 |
No. 00157
DATE: 1999/10/20 19:39:14
NAME: コルシュ・フェル
SUBJECT: コルシュ昔話(上)
男は、己の愚行を悔いていた。
下生えの少ない木々の間を歩きながら、彼は今更ながらにこのような地に足を踏み入れたことを後悔していた。
男は革をなめして作られた鎧に身を包み、丈夫そうな複合弓に小剣を携えていた。どちらもよく使い込まれている。そのいでたちは冒険者というよりも、狩人と言った方がしっくりくる感じだ。
年の頃は20代の半ば、少し癖のある茶色の髪は動くのに邪魔にならないよう、短く刈り込まれている。
彼の名はフェディアン。フェディアン・ハルシェルスティンマール。ミード湖畔の小領主ハルシェルスティンマール家の第五子、三男坊である。
「やっぱり、来るべきではなかったようですね。」
不安をあまり感じさせない口調でフェディアンは呟いた。この男、独り言を言う癖があるらしい。風が葉音をたてるのと、時折踏みつけて折れる枯れ枝の音だけが、彼の言葉を包む。
彼が歩いているこの森の名は「妖魔の森」。ミード湖の北東に位置する禍禍しき森である。
普通ならば人が足を踏み入れることの無いこの森に彼が訪れた理由は実家の屋根裏で見つけた一枚の下位古代語で書かれた石版にあった。
マーラ・アジャニスの都。
吟遊詩人たちの題目によく挙げられる幻覚の都のことをご存知の方も少なくなかろう。そして、その石版にはその都に関することが、所々読めなくなってはいたものの、その都について詳細に書かれていたのだ。
これに好奇心を擽られたフェディアンは親の反対を振り切って、いや無視して単身「妖魔の森」に侵入したのだ。
親が心配したのは「妖魔の森」へ行くことではなかった。道中の物取りを、であった。終末したとは言え、東部諸侯による70年にも及ぶ戦国時代の乱れは未だに続いており、整備されていない街道には物取りが跋扈し、旅人たちに恐怖を振りまいていた。
もっとも、フェディアンは軍役の経験もあり、まったく腕に覚えの無い温室育ちというわけでもなかったので多少の賊ならば一蹴できる。
それになによりこの「妖魔の森」近くの街道は旅人がほとんど通らず、それに比例するように賊の数も少ない。多分、ここで待ち伏せをしても旅人と出会う確率よりもゴブリンと出会う方が高いだろう。
そのおかげもあってか、「妖魔の森」まではなんとか無事に辿りつく事ができた。
しかし、「妖魔の森」は思った以上に過酷な場所だった。ゴブリンをはじめとする妖魔の数が尋常ではないのだ。大抵の場合は相手よりも彼の方が早く敵を見つることができたため、戦闘になる前に逃げることができた。それでも疲労の度合いは生半可なものではない。
いい加減帰ろうかとも思っているのだが、泣きっ面に蜂と言うか、良くない時には悪いことが重なるもので、自分のいる位置がいつのまにか把握できなくなっていた。これでは、東西南北は判ってもどちらが一番森の外に近いのかが判らない。
そこで、さっきのあまり弱気には聞こえない弱気なセリフである。
「うぅ、ゆっくり寝たいですね。」
睡眠不足が身体に堪える。どことなく熱っぽい気もするのだが、そうも言ってられない。
「おや?」
不意に、フェディアンは顔を上げた。
聞き慣れないもの、この森に入ってからは聞いたことのない音……歌声が聞こえてきたのだ。歌については詳しくないフェディアンだが、妙に心休まる声だと感じた。
しばらくしても聞こえてくるところからすると、どうやら空腹による幻聴でもないらしい。
彼は葉擦れの音を極力させないよう注意しながらその澄んだ声のする方へと近づいていった。
歌声は、小さな泉のほとりから聞こえてきていた。
「妖精……」
その姿を見たフェディアンは思わず小さく呟いた。いや、独り言はいつものことなのだが。
エルフを見るのはこれが初めてだった。話には何度も聞いたことがあったが、閉鎖的な彼らは滅多に人里に降りてこないのだ。
