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No. 00197
DATE: 1999/12/06 16:56:49
NAME: アーヴディア他
SUBJECT: 大掃除・第一章
第一章「集う清掃人」
1.スカーレット・フェザー
暑気の盛んなことで知られるオランにも、ようやく、秋色が目立ちはじめた頃。
某日の、正午を僅かに過ぎた時刻、アーヴディアはオラン北の郊外にあった。馬で一刻ほど進んだところにある田園地帯である。
刈り入れをすっかり終えて、寂しくなった田畑の間を抜けた辺りに、ぽつん、と一軒の館が立っている。アーヴは、その館の正門前で、キセルを吹かしながら、館を眺めるともなく佇立しているのだった。
その館、元は風趣の漂う美しい邸宅であったのであろうが、今では見る影もない。
所々がひび割れた外壁と、それに絡み付く無数の蔦。錆が浮き上がった青銅の門の向こうに繁茂する、膨大な量の雑草。草の伸び具合は、アーヴの身丈を越えてしまうほどの高さである。敷地内に庭園があることを彼女は聞いていたが、こうなってしまっては、もはや、境目も分からなくなっているだろう。全体、既に薮と化しているありさまだ。
その薮の向こうに、埋もれるようにして館が見える。これも、風雪の長きにさらされ、すっかりと色褪せてしまっている。
丸二十年の間、放っておかれた結果であった。
アーヴはキセルを離すと、薄い唇の間から煙をくゆらせ、切れ長の翡翠の瞳の奥に、何やら思案の光を見せていたが、
「……お掃除、ね」
低くかすれた声で、ぼそり、と呟くと踵を返し、馬の手綱を取って控えていた赤毛の若者に声をかけた。
「……戻るわ」
「なんや、もう帰るんか。早いなぁ」
若者は訛りのある口調で答えると、アーヴを鞍上に押し上げ、自身も身軽な動作で飛び上がった。
手綱が鳴り、馬がゆっくりと歩き始める。
「しかし、なんやなぁ……。外出するんで付いて来い言うから、どこぞ遊びに行くんかと思うとったら、街外れのボロ家見物やもんなぁ……」
その若者、フェザーは前方を見据えたまま、幾分、残念そうな口調でぼやいた。
盗賊ギルドに籍置く身のフェザーは、多忙である。十九という若年に似合わず、経験が豊富で確かな技量を持っているのを評価されてのことだ。
一方で、中原出身の、いわゆる「よそ者」であるところの彼の存在を疎ましく思う向きも多い。腕利きのよそ者とくれば、西方の間諜ではないか、との懸念が沸くのも致し方ない。
その辺りの事情をよく理解しているフェザーは、必要がない限りはギルドには顔を出さないことにしている。僅かに訪れる暇な時間は、彼が寝床としている妖魔通りの宿場〔赤目亭〕でおとなしくしているか、その近所、アーヴが店員として勤める〔精選香草堂本舗〕に立ち寄るかして過ごすことにしている。
この日、フェザーがいつものようにアーヴを訪ねたところ、店から出てこようとしている彼女にばったりと出くわした。
「ちょうどよかった……付いてきなさい」
とアーヴの言うままに付き従ったフェザーは、どこぞの宿に用意させていたと言う馬に、彼女を乗せて運ぶと言う役目を仰せつかった。つまり、馬子である。馬方とも言う。
「せっかく、丸一日、時間作ったんになぁ」
フェザーの言葉を背に聞き流し、アーヴは左右に流れ行く風景を見ている。
「なぁ、街に戻ったら、市場にでも行かへん?」
何気ない口調を装っているが、フェザーの表情には、母親に物をねだる子供のような切実な気配がある。
事実、二人の年齢は親子ほどに違う。
アーヴは一見、三十路にも届いていないように見えるが、五十年以上は生きている。人間であれば、人生一回分の勘定であるが、妖精の血を引く彼女にしてみれば、定められ足る命数の四半分も過ごしたか、と言う程度でしかない。
