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No. 00031
DATE: 2000/01/19 06:09:46
NAME: アジハル
SUBJECT: 破滅と繁栄の止揚
ぬかるみが乾いたあとの、ひび割れた土の上を、蹌踉とした足取りで男が歩いていた。
黒色のディスダーシャに身を包んだ男。その顔はフードに覆われ、光をともしていない虚ろな双眸だけが露出している。
彼は天を仰ぐ。空が鈍色によどんでいるのは、そこが亡者の霊に満ちているからだと感じた。一年も前から、夥しい数のその群れは、自分を追って来ているのだ。
「悪意の砂漠」と忌まれるカーンの東、ターリクと呼ばれる荒れた土地に、『満月の家』と名を付けられ、その屋は建っていた。
そこは「黒く灼ける陽」と呼ばれる砂漠の民の部族に、もっとも馴染みぶかい土地であった。その昔まだ、かの部族が、故郷の外に出てする商いの利を大としていた頃、部族の中の一名、のちに「黄金(きん)の砂」と呼ばれる男がこの場所を見いだした。彼は、この荒れ地に生える常緑高木から、乳香や各種の没薬など、各国において高価で取り引きされる品が採取できる事を発見した。
交易によって少なくない財を成した「黄金の砂」は、その生のある内にこの地に、遠方から品物を採りに来る者たちの為の宿場をいくつか建てた。やがてエレミアの商人との衝突が起こり、部族の交易の道は閉ざされたが、それからも家々は、故郷を出て心休まらぬ部族の者たちの集会場として、いつしか重宝されるようになっていったのである。
だがその場所に居るときでも、けして彼らはまことには落ち着かず、頭から、自らの部族の郷里である砂漠が離れる事はなかった。『黒く灼ける陽』のふるさとの集落から、遙か西の方にあるこの家。二点の間の長大な距離をひしと感じていた彼らは、この陋屋を『満月の家』と呼ぶようになった。陽の差す所でないという意味を込めて。
かの一族の血に連なるひとりの放浪者が、今そこに向かっていた。
土地の気候に合わせた家屋は、日干し煉瓦を組んでその間に泥を埋めただけの簡素な造りである。百年の月日を風に洗われても、丈夫であったが、今ここには人の居なくなった家特有の、寂寞とした気配が辺りに満ちていた。
立て付けの悪い扉が強い風に揺れ、軋んで不快な音を立てつつ、何度も閉じて開く事を繰り返していた。
思い切り、口を開いたその間、すっと戸口に男の影が立った。
扉は、とまどった様に一時、風に揺れるのをやめたが、 男が屋内に踏み入ると再び、強く、バタンと音を立てて閉まる。そしてまた、扉の端を浮かせるのだった。
広々とした横に長い部屋の中は、十人の人間が車座になって座れるほどの広さである。男は、おぼつかない足取りで室内を歩いた。
獣の敷き皮、大小のすり鉢、壷や香炉、壁には一振りの曲刀が掛けられているのが薄暗い中に見えた。そして正面には、鰐の顔をした神像が置かれていた。その隣に動物の頭蓋をくりぬいた明かり取りがあり、その上で蝋燭の炎が小さく揺れている。
男が近づくと、その黒い長衣に身体を包んだ姿が浮かびあがった。
彼の名はアジハル。砂漠の民「黒く灼ける陽」の部族、族長の三男で、一年前、他部族との抗争ですでに滅びたその民族の生き残りであった。
彼は、敵対部族「揺らめく炎」との決戦の最中、部族に伝わる聖杯の魔力により、伝説の部族の守護神マルドゥクに化身した。だがその際に自我を失い、敵もろとも、自らの手で故郷の地を焼き払った。その結果、部族は滅び、先祖伝来の地は「揺らめく炎」の支配に落ちたのである。
信仰と共同体、人間として二つの大きな寄る辺を一度に無くした彼は、かつてと比べ抜け殻のようになっていた。この上、生きる事に何の目的も見いだせず、ただ荒野をさすらうバガボンドであった。
だがターリクの地を訪れたとき、その脚は、自然、この『満月の家』に向けられた。
その心は絶望の闇に跼蹐して、凍り付いていたが、未だ郷里の面影を求めんとする強い感情が、その底辺にくすぶり続けていたのだ。
アジハルは、フードの奥から憎しみの籠もった眼を神像に向け、すっとディスダーシャの下から手を現した。だが、それへと延ばしかけた手を、ふと止める。
隣の部屋から物音がしていた。
