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おまえの小さな耳に触れる 砂のきらめき 黄金(こがね)の涙 おまえのやわらかな髪につもる 流れる雲に抱かれるように 優しい腕で包むから そっと目を閉じて 眠りの国の扉を開けて 溶けてゆく声を聞いて眠りなさい そっと目を閉じて 夢の世界の扉を開けて 満ちてゆく月を感じて眠りなさい (なんか…すっげぇ懐かしいもの思い出したな…。ガキの頃に親が歌ってた子守歌だ…) 浅い眠りから、ふと目覚めて、俺は唐突にそれを思い出した。そう…まだ……5才か6才だよな。それまでは、お袋がそれを歌ってたんだ。そして、それから後は…親父が。 宿のベッドの上に寝転がった姿勢のまま、なんとなく溜め息が出た。まだ真夜中だ。…なんでこんな中途半端な時間に目が覚めたんだか…。そうは思っても、一度目が覚めると、なかなか寝付けない。冴えた目をもてあましてると、次から次に余計なことを思い出す。 エルフの親父とハーフエルフのお袋。小さい頃は…お袋がそばにいた。多分、親父は外に働きに行ってたんだろう。家族の生活費を稼ぐために。その頃はまだ…確か……タイデルの近くにいたように思う。はっきりとは覚えていない。両親の出会いそのものはどんなものだったのかは聞いたことはない。ただ、お袋はもと冒険者だったし、親父は、自分では『冒険者になり損ねた』と言ってたけどな。 とにかく…親父はどうやら、あまり体が丈夫ではなかったらしい。慣れない仕事に疲れて、体をこわした。で、代わりにお袋が働きに出ることになった。そして、あの子守歌はお袋から親父に交代したんだ。 お袋は、いくつかの職をかけもちしていたらしいが…それでも、家族3人で食べていくのがやっとだった。だから、お袋は決心したんだ。…もう一度、冒険者になることを。そうすれば、宿屋の雑用をしているよりは稼ぎがある。ただ、心配なのはまだ小さかった俺と、伏せっていることが多かった親父のことだ。だから、親父も決心した。自分の生まれ故郷に帰ることを。…ああ、今でも覚えてるな、あのときの会話は。 「大丈夫。冒険者の仕事の隙間に…会おうと思えばいつだって会えるから」 「けど…この子は…」 「それも大丈夫。この子は…どこでだってやっていける」 「それは…どこに行っても辛い思いをするってことかい? この子が…ラストールドがハーフだから…」 「そりゃそうだわ。あたしだってそうだったもの。…けどね、いい? だからこそ、どこでだってやっていけないと困るの」 会話の内容そのものは…正直、あの頃はよくわからなかったかもしれない。でも、自分のことが話題にのぼっているのはわかった。だから俺は言ったんだ。 「僕なら大丈夫!」 って…。眠ってると思ってた俺がいきなり叫んだから、2人ともびっくりしていた。そして、2人で微笑んだ。なんとなく…複雑な表情で。 エルフの住む里に…初めて行った日のことはあまり覚えてない。何しろ、周りはみんな、エルフ語で喋っているんだ。こっちはまだろくに言葉も覚えていない。両親との会話ももっぱら共通語だったし。…近所に住んでいたガキどもは西方語で喋っていたらしいが…まともな会話なんかほとんどかわしてはいなかったから。 なんか、偉そうな銀髪のエルフとしばらく話して、結局、里の片隅に家を用意してもらった。 そして、そのエルフは親父に言った。わざわざ共通語で言ったのは、俺にも聞かせようとしていたのかもしれない。 「サーヴァルティレル。おまえが何故、混ざりものなどを選んだのかはわからん。…が、我らはこの子供を受け入れよう。認めることはしないがな。ちょうど…おまえと同じような金の髪だ。瞳の色は多少違うようだが。おまえが果たさなかった責任をこの子供が、おまえの代わりになって果たすというのならな。…この村で成人して、共同体の一員としての責任を果たす。それが、我らの生きる道だろう?」 「存在を…認めずとも、責任だけは負わせると言うのか?」 