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No. 00192
DATE: 1999/12/01 17:17:46
NAME: コルシュ・フェル
SUBJECT: コルシュ昔話(下)
鐘楼に備えつけられている警鐘が鳴り響いたのは、フェディアンが歩けるようになって4日目の月夜のことだった。
ベッドの上で爪を研いでいた彼は、軍役で身についた条件反射でベッドから飛び降り、薄いカーテンのかかった窓に走り寄った。途中で丸椅子を一つ蹴倒して派手な音をたててしまったが、この際気にしてられない。
はめ込み式で開かない窓越しに、妖精達の言葉で交わされる切迫した声が聞こえてきた。ただ事であろうはずがない。慌ててズボンに足を通し、もどかしげにブーツの紐を縛る。ここ二日ばかりでようやく覚えた家の中を、外へ通じる扉へとひた走る。
扉を勢いよく開けると、短い頭髪に覆われた頭皮を夜風が擽った。
防壁や広場の至る所に掲げられたかがり火の、煌々と照らされる夜空に、あまり聞き慣れたいとは思わない雄叫びと剣戟の音が響いていた。
妖魔の襲撃だな、と予想がついた。
愛用の弓も、小剣も帯びておらず、ひどく頼りない。
得物の在処を知りたい。
辺りを見回し、物見やぐらに向かおうとしていた一人の若いエルフの腕を掴んで呼び止める。
「僕の武器を知らないですか?」
しかし、彼は共通語が解らないらしく、荒っぽくフェディアンの手を振り解くと、楼に向かって走っていった。
その次のエルフも、そのまた次のエルフも言葉が通じなかった。ジェスチャーを加えても、結果は同じだった。
少し頭を冷やしてもう一度周りを見回す。彼が得意なのは弓だが、エルフ達が持っている弓は彼にはあまりにもヤワすぎるように見えた。それに、無理矢理奪うのは、性に合わないし、心証も悪くしてしまうだろう。
やはり、自分の弓が欲しい。
「……どこにあるんでしょう?」
いつものごとく思いが口をついて出る。
「何が……ですか?」
不意に後ろから声をかけられ、フェディアンは思わずその場を飛びのいた。
周囲の気配にちっとも気を配っていなかった。
「あ……あの……ごめんなさい……」
夜目にも鮮やかな銀糸のエルフだった。
「や、やぁ」
完全に声が裏返ってしまっている。
「お……驚かせて……ごめんなさい」
彼女はすっかり恐縮していた。フェディアンは慌てて大丈夫、と付け加える。
それよりさ、と続け、自分の弓矢と剣の場所を知らないかと訊ねた。
「ハルシェルスティンマール様の隣の間にありますけど……狩りにでも行かれるんですか?」
彼女は果たして現状を把握しているのだろうか?
それとも、このような襲撃はもはや日常茶飯事なのだろうか?