「聞いとる?」
「…………聞こえてる」
答えるのに間があるのは、アーヴがキセルを離してから、煙をゆっくりと吐き出しているためである。
「市場、行こ。買い物したり、飯食ったりしよ。なっ」
「……いいわよ」
「ほんまにっ!?」
「……でも、条件付き」
「条件?」
フェザーは、きょとんとした様子で、アーヴの銀髪を見た。
アーヴは、ちらり、と振り向いて、薄く笑った。
「……今度、私の仕事の手伝いをしてくれるなら、ね」
「手伝いって……、アーヴの店のか?」
「……そう、大掃除」
それまで、やや緊張ぎみであったフェザーの表情が、安堵と余裕に満ちたものになった。
「なんや、お掃除か。軽い、軽い。そんなんやったら、ワイに任しとき。ナンボでも、やったるわ。よし、そうと決まれば、善は急げ。はよ、戻ろ」
フェザーは手綱を繰ると、馬の歩みを速めた。
この時、フェザーは、アーヴの出した条件が、「一日のお付き合い」程度ではとても割に合わないものであるとは、微塵も考えていなかった。
アーヴは、フェザーの胸にもたれかかると、目を閉じた。
近くの石井戸の辺りでミソサザイが飛び回り、澄み通った声でさえずっている……。
2.リュイン・ディオーリン
翌日の朝。
目黒通りに立つ冒険者の店、〔きままに亭〕……。
その店内、カウンターを挟んで、アーヴと店員のウィルが何やら話し込んでいる。正確には、アーヴが、ぽつりぽつり、と言葉を紡ぎ出すのに対し、ウィルが、無愛想に一言二言返すと言うものであって、傍目から見ると、まともに会話しているようには見えない。
会話の内容は、何やらアーヴが持ち掛けた仕事を、店で紹介してもらうための手続きであるようだ。仕事の内容及び期間、店への仲介料、雇人に対する賃金、などの取り決めが進み、決定事項をウィルが速筆で書き留めていく。
半時もすると、話し合いに区切りが付いたらしく、二人はその場を離れ、ウィルは店の奥へ、アーヴは店の二階へと上っていった。
やがて、ウィルが、一枚の真新しい羊皮紙を手に、店の壁……掲示板として利用されている一画の前に立った。伝言、仕事の紹介、罪人の人相書き、など様々な内容の張り紙がなされている中に、ウィルはその羊皮紙を貼り付けた。
「九の月、二十九の日」と日付のされたそれには、以下のように記されている。
清掃人募集
内容:オラン郊外の館及び庭園の清掃、整備
期間:自〜十の月・三の日・朝餐の鐘の刻
至〜同月・七の日・午餐の鐘の刻ないし夕餉の鐘の刻
報酬:一日当たり銀貨九十ないし百五十枚
募集人数:五人。年齢、性別、不問。
雇用元:精選香草堂本舗(妖魔通り)
責任者:アーヴディア店主代理
希望者は、直接来店のこと
「ふーん」
ちょうど、二階より降りてきていた、黒髪の小柄な少女が、ウィルの隣に立って張り紙を覗き込んだ。
一見、少年と見間違えるような身なりをしているが、目鼻立ちの繊細さ、耳元から頤にかけての細い輪郭線、華奢な体躯から、女であると知れる。
「アーヴのお店の仕事なんだ……、ウィル?」
その少女……、リュインは、張り紙と、ウィルの顔とを交互に見て言った。
「あの女と知り合いか」
「ちょっとね」
「ふん」
「ねぇ、これ、僕が申し込んでもいいのかな」
「好きにしろ」
「うーん……」
リュインは、形のいい眉を寄せて、張り紙の内容を吟味し始める。
「夕方まで働いて、一日、百五十なんだ。そうすると、三百の、四百五十の……」
「五日間で、七百五十だ」
間髪を入れずに、ウィルが答えた。
リュインは、まじまじ、とウィルを見上げた。
「早いね」
「お前が遅いだけだ」
「そうかなぁ」
「ふん」
ウィルはにべもない。
「七百五十か……、それだけあったら……」
リュインは、指を折って何やら計算していたが、やがて、幾分幼さの残る顔に喜色を浮かべた。
「うん、必要な金額に足りる。ボク、この仕事に申し込むね」