「もう遅い、サーヴァルティレル。おまえは、ここにこの子供を連れてきてしまったのだから。…まずはエルフ語を覚えてもらわねばな。そして、精霊との対話を。……20年だ。20年の間に、ここから逃げ出したあのときのおまえと同じ程度には精霊魔法を扱えるようになってもらう」 そう言って、銀髪のエルフは俺を見下ろした。思わず、反射的ににらみ返す。が、エルフは軽く鼻を鳴らしただけだった。 そうして、エルフの里での暮らしが始まった。午前中はエルフ語の講義。午後からは、精霊魔法の修行。そして、夜は親父と一緒にエルフ語の復習。エルフ語そのものは、1年足らずで話せるようにはなった。…話せないと困るからだ。必要最低限、伝えなくてはいけないこと以外は、彼らは俺にエルフ語で話しかけた。こっちの理解など考えちゃいない。理解できないほうが悪いのだとでもいうように。 エルフ語を覚えると、精霊との対話を教える彼らの言葉が理解できるようになった。共通語よりも、言っていることの意味が捉えやすかったからだ。 多分…義務感だけだったと思う。自分が力をつけなくてはならないという義務感。それでも、精霊の声を初めて聞いた時には感動した。自分の目の前に、違う世界が広がっている感覚。あの時のような驚きと感動は、そうそうあるもんじゃない。ただ、そこから先、呪文を覚えて魔力を高めていく修行は、さらに厳しくはなったけど。それでも…義務感から始めた修行でも…そして、それを教えたエルフたちが、どんなに冷たくても、精霊と触れあうことができたのは、純粋な喜びだった。 母親のミリアとは、年に数回、ふもとの町で会っていた。体調のいいときには、親父も一緒に。 「ひさしぶり、ラス、サーヴ。元気だった? …大きくなったね、ラス」 会うたびごとに、お袋はそう言った。“大きくなった”と。にこにこと笑って。それでも、時折、わずかに寂しさに似たような表情を見せる。昔はそれがわからなかった。…今ならわかる。多分、お袋は寂しかったんだ。我が子の成長を毎日見続けられないことが。 「うん、元気だよ。精霊魔法の呪文もまた1つ覚えたしさ」 お袋には…いや、一緒に暮らしている親父にも、言ったことはなかった。俺に対するエルフたちの態度は。言っても仕方のないことだと思っていた。 「そう、よかった。あたしも元気。こないだは、リファールまで行ってきたの。すごくいい街だった」 「リファール? どこにあるの?」 「タイデルは覚えてる? そのずっと西がわよ」 そう言って笑うお袋に、親父が心配げに微笑みかける。 「君は…無鉄砲だからな、それが心配だけど…」 「あら、あたしは冒険者だもの。大丈夫…いつまでも続けてやしないわ。もう少し…お金を貯めて、いつか、小さな店を持ちましょ? そうしたら、家族3人で暮らせるから」 家族3人で。…そんな日が早くくるといいと思った。多分、エルフの世界でも人間の世界でも、ハーフエルフに対する態度なんて、そう変わらないだろう。それでも、両親がいるだけで、救われるから。 エルフの里では、親父の従姉妹にあたるという若いエルフが、俺たちの家をよく訪れていた。 「ラストールドは…もう、かなり呪文を覚えたのだろう?」 「いや? それほどでもない。……いつでも、怒られてるし。タナトゥーシャ…ターナは?」 従姉妹、ターナの目の前に、ハーブティーを注いだカップを置いて、自分もその正面に座る。ターナがかすかに笑った。 「気にすることはない。おまえを指導しているのはエルルークだろう? 先日、彼が長老たちと話しているのを耳にはさんだ。ラストールドは覚えが早いと。もう、闇の精霊を扱えるとか? おまえがここに来てまだ10年足らずだ。覚えは早いほうだろう」 「……それより、ターナはよくここに来るけど…いいのか?」 「何がだ? 私が来るとまずいのか?」 「いや、俺も親父も…来てくれるのは嬉しいんだけど。周りに何か言われないのかと思って。…ここには、ターナ以外のエルフはほとんど来ないから」 「気にするな。