「フェディアン、ですよ。それと、狩りは狩りでもすぐそこにいる妖魔をね」
炎の精霊や光の精霊が飛び交う中、フェディアンは目の前のエルフをじっと見詰めた。
「あ、あの?……ハル……」
「フェディアン、ですよ」
人差し指でフェリアーナの唇を軽く塞いで微笑む。
炎のせいか、エルフの白い肌が朱に染まって見える。
「ありがとう。じゃぁフェル、フェリアーナは流れ矢が来ない所に行っててくださいね」そう言って、フェディアンは走り始めた。
取り残された感じになった幼いエルフは、頬を朱に染めたまま、しばらくそこに立ち尽くしていた……。
その襲撃は双方にとっては日常的な小競り合いであったらしく、東の空が白み始めるずいぶん前に妖魔が引き上げる、という形で終結した。
フェディアンもまぁ、上々とは言わないまでも、途中参加としてはそれなりの戦果を上げた。
日が昇る頃には負傷者の手当てや、死者の埋葬、破損した櫓や防壁の修理が始まっていた。交代で睡眠を取りながら、男は修理、女は癒しを続ける。日が沈むまでにはすべてが元どおり……無論、死者は帰ってはこないが……になっていた。
自室として宛がわれている部屋に戻ったフェディアンは、ベッドを軋ませながら疲れた身体を投げ出した。妖精族より筋力において勝るフェディアンは、力仕事をしこたまやらされた。仕事をすること自体は、助けてもらった恩義もあり、やぶさかではなかったが。
(きょ〜うは、よ〜く眠れそうですね……)
ぼーっとしていると、疲れて思考能力が落ちているはずの頭に一人の顔が浮かんでくる。指先に残る、軟らかな唇の感触。
つい、無意識のうちにその人差し指を自分の口元に持ってくる。
コンコン
ドアをノックする音に、びくっと過剰に反応した。
たいしたことではないのだが、その行動に何やら負い目を感じたのだ。
「あ、は、はい。開いてます」
言ってから、共通語の解らない妖精だったら、と気づいた。
重たい身体をベッドから引き剥がして、ドアを開けにいく。
と、向こう側からゆっくりとドアが開いてきた。
「失礼します…」
立っていたのは、湯気の立つスープ皿と丸パンを乗せたお盆を手にした、フェリアーナだった。
「あ、い、いらっしゃい」
恐らく、その時のフェディアンの顔は、面白いくらいに赤くなっていたに違いない。
銀髪の妖精は、そのまま動こうとしない。
「えっと……あの、入らさせていただいても……」
その時になってようやく、彼は自分が入り口をふさぐような形で立ち尽くしていることに気がついた。
「こ、これは失敬。ささ、どうぞ」
彼女を部屋に招き入れた彼はひどくどぎまぎして、落ち着かなげに部屋の中を行ったり来たりした。
妖精がお盆を小さなテーブルの上に置いた後、二人はしばらく黙ったままだった。ただ二人の息遣いとフェディアンのブーツと床が立てるコツコツという音だけが時が進んでいることを知らせている。
先に口を開いたのはフェリアーナだった。
「昨夜は……お疲れ様でした」
「……あ〜、いえ、居候として当然のことを……まぁ、なんか恩は返さなくちゃならないですしねぇ……」
「イソウロウ?」
どうやらエルフ語には「居候」に類する単語がないようだ。慌てて彼は生活する場所を借りている者、と言い直した。
「いえ、ハルシェルスティンマール様は病み上がりなのですから、御無理をなさってはいけません」
そこでフェディアンが返事を返さなかったので、二人の間にまた沈黙が降りた。
徐々に薄くなっていくスープの湯気。
紅から紺へと変わっていく窓からの光。
その刻々と変化するどの色彩の光の元でも彼女はただ美しかった。
今度口を開いたのは男の方だった。
「……フェル。フェリアーナ……僕は、君ほど美しい女性に会ったことがない」
その言葉に彼女の頬が一瞬紅潮して嬉しさと恥ずかしさを表したが、それはすぐに失せ寂しさにすり替わっていた。
「……そういうことは、仰るべきことではありません」
「僕は思ったことを、いや、真実を言ってるだけですよ」
「私達は種が違います」
「とはいえ、互いの美しさが解らないくらい違ってもいないですね。少なくとも、大地の小人族ほどには」
少し茶化したフェディアンのセリフを妖精は首を横に振って否定した。