「リックとか言う奴に会うための金か」
親しくしている青年の名を出され、リュインは僅かに表情を曇らせ、苦笑して見せた。その青年は現在、とある殺人事件の容疑をかけられ、ファリス神殿に厳重に拘束されている。
「熱心なことだ」
「別にウィルには関係ないじゃない」
「さて、どうかな」
リュインは、唇を尖らせた。
「意地悪」
「ふん」
何を言おうとウィルの無愛想振りは変わらないのだが、その実、心の中では密かに笑っているのではないか、とリュインは思わずにいられなかった。
3.レオン・クライフォート/スカイアー・ロックウェル
コルシュと二人して西の高台へ出かけ、彼女の用意した山のような手料理を前に、どれから食べようか散々思案した挙げ句、まずはと前菜の青豆の和え物へ手を伸ばしたところ、いきなり、首筋に冷たいものを差し込まれ、
「うわっ!」
とレオンが飛び上がった途端に、全ての情景は消し飛んでいた。そこは、彼が寝泊まりしている宿、〔きままに亭〕の一室である。
「あぁ、畜生。夢かよ……」
などとぼやくどころではなかった。
飛び起きたレオンの隣に、いつのまに部屋に入ってきたのか、アーヴが腰を下ろして、レオンの首筋を撫で回していた。アーヴの細い指は、氷のように冷たい。
「うわぁーっ!」
レオンは再度叫び、ベッドの上で後ずさりした。シーツがずり落ち、引き締まった体躯が露になる。
「おはよう、坊や」
「おはよう、じゃないでしょう。なんて、俺の部屋にあなたがいるんですかっ!」
「鍵、開いてたわよ」
「えっ、本当ですか!?」
「嘘よ。錠は術で解かせてもらったわ。店の許可は取ってあるけど」
右手薬指にはめたメノウの指輪を見せて、アーヴはさらりと言ってのけた。
レオンは、こめかみの辺りに痛みを感じて、思わず指を当てた。
剣を片手に人生の過半を過ごしてきたひとかどの戦士として、レオンにも多少の矜持がある。めったなことでは寝込みを襲われないだけの自信もあるのだが、今回は、たまさか、その「めったなこと」に当てはまっていた。それと言うのも、レオンは先日、二ヶ月に渡るロマール行から戻ったばかりだったのである。
旅慣れているとは言え、やはり、懐かしい街に帰ってきた日の晩くらいは、心行くまで安らぎたいのが人情であろう。住み慣れた街の、慣れ親しんだ宿の一室に、そのような頃合いを見計らった不意の来訪者が、しかも鍵をこじ開けて現れるなど、誰が想像するであろうか。
もう一つ、夢の内容に溺れていたと言うのも不覚を取った理由に数えてよかろうが、さすがにそれは口に出せない。
「それにしても、目茶苦茶だ」
ベッドを降り、レオンは呆れ顔であった。
「借金取りじゃあるまいし、わざわざ、部屋に押しかけてくることはないでしょう」
「借金してるでしょ」
「え?」
「これ」
アーヴは、懐から一枚の羊皮紙を取り出すと、合点のいかない様子のレオンの目の前で、それを、ひらひら、と振った。そこには、
〔精選香草堂本舗〕様、金貨参百枚、確かに受領いたしました。但し、乗用馬三頭、某牧場、七の月、二十の日、云々……、
と書いてある。
前述のロマール行の際、レオンとその他の面々は乗用馬を購入しているのだが、その費用である金貨三百枚……すなわち、銀貨に換算して一万五千枚を、アーヴが立て替えてたと言う経緯があった。無論、彼女個人がそのような大金を持ち合わせているわけがないので、〔精選香草堂本舗〕の資金から捻出してある。店の資産として購入したものを、レオンたちに貸し与えた……と言うことにしたのである。
「あれ、でも、馬は返しましたよね」
「二ヶ月間の貸与料金よ」
「なるほど。それで、おいくらですか?」
「費用の一割」
「一割と言うと……、金貨三十枚」
「銀貨で、一千五百」
「大金だなぁ。いっぺんには、返せないと思いますけど」