何人かのエルフの少女……エルフの年齢は見た目では判らないので実際に「少女」かどうかは判らないが……がちょうど彼に背を向ける形で、泉で洗濯をしていた。そして、その中のアッシュブロンド、いや銀糸を梳いたような髪をした妖精が件の歌を歌っていた。
エルフの言葉で歌っているので内容は判らなかったが、とにかく聞いていて気持ちの良い歌だった。
彼は木の幹にもたれ掛かり、目を閉じその歌を胸いっぱいに感じた。
得も言われぬ良い気持ちになり、それまで張り詰めていた緊張の糸が緩む。疲れと睡魔、そして気怠さが大挙して押し寄せ、彼の心を闇へと引きずり込んだ。
意識が途切れる寸前、悲鳴のようなものを聞いたような気もするがよく判らなかった……。
つん、とする奇妙な匂いが鼻孔をつき、フェディアンの意識は急に現実に引き戻された。
目の前がぐるぐると回っており、視界がはっきりしない。
どうやらベッドに寝かされているようだが、それ以外のことがよく判らない。色々な薬品のような香りがするようだが……。
「ん……」
身じろぎを一つすると、頭の中が少しすっきりした。
未だぼんやりとはしているが視界も少しずつ安定してきている。
(順番に思い出してみましょう……)
自分の名はフェディアン。ハルシェルスティンマール家の三男坊。
「……妖魔の森に来て……歌が……歌?」
いつの間にか声に出して言っている。
視界がはっきりする。
さほど広くない木造の部屋。薬草を煎じたのであろう香りが部屋中に充満している。
熱があるのか頭がくらくらするが、今のところ考える妨げにはならない。
ふと、部屋の隅に人の気配を感じて首だけそちらに向けてみた。まだ身体を起こせるだけの体力が戻ってきてない。
「あ……」
あのエルフだった。陽光に銀に煌く髪の、あの妖精だった。
人間を見るのは初めてなのだろう、その瞳には脅えが浮かんでいる。
他に人の気配はない。恐らく、そこらに散乱している器具の片づけの手伝いをしていたのだろう。丁度人が居なくなった時に彼が目覚めたらしい。
フェディアンは何か言おうと言葉を捜す。
「ええと、あ、ええと、あの、ですね。あ、言葉、分かりますか?」
完全にしどろもどろだ。
「ええと…」
ぐ〜〜〜〜っ
何か言おうとする彼を遮るように腹の虫が空腹を主張した。
「あっ」
一瞬視線を外し、もう一度戻した時には部屋から駆け出していくエルフの背中しか写っていなかった。
「あ〜ぁ」
どうして良いのか分からず、フェディアンはただ閉まった扉を見つめるだけだった……。
次に部屋に入ってきたのは、二人の男の妖精と、一人の女の妖精だった。あの銀の髪のエルフはいない。
「目が、覚めたか。」
比較的流暢な共通語で、緑色の服を着た男のエルフが言った。
「おかげさまで。ところで、ここはどこなんですか?」
「その前に。貴様は何者だ?」
緑のエルフより頭一つ分背の高い、隣の青い服を着た男のエルフがきつい口調で訊ねてきた。
「あぁ、こりゃ失礼。寝たままで失礼しますが、僕の名前はフェディアン・ハルシェルスティンマール。肩書きは……ここで言っても仕方ないですね。」
「確かにそうね。人の社会での肩書きは、ここでは意味を成さない。」
薬草やら器具やらを弄っていた薄桃色の服の女のエルフが口を挟む。
「何の為に、この森に入った?」
青のエルフが重ねて訊ねる。
「いやぁ、ウチの屋根裏でマーラ・アジャニスについて書かれた石盤を見つけましてね。本物を是非一度見てみたいと、そう思いまして。」
嘘をついてはいないが、エルフ達の顔には不信の色がありありと浮かんでいる。
「……その様なことの為だけにこの森に足を踏み入れたというのか。」
「いけませんでしたか?」
緑のエルフの言葉に、フェディアンは即答した。
「人間というものは、自分の命をなんだと考えているのだ?」
青のエルフが眉根を寄せる。