「……お願いですから、そういうことを言わないで下さい。族長達は貴方が何も変化をもたらさないうちは、そして十分この森の旅に耐え得る体力が戻るまではここに滞在することを許可するでしょう。ですが……」
「ですが、か。雄弁な単語ですよね。……わかりました。でも、一つ約束して下さい」
「?」
「僕のファーストネームはフェディアンです。ハルシェルスティンマールは家の名前。僕を表す一要因ではありますが、僕自身を示すのはフェディアンという名前だけです。だから、そう呼んで下さい」
その条件に妖精は微笑みを返した。
「解りましたわ。フェディアン様」
そこで彼女は腰をかけていた丸椅子からすっと立ち上がった。
「スープ、もう温くなってしまいましたが召し上がってください。それから、今夜はゆっくりと」
それだけ言うと彼女は背を向けて部屋から出て行った。
その動きの一つ一つは優美で、彼の目を奪った。街で見かける夢売り乙女(娼婦)の持つ艶やかさとは全く違った魅力だった。
フェディアンの感じている感情の一部は間違いなく性欲であり、実際に彼女を抱きたいとも思った。いや、抱きたかった。
しかしそれ以上に彼の心の多くを占めていたのはやさしさだった。これまでに抱いたことのある他人に対するやさしさとは違う。他のどんな女性にも抱いたことの無かった感情だった。
そしてそれに気づいた彼はひどく寂しく、そして傷ついた。
何故ならば、彼はいずれはここを出て行かねばならず、彼女はついて来れないであろうことが容易に推測できたからだった。
そしてそれは、そう遠くない、すぐ近い未来の出来事だったからだ。
フェディアンが『西のトネリコ』を去る日は思ったよりも早く訪れた。
彼がフェリアーナに対して抱いている感情が、言葉には出さずとも周囲の者にはあまりに簡単に感じることが出来るようになっていたのも、それに一役買っていることは疑いようがなかった。
しかしそれでも去ることを言い出したのはフェディアンであり、エルフたちはそれを快諾したに過ぎなかった。
形だけは。
彼がその集落を去る前夜は、十六夜だった。雲の少ない夜空に輝く月が、木々の葉の額縁の中で一つの芸術を作り出していた。
ただ一人、フェディアンは窓越しにそれを眺めていた。
眠れなかった。すでに眠ろうという努力も放棄していた。
ここから眺める月も、遠くにある彼の故郷で眺める月も同じものであるはずだった。しかし彼にはこの、今のこの月ほど悲しく、寂しく、そして美しい月はないように思えた。
それはただ、彼の心を映しただけなのかもしれなかったが。
扉越しに、かすかな物音がした。
彼は反射的に枕の下に忍ばせてあったナイフの柄に触れた。息を殺してしばらく待つと、かちゃりと小さな音をたてて扉の鍵が開いた。彼は寝る時には内側から施錠していたが、エルフたちが他に合鍵を持っていたとしても不思議ではなかった。
わずかに開いた扉の隙間から流れこんできたのは月の光。銀の光。
フェリアーナだった。
開いた時と同じようにかすかな音を立てて扉がしまり、鍵が下ろされた。
もはや抑えきれなかった。克己心は情愛に負け、身体は彼女を求めた。
そこから先は言葉は不要だった。
ただ覚えているのは彼女の暖かさ、肌の柔らかさ、そして最初にした口付けの時に感じた涙の味だけ。
そしてそれを見守るは、欠けかけた月のみ。
すべてが終わった後、彼はベッドに横たわりながら彼女の、エルフの特徴たる長い耳朶の傍で愛してると囁いた。
彼女はそれには答えなかった。
そして、彼にはその答えが必要ではなかった。
「僕は、君を愛してる」
彼はもう一度囁いた。
何かを言おうとした妖精の唇を節くれだった指で塞ぐ。こうするのは二度目だな、とぼんやり思った。
「ただ、愛しているだけです。君を欲しいとは思うけど、実際に抱いたけど、愛してくれとは言いません。言えません」
フェリアーナは何か言いたげだったが黙った。
「心だけは自分のものだから。誰にも強要できないから。それでも、誰かを愛するのに一人分の愛じゃ足りないと誰かが言うのであれば、僕が二人分愛します……だから」
「でも」
そこでやっとフェリアーナは口を挟んだ。
「私なんかに……」
「私なんか、なんて言わないで下さい。僕にとっては誰よりも大切な人なんですから。出会ってまだ数日ではあっても、君ほど大切に、愛しく感じた人はいません」
「でも」
もう一度彼女は繰り返した。