私が来たいから来ている。…ん? その…腕の痣はどうした?」 袖口から見えたらしい。俺の右腕にある痣をさして、ターナが聞いた。 「いや…これは…。ああ、そう言えば…聞いてみたかったんだけど…東の森の奥には…何があるんだ?」 「東の? 奥と言うと、白い宿り木の向こうのことか? あそこは…墓だ。我ら部族の者たちの体が眠っている。中心に立つ大きな樫の木は、魂が精霊界へと旅立つ門とされている。…それが腕の痣と関係あるのか?」 「なるほど、墓か…。いや……何日か前に…エルルークの説教から逃げてそっちに行ったんだ。で、うろうろしてたら、その白い宿り木のあたりで、いきなり矢を射かけられた」 苦笑する俺に、ターナが鼻白む。 「…何?」 「矢は当たらなかったよ。最初から足を止めさせるだけのつもりだったんだろ。ただ、そのあと木の枝で殴られただけだ。“おまえのような汚らわしいものがここに足を踏み入れるな”ってな。その時にわけを聞いてみたけど…“よそ者が知る必要はない”ってさ」 「…あそこは……聖なる土地だからいつも見張りがいるんだ。…それにしても…“よそ者”とは…」 「気にするなよ。……実際、そうだろ。エルルークだってそうだ。俺のことを…よそ者…っていうより、汚らわしい者として扱ってる」 「…こめかみにも傷があるな。…すまない。私はまだ生命の精霊と触れあうことができていないんだ」 「いいよ、たいした傷じゃない」 「……なら…いいが…」 ターナが目を伏せる。彼らの行動を、同じ純血のエルフとして、理解できるからだろう。そして、それは俺にも理解できる。だからこそ、わからなくなる。親父が、何故お袋を選んだのか。 無言でお茶を飲むターナに、ふと聞いてみたくなった。 「エルフにとって…ハーフってのは……いや…親父の気持ちが……ごめん……うまく言えないけど…」 「私には…よくわからない。ただ、他の混血は見たことがないが、おまえのことを汚らわしいとは思わない。だからこそ、私はこの家を訪れる」 俺の目をまっすぐに見つめて、ターナはそう言い切った。 その同じ問いを…親父にする気にはなれなかった。聞けるわけがない。“汚らわしいハーフエルフごときを何故愛したのか”とは。多分、その問いは、あの銀髪のエルフ…エルルークから発せられただろう。俺の口から、それを聞けば、親父は傷つく。 それに、俺は自分を卑下するつもりなど毛頭ない。この里のエルフ全てに嫌われていたとしても、親父とお袋がいるから。俺が持っているのはひどく小さな世界かもしれない。けど、それさえあれば、生きていける。 「タナトゥーシャが来ていたようだが…帰ったのか?」 親父が部屋から出てきて尋ねた。ちょうど俺は、夕食の準備をしていた。 「ああ、夕食を一緒に…って言ったんだけど…今日は長老に呼ばれているからって」 「そうか。タナトゥーシャも…最近はずいぶんと大人びてきたようだな。そろそろ90か…。私の従姉妹たちのなかでは一番若い世代だったはずだが」 かすかに笑みを形作って、親父は椅子に腰を下ろした。…動作が重い。今日は少し疲れているのかもしれないと思った。 ……人間の世界で無理をして以来、親父の体内の精霊バランスはわずかに歪んでいる。ゆるやかに得た病には、魔法の癒しはほとんど効果を現さない。同じようにゆるやかに、戻していくしかない。 「どうだ? 魔法の修行のほうは?」 「ん? ああ……まあ、なんとかね」 「……大丈夫だよ、おまえなら。おまえは賢い子だ。もっと自分に自信を持ちなさい」 そう言って親父が微笑む。……自分が、そこまで単純だとは思ってはいなかった。けど、親父の『大丈夫』を聞くと…そして、その微笑みを見ると、なんとなく幸せな気分になった。エルルークや他のエルフたちに、冷たくされようが殴られようが、家に帰れば、親父は微笑んでくれる。大丈夫だと言ってくれる。 …だからこそ、いつも聞けない。…聞けば傷つける。わかっている。けど、聞いてみたかった。 