荒くれ者や無法者の類が多く集う。
他の店が厳しく戒め、禁じている刃傷沙汰や魔法の乱用なども、ここでは日常茶飯事で、一年をおいて怪我人の出ない日はないとまで言われている。
それでも、店が営業停止にならないのは、<常闇通り>と言う立地条件が官憲の追求を難しくしているからであろう。
一般に冒険者の店は「やくざ者の巣窟」などとありがたくない呼ばれ方をされ、またそれが事実でもあるが、この店は特にその色合いの濃い場所と言えよう。
その日、ベネディクトが訪れた時も、店内は「日常茶飯事」の真っ最中であった。扉を開けるなり、目の前でドワーフとエルフの取っ組み合いが行われていたのだ。
ドワーフの方が喧嘩慣れしているらしく、エルフは数発の鉄拳を浴びて吹き飛んだ。床の上に崩れ折れるエルフに向かって、ドワーフが早口で罵声を投げつける。他の野次馬連中もそれに合わせて、エルフを囃し立てた。
エルフはよろよろと立ち上がると、腫れ上がった顔に怒りの形相を浮かべて、ドワーフを指差した。続けて、口から甲高く呪文が紡ぎ出される。
直後、天井から吊り下がるランプの炎が一度ゆらり、と大きく揺らいだかと思うと、その中から炎の弾丸が飛び出してきた。火霊を使役する精霊魔術の一で、一般に”炎の矢”などと呼ばれている。
炎はドワーフをしたたかに打ち据え、ずんぐりとした体躯はたちまち炎に包まれた。牡牛の悲鳴にも似た声でうめき、ドワーフは顔を覆ったまま外に向かって走り出す。それを見た野次馬たちは一斉にヤー、と歓声を上げた。
ベネディクトは軽く身を捻り、闘牛士よろしくその突進をかわすと、店の中に入ってさっさと扉を閉じてしまった。路上からは、火達磨となって転げまわるドワーフの狂態ぶりが聞こえてくるが、特に関心を払おうともしない。野次馬連中も先ほどの喧嘩などもう忘れたかのように、それぞれの輪の中に戻って憩いを楽しんでいる。
”オーガーのため息亭”ではごくありふれた光景であった。
紫煙で靄がかかったような店内。客達の放歌高吟のさざめきの中を、ベネディクトは幾つものテーブルを掻い潜って足早に奥のカウンター席へ向かう。
カウンターでグラスを磨いていた初老の男が、ベネディクトに気がついた。
「ベネ」スツールに腰を下ろした彼を、男は愛称で呼んだ。「今日は一人か」
「キャミィもハーリーも仕事。暇してるのはボクだけってワケ」
「キャミィもか。そうか、あの娘もようやく仕事を任せられるようになったんだな。今度、祝いでもしてやろう」
男・・・”オーガーのため息亭”の店主イヨマンテは、磨き終えたグラスに柑橘水を注ぐと、ベネディクトの前に置いた。
初めてこの店を訪れた時、こわもてで筋骨隆々たる体格のこの男が、ベネディクトは恐ろしくて堪らなかった。しかし、思い切って話し掛けてみると意外に気安い人物で、まだ二十歳にも満たないベネディクトの話に良く付き合ってくれる。
以来、ベネディクトは、用はなくとも暇さえあれば、この店を訪れていた。
「キャミィも喜ぶよ。今日のは簡単な仕事だそうだから、もう終わってもいい頃だと思うんだけどナ」
「どんな内容なんだ」
「昨日、ギルドに回ってきた盗品の出所の裏を取るってサ。ユーマ姐さんと一緒に動いてる」
「はは、まだ監督付きか」
イヨマンテは子供の仕事ぶりを聞く父親のように、楽しそうに目を細めた。
店の常連になって間もなく、ベネディクトは親しい二人の仲間、ハーリーとキャミィをこの店に連れてきて、イヨマンテと引き合わせていた。二人の若者も、親子ほど年の違う彼をすぐに慕うようになっている。
「本当の初仕事だからね。ユーマ姐さんも、ここで巧く行かせて自信を付けさせてやりたいんだと思うよ」
「何事も出だしが肝心と言うからな。それで、ハーリーは何をしている」
「もう終わってるはずなんだけど」ベネディクトは小首を傾げた。
「ここ一巡りの間、豪商連の密会を探るために港湾区域に張り付いてたんだ。昨日中に帰ってくるはずだったんだけどね。それとも、ヘマでもして監獄でフテ寝してるかな?」
「なに、誰がヘマをしたって?」
「ハーリーでしょ。あたしは巧くいったもん」
背後に、二つの聞きなれた声が上がった。振り向くと、ハーリーとキャミィがにこやかに笑って立っている。
「よう、今帰ったぜ」
「ただいま、ベネ」
二人の親しげな帰還の挨拶に、ベネディクトも暖かい笑みを浮かべた。
