No. 00152
DATE: 1999/10/16 16:37:16
NAME: リヴァース マスター
SUBJECT: 秋の夜長(其の四)回想
マスターの回想の物語です。
その日の晩、集会が開かれた。
突如現れた妖魔の存在の対応についてだ。
マックスは目撃するばかりか、撃退までしてしまったためその力を買われ、同席させられた。内心嫌がっている彼だが、持ち前の表情の良さで、村人の目には好意的に協力しているように見られていた。
彼は正直、自分の手に余ると感じていた。たった三匹といえ、倒すことができるギリギリの線なのだ。それがコボルドまで統括できるほどの強者がいることが確定しているような相手にどのように仕掛ければよいといのうか……。成り行きに任せていてはいけない。そう感じていた。
いろいろ意見が飛び交うが、隣村の領主を当てにする案や、自警団を作りバリケードを張る案など有効に思えるものもあったが、今ひとつ真剣味がない。
(被害が出てからでは遅いが、出てからでないと理解できないのだろう)
彼は何度か口を挟んだが、よそ者の意見としてまともに取り合ってはくれない。こちらも冒険者ということを明らかにして、被害を抑える方法案の現実性を訴えることも可能であったが、全てを押しつけられそうで言う勇気が持てなかった。
正義を振りまいて頑張ることは、もっと簡単なことだと子供の頃は思っていた。だが、現実に直面するとそうはいかない。一人で何十匹ものゴブリンを倒せる実力があるならともかく、ダークエルフやオーガーなどのモンスターがいない保証もない今、動くことはできなかった。
結局、マックスにとって妥当な案が決定されないまま、集会はお開きとなり村人たちは解散していった。
村の周りには篝火が置かれ、見張りも何人かいる。夜は妖魔たちが活発に動き回る時間帯であるため、余計に注意を払う必要がある。だが、その危険性を理解していないのか見張りの連中からは緊張が感じられない。
さすがに、マックスはダメかも知れないと思っていた。対処法や状況を改善させられる方法を思い浮かびながらも、実行に移せない。いかに自分の存在が無力で、なんの役にも立たないのだと思い知らされる。
そのまま家に帰れる気分でなかったため、マックスは見回りを兼ねて村の周りを歩いた。
空には満点の星が輝き、静かに大地を見守っている。
(あいつも見守ってくれているのだろうか)
ラーダの教え通りであれば死後天界に行き見えざる星となるとされている。
「知ることは何よりも大事なことよ。知らずに動くより、知って動きましょう。知らないなら、知るように動くの」
事あるごとにラーダの教えを説いてくれる仲間を思いだし、思わず笑みが漏れる。
「知るように動く……か」
現状で一番不安なのは、妖魔たちの規模である。その規模が判れば対処も容易となる。規模を知るには、偵察に行くしかない。
「まったく、お前たちを失ったことがこれほどまで大変だったとはな」
使い魔も精霊の力を借りて消えることもできない彼にとって、自分の肉体のみで偵察をせねばならないというのはかなり覚悟が必要であった。いつもなら、ルーンマスターたちの力を借りて対処できたことばかりだから。
翌朝、長弓を置いて、小型の弓を持ち、落ち葉を全身に絡めて山に入っていった。携帯食料や水筒、マントといった基本装備もある。妖魔の所在を突き止めるまでは帰らぬ気構えであった。
昨日のゴブリンを倒した場所に行く。死体はそのままであった。(これが見つかっては、余計な警戒を持たれてしまう)
なんとかして隠したいとは思ったが、「同じ同じ」と、その程度の工作で状況がどれほど改善されるかを考えてみて、変わらないと判断し、そのままにしておくことにした。
そして妖魔たちが来た方向へと向かう。
狩猟を教えてくれた人の教えを守り、気配を断とうと努力する。そして歩きにくい場所を選び、少しでも高い位置につく。風向きを常に配慮する。臭いも土などを衣服にこすりつけ、断つように計らう。
これらを実践していくことは学びはじめた当初、不可能に感じていたが、こうして山間を歩いているとどこがポイントであるかが見えてくる。
見つからないように歩くように心がけると、どこを歩けば見つけられるというのも判るようになる。相手が知的であれば、裏もかかれることは十分にある。
幸い妖魔たちの偵察はコボルドかゴブリンである。知能が知れているのであまり深く考える必要はない。それだけ気は楽であった。