「だから、お仕事をあげる」
「仕事?」
「そう、お仕事。五日間で、七百五十になるわ。スカイアーと二人で働けば、ぴったり、一千五百」
スカイアーとは、レオンとともにロマールへ向かった剣士の名である。そもそも、ロマールに用事のあったのは、このスカイアーであって、レオンはそれに同行しただけだったのだが、それについては、さておく。
「わかりました。それじゃ、そのお仕事を引き受けさせていただきます。でも、今度からは、ちゃんとノックして入ってきてくださいよ」
「そうするわね」
苦笑して言うレオンに対して、アーヴは涼やかに答えた。
「ところで、スカイアーには、もう話は通してあるんですか?」
「昨日、呼び出して、連絡は済ませたわ。今は、店でお留守番」
「あぁ……」
そりゃ、ますます、客が近寄らないだろうな、との言葉をレオンは呑み込み、あのあばら屋で神妙に店番をしているであろう剣士に、同情の念を催した。
「むっ」
スカイアーは、一つ大きなくしゃみをした。それに併せて、〔精選香草堂本舗〕の狭い店内が揺れる。
「うーむ……、風邪か。気を付けねばな」
鼻を軽く押さえ、スカイアーは棚の整理を一人、黙々と続ける。
今日は、いつもより、遙かに早く店が開かれている。それから、すでに数刻が過ぎ、もうすぐ正午の鐘が鳴ろうと言う頃合いなのだが、相変わらず、客が訪れる様子はない……。
4.ウィント/ケイド・クレンツ
アーヴが〔きままに亭〕を訪れたのと、ちょうど同じ頃合い。
港湾地区の喧騒の直中。
「おかしい…」
青年は、合点のいかない様子で、ひっそりと呟いた。
さほど身丈のない、細身のしなやかな体躯を、上下青色の衣服で包んでいる。額に巻いたバンダナまでも青い。
僅かに幼さを残した顔立ちは、それなりに整ってはいるが、目の光には、悪童を思わせる雰囲気がある。
人目につく容貌なのだが、しかし、軽やかな足取りで進む姿からは、不思議と気配が感じられない。
彼の名はウィント。賭博師である。昔は、「流浪の賭博師」と名乗っていたが、今では、すっかりオランに定住した感がある。
そのウィントの視線が今、ただ一点に注がれている。
「あいつ、どうしちまったってんだ?」
人込みに紛れて様子を窺うウィントの視線の先に、彼の兄、スカーレット・フェザーの姿がある。
尾行に気付いているのか、いないのか、判然としないが、フェザーは今、大通りをまっすぐに歩いている。スカーレットの名が表す通りの、燃えるような赤い髪が人馬で溢れ返る往来によく目立つ。
目立つ。それは、盗賊としてあってはならないことである。
いつもであれば、文字通り人の影に溶け込むようにして歩くフェザーである。同じ盗賊であっても、それと悟るのは極めて困難な芸当をフェザーはやってのける。一度、紛れられると、ウィントにも、まず確実に見つけ出せると言う確証はない。
ところが、今、それをしていない。
それだけではない。フェザーの背中は、ウィントの目に「まるで、がら空き」に映る。つまり、隙だらけと言うことである。
何かに気を取られている様子であった。後ろ姿に、その感情が顕わになっている。
「浮かれてやがる」
ウィントは、そのように断じた。
今ならば、駆け出しの盗賊ですら、小刀の一撃を首筋に叩きこむのも、造作のないことであろう。
「あいつの力量は俺が一番よく知ってる……。まず、あんな醜態をさらけ出すような男じゃねぇ……。それなのに、なんだよ。あのザマ」
情けねぇ。
ウィントは低く舌打ちした。
フェザーの異変に気付いたのは、昨日の夜遅くのことであった。
その日、ウィントは酒場や博打場を巡ってカード勝負を繰り返していたわけだが、いつになく調子が出ず、主旨はとんとんと言う結果だった。
すっかり機嫌を損ねたウィントは、安酒を浴びるように飲んで、帰路に就いた。