「お帰り、二人とも。その様子だと、ハーリーは監獄戻りでもないみたいだネ」
「行けば必ず戻ってくる、”ブーメラン”ハーリー様だぜ?売れっ子には次々に仕事が舞い込むのだよ、ベネディクト君」
ハーリーは自慢げに片目を瞑って見せ、友の肩を親しげに叩いて右隣のスツールに腰掛けた。
キャミィはベネディクトの左に座る。一番背の高い彼を挟んで、ハーリーが右、キャミィが左である。三人して座る時は、これが定位置であった。
「ただいま、イヨマンテさん。おなかすいちゃったよー、ご飯ちょうだい」
小さな体を乗り出して、キャミィが無邪気に声をかける。三人の中でも、キャミィは特にイヨマンテに懐いていた。幼い頃にギルドに売られた彼女は親の顔を知らない。自然、このこわもての男に父親の影を求めている節があった。
イヨマンテはキャミィを見て、
「まあ、まあ、待て。まずは、祝杯をあげようじゃないか。お前さんの初仕事を祝ってな。もちろん、わしのおごりだよ」
厨房の奥に声をかけると、使用人がすぐに酒壷と杯を抱えてやってきた。それを見たハーリーが、軽く口笛を吹く。
「あっ、嬉しいねー。おやっさん、よく分かってるじゃないのさ。よし、まずは乾杯と行こうや」
言うが早いかハーリーは杯を手に取り、いの一番にエールを受けている。
「呆れた奴だナ。今日はキャミィの祝いだろう」
ベネディクトも杯を取るが、酒が半分も注がれないうちに、手を挙げて止めた。下戸なのである。
「縁起物だよ。こういうことは、みんなで賑やかしくやるもんさ。なぁ、キャミィ」
「うんっ」
イヨマンテから杯を受けているキャミィも嬉しそうに答えた。思いがけない祝い事に喜色満面としている。
「では、ハーリー。音頭を取ってくれ」
最後に自分の杯を満たしてから、イヨマンテが声をかける。
ハーリーはすっくと立ち上がると、杯を掲げてまじめな顔をして見せた。一つ咳払いしてから喋りはじめる。
「我らが同輩、”蜂蜜”キャミィが自身の多大なる努力と、ガネードのささやかなる思し召しにより、今回初の仕事を無事に成し遂げられたことに、我ら一同、心よりの祝辞を贈る。では、乾杯ッ」
「乾杯ッ!」
杯が掲げられ、打ち鳴らされる。
狂騒に色めき立つ”オーガーのため息亭”の片隅・・・、小さな成功と大きな絆を確かめ合う祝宴は、その日、夜更けまで続いた。
4.
宵闇。
”こじ開け”ジャミルは、恐怖に喘いでいた。
痩せこけた身体が、おこりに冒されたように震えている。
呼吸も苦しく、胸がきりきりと締め付けられるように痛む。
ともすれば、そのまま気を失ってしまいそうであった。
そうなってしまえば、どんなに楽であろうか。
だが、それはできなかった。右肩と両の腿とを襲う激しい痛みが、意識を断ち切らせないのである。
ジャミルの視線は前方に縛り付けられていた。数歩の距離を隔て、暗闇の中に佇立して己を見据える男の吊り上った瞳から、目を逸らせないでいた。
そこに、入念に寝刃を合わせた刃の煌きにも似た、鋭い殺意が灯っている。
ジャミルは、同業者にその瞳をして見せる者達があるのを知っていた。それを相手取る愚かさも十分に知っていた。
知っていたはずなのである。
(なのに、何でこんなことになっちまったんだ)
ジャミルは脂汗を流しながらうめいていた。汗が背筋を伝い、衣服を濡らすのに、堪らない不快感を覚える。
足元に、先ほどジャミルを襲った凶器が三つ、転がっていた。それは短剣でも吹き矢でもない。平たく丸く削り上げた、だがどこにでも転がっている、何の変哲もない石くれであった。いずれも片端には血がこびり付き、まだ乾いていない。
(信じられない)
ジャミルは否定したかった。
肉に突き刺さる勢いで石を放ってきた、その男の力を。
抜打ちで放った三つを全て的確に当ててきた、その男の技量を。
(わからない)
ジャミルは理解できなかった。
つい先ほどまで、目当ての屋敷を抜け出して意気揚々とギルドへの帰途についていた自身の姿と、今ここに、慄然と立ち尽くす自身の姿とが、どうしても繋がらなかった。
「お前は・・・」
男に向かって、ジャミルは声を絞り出した。喉が渇き、顎がこわばり、舌が引き攣って固く縮こまっている。
「お前は・・・誰なんだ」
辛うじて、そこまで口にできた。
言葉を口にし、それを耳にしたことで、ジャミルを縛る恐怖の縄が、ほんの少しだけ緩んだ。頭脳が、僅かに血の巡りを取り戻す。
