No. 00038
DATE: 2000/01/25 23:22:02
NAME: トレル,スカイアー,リヴァース
SUBJECT: ◇石の嘆き/風花の律◇(前編)
<登場人物>
トレル:ロックフィールド医院を経営する医者。
レヴィン:トレルの弟。温厚。ラーダの神官でもある。
アスペル:ロックフィールド医院に入院している難病の少年。
ナイジェル:アスペルの妹。とりえのない内気な少女。
スカイアー:剣士。子供好き。
リヴァース:風邪の治療のかたに医院で無料奉仕させられるハーフエルフ
○●○●○
新王国暦512年1の月中ごろ。
木枯らしが,白い牆壁の中に迷い込んでは,戯れるように枯れ葉を舞い上がらせせて,くすくすと笑う。
壁には分かりやすい文字で,『ロックフィールド治療院』とある。
チャザ神殿の近くに立つ,オランでもそこそこに名の知れ渡った,比較的大きな医院である。落ち着いた雰囲気と美貌をもつ独身の医者を目当てに,何かと理由をつけてやってくる子連れの若い主婦たちで,普段から待合室は賑わっている。蔓延している風邪のせいで,働く者たちが忙しく走り回り,白くこぎれいな病院は,慌しい雰囲気に包まれていた。
白く長い指が,細かい数字と文字の書かれた羊皮紙をすべる。ときおり漏らされた息が,かすかにそれを揺らす。
この医院を切り盛りしている医者のトレルは,患者のカルテの束から一枚を抜き出し,山積みになった資料の上に乗せては,切れ長の目をいっそう細めていた。羊皮紙の右上の,最も目に付きやすい個所には,『アスペル= アシネート』と,流麗な文字で綴られている。
数日前から,その名を持つ,金の髪と夜空の色の目を持つ少年が入院していた。少年は,石皮病と呼ばれる,身体の中の大地の精霊の力が強まり,皮膚や筋肉が硬化していくという非常に珍しい病に侵されていた。知られている病の中でも,一,二を争う,治療の難しい難病である。病状がかなり進み,既に下半身はまったく動かない。いつ命にかかわる自体になるか分からない状態になったので,両親の頼みもあり,医院に入院して,手当を受けることとなった。
アスペルの両親は,数個所の店を経営する裕福な商人だった。彼らは,行動的で聡明で,才気のある息子に,跡取りとして期待をよせていた。幼いころから学校に通わせ,算術や社会学,交渉術を学ばせた。学校でも人気者で,同じ年の子供たちの尊敬を集めていた。ただの優等生ではなく,活発で,いたずら好きでひょうきんだった。怒りっぽい女の先生の似顔絵を,おとぎ話の,頭の髪が蛇でできた女に仕立て上げて羊皮紙に落書きしては,授業中に皆に回してくすくす笑った。皆で芝居を見に行ったあと,他の子供は格好良い主役たちの登場人物の真似をするのに,自分は敵の蛮族をこっけいに演じてみては,周囲を笑わせたりした。いたずらをするにも,そつがなかった。落書きに,カイアルタード王の肖像やラーダの神像を描いたりするが,そのデフォルメを,子供たちの笑いを呼び,かつ,上手だとかえって大人たちに誉められる程度にするほどに,器用だった。茶目っ気があり,何をやってもうまくこなせる子供だった。
両親はそんな彼を存分に愛した。親は彼を,他国との通商につれていったりもしていた。
ある日,両親は,社会勉強にと,自分の取引先の鉱山の見学に少年を連れいていった。鉱山の銀が,浅いところでは取れなくなり,深部に掘り進めようとするが,岩盤が固く,採算が合わなくなる。そこで,採掘を進めるかどうかの交渉を行いにいったのだった。両親が商談に夢中になっている隙に,アスペルは,一緒にいた妹が止めるのも無視して,彼らから離れて内部の方まで足を伸ばした。両親の過度の期待も抑圧に感じることもある。それからいっとき開放されて,少年は冒険心に刺激されるままに,掛けられていた松明を手に,奥へ奥へと足を進めた。案内札はそこかしこにかかっており,迷うことはないものであると思われた。あちこちに「落石注意」の札がかかっていたが,気にならなかった。