その時、夜道の先を往くフェザーを見つけたのである。彼は、ウィントに気づいていない様子であった。
苛立ちと酔いの勢いとが合わさって、ウィントは勃然といたずら心を起こした。すなわち、フェザーの背後にするりと回りこむと、思いっきり彼の頭を殴り付けたのである。
「ふははははっ、不覚だったな!」
ウィントは高らかに笑うと、颯と間合いを切って身構えた。いつもなら、ここで神速の斬り返しが飛んでくる。おとなしく突っ立っていたら、鼻を削ぎ落とされかねない。ウィントの手中には既に短刀が収められている。斬り込みから数合の撃剣を交わすくらい、彼らは平気で行う。そう言う兄弟なのだから、しょうがない。
ところが、この日は事情が違った。ウィントの予想に反して、フェザーは背を見せたまま微動だにしなかった。
「……?」
訝しげに様子を窺うウィントの前で、フェザーは頭を軽く掻くと、くるりと振り向いた。
「……なんや、お前か。今日は、カードが巧く行かんかったんか?」
殺気も何もない、穏やかな口調であった。
その言葉に、ウィントの目が丸くなり、口がぽかんと開いた。
「……は?」
「は、ってなんや」
「いや、だって」
「まぁ、そう、気ィ落とさんと。勝負は水物やからな。次、がんばれや」
そう言って、フェザーはウィントの肩を軽く叩くと、背を向けてすたすたと歩み去って行った。
身構えたまま、呆然とした表情をさらけ出すウィントだけが、その場に残された。
「なにそれ」
彼の独白に、秋の夜風が、ひゅう、と答えた。
それ以来、ウィントはフェザーを観察している。
既に、半日余りが経過していた。
この間のフェザーは、前述の通り、ウィント曰くの「何と言う体たらく……」と言ったありさまで、数歩を隔てたギリギリのところまで近づいても、全く気がつく様子はない。
憤慨する余り、一度などは、踊りかかって小突き回そうかとも考えたウィントであったが、その度に思い留まり、おとなしく尾行を続けている。
やがて、フェザーは大通りを抜け、〈目黒通り〉へ向かう。そこからは、彼の寝床〔赤目亭〕のある〈妖魔通り〉が近い。
「もう、帰るのかよ……?」
ウィントは首を傾げ、通りに踏み込んだ。
果たして、フェザーの行く先は、宿ではなく、その先にあった一軒のあばら家であった。風が吹けば飛びそうな程に頼りない佇まいである。ギルド指定のベッド(休憩所)でもなさそうだが、そもそも、ギルドを敬遠しているフェザーがそのようなところに立ち寄る道理がない。
ウィントは、素早く頭を巡らして、記憶の底からオランの地図を呼び起こした。
「確か……、薬屋だったよな。学院を退いた魔術師が、ずいぶん前に創ったと言う……。数ヶ月前に店員を一人雇って、店主は旅に出たって話だが……」
そこで、ウィントはようやく、店員であるアーヴディアを思い出した。行き付けにしている酒場の一つで、顔を見たことがあったのである。
「何か、薄気味悪い姐さんだったよなぁ。見てくれは悪くなかったけど……、まぁまず、堅気じゃない」
己の生業を棚に上げて、ウィントは言ってのけた。
「何だって、そんな店に……?」
そこまで口にした瞬間、ウィントの脳裏に、ある推測が雷光の如く閃いた。
「そうか……。どうも、変だと思った。さては、野郎、あの姐さんと何かありやがったな?」
瞳が輝き、知らず、口の端が吊りあがる。くくっ、と喉を鳴らして笑う、その表情は新しい玩具を与えられた子供のように嬉々としている。
「こいつは……、いいネタを掴んだな。楽しませてもらおうか……」
そして、ウィントの姿は影に溶けて見えなくなり、たちまちに気配も失せた。
それから、正午の鐘が鳴って間もなく……。
商業地域の、屋台の立ち並ぶ一角に、一人の少年の姿がある。
繊細な顔立ちと、肉付きの少ない華奢な長躯が、ひょろりとモヤシのような印象を与える。ある程度の長さに伸びた硬そうな黒髪が、耳元をすっぽりと覆ってしまっている。髪を掻き揚げれば、妖精族特有の先の尖った耳が覗くが、これをさらけ出すのは街で暮らすにはなにかと都合が悪い。