ジャミルの脳裏に、先ほどまでの記憶が、薄布を剥がすようにゆっくりと蘇ってきた。
徹頭徹尾、仕事は完璧に進んだ。
塀を越え、見回りと番犬をやり過ごして裏口へ至り、巡回の流れが途絶える寸刻を逃さず扉の上を解き、巧みな抜き足で屋敷に潜入する。
贅を凝らした邸内は広く、初めて入る者は迷うこと必定と言う有り様であったが、あらかじめ頭の中に叩き込んでいた屋敷の見取り図の精度は高く、調度品の位置についてさえも寸毫の狂いもなかった。
廊下を伝い、階段を上り、やがて奥まった一室の扉を開く。
そこが、目当ての宝物庫であった。
部屋の中にあった品物は、用意した頭陀袋に入り切れないほどにあった。薄闇の中で目を凝らし、念入りに品定めをして放り込んだ金品の類は、合わせれば金貨でも1000枚は下らないだろう。鑑定眼にも揺るぎ無い自信があった。
巨大に膨れ上がった頭陀袋を背負ってなお、ジャミルの忍び足は見事であった。行きと全く変わらぬすばしこさで、彼は豪商連の邸宅から脱出してのけた。
邸宅は、<エイトサークル>周辺の貴族区画南部の一角であったから、ギルドへ戻るには、八本大路の、太陽丘と近衛軍兵舎区画に挟まれた大路が最短の距離であった。
しかし、太陽丘はラーダ神殿の寺領であり、また近衛軍兵舎の近辺にはマイリー神殿がある。故に近衛の夜警は元より、両神殿の聖堂騎士も巡回に立つこと頻繁である。この大路を選ぶことは、すなわち虎口竜穴に入ることと同義であった。
ジャミルは思案の末、王城の周回をぐるりと経て、北北西を突く大路・・・つまりファリス神殿とマーファ神殿の寺領に挟まれた大路を行くことにした。周辺に「賢者の学院」を擁するこの区画は、平時の人通りも他に比べるとまばらかで、夜ともなれば精霊のさざめきが聞こえそうなほどに静かなものである。
ところで、大路を行くと言っても無論、馬鹿正直に往来のど真ん中を闊歩するわけではない。彼ら夜盗が歩むのは、あくまでそれらの小脇に伸びた路地裏である。
頭陀袋を抱えたジャミルの痩躯は、猫のように路地を跳ねていく。
珍しく、同業の夜盗に会うことはなかった。
その数、軽く三桁を超える<窃盗方>である。全てが同時に「仕事」に就いているわけではないが、それでも、丸っきり会わないことは稀であった。
ギルドへ戻る前に同僚に大手柄を披露し、彼らから投げかけられる羨望と嫉妬の混じった視線を夢想していたジャミルは、いささか拍子抜けする思いを味わいながら、先を急いだ。
やがて、ハザード川沿岸通りに至った。オラン中央部を縦断するハザードにより、街区は東西に二分されている。川の中程に浮かぶ二つの中州が、それぞれに端で東西を結んでおり、これが通り道であった。
盗賊ギルドは、南側の中州橋を渡った先のすぐ、左手に立ち並ぶ住居の一角に存在する。
ジャミルは沿岸通りからハザードの土手に降りると、川より漂う涼気を心地よげに受け、河原の小石を軽く蹴立てながら南に下っていく。
彼の健脚を以ってすれば、あと幾百も数えないうちに、ギルドへ辿り着くであろう。
自然、足取りは軽やかに、動きは大胆になった。
その時である。
ぴっ、ぴっ、ぴっ・・・・・・ぽちゃん。
ジャミルの鋭敏な耳が、川面に立った微かな音を捉えた。彼の足並みがぴたりと止まる。
何の音かはすぐに分かった。川に水平に投げ込まれた石が、水面を弾んでいったのである。水切り遊びの音だ。
だが、このような時刻にそれをする者があるのか。
闇夜に慣れたジャミルの目が、前方にその姿を捉えた。
川に向かって、一人の小柄な男が立っていた。
(猿みたいだな)
それが、男を見た最初の印象であった。
人間にしてはやけに小さい、と言ってドワーフほどでもない。だが、腕だけは随分と逞しく、そして長かった。その不釣り合いさが、類人猿を連想させるのである。
闇に溶けるような、暗色系統の衣服にすっぽりと身を包み、顔にはどうやら覆面を着けているようだ。
(堅気じゃ、ないな)
直感が、ジャミルにそう告げた。男の佇まいに、同類の匂いを嗅ぎ取っていた。
見覚えのある男ではない。数百人の盗賊からなるオラン盗賊ギルドである。部門によっては、身内にすら正体を隠す者もある。当然、全てのギルド員の顔形を把握することはできない。
気づいているのか、いないのか、男は振り向かず、ただ川面を凝視している。