身じろぎせずにいると、背後の、入ってきた入り口から何者か、こちらを見ている視線を感じる。
「……兄さん」
女の声。彼には聞き覚えがあった。
緩慢な所作で首を後ろにやると、自然に驚きの言葉が洩れた。
「……サラか」
砂塵を吸い込んで喉嗄れした声は、唸り声のように響いた。ごっと唾を飲み下す。
外に通じる口に立っているのは、サラディアーシャ、彼の妹であった。
「黒く灼ける陽」、その唯一の生き残りの兄妹がここに再会を果たした。
2
地面の土を掘った簡素な竈に、燃え草が入れられ、そこに蝋燭の火が移された。ぱっと室内に明るさが満ちた。
アジハルは山羊皮の敷物の上に座し、久しぶりに見る妹の姿をじっと眺めていた。
サラディアーシャは、編み目模様がキルティングされた織布で頭部を包んで、その下の眼を伏し目がちにしていた。
彼女は今年、十九になる。兄の心に、この一年半で美しくなった、との想いが湧いた。今のどこか艶めいた雰囲気は、かつてアジハルが見知らなかったものだ。懐かしい姿を眼のあたりにした彼の心に一層、そのことは沁み、満足な気持ちを与えたのだった。
彼女がゆっくりと顔を上げて云った。
「……兄さん。サラは心配していました。ご無事で何よりです」
アジハルは膝を動かして、体勢と目線をそらし、呟いた。
「私は罪の意識に耐えかね、お前を置いて、砂漠を出ていった。本来ならば顔を会わす資格はあるまい」
口にすると、 身体の中に、再び鉛の重さが生まれたようだった。
「その私が今日、お前に出会えたことは、運命に感謝している。心が昔のように安らいだ。だが、これがほんの刹那の間、与えられたものである事は判っているのだ」
「そんな事を言わないで……」
「ならん。私は、消える……。ここに現れたのは亡霊と思ってくれ。私は、いずれ旅の先で朽ち果てる宿命。お前まで私の業を背負う事はないのだ」
その決然とした口調に、サラディアーシャは俯いた。こんなとき、諌止が徒労に終わる事は、長い時間の付き合いで判っていた。両目に涙がうっすらと滲む。
「私が兄としてお前に最後に願うことは……。「黒く灼ける陽」族長の娘としてその名に恥じぬ生を全うすること。その上で幸せを見つけてくれることだ……。私の様になってはならん」
兄は妹の身を慮って、質問を重ねた。
「お前はなぜ、砂漠を出たのだ?」
サラはかつて、近隣の砂漠の部族に身を寄せていたときの事情を話した。自分の身の処遇に対して対立する意見の中に身を置くのが嫌になったこと、長老に黙って部族を飛び出した事などを、ぽつりぽつり、語った。
「そうか、それでこの家で暮らす事にしたのだな」
「いいえ私は、ここへは乳香を採りに来たのです。今、街に住んでいます」
「……あそこに我々の居場所は所詮、無いのだぞ」
サラは首を振った。
「そんなことないわ。それにこんな辺鄙なところで、親子二人、暮らしていけません」
あらぬ方を見ていたアジハルは、わずかに肩を震わし、ゆるゆるとサラディアーシャの方に首を巡らした。
彼女はそれを語るべきではなかったのかもしれない。だが、自分に今生の別れを告げ、衰弱しきった体をひきずって、また当てのない旅に出ようとする兄に、この上黙っておくことは永遠の裏切りになるのではないか、そういう思考に至った彼女は、意を決して口を開いたのである。
「兄さん。わたし、サラには……いま、子供がいます」
「何?」
「生まれたんです。名前は、キヤーマ(新生の者)と名付けました」
アジハルの顔を覆面として覆っていた布の一部が、はらりとほどけて、落ちる。彼はじわり、唇を舐めた。その目がただならぬ光を帯び始めている。
「……どこの誰と契りを結んだ」
砂漠の民は、血統を重んじた。とくに、「黒く灼ける陽」の部族は偏向が強く、古来から、他の砂漠の民、砂漠の外の人間との血の交わりを頑なに拒み続けていた。
それが、「黒く灼ける陽」の部族を弱らせていった遠因のひとつであるのだが、彼らは妥協を知らなかった。民族の伝統を護らんとする時、もっとも理解の早い手段が純血を重んじるということである。確かに彼らのアイデンティティの一端を担っていた。
「云うのだ」
兄の無言の譴責、その重圧を、サラはひしひしと感じて身体を一瞬震わせたが、そのまま黙り込みはしなかった。
「違う、私は結婚していない……。異郷の男の誘いに迷ったとは、思わないで下さい」