『なぜ愛したのか』 『なぜ子供を作ったのか』 『その全てに…迷いはなかったのか』 聞いてみたい。…いや、聞きたくなんかない。聞くと傷つける? 聞いて傷つくのは誰だ? …違う、そうじゃなくて。信じてるから。だから…俺は大丈夫だから。だから…でも。 『後悔したことは一度もなかったのか』 ある日…確か、エルフの里に住むようになってから15年ほど経った頃だ。3人の冒険者が里に訪ねてきた。人間が2人とエルフが1人。戦士と神官と精霊使いだった。そして、リーダーらしき神官が俺と親父に告げた。少し前に潜った遺跡で……お袋が死んだと。 「仲間を…罠にかかった魔術師の仲間を救おうとして彼女は……」 神官が告げる言葉を、俺も親父も黙って聞いていた。 「すまん…遺品はねえんだ。……回収しきれなくって…。これは……その時のわけまえだ。ミリアのぶん。そして、宿に預けていた彼女の荷物。……たいしたもんは残ってねえが…」 そう言って戦士が、小さな皮袋に入った宝石と、背負い袋をテーブルの上に置いた。 「ミリアがよく、家族のことを話していたものですから。夫と息子がいると。ここの場所も彼女から聞いていました」 エルフの精霊使いがそう言って、寂しげに微笑む。 親父は放心していた。最後に会ったのは、1年前だ。その時の笑顔は未だに焼き付いている。 『そろそろ、お店を開いてもいいかもね。お金も結構たまったし。どこにする? タラント? それとも…いっそ、オランとか?』 明るい栗色の髪と、青い瞳。俺と同じハーフエルフだった彼女の年齢は外見ではわからない。実際、俺と並んでも、親子とは思われないだろう。多少、顔立ちは似ていたから、姉弟と思われたかもしれない。 「わざわざ……ありがとうございました」 すまなそうにうなだれている3人の冒険者に俺は頭を下げた。そう、彼らの責任じゃない。冒険者とはそういう職業だ。お袋も…ミリアもそれはわかってたはずだ。足りなかったのは…運かもしれないし、実力かもしれない。誰かを…その魔術師を恨むのは筋違いというものだ。それに…もしも、恨もうとしても……ここに3人しかいない以上、その魔術師も助からなかったのだろう。 ミリアの背負い袋を開けてみる。幾ばくかの宝石と現金。そして、予備のダガーが数本と、着替えが少し。…それだけだ。 「…………残る…ものなんか……」 精一杯、生きてきたはずなのに。それでも、あとに残るものはたったのこれだけだ。 人間の住む村で育ったというミリアも、ハーフエルフであった以上、生きることは楽ではなかったはずだ。…俺は…俺自身は幸せだったと思う。他のハーフエルフよりも。少なくとも、両親には愛されていたし、彼らに望まれて生まれてきた。住む世界に受け入れてもらえなくとも、俺には両親がいた。ただ、他のハーフエルフはそうじゃない場合が圧倒的に多い。望まれない子供として生を受けて、周りからも…両親からさえも、受け入れてもらえないのも珍しくはない。多分…ミリアもそうして育ってきたはずだ。 「……あんたがいるじゃねえか…」 戦士がぼそりとつぶやいた。一瞬、意味を捉え損ねる。ふと顔を上げた俺に、神官が言った。 「確かに…人間だろうと亜人だろうと…生を終えれば……そこに残るものは意外と少ないかもしれない。それまでの人生に比べれば遙かに。…だが…ミリアは君を残した。所詮、私たち人間にハーフエルフの気持ちはわからないのかもしれない。だが…私たちは彼女の…ミリアの強さを知っている。ハーフとして生まれて、辛い思いもしただろうけど…それでも、彼女は君を産んだ。…愛してあげられる自信があったから、と。…そう言ってたよ、ミリアは」 「正直、私はエルフがハーフエルフを愛することなどあり得ないと思っていました。ですが、彼女を見ていて、考えを変えました。多分…私は、彼女の…生きようとする強い意志に惹かれていたのでしょう。前を向いて、決して振り返らない強い輝きに」 エルフの精霊使いがそっと呟く。 