このまま、立ち止まってもしょうがない。ジャミルは、ざり、と一歩を踏み出した。
男が振り向いた。覆面の切れ込みから、細く吊り上った猫のような瞳が覗く。
「よう、兄弟。景気はどうだい?」努めて明るい口調で、ジャミルは声を投げかけた。
「・・・・・・」
「俺はギルドへの帰りさ。あんたは、夜更けのハザードで酔い覚ましってとこかい?」
「・・・・・・」
「この戦利品、見てくれよ。今回は大量だぜ。俺の見立てじゃ、銀貨5000枚は堅いねぇ」
「・・・・・・」
「近頃の<窃盗方>で、これほどの働きをしたのは俺くらいだと思うぜ」
「・・・・・・」
「あんた、同業だな。所属はどこだい」
「・・・・・・」
「・・・聞いてるか、兄弟?」
「・・・・・・」
男は一言の応えもせず、ジャミルを見据えているだけであった。両の腕をだらりと下げ、拳を開いたり閉じたりしている。
その時、ジャミルはふとした不安に駆られた。眉を寄せ、目を瞬かせて、男のみなりに注意を払う。
それから、大きく息を吸込むと、
「月のない晩には、ハザードの上流から魚どもの歌が聞こえるってな。酒のつまみに聞いてみないかい?」
右手の指を折り曲げ、伸ばし、ぐるりと手首を捻って見せる。
ジャミルが行ったのは、盗賊ギルドに伝わる符牒(合い言葉)の一つである。内容は誰何・・・つまり、「お前は誰だ?」と問い掛けているのである。
これに反応を示さなければ、それはオラン盗賊ギルドに顔を出していない者・・・つまり「もぐり」と言うことになる。
男は、無反応であった。
いや、正確には反応した。
ジャミルが、ハッ、と表情を改めた刹那、男の手が閃いた。
何かが風を切り、ジャミルの右肩と両の太腿に鋭い衝撃が走った。
よろめくジャミルの視界に、地を這うように、思いもかけぬ素早さで前に出てくる男の姿が入ってきた。覆面から覗く瞳に冷えた光が揺らめき、それは太い氷柱のようにジャミルの胸を穿った。
我知らず、ジャミルの口から甲高い悲鳴がほとばしっていた。
それから、時間がやや飛ぶ。
気がつけば、ジャミルは<常闇通り>の奥深く、ひっそりとあばら屋が立ち並ぶ狭い路地の真ん中で、大きく息を吐いていた。
どこをどのように走って、ここまで来たのか、さっぱり覚えていない。身体に刺さった得物もそのままに、直走りに走ったのである。
いつのまにか、大事に抱えていたはずの頭陀袋も放り出し、手ぶらになっていた。
呼吸が整うにつれ、両腿と肩の傷が、ひどく疼きはじめた。
ジャミルはよろよろと手で傷口を探ると、肉に深く食い込んだ凶器・・・平たい石くれをほじくりだして投げ捨てた。
その時、前方の闇が人間の形に、もこり、と膨れ上がった。
ぎょっとして目を見張るジャミルの前で、それは闇の幕を割り、たちどころに正体を現す。
男が、覆面の小男がそこに立っていた。
回り込んでいたのだ。
男が、つい、と動いた。
殺気に呑まれていたジャミルは、咄嗟に動けなかった。
慌てて腰の短剣を引き抜くと、男の胸元めがけて突き出す。
男の手が、再度閃いた。
それの意味するところに気づいた瞬間、ジャミルは両目をしたたかに打たれていた。眼球の中で火花が爆ぜたような、激烈な痛みが走る。
「うあっ」
ジャミルの身体が、くの字に折れ曲がる。力なく突き出されたままの腕に、男の逞しい指が添わった。
男が手首を捻ると、ジャミルの身体はたちまちに宙を舞い、背中から地面に叩き付けられていた。
「うっ・・・」
打ち所が悪かったらしく、息が詰まって身動きができない。
固く強ばるジャミルの身体の上に、男がのしかかってきた。
逞しい指が、今度はジャミルの首にかかる。そして、一気に締め上げてきた。
万力のごとき勢いがジャミルの首を襲う。
ぼきり。
五つも数えないうちに、鈍い音を立てて、頚骨はあっという間に圧し折られた。
生暖かい感触が、喉元から口と鼻に迫り上がってくる。
「俺様ハ、ろーどす、カラ来タノヨ」
低く擦れた声が聞こえる。片言のひどくたどたどしい共通語だ。途中に、聞き慣れない単語が差し挟まれていた。
その台詞が男のものであることに気づく間もなく、ジャミルの意識は、たちどころに鮮紅色の濁流の中に引きずり込まれていった。
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