それが出来たらどんなに幸せだろう、との思いもあったが。
「あのときよ……。『揺らめく炎』との、戦いの最中に……」
アジハルの眼球に幾本もの細い血の筋が走る。瞳孔が、ハ虫類のそれのように小さく縮まった。彼の頭に浮かんだ映像、それは、絹の衣服を引き裂かれ、股の間から血を流して横たわる、妹の姿……。
「妊娠していた、のか」
サラディアーシャは、場をとりなすようにして言葉を続けた。
「最初は、私もお腹の子が、憎くてたまらなかったわ。……私の身体を弄び、部族を滅ぼした、仇敵『揺らめく炎』の、名前も知れない男の、子供」
声は若干震えていたが、悔しさ、陰鬱さの影はそこになかった。代わりに、何か、言葉の裏に決然たる意志を秘めている事が察せられた。
「でも、時間が経つごとに、子供の事が哀れに思えてきたのよ。それまでは、自分一人が哀れだったけど、段々と気持ちが変わってきた。時が心を癒してくれた、そしたら、本当に取るべき道が見えたわ」
だから産んだの。
そういって、彼女は複雑な微笑みを見せた。兄と再会して、初めて見せる笑みだった。
「お前が得たのは、只の諦観であったに過ぎぬ」
「……違っ 」
高揚した気分は長く続かなかった。彼女は精神の高みから引きずり降ろされていた。
「弱い感情に囚われ、部族の誇りを捨てた事、……兄の私は、腸を断じられる想いだ。我々の取る選択として、許されることではない。毅然として堕胎しなかったのは、お前の落ち度だ、サラ」
わずかな沈黙があって、そのあとに叫びを上げたのは、妹の方だった。
「落ち度って何よ!? わたしは子供を産んじゃいけないっていうの!!」
「そうはいっていない」
平板な、どこかうそ寒い声で、アジハルは云った。
「それなら、構わないでしょう」
兄は黙っていた。代わり、厳しい視線で妹を射るようにしていた。
「……新しい命を繋いでいくのよ、それが、いつの日か、部族を再興するための、唯一の方法でしょう。産んで、よかったわ」
アジハルは妹の腕を取って、その身体を引き起こし、自らも起立する。
炯々と鋭い眼光で、相手を厳然と見下ろした。
「部族を滅ぼされ、犯されながら、その敵の子を産んだのか!!」
泣きそうな眼になったサラディアーシャを見て、荒くなりかけた呼吸を再び整えた。
間をおいて、言葉を続けた。
「そう、リヴァース、あの男はあれから、どうした。おまえは親しく話していたではないか。……砂漠の血を引くあれこそ、お前の婿に相応しいのだ」
アジハルが妹を離すと、サラは、よろよろと壁際まで下がった。
彼女の顔に変化が現れていた。こわばった笑みが口元にへばりついている。とん、肩を壁について、彼女は云った。
「リヴァース様……。あのひとは……女だったのよ」
「…………」
再び、沈黙が下りた。
かなりの刻が過ぎたようだった。
こうしている間に、なぜか、サラは兄と自分との間に、暗くて大きな淵が口を開いたように感じられた。そして、この片側の場所から何を言ったとしても安全に思え、向こうにいる兄を挑発してやりたいという、抗しがたい衝動に襲われたのである。
「……何を黙っているの? リヴァース様のことはそんなにショックだったかしら」
「兄さんが考えている事はわかるわ」
「フフフ……お生憎様ね、リヴァース様は、子が産めない身体なのよ。第一、あの方は私たちの眷属ではないらしいわ」」
「……何とか言ったらどうなの」
「あらそう、それとも兄さんが、私を犯すつもりなの? 話をそこに持っていくつもりだったのね。だから今になっても部族の血がああだこうだと、詰まらない事にこだわってんだわ」
バシッと、高い音がした。
サラディアーシャは頬を抑えて、土の床にくずおれていた。
声を喉に詰まらせ、しゃくりあげ始める。
「妹よ。下衆な事を言うな」
暗い淵を一足で飛び越えてきた兄は、一言それだけ呟いた。
サラは濡れて赤くなった両の瞳で、自分を殴った者を見据えた。
「私は、キヤーマを産んだ事を後悔していないわ……してたまるものですか」
「お前は……」
彼の言葉の響きに、明らかな落胆が現れていた。
だしぬけに、サンダル履きの足先で、ざりっと、床の砂を力を込めて、躙るようにした。踏んでいた足が退けられると、深い窪みが出来ていた。