「そうですねぇ。僕の命は僕のもの、ですか。好きに使わせてもらってますよ。でもこれ、人間全体には当てはまらないかもしれませんねぇ。考え方なんて、三者三様ですから。」
「興味深いな、貴様は。」
緑のエルフが少し笑った。
「僕は答えました。それを信じるかどうかは自由です。で、僕の質問に、答えていただけませんか?」
三人のエルフはしばらく顔を見合わせていたが、やがて緑のエルフがゆっくりと口を開いた。
「『西のトネリコ』というエルフの集落だ。」
「はぁ。森の外に出たいんですけど、東西南北、どっちが近いですかね。あ、できればマーラ・アジャニスの都を見てからにしたいんですけど。」
「欲張りだな、人間。」
青のエルフが呆れたように言った。
「僕の数多い取り柄の一つでしてね。」
フェディアンはにやりと唇の端を持ち上げた。
「……マーラ・アジャニスの都については教えることはできん。言葉どおりとってくれて構わないが、教えることは何もない。」
緑のエルフが無表情に告げる。
「じゃあ、仕方ありませんね。自分の足で探しましょうか。」
さらりと言ってのけた人間に、薄桃色のエルフが笑った。
「その体たらくで?そうなった理由を覚えてないの?」
「物忘れが激しいのも僕の美点でして。特に都合の悪いことはね。」
呆れ顔のエルフ達が顔を見合わせる。
「過ぎた好奇心は身を滅ぼすぞ。」
緑のエルフが諭すようにゆっくりと言った。
「適度な好奇心は大いに生きる糧になりますよ。」
この人間には何を言っても無駄だと悟ったのか、緑のエルフは呆れたように肩を竦めた。
その時、部屋の扉がごくごく控えめにノックされた。
薄桃色のエルフが扉を開ける。
そこには、湯気の立つスープ皿の乗ったお盆を手にした、あの銀髪のエルフが立っていた。
扉の所で薄桃色のエルフと銀髪のエルフが妖精の言葉でなにやら言葉を交わしている。当然の事ながら、フェディアンにはさっぱり判らない。
二、三、言葉を交えた銀髪のエルフはお盆を薄桃色のエルフに手渡して部屋から出ていった。それが彼にはなんとなく寂しかった。
「さぁ、これを食べろ。さっさと体調を整えて、出ていってもらいたいからな。」
緑のエルフがお盆をベッドの脇のテーブルに置く。
今の言い方だとどうやら身体が元に戻るまでは置いておいてくれるらしい。
「いやどうもすみません。これ、あの子が作ったんですか?」
「あの子?」
「ほら、さっきの銀の髪の。」
「ああ、フェリアーナのことか。そうだ。この集落の薬草師の卵が作ったスープだからな、疲労や熱さましにも効く。」
青と薄桃色のエルフが先に部屋を出て行く。
それに続いて出ようとした緑のエルフが振り向いて、
「何か用事があったらそこの呼び鈴、ひっぱれば誰かが来る。だが、皆暇ではないからな、あまり変な用事で呼ぶな。」
「あ、はいはい。」
扉が閉まると、フェディアンは重い身体を苦労して反転させ、うつ伏せになった。腹筋を使って起き上がれるほど体力が戻っていない。
(だ、だめだ……)
腕がだるくて身体を起こすことができない。ちょっと喋りすぎたようだ。
枕に顔を埋めて脱力する。食事もろくにできないとは、自分が情けない。
(はぁ……このまま餓死……はしないだろうけど……)
ギシ………
どれほどそうしていただろうか、不意に床板のきしむ音がかなり弱った耳に届き、フェディアンは難儀して顔を横に向けた。
「……………あの…………」
流暢な共通語が耳元で囁かれる。目の前に飛び込んできたのは、銀糸の滝。
「や、やぁ。元気?」
我ながら間抜けだ。
そっと、暖かい感触がフェディアンの両肩を包んだ。
「ん………」
力が込められ、フェディアンの身体がゆっくりと仰向けにされる。フェリアーナという名のその妖精は、細い腕に渾身の力を込めてフェディアンを、痩身とは言え大の大人を仰向けにした。
「はぁっ、はぁっ……」
息が上がっているのは、フェディアンも妖精も御同様、だ。
「ありがと。えっと……君、名前は?僕は……」