その晩雨が降った。雨宿りできるような場所はほとんど見つからず、針葉樹の林まで移動してやっと半分雨を防げるという程度であった。マントにくるまり、体温の低下を防ぐ。
携帯食を口にしながら、ただじっと夜明けまで耐える。
孤独と夜の闇との戦い。自分の心の中にある不安感を押さえつけて、しばしの眠りにつく。
翌朝、朝靄の中動き出す。雨は上がったが気温は低いままだ。少しでも熱を取り戻すために動く。
羊皮紙を取り出しては、ポイントをチェックしていく。この一週間でこの辺りの大きな目印となるものは把握していた。それを起点に、上へ下へと捜索の輪を広げていく。
時より木の子を見つけては、そのまま食べたり、後から食べるために袋に入れておく。携帯食は動きの阻害になるため、あまり持ってこられない。秋という季節柄、こうした山の幸でなんとか空腹をしのげられるのだ。狩りという手段もあるが、加工して食べるまでに時間がかかるというデメリットも持つ。
単に妖魔のアジトを調べるだけでなく、自分の食糧管理、健康管理もしなければならない。
コボルドに一度遭遇して、あわてふためいて逃げていく後ろを弓で射倒す。ふと、(野蛮な戦いはしない)とのラーダの言葉が脳裏によぎる。
「卑怯であっても野蛮ではないよな……」
と口に出して笑ってみる。
単独でコボルドが居たとなると、近いかもしれない。気配をさらに断とうと試み、移動に気をつける。
すると近くから声が聞こえてくる。声と言ってもその内容は理解できない。おそらくはゴブリン語だ。
身を隠す場所がないと気がつき、慌てて落ち葉の中に身体を沈ませる。といっても大して沈まない。マントには多くの葉っぱを絡ませているが、当然見ればそれが異質なものであることは容易に判ることである。しかし、ここで争うよりやり過ごした方が得策であるに違いなかったから隠れたのだ。
カモフラージュ、特に待ち伏せなどに使う能力だが、実際に知能を持つ相手に使うことになるのははじめてである。見つかれば戦闘、間違えば死ぬと思われた。
そんな中で落ち葉に身を隠すというのは疎かとしてかいいようがないかも知れない。しかも彼はまだ玄人とは到底呼べない身分。気配を押し殺すが、高鳴る鼓動と緊張感は否応なく漏れていく。
ゴブリンたちが何かに気がついた。見つかったと覚悟して、顔を上げようとしたが、妖魔はその場から駆けだしていた。
どうやらコボルドの死体を見つけたようだった。
ほとんど、運に助けられる形でやり過ごすことができたが、安心ばかりしてはいられない。コボルドが殺されたことを報告にゴブリンたちが動く。その後を追跡していかなければならないのだ。
彼の鼓動はまだまだ治まりそうにはなかった。
ゴブリンの追跡に成功し、ついに妖魔たちのアジトを発見する。すかさず、羊皮紙に正確な位置を書き込む。帰り道でも位置を確認していかなければ、見失うかも知れないと不安がよぎる。そんな判りにくい場所であった。
監視できそうな位置を探し、移動を果たす。そしてここで一晩、規模を確認するために夜を明かす。
緊張感のお陰か、寒さや空腹は大して感じない。逃走ルートだけを考え、妖魔たちの数を確認する。
妖魔たちのねぐらは洞窟であったが、人為的な手が加えられた大理石なども見かけられ、遺跡であるかどうかの判断に悩んだ。その手の知識がないため、ドワーフのものか、新王国歴に入ってからのものかするの検討もつかなかった。少なくともこの手の遺跡もどきが存在する話は村人から聞いてはいない。
日が沈み、妖魔たちの活動の時間となる。やつらでも寒さは感じるらしく火を起こして暖を取っている。衣服を着込むということをしていない点を見ると肉体的にはかなり丈夫ではないかと伺える。
「あれは、ホブゴブリンか?」
マックスは改めて、この妖魔の集団の規模を呪った。ホブゴブリン3体、ゴブリン20匹以上、コボルド10匹以上。その辺りまでは把握できた。焚き火があちこちで起こされいくつものグループができる。食事どきなのだろう。木の実や木の子、鹿やイノシシなども捕られてきていた。
(まさか鹿やイノシシまで狩りができるほど知恵があるとはな)
人と違い、動物を殺すことは難しい。人間の知恵を持ってしてでも安易なことではない。それを妖魔たちごときが捕まえてしまうのだから彼にとって大きなショックとなった。
その狩りをしてきたグループに他の妖魔たちが集まってくる。よく見ると、ゴブリンの割に一回りもでかい体格をしている。
(なんと、あれは上位種か?)