「同胞を滅ぼし、おまえをただの女にした、『揺らめく炎』の部族を、我は許さぬ」
フードの奥からのぞく瞳に暗い炎が揺れている。
「まだ、そんなことを言ってるのね。争いを始めて、あの結果を招いた責任は私たちにもあるはずだわ」
彼女はふっと眼を閉じた。
「遡れば、元々、近接する二つの部族が、抗争する理由はなかったはずよ。砂漠の民たちの縄張り意識、伝承への盲信、詰まらない偏狭さが産んだものだわ……。なぜいちども手を取り合わなかったのか、私には不思議」
「信仰の違い、文化の違い。さて置く事など出来はせん。いやそのこと以上に、我らの先祖から、今に至る、奴原への積年の恨み。お前はそれも忘れたか」
もはや言葉に難詰の色しか出ないのが無念であった。得体の知れない黒いものが彼の心からじょじょに浸みだして、全体を覆い尽くすのを止めようがなかった。
妹はいやいやをするように、尚も首を降る。
「私はもうこれから、子供と二人で地図のまっさらな世界に住む。あらゆる国境が存在しない世界よ。砂漠の中も、外も、ずっと地続きに繋がっていて、私たちはその大陸の民なのだから、他の誰とだって、親しんでいけるはずだわ」
「いや」
双眸を光らせて、アジハルは妹の顔を見据えた。
「人は国を持つ。その国の民として産まれ、生き、死んでいく。その定めに、お前もいつか気づく。苦痛を味わってからになるであろうことが、なんとも腹立たしく、不憫だ」
「聞きたくない。もう出ていって……兄さん。私が貴方を兄さんと呼んでいられる内に」
「…………」
だぁん!!
黒い衣を纏った男は、石の壁に思い切り拳を打ち付けていた。
「わかった、お前の望む通りにしよう……だがその前に」
つとめて抑揚の消された言葉に、サラディアーシャはざわりと身体の毛が逆立つのを感じた。
「お前の子供に、一目会わせて貰おう」
サラは涙に潤んだ目で兄を見上げて言った。
「それは、出来ません」
それからどれほどの時間がたったのか。冷たい夜気が大きく開け放たれた扉から滑り込んで来ている。すでに陽は落ち、風が凪いでいた。
じっと地面に伏していたサラが、上体を起こすと、兄の姿は既に無い。
「兄さん……」
自然と頬を伝いくる涙を拭う。
そして、敷物の上にまた身を横たえ、自分の赤子の事を思った。
異なる民族同士がうち解けられる事はないという、兄が言っているようなことを信じる気にはなれなかった。街の人々は故郷をなくした自分の身を心配してくれたし、隣の(叔母さん)は何かと世話を焼いてくれる、今現在もキヤーマを預かってくれているのだ。
……子供の腕に填めてやった金細工のブレスレットを想い出す。あれは自分の産まれた「黒く灼ける陽」の族長の一族の長男が代々、手首に着けていたものだ。それはキヤーマの上腕部にまで上げてもすぐにずり落ちるので、彼はしょっちゅうそれを玩具代わりにして遊んでいる。
彼女にとって、部族の伝統へのけじめは、息子に一族の証となるものを授けた、そのことで十分だった。どこに馴致しようと、そのことで変化しようと、「黒く灼ける陽」の部族の血は継がれていく。異郷の街のなかで、異郷の人との交わりのなかで。
だが兄は、これからも旧態依然の考えを変えず、一心に「黒く灼ける陽」の伝統を唱え続け、それを自らへの鎮魂歌として、ゆるゆると滅びの運命についていくのだろう。それを思うと悲しみに胸が詰まった。
サラは立ち上がった。そのとき、正面の壁に鎮座したマルドゥクの神像がふと目に入る。
何故かその鰐頭の神がこちらを睨みつけているような気がした。
心を見つめれば、名状出来ない不安が、にわかに広がっているのが判った。
竈に乳香の欠片を焚き入れた。甘やかで、苦みのある香りが大きい部屋に広がっていく。
灌木から流れる乳が固まって、琥珀色の塊になったそれは、煙になると得も言われぬ馥郁の香りを立てる。
サラはその香りの中で、眼をとじ上体を反らした。その肢体が静かに躍動を始める。儀式用の舞踊の第一手であった。
聖杯を触媒、人間の身体を依代として復活する、古の怪物が正体であり、また今は存在しないと承知している守護神の前で、かつての様に再び、踊る気になった理由は、彼女自身にもうまく説明できる事ではなかった。その『神』の暴走により故郷の地も焼き払われたのではなかったか。