少年……ケイド・クレンツは、今、屋台で照り焼きを注文していた。魚の切り身を味醂と醤油を混ぜた汁につけ、つやを出して焼く料理で、港湾都市オランでは年中、これが食べられる。この季節は、特にサンマが美味である。
串に刺して出された二本の照り焼きをケイドが手にした瞬間、
「ケイドォーッ!」
突如、人垣の中から現れたウィントが大きく跳躍し、鮮やかに宙を舞ってケイドへ迫った。
「ウィントさん!?」
ケイドが、仰天しながらも、咄嗟に体を捻ってこれを躱す。
二人の体が交錯した一瞬間の後、サンマの照り焼きは、ウィントの手へと移っていた。
「あっ」
「ふっ、まだまだ、甘いぞ。ん、こいつも中々の甘口……やっぱり、秋はサンマだな」
唖然とした様子のケイドの前で、ウィントはあっという間に二つの照り焼きを平らげてしまった。
「ごち♪」
「ウィントさん、そう言うのやめましょうよ」
「何を言う。冒険者たる者、ゆめゆめ油断すべからず、だ」
「失業冒険者に説教されたくないです」
「まぁ、そう言うなって。失業冒険者は今日で返上、実は仕事を取ってきた」
「仕事!? ウィントさんが!?」
「何だ、その嫌そうな顔は。安心しろって。〔きままに亭〕で見つけた仕事だ。って言うか、もう、申し込み済みだけどな」
ウィントは不敵に笑って片目を瞑って見せた。
フェザーの尾行を終えた直後、ウィントはすぐさま、〔きままに亭〕へ舞い戻り、店員のウィルから、〔精選香草堂本舗〕に関する情報を集めた。そこで、アーヴが提出していた件の内容を知ったのである。
ちょうど、その時、階下に降りて来たアーヴと、それを待っていたリュインとがそのことについて話を始めたのは、ウィントにしてみればまことに好都合な話であった。その場で、ウィントが己とケイドの申し込みを告げたのは、言うまでもない。
「でも、なんでまた、そんな仕事を?」
大通りを外れた路地裏で、二人は並んで腰を下ろしている。
新たに買い求めた串刺しの肉団子をかじりながら、ケイドが疑問を口にした。
「てか、ウィントさんが掃除なんて、まるで似合いません」
「サラッと言うなよ。まぁ、いいや。一番の理由はな……」
フェザーをからかう絶好のチャンスだから、と言おうかと思ったが、取り敢えず黙っておくことにしたウィントである。彼も、肉団子を美味そうに頬張っており、足元には、三本の串が落ちている。ちなみに、代金を払ったのはケイドである。
「報酬がいいからだよ。なんてったって、一日で銀貨百五十枚だぜ」
「確かに、破格ですね。でも、割のいい仕事って、大変なんじゃないですか?」
「心配いらねぇって。たかが、家の掃除じゃねえか」
ウィントは取り合わず、ケイドが握っている四本目の串に手を伸ばした。
それを、ケイドはサッと躱すと、
「残りは自分のです。これ以上食べるんなら、お金払ってください」
「やれやれ」
ウィントは肩を竦めた。
5.ディオン/セリア・ブルガリス
再び、〔きままに亭〕……。
「おやっ」
「あらぁ」
掲示板の前で、二人はばったりと出くわした。
対照的な、男女であった。
一方は、よく日に焼けた肌の、見上げるような偉丈夫である。薄手の衣服に包まれた体躯は逞しく引き締まり、戦士然としているが、顔立ちは意外に穏やかであり、涼やかな目許は知性を感じさせる。荒事を用いる者にありがちな剽悍さが感じられないが、彼が肌身離さず持ち歩いている知識神の聖印が、この男の人となりを物語っている。
他方は、色白、小柄で細身の女である。顔立ちは幼く、大きな瞳と僅かに浮いたそばかすが、それをさらに強調している。癖のある黒髪は光沢滑らかで、腰ほどまで伸びている。手に握られた大きな杖が、この女が魔術に通じた存在である何よりの証なのだが、そのおっとりとした雰囲気からはまるで想像がつかない。