噂だけしか聞いたことがなかったが、目の当たりにしてピンと思い至った。ゴブリンのような妖魔でも上位種がそんざいするとは、彼は目の前の現実を受け入れたくはなかった。
鹿やイノシシを捕らえるだけの知力を持っているとなれば、ホブゴブリンを手なずけることも可能なのか。と勝手に推測していた。 しかし、彼はまだ認識不足であった。よく見ていれば、他のゴブリンとは別格のゴブリンの存在に気づいたはずだ。しかし、暗闇のせいもあり、数を確認するだけに終わってしまったのだ。
村を空けてから3日目の朝、マックスは帰ってきた。
村人がこぞって出迎えに来た。婆さんが散々彼のことを誇張して回っていたらしい。「一人で退治しにいった」などという類だろう。迷惑であったが、責める気にはなれない。
再び集会を開くが、騎士が一人混じっていた。その従者も含めると5人。領主へ救援を要請したところ駆けつけてくれたのだ。
(まともな領主でよかった)
マックスは安心して、状況を説明しだした。
しかし、彼の数の説明に大して、騎士は村から兵を取り立て討伐を指揮すると言い出している。
さすがにこの言葉は、村人たちはどよめかせた。確かに徴兵に出た者もいたりするが、まともに訓練を受けたことのない者ばかりで討伐隊を組織したところでどうなるとは思えなかった。
だが、この騎士は村人の恐怖心や人の命をなんと思っているのだろうか? 従者たちの顔は表情はなく、騎士の指示に従うという感じだ。騎士と村人たちとの言い合いに嫌気をさして、マックスは集会場を後にする。
「まったく、何を考えているのやら」
マックスは疲労も強く残っていたが、休む気にはなれなかった。(被害が出てからでは遅いというのに……)
規模が判ったところで、応対する側がしっかり動かなければ無用な情報でしかない。今日はあそこに滞在していたが、明日は変わるかも知れない。上の村の存在を知れば上に攻め入るかも知れない。
(しかし、なぜ上の村に攻め入らなかったのだろうか?)