ところが,おりしも時の悪いことに,小さな地震が発生した。人間達の仕業により,付近の地霊の力が安定せず,大地の精霊の怒りにふれたからかもしれない。固い岩盤ほど,採掘などによりいったん亀裂が走ると,脆くなり,些細な衝撃で崩れやすくなる。局所的な落盤事故が起こった。少年は岩の空洞に取り残された。
半狂乱になった両親の檄を受けつづけた鉱夫たちの力で,3日後に,幸いにもアスペルは救助された。少年の体調はすぐに回復したが,地面の下の暗闇で,食べるものも飲むものも無く,出口を求めてさ迷いつづけいてたその出来事は,少年の心と身体に大きな傷を残した。
しばらくして,アスペルの足の指が,石になったかのように固まりはじめた。最初は,歩きすぎたことによるむくみかとも思われた。しかし,硬化現象はそれからじわじわと,指から足の甲,くるぶし,膝と広がっていき,やがて下半身を覆っていった。歩くこともできなくなった。鉱山の落盤事故のせいであるかどうかは不明であるが,他に原因は考えられなかった。両親は大金をはたいて,神殿に幾度も治癒の魔法を施してもらったが,加護薄く,その効力はあがらなかった。
「私も手を尽くしますが覚悟はしていてください。」
数々の現場で患者を診てきたトレルにも,その珍しい病気に出くわしたのは,初めてのことだった。ミニアスという少女の綿吹き病という難病を癒した彼も,さすがに治療法を探しあぐねていた。
1ヶ月ももたぬだろう。彼が生きているうちに思い残すことの無いようにしてあげなさい,という趣旨のトレルの言葉が,淡々と両親に伝えられた。医者は,言葉を修辞したりはしなかった。彼にできるのは,せいぜい,せめて病状が悪化しないように,薬草を調合し様態を見守るのだったが,それも気休め程度にしか効果はないものであると思われた。
特に,息子を溺愛していた母親は,看病疲れもあり,ショックで自失状態となった。年端も行かぬ子供を通商の旅につれていったからだと,自分と夫を責めた。暖かな商人の家庭に,喧嘩が絶えなくなった。母親は,自分も息子も何故そんなに報われないのだろうと,自らの身を呪い,落胆した。
アスペルの妹のナイジェルは,とりえの無い,内気な性格の少女だった。兄と一緒に学校に通っていたが,アスペルのような才覚も無く,いつも兄と比べられては,劣等感に苛まれていた。「お兄ちゃんはよくできるのにねぇ」という言葉は,誰もが口にするだけに,彼女にとって最も聞きたくない評価だった。遊びにせよ勉強にせよ,何か新しいことをしようと思っても,出来のいい兄と常に比較され,結局やめてしまうのだった。ナイジェルは兄が嫌いなわけではなかった。むしろあこがれていた。いやに思っているのは,自分自身だった。自分のとりえのなさであり,気の小ささであり,陰気な性格であった。 常に周囲におびえていて,おどおどした態度で,その顔色をうかがっていた。どもりがちで,自分のいいたいことを言えることもなかった。学校でも近所でも,さえない子,という印象しかもたれず,友達はいなかった。周囲から見れば経済的に恵まれている家庭で育っているだけに,まわりの子供達の妬みも大ききかった。新しく買ってもらった靴や文房具を隠されたりしては,親には物を無くすと怒られた。そんなであるから,友達もできなかった。親たちは,精一杯,ナイジェルのいいところを見つけようとした。明るい見栄えのする服を買ってやったり,召使に髪形をいじらせてやったりした。しかしその努力も,他の子供たちの反感を買うだけで,娘はいっそう仲間外れにされる結果になるだけだった。