「………ありがとう…」 俺はもう一度頭を下げた。 「我々は…これで失礼する。長居はしないほうが…多分、お互いのためだろうから」 神官の言葉にうなずいて、3人は立ち去った。 テーブルの上の…遺品と呼ぶにはあまりにも少ない品物を、ひとつひとつ並べていった。ふと、手に取った着替えのなかに、薄いショールを見つける。変装用なのか、普段、身につけているのを見たことはない。絹で作られたらしいその白いショールは、かなりの上物のように見える。 「……ミリア?」 親父の声。思わず振り向く。白いショールは手に持ったまま。 「ミリア…ああ、それは…私が贈ったものだね。……気に入ってくれたのか?」 焦点の定まらない緑の瞳。それでも、その瞳は真っ直ぐに俺を見つめていた。なのに…確かに俺を見ているはずなのに、その森の色の瞳に俺は映ってはいなかった。 「……父さん?」 「そうだ…それを身につけて…2人で誓いの儀式をと…そうだろう、ミリア?」 「……父さん……母さんは…ミリアはもう……」 「ああ…君の青い瞳はとてもきれいだ。空の色だね」 親父が微笑む。それは…自分の妻に向けられた微笑みだ。 「ミリア…君の全てを愛してる」 俺の髪に触れながらも、親父は気づかない。目の前にいるのが、妻ではなく息子なのだとは。背も違う、肩幅も違う。髪の色さえも。なのに、親父は俺の瞳しか見つめてはいない。ミリアと同じ青い瞳しか。 ただ、立ちつくすしかできなかった。……泣くことすらできなかった。 『サーヴのことをお願いね、ラス』 そうだ、ミリアはそう言ってた。…わかってる。わかってるよ、母さん。 翌朝。親父は早くに起きて、朝食の支度をしているらしかった。台所と居間へと続く扉の前に立って、俺はその扉を開けるのを迷っていた。 ゆうべ、俺のことをミリアと呼び続けたまま、親父は眠りについた。そして俺は、自分の部屋に戻りはしたが、眠れなかった。そして、ついさっきまで、部屋で迷っていた。…いや、おびえていた。ミリアの死を認められない親父に、どう対応すればいいのかがわからなかった。 ……扉を、開けた。 「やあ、おはよう、ラストールド。今朝はいつもより遅かったな」 名前を…。親父は、俺の名前を呼んだ。ミリアではなく。ほっとすると同時に、一瞬、膝の力が抜ける。それをどうにかこらえて、親父に声を掛ける 「父さん? ……ゆうべ……」 「どうした? ゆうべ…何かあったのか?」 いつもと変わらぬ笑顔。 「母さんの…ミリアの……」 「ミリアから何か連絡がきたのか? もうすぐ近くの街にくるのかな」 「…そうじゃなくて…」 …言えば、傷つけると思った。守られたい、そして守りたい笑顔が壊れると思った。残された笑顔はひとつだけなのに、それを失うと思った。 「ごめん……なんでもない」 「変な奴だな。…さ、朝食を食べよう。ん? 顔色が悪いな。体調でも悪いのか?」 「いや…なんでもないよ。大丈夫」 それから5年。親父は時折、俺のことをミリアと呼んだ。そんな時は、俺の声は親父には届いていなかった。ただ、瞳を見つめるだけだ。 …ただ、俺は不思議と満足していた。些細なきっかけで、親父の精神の精霊は容易くバランスを崩す。そして、親父はミリアに愛を語る。 「ミリア…君の全てを愛してる。だから大丈夫、おびえないでくれ。君の産む子供は、私たちが愛していける。2人の愛で包んであげられる」 聞きたくて聞きたくて…でも、聞けなかった言葉。確かめられなかった言葉。 「私の命が続く限り、君を愛そう。そして、子供が産まれたら、その子供も愛そう。2人なら大丈夫だから」 親父は、俺のなかのミリアにそう語りかける。その言葉は、ミリアのなかの俺に届く。それだけで、いいと思っていた。 「サーヴァルティレルは…相変わらずなのか?」 ターナが訪ねてきてそう言った。俺がうなずく。 「…ああ。何も変わらない。……ただ、最近は、混乱することが多くなった」 「なぜ、言わない? あなたの妻はもうこの世界にはいないのだと、なぜ告げない?」 