地形を考えると、上の村の存在を知っていてもおかしくない位置に陣取っている。それともすでに全滅させたとか? さまざまな憶測を立ててみるが、どれも絶対ではない。村人は怖がって、上の村との連絡も取ろうとしない。
(あいつがいてくれればなぁ)
失った魔術師の仲間を思い出し、彼の明晰な解答で何度正しく判断が下せられたか判らない。
すでに三年近く経過する事柄なのに、未だに吹っ切れていない。
「マックスさん」
広場で、力無く座っているのを村の子供たちが声をかけてきた。子供といっても成人した者達もいる。彼らにはマックスが冒険者であることを見抜かれ、一目をおかれた存在になっていた。
彼らから出る質問はどれも妖魔たちのことであった。当然偵察に出かけていたことも知られている。
何を話そうか迷っているとき、集会場の扉が勢いよく開き、騎士が退室してきた。かなり不機嫌そうであった。
「いいな、今晩まで決めておけ! お前たちの問題なのだぞ」
吐き捨てるように言い捨て、馬に乗ると村を出ていってしまった。
(あれが騎士の実体なのか? いやそうではあるまい。まともな騎士も多い……。この地が豊かなのは単に土地柄なんだろう)
決して領主の手腕でないことを確定して、マックスは子供たちに向き直った。
(俺もこの年にはなんでもやれるとか思っていたっけな)
彼は、意を決してマックスを慕う者達を集め秘密会議を開いた。 といっても集まる場所は、老夫婦の家なのだが。今の彼に全面的に協力してくれるのは子供たちと老夫婦だけであった。
子供たちは意気揚々としている。何しろモンスター退治に参加できると思っているからだ。そのホントの怖さはこの土地にいては学べない。住む場所によってこうも価値観が変わるものなのかと驚いてしまう。
今はその恐怖心がないことに感謝している。あまりにも臆病になってもよくないからだ。それに彼には子供たちと妖魔を戦わせるようなことは考えていなかった。
成人を迎えた者達を集め、彼らに作戦を伝える。おじいさんも仲間に加わってくれた。やはり山のこととなるとより詳しい者がいた方がよい。年甲斐もなく、異様にやる気を見せて若者たちから笑われる。
マックスが考えた作戦は、単純に罠を張ることであった。野伏せの基本は、接敵せず倒すことにある。もちろん罠に陥れることも含まれる。これならば子供たちも作戦に加えられる。特に罠となると引っかからない罠の方がはるかに多い。必ず通る道が判っているならともかく、そうでないとなると無駄にする罠も計り知れない。
マックス一人で動くのは現実的ではないのだ。
できるならば大人たちの手を借りたかったが、彼の目には失望として映ってしまったためにとても頼もうとは思えなかった。予測不能の事態に陥ったとき動ける者、そういう者は少ないが、ここまでいないと恐ろしくもなる。
これが安全な土地で育った人の考え方なのか……。そう思わずにはいられなかった。
ともかく短時間で準備しなければならなかった。村の守りも必要である。罠とてその場にあるものだけでは材料として不足することが多いため、ここで作っておく必要があった。
子供たち総出で働きはじめる。彼らには危機感というより、楽しさの方が強かったのだろうが、今はそれでいい。そう考えていた。
女の子も縄をゆったりして手伝う。
大人に見つかって連れ戻される子供も大勢いたが、村から出ないと知ると大目に見てくれる親もあった。
成人組は、罠の設置である。穴掘りは根が張り巡らせていて、とても掘れる状態ではない。そのため罠は地上に設けるものが殆どとなった。
成人しているといっても16や18の男子である。力や勇気は一人前であったが、妖魔も現れない土地で育てられた以上、甘さは彼の説明で、拭いきれるものではなかった。
半ば期待していた成人男子を戦力外にせざる得なくなる。
騎士は村人から20人も兵に仕立て上げ、討伐に出かけようとしていた。従者も含めれば25人いることになる。当てにしていた青年も兵に取られ、マックス達の活動はなかなかスムーズにはいかなかった。中には、討伐隊が組織されたことで、罠をせこせこ作っている彼らを笑う者さえ出てきた。
無駄と判っていながらも、マックスは妖魔の怖さを訴え続けた。「同数では勝てないっ」
その思いもむなしく、翌朝、討伐隊は山に入ることに決まった。
その後、騎士に罠を作って防備を固めることをさんざん馬鹿にされ、同行を願い出そうと考えていた彼の気持ちにブレーキをかけることになる。
翌日の昼には、マックスたちがこさえた罠が、完全にといって良いほど村を完全に守ることになった。この罠のために自由に歩けなくなりぼやく村人もでてきたが、彼は相手にせずに黙々と作業を続ける。
(今頃戦闘をしかけているだろうか?)
従者の中にマイリーの神官戦士を見かけ少しばかり安堵する。
癒し手がいるとそうでないとでは戦い方が全然違ってくる。当然、ルーンマスターの存在の有無が勝敗を分けることが多い。
だからといって不安が拭えるものではない。
手伝ってくれた青年の姉弟が不安そうな顔で突っ立っているのに気がつく。突如泣き出す子さえ出てきた。
その声を聞いて、マックスは気づくことになる。
(騎士に馬鹿にされたぐらいでなにを血迷っているんだ。冒険者は異端者であろう。法も貴族も関係ないのではなかったのか?)