「貴方は行ってしまうし、多分もう会えない。貴方も私と同族ならばそれが叶うかもしれないけれど……」
「僕はまた戻ってきます。故郷でけりをつけたら。父と母はきっと心配しているから。彼らの息子である僕には、戻らねばならない義務があるから。でも、また戻ってきます。いや、戻って来れずにはいられない。そして、僕には寿命など……いや、この話はまたにしましょう」
そこでフェディアンは彼女に覆い被さってキスをした。
「夜明けまではまだ間があります。……もう一度……」
再び部屋の温度が上がる中、フェディアンは頭の隅で一人ごちた。
(僕はただ君の人生の中で、記憶の中でほんの少しの彩りとなればいい。ただ君につかの間ではあっても幸せを感じてもらいたいだけ……。僕の命ある限り、僕にしか与えられない幸せを感じてもらいたい。それこそが僕にとっての幸せなのだから。それが僕の我侭、思いあがりではあっても……)
『西のトネリコ』の薬師長であるフートオウル・ヒーリングリーヴズはいつもどおり集落の外れ、清らかな水を湛える泉の近くで栽培されているアルニカとシャロンギアの畑を見回っていた。
ざぁっと風で木々が鳴き、それにつられるようにふと頭を巡らす。
その視線の先にふと、樫の幹に突き刺さっている一本の矢が止まった。
もはや朽ち掛けていてただの棒の様にしか見えなかったがそれは、同族が使う矢にしてはあまりにも長すぎ、そして太かった。
それは数年前、ほんの10数日この集落に滞在していた人間が使っていた代物だった。それに間違い無かった。
それは彼にとってはあまり良い思い出ではなかった。
その人間が自分の娘に想いを寄せ、そして娘もまたその人間のことを憎からず思っていたらしいのだ。
そのせいか娘は未だに未婚だったし、他の年頃の娘たちとは違って浮いた話の一つも持ちあがらなかった。
確かにあの人間は彼が知る他の人間とは、そして伝え聞く街の人間とは一風変わっていた。
娘に悪い影響を与えたし、何を考えているのかよく解らないところはあったが、多くの同族と同じように義に厚かったし、何よりあの人間は優秀な狩人であり、戦士だった。
その点に於いては彼はあの人間を評価していた。
だがしかし、所詮は人間。人とエルフでは流れている時間が違う。自分に人間の考え方や感じ方が解らないのと同様に、人間もまたエルフの感性を理解することはできない。
兎にも角にも、あの人間が早々に去ってくれてよかった。
時間はかかるかもしれないが、娘もじきに忘れるだろう。
物思いから抜け出すと、彼は畑の世話をしている若いエルフに一声かけてから自分の住居へと戻っていった。
少し軋むドアをあけ、家の中に入ったが、そこは何故かひどく静かだった。
去年流れ矢で死んだ妻が居なくなってからは娘と二人きりで住んでいるから、娘が居なければ静かなのは当然だろう。
「フェリアーナ、フェリアーナ?居ないのか?」
リビングに入った彼は、食卓の上に置かれた一枚の羊皮紙のメモを見つけた。
取り上げてみると、娘の丸っこいながらも丁寧な字体で書かれた、彼宛のものだった。
愛する父様へ
フェディアンが戻ってきました。彼は変わらず私を望み、私もまたそれに応えたく思います。
多くの想いが駆け抜け、この先に待っている未来が幸せとも限らず、そして悲劇に終わってしまうかもしれないことは彼も、私も承知していますし、これを知ったときの父様のお心を察すると苦しく、胸も痛みますがそれでも、それでもこの想いは止められません。
どうか、身勝手な娘のことは忘れてください。
父様も良き伴侶、良き娘に恵まれることを心より祈っております。
愛を込めて コルシェローズ=フェリアーナ・ヒーリングリーヴズ
もう一度読み返し、不意に視界がぼやけて娘の字が読めなくなった。
胸に、心にひどく大きな穴があいたようだった。妻を失い、そしてほとんど立て続けに娘までも失った。
膝ががくりと床に落ち、両手をついて彼は泣いた。
そして涙が枯れたら、翌朝になったら彼はいつもどおりの毅然とした態度で皆に報告するのだ。
コルシェローズ=フェリアーナを勘当する、と。
ただ、ただただ娘のためだけに。
〜〜ひとまずの終劇〜〜
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