かすかに苛立ちを含んだ声でターナが言う。俺は首を振った。 「何度も…言おうと思った。けど…言えないんだ、俺には」 「……なぜだ? 可哀想だとでも言うのか? ……今の状態をこれ以上続けるほうがよほど……!」 「わかってる! ……わかってるんだ。言ったほうが…教えたほうが、親父のためだってことは…でも……」 「おまえが言えないのなら、私が言ってやる!」 「…やめろ! タナトゥーシャ!」 椅子から立ち上がったターナの腕をつかむ。彼女は俺を見上げて、緑の瞳でにらみつけた。 「そうやって…いつまで……。彼は…サーヴァルティレルは、いつまで夢の世界にとどまっているんだ? そうさせているのは、ラストールド、おまえだろう!」 言い返せなかった。そのとおりだ。傷つけたくないというのを言い訳にして、自分の世界を壊したくないのは、俺のほうだ。 その時、唐突に、扉が開いた。外の光とともに、エルルークが入ってくる。彼がこの家に足を踏み入れるのは、二度目だ。一番最初と、今と。 「やめろ、2人とも。見苦しい」 「……あんたが…なんで、ここに?」 俺の問いには答えず、エルルークは溜め息をついた。腰まである銀の髪を揺らして。 「…一番、見苦しいのはサーヴァルティレルだな。汚らわしい混ざりものなどに心を奪われて、あげくが、現実を見つめようとしない。…誇り高きエルフのすることではないな」 そして、もう一つ、扉が開いた。親父の部屋だ。 「どうした、騒がしいな。……これは…珍しい。君がここに来るなんて」 エルルークに目を留めて、親父が呟く。 「時が経てばとも思って待ってはみたが…一向に認めようとはしないらしいのでな。私が来たんだ。おまえの従姉妹も息子も、まだ子供だ。…これは、私の役目だろう」 「なんだ? いったい?」 「…サーヴァルティレル、見苦しい。いいかげんに認めろ、おまえの妻だった女は…」 「……やめろっ!」 思わず叫んでいた。が、本当に止める気があったかどうかはわからない。声は出たが…足は動かなかった。 …やめろ。告げるな。告げたら…いや…本当は、告げなくてはいけないことなんだ。自分が今まで言えなかったことを、エルルークは言ってくれる。彼なら、情け容赦なく事実のみを告げるだろう。…ああ、違う。何考えてんだ。そうじゃない…そうじゃないんだ。告げるのは……多分、俺の役目なんだ。 「…やめてくれ、エルルーク」 俺の声に、エルルークは眉をひそめた。 「ならば、おまえが言うのか? 今まで言えなかったくせに。出来損ないが一人前の口を叩くな」 「……俺が言う。俺の責任だ」 「ラストールド…だから…私が来たのに。エルルークがここを訪ねるつもりなのを知っていたから…だから、私が来たのに…」 ターナが呟いた。…ありがとう。そう耳元に囁いて、俺は顔を上げた。親父の目を見つめる。 「…どうしたんだ、3人とも。……ラストールド? 私に何か?」 親父が微笑む。また、迷いそうになる。それでも…。 「父さん…ミリアは…もういない。もう…5年も前に死んでる。父さんは…ずっと…俺のなかにミリアを見ていただけだ」 5年間、伝えられなかった事実。言えなかった言葉は、口にするととても短い。重いはずなのに。…のどの奥から絞り出すようにして、ようやく紡いだ言葉なのに。なのに…とても短い。 それを聞いた親父の瞳が揺らぐ。 「…父さん?」 「………嘘だろう? ミリア。君は目の前にいるのに。私の目の前にそうして立っているのに…?」 「…違う、父さん。ミリアじゃない。俺だ。ラストールドだ」 親父の瞳が焦点を失う。その白い顔から表情が消える。 「……嘘だ…信じない。ミリア…君はいる、ここにいる。…誓ったんだ、命の限り愛すると。君も誓った…だから……嘘だ…」 …思わず、目を閉じた。親父はようやく聞き取れるほどの小さな声で囁き続ける。 呪文のように繰り返される言葉。あまりにも甘く切なく、そしてつらい言葉。だからこそ、耳をふさげない。目を閉じても耳をふさいでも、そこにいる感情の精霊はその存在を教えてくる。