仲間の重戦士が貴族ともめ事を起こしたときに、そう声をか励ましてくれたことが思い出される。
「オレたちは異端者さ。貴族に馬鹿にされたからってどれほどのことかっ」
マックスは立ち上がり、残っている者の中で狩りの経験のある奴を集めはじめた。
「それで?」
マスターの沈黙に、耐えかねリヴァースは思わず声をかけてしまう。
「着いた」
硫黄の臭いがより強くなり、光の精霊に映し出された水面が見える。外気が低いため、そこから立ち上る湯気は相当なものである。
それを指さし、石の階段を降りていく。よく見ると水面には落ち葉が浮かんでおり、それだけでも風情を感じられた。
すっかり冷え切った身体であることを気がつくと、目の前の温泉に浸かればどれだけ心地よいか容易に想像できた。
「ほれっ」
リヴァースに手ぬぐいを投げつけると、マスターはおもむろに服を脱ぎ出した。
(ハメられたーっ)
まさか一緒に入いることになろうとは思いもよらなかった。いや、予想するべきであったのだ。この男に対しては。手ぬぐいまで用意しているとなると最初からこれが目的であったのだ。15年前の出来事に気を取られ、行く先など気にとめていなかったのだ。
リヴァースはとかく女性であることを見抜かれないように声質から体格までごまかしていたが、この男に対しては見抜かれていると思っていた。しかし、以前店内でからかうつもりで問いかけた言葉の結果、妻の素晴らしさを延々と語られ辟易した覚えがあった。この男の妻への愛情は異常ではないかと思われるほどのものがあり、妻以外の女性には興味がないと思っていたのだ。
実際興味がないのかも知れない。だからこそ、混浴しようなどと考えたのかも知れない。マスターの考えが見抜けぬうちに、彼はさっさと湯に浸かろうとしていた。
(眠りの精霊サンドマンよ……)
一瞬、彼女の中で精霊魔法で眠らせてしまおうかと考える。だが、今まで散々後手に回されている自分を思うと効かないかもしれない。むしろ失敗したときになんと言われるかの方が恐ろしかった。眠らせようとした行為がバレれば、自分が女性というものに執着している証拠であり、男装していることを笑われてしまうかも知れない。そうでなくても、精霊魔法を対人に使用するなど以ての外である。ただ温泉に入るだけなのに。そこを責められたら彼女は言い返す言葉を見いだせなかった。
マスターの背後に近づこうとした足を止める。
「あったけ〜」
(嫌味な男だ)
次に思い至ったのは精神の精霊を借りて、姿を消すことであった。しかし、これをかけてリラックスはできない。温泉に入りながら集中し続けることはごめん被りたかった。緊張が解けて、姿をさらすことになればそれこそ情けない。
「私は遠慮する」
その言葉を言いかけて振り返ったとき、石階段の上が暗闇に包まれているのに気がついた。
(そうか、なんてことはないんだ)
彼女はあることを思いつくと、光の精霊に呼びかけた。その途端辺りは闇に包まれる。精霊界へ送還したのだ。
彼女の目には温泉の場所と、あの男の位置がはっきりと見えていた。精霊使いならば誰もが持つ特殊な視界。マスターには縁のない視界である。
もし、入らずに帰ったりしたときなど、マスターに何を言われるか判ったものではなかった。何も言わないかもしれない。しかし、それはそれで耐えられなかった。この男が酒場のおやじである以上、プライベートなことを口にしないことは信用している。だが、酒場で顔を合わせたとき、少しでも含み笑いなどされては酒を楽しみに行くことなどできないのである。
マスターは暗闇になったことをぼやいたが、彼女は聞く耳を持たなかった。それよりまんまと連れてこさせられたことのお返しとしてこの男にウィンディーネを使って湯を浴びせかけてやったのである。せめてもの抗議であった。
そうして暗闇の中の温泉を楽しんでいると、マスターは再び語りはじめた。
(つづく)
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