「ハルシェルスティンマール様、ですね。先ほど伺いました。」
「フェディアン、でいいよ。」
疲れた顔に笑みを浮かべる。とたん、面白いように妖精の顔に朱がさした。
「あ、あの、わ、私は……」
尻つぼみで声が消える。
フェディアンは辛抱強く待った。先ほど聞いてはいるのだが、是非ともこの妖精の口から、この妖精の声で聞きたい。
「コルシェ……ローズ…………フェリアーナ…………ヒーリングリーヴズ……」
「……どこからどこまでがファーストネーム?」
「コルシェローズ、です。幼名がフェリアーナで、氏がヒーリングリーヴズです。」
妖精の説明に、フェディアンはぼんやりした頭でそれを反芻した。
「……なるほど……だからあなたを昔から知る人はフェリアーナと呼ぶのですね。」
「し、知ってらしたのですか?」
からかわれたと思ったのか、妖精の顔がよりいっそう恥ずかしさで赤くなった。
「小耳に挟んだだけでしたので、確信がね、ちょっと……」
頭の中に巣食ったぼんやりが明確な思考能力を阻害するが、この貴重な一瞬を失いたくないがためにフェディアンは残った気力の総力をあげて意識を繋ぎ止めていた。
「……顔色、悪いです。今は、休んで……」
フェリアーナはそっと毛布を掛け直した。
「……大丈夫……スープ、飲まないと………」
しかし、気力がもったのはそこまでだった。無情にも彼の意識は混濁した深淵へと引きずり戻されていった……。
それからフェディアンがベッドを離れて歩けるようになるまでに5日かかった。
日に数回、その時手隙の者がフェディアンに食事や薬を運んでくるだけの生活。
最初の数日はほとんど眠っていたのでなんともなかったが、少しずつ身体が回復してくるにつれて目は覚めてはいるが何もする事がないという暇な時間が増えていった。
言葉でも教えてもらえれば有益だし、よい暇つぶしにもなるのだが、部屋に来る妖精のほとんどが共通語を話せなかったのでそれも頼めなかった。また、武具の手入れをしようにも、用心のためかどこかに持って行かれてしまっている。
自然、ただただ何かをぼんやりと考える時間だけが増える。そうなると頭に浮かんでくるのはマーラ・アジャニスの事でも、親兄弟の顔でも、別れた恋人の顔でも、増してや去年見合いをした良家の娘の顔でもなかった。浮かぶは一つ、あの日から一度もここに来ていない一人の妖精の顔と、澄んだ声だけだった。
元来、フェディアンはじっと考えるのが苦手だ。座ったり寝転んでものを考えると思考が堂々巡りしてしまうのだ。熊のように(実際にそうしている熊を見た事があるわけではないのだが)歩き回って考える方が性にあっている。
しかし、広くない部屋の中をぐるぐる歩き回ってみても、今回に限って一向に考えがまとまらない。ただフェリアーナは今どうしているのだろう、何が好きなんだろう、姉の持っているかんらん石の髪飾りがよく似合うんじゃなかろうか、と取り止めの無いことが渚に打ち寄せる波のように寄せては消え、寄せては消えを繰り返すだけだった。
歩けるようになったからといって、エルフたちはすぐさまフェディアンを追い出すようなことはしなかった。リハビリの意味も含めて、いろいろ仕事を持ってくるようになったのだ。薪割りを始め、外敵から守るための木造の城壁の補修などの力仕事がその大半だった。
それらの仕事の最中に時折、あの銀糸の髪を見かけることはあったが、言葉を交わしたことは皆無だった。
夜毎にフェリアーナの面影が枕元に浮かび、食事毎にあの飲み損ねたスープが思い起こされる。
くそっ。これじゃまるで初恋に悩む餓鬼と同じじゃないかっ。
いや、餓鬼でけっこう。これこそ初恋だ。
この気持ちに比べたら、今までの恋愛が読み古した書物の文字のように霞んで見える。
これこそ恋なのだ。これだけは何よりも、僕の存在そのものよりも確信をもって言える。
気持ちが安らぐことはない。彼女にこの思いの丈を伝えるまでは。
(続劇)
 |