男はディオン、知識神に仕える戦士である。
女はセリア・ブルガリス、〔賢者の学院〕院生である。
それなりに見知った間柄であった。
「こんな所で会うとは珍しいな」
「えぇ、本当に。お仕事を探してらっしゃるんですかぁ?」
「あぁ。そろそろ、持ち金が尽きてきたものでな。このままじゃ酒も飲めなくなるんで、ちょっと。お前は?」
「はい。私も、ちょっとお仕事を。学費の工面が大変ですしぃ」
「そうか。お互い苦労するよな」
二人は、話を交わしながら、掲示板を吟味して行く。
張り紙は、掲示板として利用されている一画の至る所に張られている。ディオンとセリアは、背丈に頭一つ分の差があるので、それぞれの目線に合ったものを順に眺めている。
「できればぁ、短期間でまとまったお金になるお仕事があるとぁ、嬉しいんですけどぉ」
「いくらなんでも、割のいい話はそうそう転がってないだろうよ。まっ、いざとなったら、ドブさらいでもするくらいの覚悟はしておくか」
「ど、どぶですかぁ? あたしは、遠慮したいですぅ〜」
「そうだよなぁ。できれば、俺もご免こうむりたいよ」
二人はさらに、注意深く張り紙を見続ける。
「……どうだ。何かめぼしいのはあるか?」
「ファリス神殿から、エレミアまでの囚人護送の件が出てますけどぉ……、ちょっと遠いですぅ〜」
「エレミアか……、俺も遠慮しておくか。今はオランを離れたくないしな」
「ディオンさんの方は、何か、見つかりましたかぁ?」
「穴熊募集と言うのがあるな。だけど遺跡って、一度潜るといつ出て来れるかわからないからな」
「そうですねぇ〜」
などと贅沢な悩みを洩らす二人は、やがて件の……〔精選香草堂本舗〕よりの依頼の張り紙を見付けた。
「おっ」
「まぁ」
二人は同時に声を上げた。
「これは……、なかなかいい額だな」
「一日当たり、銀貨百五十枚ですねぇ」
「五日で幾らだ?」
「七百五十枚ですねぇ」
「定員五人か」
「まだ張り出されてるところを見ると大丈夫みたいですねぇ」
「あと二人だ。受けるかどうか、さっさと決めろ」
「うぉっ」
「きゃあ」
唐突に後ろから声をかけてきたのは、無愛想さが身上の店員、ウィルであった。音も立てずに忍び寄るのは彼の得意とする所だが、店の従業員がそれをするのは少々、問題とも言える。
「ウィル、心臓に悪いから、それ止めろって」
「びっくりしたですぅ〜」
「ふん」
ウィルは悪びれた風もなく鼻を鳴らすと、二人が見ていたその張り紙を剥ぎ取った。
「お前たち二人が申し込むなら、もうこれは用済みだからな」
「まだ、決めてないですぅ」
ウィルは頬を膨らませるセリアを一瞥してディオンを見、
「これ以外に、お前たちの都合に見合った仕事はないぞ。不満なら、他の店を当たれ」
「他にゃ、ツテがねえよ。分かってるくせに」
「ふん」
ウィルは張り紙をディオンに渡すと、すたすたと店の奥へ戻って行く。厨房への入り口で振り向きざま、
「申し込むなら、直接この店に行ってこい。妖魔通りの薬屋と尋ねれば、すぐに見つかる」
ウィルの姿が消えるのを見て、二人はもう一度、張り紙を見、互いの顔を見た。
「まっ、しょうがないか。他に仕事がないって言うのは、嘘じゃないみたいだしな」
「行きますかぁ?」
「そうしよう」
「ふむ……」
ウィルは帳簿付けの手を休め、窓の向こう側を見た。
二人の姿が〈妖魔通り〉へ繋がる小路に入って消えるところであった。
「魔法使いの館へ向かう冒険者たちか……無事であればいいがな」
さして、感慨もなく呟くと、再び帳簿に筆を走らせる。
初秋のオランの午後は、まだまだ続く。
(第二章へつづく)
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