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No. 00079
DATE: 1999/09/03 10:48:28
NAME: エトゥシャ
SUBJECT: 流星出立
夜風が草原を渡る。
ひゅうひゅうという風霊の囁きは、ざわざわという草花の歌を呼び、やがておうおうと鳴り響く声となり、満ちて行く。
青年はそこにいた。
長く伸びた髪が、強い風に弄られ羽のように虚空に広がる。杖を抱き、大地の上に片膝立ててあぐらをかき、天空に散らばる星の輝きを見つめたまま、彼はもう何刻も微動だにしなかった。
遠くに、ゲル(テント)の灯かりが見える。それもまた星のようだと青年は思った。
びぃん、と弦が鳴った。
客人は緊張のおももちで、汗のにじむ掌を膝にこすりつけている。
さる部族の長とその従者が対面しているのは、小さく縮んだ二人の老婆だった。彼女らは同じ顔をし、同じ衣装を着、同じように白い髪を結っている。
びぅいん。
気だるく弦が鳴る。
客人達の背後には、若い二人の女がいた。馬頭琴を指でつまびく彼女らもまた、同じ顔をし、同じ姿をしていた。
「我ら、双星の部族」
「この地に来たりて、根を下ろすことはや数百年」
老婆の歌うような声と、弦の響きとが風の音を裂いた。
「我らかつての罪あがなうがため」
「草の海に暮す同胞をば助けん」
老婆の一人が、装飾のほどこされた水盆を覗き込む。
「見ゆるぞ」
「我にも見ゆるぞ」
「街じゃ」
「石の街じゃ」
「盗人は西へと逃げた」
「祭器を持ち去った盗人は、街へと逃げ込んだ」
「翡翠を持ち去った盗人を追うぞ」
「や、誰が追うかや」
二人の老婆のやりとりを、客人達は神妙に聞いている。
「なれば星に問うが良い」
「星に問うたぞ」
「『狩人』を遣わすぞ」
「誰ぞ、呼んでまいれ。あの子をここへ」
青年は長い髪を垂らしたまま、先程まで客人が居た場所に腰を下ろしている。
風は止んでいた。
若い双子の巫女が、彼の前に細い短剣を置いた。銀色の刃が、吊るされた灯かりを映している。
「星がおぬしに命じた。今一度オランに行け」
「奪われた祭器、彼らの元へ持ってまいれ」
青年は拳を床につき、うやうやしく頭を垂れた。老巫女は続けた。
「掟に従い、“外”にて名を名乗る事あたわず」
「また、髪を切らぬ事、女に触れぬ事、すべて『狩人』の掟なれば、破る事あたわず」
「心得ましてございます」
青年は顔をあげ、短剣を手に取った。
「これよりエトゥシャと名乗るがよい」
「その誓いの刃もて、証しを立てよ」
顔色ひとつ変えず、青年は逆手に持った短剣を、己が肩に叩き込んだ。刃の先が骨にあたり、小さな音をたてた。
剣を引き抜くと、見る間に服が赤く染まった。若い巫女の一人がその刃を受け取り、血を拭って再び彼の目の前に置くと、残る一人が血染めの肩に細く白い手を当て、精霊に呼びかけてその傷を癒した。
短剣を手に、青年は立ち上がった。夜明け前に、星が消える前に、彼はここを発たなくてはならないのだ。
「健やかにあれ」
老巫女の言葉に、青年は頷いた。
空が濃紺から紫へと変わっていく。
青年……エトゥシャという名を与えられた『双星の部族』の『狩人』は、すっかり旅支度を終えていた。指を二本唇に当て、細く口笛を吹くと、一頭の馬が群れの中からやって来た。
額に白い星を持つ鹿毛の駿馬。エトゥシャの愛馬だった。
少ない荷を積み、自らも馬上の人になった時、二人の若巫女が駆けてきた。
「これを持っておいき、お守りです」
「礼はいりません。儀式の後、部族の者と言葉を交わすのも、また禁忌」
二人はそれぞれ、手にしていた細い組み紐をエトゥシャの手首に結び付けた。
「今はエトゥシャと名乗る者よ、お前は私たちの弟」
「巫女として、姉として、お前の無事を星と精霊に祈っています」
エトゥシャは頷き、愛馬の腹を軽く蹴った。
草原を風の精霊が渡って行く。
これから自分は、馴染みの浅い神の守る地に向かうのだ、とわずかな感傷が頭をもたげた。
だが。
ふとエトゥシャの唇に笑みが浮かんだ。
かつて、さる部族の依頼で災いを狩りに行った街。
とまどうことも多々ありながら、冒険者の思わぬ人情や、正義感に触れられたあの街。
盗まれたさる部族の祭器、翡翠の額冠と腕輪。それを取り戻すのも、そう難しい事ではないかもしれない。
愛馬の足並みと同じように、エトゥシャの心も軽かった。
白んだ空に、今だ消えぬ星々の輝きが、歌うように瞬いている。
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