 |
No. 00125
DATE: 1999/09/29 00:49:59
NAME: 犬頭巾
SUBJECT: 雁がねの歌
正午の鐘が鳴る頃までは、街の北門の周りは毎日変わらず、賑わしい。馬に荷をつないだ商人、連れだって歩く旅人、様々な顔ぶれがオランの街に出入りしてゆく。
門の両端からは、街の周縁をぐるりと囲む高い煉瓦の塀が果てしなく延びている。
初めて街に訪れた者は、誰もがそこに一瞥は向ける。塀の下方で、壁に背をつけて座る浮浪者の列……その長さ、人数の多さに、一驚を喫するので。
壁にむかって板を立てかけたり、葦のむしろを使って小屋掛けした住まいが、塀に沿って一定の間隔で作られている。浮浪者達にとって、只の、身体が潜り込めるだけの空間が、夜気や雨風から逃れる先のわが家であった。
遠くから見れば、それらは壁からわいた白蟻の巣か何かに見える。
ほとんど誰もが、そういう光景に長く目を留めはしない。きびすを返し、目的の方向へ歩み去っていく。
この日、空は澄んで明るく、空気はからりとしていた。貧民たちが座る地面には、ぬかるみが残りつつも、あちこちひび割れが生じていた。
門の近くでは、老女や子供が鉢を手前に置いて物乞いをしている。
小屋から足を突きだして、多くの浮浪者達が、浅い眠りをむさぼっていた。外に出て座っている者は、穏やかに照る太陽の下、ぼんやりと、開けた遙か地平までの景観を眺めていた。
時間は昼をとうに過ぎた。
ひゅうひゅう、東からの風が小さく唸っている。
唐突に、門の近くに座っていた貧民たちがゆっくりと腰を上げた。小屋の中からも、大勢の者がずるずると、這い出てくる。彼らはオランの北門をさして、大儀そうにしながらも歩き始めた。
風は乾いていたが、その中に食べ物の匂いを、彼らは敏感に感じ取ったのである。
汝らわが不遇の兄弟たちよ、ファリスの功徳に感謝のことばを! 御名を讃えよ、汝に糧を与えたもう、神の御名を讃えよ。
朗々と詠える声がやがて彼らの耳に届く。雑踏が一段落した門の近くに、何台もの人力車が止まっていた。その傍らでは紫のキャップをかぶった恰幅のいい神官が、何か喋っている。荷台から降ろされた大釜の蓋は取られ、雲のような白い蒸気が上がっていた。
車に差されたのぼりには、ファリスの聖印が翩翻とひるがえっていた。
ファリス神殿の救護班であった。
各神殿は毎週、肉と豆を浮かべた一杯の乳粥を、外壁の貧民や乞食たちに配りに来るのだ。
たちまちのうちに、釜に向かって飢えた浮浪者たちの列が出来はじめた。みな器に両手を添えて、待ち通しそうに喉を鳴らしている。
「順番を守って、押さないで下さいね!」
「そう焦らずに、ちゃんと皆さんに渡りますから」
若い給仕が、気忙しく右へ左へ首を振りながら、笑顔で言う。
おたまからとろとろと器に零れるスープを直にして、多くの貧しい人々が目つきを違わせる。神官の中には割り込もうとする者を制止する役目の者たちもいた。
「ありがとうごぜぇます」
「ほんとに助かりますだ」
給仕へのお礼の言葉がつづき、やがて、ファリス様の恵みに感謝します、とある者が呟いた。
スカルキャップを被った神官が、嬉しげに大きく両手を広げる。すると他の貧民たちもみな、追従を始めた。
「神様ありがとうごぜぇやす」
「おいらもファリスさんに感謝してますだ」
「一生ついていきますだ」
明瞭な発音でなく、モゴモゴと口の中で呟くのみの者も多かったのであるが、しかし救護隊のメンバーは、諸人汗を輝かせながら、満足そうな顔を見せた。
紫のキャップを被った神官は、神官見習いたちと交代する事にした。自ら釜の後ろに立ち、見習いたちに笑い掛ける。そして大きな身体を揺らしてスープを配り始めた。
「それでは次の方、どうぞ」
手を合わせる老婆に椀を渡した後、神官は釜の中のスープをかき混ぜながら、そう声をかける。
だが刹那、彼はぎくりとして身体を振るわせた。
目の前に、ぼろ切れを纏った人間の身体の上に、犬の頭が乗っているという、異形の姿をしたものが立っていたのだ。