全てを覆い尽くす波のように。 そして、唐突にそれはやんだ。嘆き、哀しみ、混乱。全ての精霊が、一瞬にして気配を断った。反射的に目を開ける。その目の前で、親父の体がゆっくりと崩れていった。 「…父さんっ!?」 その細い体を受け止める。だが…何かがおかしい。眠っているにしろ、気を失っているにしろ、生きている以上はあらゆる精神の精霊がそこにあるはず。…なのに、その存在を感じない。思わず、後ろに立つエルルークに目をやった。…彼は黙って首を振った。 「……どういう…ことだ?」 その問いを発したのはターナだ。そのターナと視線があう。が、俺には答えは出せない。そのまま、2人でもう一度エルルークを見た。 「彼の…サーヴァルティレルの心はもう、ここにはない」 溜め息とともに、エルルークが告げる。 「…なん…だって…?」 親父の体を抱いたまま、呟く。そう問いかけながらも、意味はわかっていた。親父は…心を手放した。失うことに耐えられなくて。今まで…ひどく危ういバランスを、ようやく保っていただけだったんだろう。 エルルークが、一歩踏み出す。 「…誤解するな。一生このままだというわけではない。…治せるかもしれない。しばらく時間はかかるかもしれないが。彼の心は……呼び戻してみせる。サーヴァルティレルは…私の友人だ」 エルルークが静かに告げる。信じたい気持ちになった。…信じようと思った。 「…治せるのか?」 「ああ。治してみせる。…ただ、そのためには……おまえの存在は邪魔だ」 「……何をっ!」 ターナが叫んだ。親父によく似た緑の瞳に険しさを浮かべて、言葉をつなぐ。 「何を言い出す、エルルーク! ラストールドは、血を分けた彼の息子だ!」 「だからだ!」 普段、滅多に声を荒げることのないエルルークがそう叫んだ。俺とターナの両方を見ながら。 「…だから、邪魔なんだ。おまえの顔立ち、青い瞳。そしてなにより、ハーフエルフであるということ。その全てが、サーヴァルティレルに亡き妻を思い起こさせる。…それは…彼の心を向こう側につなぎ止めるものでもある」 ……ああ…そっか…そういうことか。……俺を見ると、親父は思い出す。ミリアのことを。妻のことを。全てを捧げたあのハーフエルフのことを。…狂うほどに愛した女のことを。 そして、俺は決心した。 「……じゃあ、俺がここを出ていけばいいんだな?」 「ラストールド? 何を…? ここを出てどこへ行くと言うんだ?」 ターナが俺の腕を掴んだ。振りほどくことはせずに、俺は彼女の瞳を見つめた。 「別に…どこだっていいさ。……ミリアと同じように…冒険者になったっていい」 俺の言葉にうなずいたのは、意外にもエルルークだった。 「…頃合いかもしれんな。少し早いかもしれないが…ここを出て悪いことはあるまい。…おまえには、精霊魔法を教え込んだ。それがあれば、冒険者となるにもさほど不自由は感じないだろう。…サーヴァルティレルは私が預かる」 彼を…エルルークを、こんな風に身近に感じたのは初めてだった。…嫌われていると思っていた。さげすまれていると思っていた。一度も微笑まなかったし、いつでも冷たい目で俺を見下していた。彼は、決して俺の友人などではなかった。…それでも、彼は親父の友人だったんだ。 「……頼む。ターナ…タナトゥーシャも…」 そう言って見つめた俺に、ターナが小さくうなずいた。 「わかった…。そばにいよう。ただ…おまえは…ラストールドは大丈夫なのか?」 彼女の問いに、俺は微笑んでみせた。 「ああ。大丈夫。……どこでだってやっていけるから」 そうして、俺は村を出た。 ………眠りなさい…っつったって…もう、夜明けじゃねえか。ちっくしょ。ああ、もう! ほとんど眠れなかったじゃねえか。…思い出しすぎだって、俺。 …ああ、いいや。どうせ仕事決まってねえし。…昼まで寝てよう。 |
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