だが、「黒く灼ける陽」の部族の女として、長年に渡って刷り込まれた慣習の作用であると思った。ただ、今の落ち着かぬ気分を和らげようとしているのだと思った。
確かにこのとき、彼女の心は昔にかえり、守護神の像の前で、族長の娘の役目として、たびたび踊りを舞っていた事を記憶によみがえらせていた。
豊穣を感謝する舞い、婚儀の際に披露する舞いと、経験したものは様々にあるが、今、天啓のようにサラの頭に去来した感情が、彼女に踊らせようとしているのは、守護神の怒りを静めるための舞いであった。マルドゥクの神の機嫌が損なわれたとき、集落には災害がやってくる、そう固く信じられてきた。そんな時にはいつも彼女は一心不乱に踊った。そして結果として部族は危機を乗り越えてきていたのだ。
いま彼女の心に、周りで琴楽器をつま弾き、音頭を取る一族の唱和が響く。
今宵 月の面は死せるが如し 砂漠を覆う銀の灰
土肌あばらの 透けて見え 駱駝の呻き 続きてきこゆ
恐ろしき われらが神の怒りなり
サラディアーシャの意識はそこへ没入していった、四肢がそれぞれ躍動感に溢れる、美しい動きを虚空に描く。
竈の火に照らされ壁に大きく写った影が、彼女の動きを複写し、舞っていた。
汝わが神 をちに散らばる星星を 食して今は慰まらん
子らに慈悲を垂れ給え 露の恵みをもたらし給え
我ら乞う 汝の創手を
彼女は踊り続けた。その姿をマルドゥクの神像が無言のままに睥睨している。
サラはいつしか、精魂尽き果て、地面にいぎたなく寝転んだ。
そのまま眠り込もうとして、はっと顔を上げた。背後に気配を感じていた。
そこに、既にこの場から去ったはずの兄が、黒いディスダーシャに身を包んで、異様な気配を放ちながら佇立していた。亡霊の様だとサラは思った。石の様に発せず、身じろぎもしない。
いや、程なくして、口を動かして何事か喋った。だが、その言葉はサラの耳には届かなかった。
アジハルがぽんと目の前に地面に投げ出した、金細工の腕輪。 その、鮮血に濡れた鈍い輝きを、眼にしたからだった。
「ああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ」
天を裂くほどの絶叫がサラディアーシャの喉から発せられた。
血の滴る金細工の腕輪を取り上げ、自らの顔の前に捧げ持つ。磨かれた金属の表面にサラの泣き濡れた顔が映っていた。
「あああああああぁァァ!! この、畜生……ッ」
「……最近になって街に住み着いた砂漠の民、その娘の子というと、見つけるのに造作はなかった」
彼女の悲憤慷慨を目の当たりにしながら、アジハルはてんとしてそう告げた。
「あんたは……人間じゃないわ。亡霊、妖魔か何かよ、いいえ、もっと相応しい言い方をして上げましょう、怪物だわ!!」
「黒く灼ける陽」の民の男のシルエットは、いささかも動じず、黙って掛けられた言葉を黒い衣の中に吸いこませた。
そしてもう用は済んだとばかりに、踵を返し、出口に向かって歩きはじめた。
「次の目的がある」
サラは滂沱と頬に涙を伝わせながら嗚咽していたが、何かに思いあたった様に語を継いだ。
「そうよ……あんたは怪物で、兄さんじゃない。兄さんが姿を変えられた、マルドゥクよ……。あの、部族の守護神を騙った怪物そのままだわ。あの時の通りに、護るべき存在にとどめを差したのよ」
男は、振り向かずにぽつりと答えた。
「……あたっているのだろうな」
真っ直ぐに歩き出し、一瞥もくれなかった。
「うわ……うわぁ……私のあかちゃあぁぁぁぁあああん!!!!」
青ざめた満月が中天に輝いていた。
彼は肌寒い空気の中を、彼は黙然と歩を進めた。近くに生えた灌木の上、低い声音で鳥が鳴いている。あれは夜鷹だろうか。
彼はふと気づいた様に、衣服の上から右の太股を押さえた。濡れた感触。そのまま手を離し、再び歩き出すと、全てのことは思考から消えている。
その心は氷の檻から解き放たれて、黒炎の中で鼓動していた。
復讐。胸の中で言葉にされているのは、その二文字。
アジハルは空を見上げた。亡者共の霊がまた追ってきていると感じ、にやりと笑った。
「こい同胞よ。我らの宿敵、『揺らめく炎』の種が根絶されるところ、みたかろう!」
闇夜に邪なる太陽が昇り始める。
<了>
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