「ひっ!」
だが、注意して見れば、それは犬の頭皮を被った老人である事が分かった。犬皮の口が開いており、奥に青黒い色をした唇がのぞいている。それが呆けたように、わずかに開いていた。
「ははは……脅かさないでくれたまえ」
神官は苦笑して。
老人の身体は枯れ木のように細く、肌はどの部分も煤けて汚かった。身体を覆う布は、もはや、ぼろ雑巾と同様に見えた。
強く匂うので、神官は一瞬、鼻をおおった。老人が何か呟いたように見えたが、うまく聞き取れない。
彼は椀を差し出してきた。
「おう、早く貴方の飢えを満たして差し上げよう」
神に感謝を、そう言って神官は手早く椀をスープで一杯にした。
犬の皮を被った老人は、椀の中のスープに尖った鼻先を近づけるようにしながら、そこに目を落としていた。
そのまま、去らずに立っている。
「大変すまないが、そろそろ行ってもらえないか。まだ待っている者がいる故にね」
神官は困ったように眉根を上げ、だが福々しい顔で愛想よく語りかけた。
「…………」
老人は黙ったままであったが、やがて顔をあげ、今度は肉づきのいい神官の顔を、背を曲げて、じッと、のぞきこむようにした。その眼窩のない犬の双眸で。
「な、何かね」
なおもしばらく、彼は黙っていたが、だしぬけに、唇を結んだ。するとそこにはごく自然に、卑屈な印象の笑みが、形作られていた。
「いえ、有り難うございやす」
2
風がにわかに収まった頃、救護班は台車を曳いて門の中に戻っていった。
「また週が明けると我々はやってくる。みなさん、ご健勝でおられよ。如何なるときでも神が見守って下さることを、忘れぬよう」
犬頭巾は、まだ手をつけていない椀を持って、門の前から貧民が散り去っていくのを眺めていたが、いま緩慢にきびすを返し、ずるずる、びっこをひきながら、壁に沿って東に歩き始めた。彼の住まいを目指しているのだ。
ここに来て日が浅い犬頭巾は、壁建ての家すら持っていない。それで、しばらく歩いた先の、塀の上に物見台が突き出て下が陰になっている場所を、ねぐらにしていた。
湿気が多く地面には凸凹があるので、彼以外にそこに目をつける人物は少ないはずであった。しかし、彼はこの日、先客の姿を見つけた。
「おや……」
片目の濁った、痩せた浮浪者だった。自分に負けず劣らず、みすぼらしい格好をしている。先ほど貰って来たらしい、粥の入った椀を膝もとに置いて、ゆっくり咀嚼をしている。
犬頭巾が椀を支え持つのに、黒ずんだ両手の指をその中身に浸しながら、ぼけっと立ちつくしていると、噛むのを止めた乞食が鷹揚に言った。
「となり、空いているぜ」
「これァ、すいません」
犬頭巾は口元に卑しい笑みを浮かべると、痩せた浮浪者の隣りの、少し粘つく地面の上に腰を降ろした。
「お前は確か新入りだな。その格好だから、何処にいても眼についてたよ」
「へへ、どうも。それじゃ先輩、以後よろしくお願いします。どうかアタシのことは犬頭巾、と呼んで下せえ」
「……俺はゴーシュ」
男は少し変な顔をしたが、犬頭巾に応えて自らも名乗った。
「実はアタシャ、前まで、塀の中の乞食の集落にいたんですよ」
「へえそうだったのか。 街の中で乞食するときゃ、そういう扮装をするのがいいのか?」
「まあ、そんなトコです」
「なんで出てきた?」
「そいつは勘弁して下せえ、あすこに居たときのこたぁ、思い出したくないんで……」
痩せぎすの男は犬頭巾の横顔をちらと一瞥したが、仮面の下の表情を汲み取りかねているようだった。
それきりだった。二人の浮浪者は、取り立てて話したいと思うことがないので、しぜんお互いの方を見ず、壁を背に、じいっとオランの外の広い世界に視線をやっていた。
「お、あれは雁がねだ」
だしぬけに痩せた乞食が、節くれだった指で、秋晴れの空の向こうをさして言った。
「あの鳥がですか。詳しくねぇんで、どうも」
「秋になると南から流れてくるんだ。普通は群れてるもんだが、はぐれたみたいだ。ははぁ、片方は小さい、親子かもしれねえな」
確かに翼の生えた黒い二つの点が彼方の空を舞っている。
犬頭巾は隣にいる痩せた男が、どんな人生を送ってそういう知識を得たのかと、いぶかった。だが何も言わず、二人でじっとその光景に見入っていた。
暫くして二人は申し合わせたように、手元の椀のスープに眼を落とした。
「今週の献立は先々週と同じだったな」
ゴーシュは食事を再開しながら言った。手元の椀の飯はもう半分ほどなくなっている。残りをよくよく味わって食べているようだ。
「ええ。ちょっと期待はずれだったです。救護隊も、この前アタシらに何をめぐんだかぐらい、覚えててくれりゃぁいいのに、へへへ」」
犬頭巾もスープに口をつけ始めた。何口かすすっては休み、それからまた飲み始めるという事を繰り返す。
「胃がずいぶんやられていましてねぇ……へへ、こんな飯すら食べるのが難儀で」
「人間は食べなきゃだめだ。もし要らないなら貰ってやるぜ」
「へへ、ご冗談」
また会話が途切れて、二人は黙々と食事を続けた。
犬頭巾は、今度は自分から話題を振った。
「さっきの救護隊の皆さんね、いい笑顔でしたねぇ。私たちに飯を上げるとき、ニコニコしなすっていた」」
「おう。聖者たちはいつでも明るいもんさ」
なるほど、と、いったん言葉を切ってから犬は続けた。
「アタシぁ噂で聴いたんですが、神殿のなかじゃあ、救護隊に参加してぇって志願してくる信者たちは、たいそう大勢おられるとか」
言いながら相手の顔を見上げ、反応を待った。暗い空洞となっている犬の眼がゴーシュの顔に間近に迫った。
「そうなのか? ありがてえことだ」
ふいに犬頭巾の口の端がつり上がり、嘲笑のようなものが浮かびかけた……が、唇はすぐ力を失い、哀しげにへの字にまがった。
そしてまた、喋り始める。
「ファリスの救護隊も、もっと足繁くここに来てくれりゃ、アタシたちもひもじい思いしなくて済むと思わねぇですか?」
「ああ、俺も気になって、まえに聴いてみたよ。だがなんでも、五大神殿のあいだの取り決めで、各神殿、週に一回ずつなんだと。そういう規則なんだから仕方あるめえ」
「神殿のあいだの、取り決めですか。あぁ、そりゃ他の神殿がやることは、気になりますよねぇ、へへへ。」
犬頭巾は低い声でそう呟いた。
「おう。後ろから飛んでくる……あれは鷹だ」
藪から棒に、男が指し示した方では、先ほど悠々と空を舞っていた雁の親子の、子供の方を狙って、鷹が上方より降りてくるところだった。
「だめだな、あれは子供、持ってかれちまう」
犬頭巾も顎を上げて、その光景を眺めていた。今しも、鷹の鋭い爪が小鳥の身体を掴もうとしている所だった。
だが、男の予想したようにはならなかった。雁の親鳥が、鷹に体当たりをして、小鳥を逃れさせたのである。
「…………ほおお」
ゴーシュは感嘆のため息を漏らした。犬頭巾も黙してはいたが、その瞬間、何かに打たれたように身体を振るわせていた。
鷹は一声高く鳴くと、再び高く舞い上がった。そして南へ飛んだ、二人の頭上を越え、オランの街を越えて彼方へ飛び去っていった。
小鳥が逃がれた空へ親鳥が追いすがっていく。どこか飛び方がおかしかった、傷を負ったようであった。
それでも無事に外敵を追い払い、親子の再会が果たせたのは幸運であったろう。
空を舞う二羽の鳥の姿は、ゆっくりと小さくなっていった。
長い沈黙が二人の間に落ちた。
「救護隊の皆様方にゃあ、なんにも痛いことはねぇんですよ」
「何が言いたいんだ、お前?」
間を置かず、男がくちばしを挟んできた。
「へへへ、少々苦言をね」
犬頭巾の頭に、先ほどの顎のだぶついた神官の顔が閃いていた。
「アタシらに対するあのひと達の優しさは、うその皮です。まるで、親身になってくれてないでさ。いや、あのひと達だけじゃねえ、この街の中に暮らすひと、みんなみんなそうです。なんて薄汚いことでしょうねぇ?」
「なんでそんな風に考える。俺達のため、食べ物を用意してくれるんだぞ。優しい気持ちからでなきゃ、なんでそうする?」
「それはみんな気持ちよくなりてえからで」
唇の端を皮肉っぽく持ち上げて、犬頭巾は言った。
男はぼうっとした顔で考えていたが、口を開く時には犬頭巾を鋭く見て言った。
「お前の物言いは無礼すぎる、俺はそんな風に思わねえ。それに、助けてくれる人にはどんな形であれ、感謝して当然だ」
様々なんだ、とゴーシュは繰り返した。
「たわごと!」
くくくく、と犬頭巾は口元を押さえて笑いを喉に押し込めた。
……すると、男はむっつりと口をつぐんで、それ以上何も喋ろうとはしなくなった。ただ、椀に残ったスープの残りかすを樹のへらで掬い取る作業だけを続けた。犬頭巾の笑いもしぼみ、苦々しさのあるものに変わった。
「そうです。じっさいアタシなんかが言えた立場じゃないんですよ。何せアタシは、仲間をてめえの勝手さのために死なせちまったんですからね」
犬頭巾は目の前に広がる広野を見晴るかし言った。
痩せぎすの男は隣で、大きくため息をついていた。
「けれどね、アタシは自分の愚かさを、この街の奴らに、どうこう言われたくはないんで。残りの人生、この社会に罰されようとは思わないんですよ。──なぜって、長年アタシを追いつめて、仲間を死なせてしまうしか、なくさせちまったのが、どいつかというと、そりゃ、この人間の社会です、それが薄汚いないせいなんですから」
途切れ途切れにそう喋った。ふたつの真っ暗な眼窩も、今何かを語っているように見えた。
「それこそわかんねぇ。すべて自分の境遇のせいにして何になる? 死なせたのなら、ただお前が悪い、その自分の罪はどう受け止めているんだ」
犬頭巾は口元に例の下卑た笑いをへばりつかせたまま、何も答えなかった。
ゴーシュは言葉を続けた。
「それに、そんな思いを持ってみたところで、詮無いことだ。何も出来ねぇ、何の力もない乞食の、俺やお前にはな」
「……ええ、世界で一番の、大愚痴だって知ってやすが」
犬頭巾は椀をつかみ、口から溢れる程一気に、乳粥を飲んだ。
「恨みが晴らせないのが、最後になんとも心残りで」
歯を剥き、口元をひきつらせた。
涼風が、物見台の塀の下の、二人の間を吹き抜けていった。
陽は少しずつ傾き出して、空の上は茜色に色づき始めていた。もうどこにも鳥は飛んでいない。背後のオランの街から、鈍い鐘の音がここまで響いてきた。
眠気に襲われ始めていたゴーシュは、眼を閉じて首をわずかに上下させている。
そして、彼は隣に座っていた者が腰を上げる気配を察した。だが、別段、醒めようとは思わない。ねぐらへ戻るところを見送ろうと思うほど、この乞食に対して親しい感情も生まれていなかった。
だが、この濁り眼の男も、先ほどまで話していた乞食の老人が、壁に沿ってではなく、目の前の茫漠と広がる広野をふらふら歩き始めたのを見ると、片方の眼を開き、頭を起こして、その後ろ姿をじっとながめた。
犬頭巾は、ぼろ服の裾を地につけて、萎えた左足と一緒にひきずりながら、草の萌える広原の上を一歩一歩、緩慢に歩を進めていく。夕映えがその姿を黒くしていた。
かつて野に生きる者であったゴーシュは、心にもの想いながら眺めていたが、乞食が歩みを止めそうにない事が確認できると、あとは興味を失った。そして犬頭巾の残していった椀を手元に引き寄せた。
犬の毛皮を被った跛行者がどこに向かうのか。誰にも判らなかった。蚤とシラミの他に、彼と道を共にする者は誰もいない。身体を纏う汚れきった布の他に、水や、パンの一片も無い。老い疲れた身体を歩かせての旅行きであった。
彼は一度だけ足を留め、自分を生み育て、住まわせた街──自分で薄汚いと称した街、容赦なく搾取する街、自分を最低の生き物に貶めた街と社会の方を振り返った。
心底そこを憎み、いやになっていた。これ以上虐げられる前に、逃げ出すしかなかった。
わが身と人の世を繋いでいた最後の紐も、ついに断った。この行為が自らを浄化するということも、よくわかっていた。
「へへへ。これで、自由……」
犬の頭が草原をかきわけていくのを鳥達は見た。
 |