そして,兄が,病気になった。歩けなくなった。動けなくなった。
ナイジェルは,複雑な心境だった。憧れの兄がそうなった状況を残念でかわいそうに思う反面,これで比べられなくてすむと,どこか安心した思いだった。そして,兄の苦境につけ込んでそんな卑劣なことを思う自分が,また厭だった。
そんな時,母親がほろりと漏らした一言を,ドアの外から彼女は聞いた。
「神様は不公平だ。同じ動けなくなるのなら,まだ,ナイジェルのほうが救われたのに・・・」
父親は,すぐに妻をたしなめた。彼女も自分の言ったことの愚かさに気がつき謝ったが,その心無い一言は,たしかに,彼女の深く沈み込んだところでぐらぐらしている胸を貫いた。
少女はいっそう,落ち込んだ。
<どうしてそんなところに閉じこもっているの? そんな灰色の霧の立ち込めた,暗いくらいところに。>
心の殻に逃げ込んでいる少女の心に,何かが呼びかけた。少女にはその声を理解できたわけではなかった。しかし,何をいっているのか,漠然とした意味は汲み取れた。その声の主は,自分にとってとても近しいところにあるものだと思われた。
「お外は怖いもの。みんないるけど,だれもあたしのことを,好きじゃないの。悪口を言ったり,あたしのものを取ったり隠したりするの。みんなあたしがいなくなればいい,と思っているんだわ。だったらお外に出ていかず,一人でいるほうがずっといいもの。」
心の声に、少女は答えた。
声の主は,いたずらと混乱の精霊,レプラコーンだった。それまでにもずっとその声は聞こえていたのかもしれない。しかし,それを呼びかけとしてはっきりと認識できたのは,そのときが初めてだった。
<遊ぼうよ。いたずらしよう。階段にぴかぴかひかる油を撒いて。夜の廊下でからからと賑やかな音を立てて。色とりどりの色でキレイな白い壁に落書きをして! そうしたら,きっと楽しいよ!>
しかし,精霊の勧めるままに,孤独を埋め合わせ周囲の気を引くための行動を起こすことは,する気になれなかった。
「だめよ。そんなことしたら,また,みんなに怒られてしまうもの。」
それをするには少女はまだ内気で臆病過ぎた。
息子の前では,両親は取り乱すことはなかった。アスペルは,自分の病気に不安を持ちながらも,努めて明るく振舞った。悪質の風邪が流行していたこともあり,患者の数に対して病院のベッドは不足していた。狭い病室には,風邪を酷くこじらせて肺炎寸前になっていた患者がいた。なんでも,冬なのに海に落ちたというハーフエルフだった。病院の両親のいないときは,彼に話し掛けて気を紛らわせたりしていたが,半妖精は,ぶっきらぼうに子供は嫌いだといったきり,生返事を返すだけだった。瀟洒な子供の感性も,彼を笑わせることは出来なかった。
病室には,主治医のトレルの弟,レヴィンが,よく遊びにきていた。医者のトレルは,どこか厳しい雰囲気があって苦手だったが,柔和なレヴィンは,好きだった。ふたりは,ラーダの学校で出会ったことがあった。先生がいなかったときに,代わりに課題を配りにきたのが,レヴィンだった。自分も医者になろうと勉強中の身であるが,子供の好きな,レヴィンは,仕事が終わると,アスペルもとにやってきては,聡明な子供との会話を楽しんだ。兄は医者としては有能であるが,堅気で近寄りがたい雰囲気があるので,気の弱い者には敬遠される傾向にある。それを埋め合わせるかのように,レヴィンはどんなときも,努めて周囲に優しく振舞うけらいがあり,あえて子供っぽい性質を装うこともあるのだった。
ナイジェルは,親戚の家に預けられていた。両親は兄にかかりきりで,仕事もあるので,彼女の面倒を見るまで手が回らなかった。兄の見舞いに行く気もしなかったが,毎日一度は,義務のように,両親に連れられて,治療院を訪れていた。その日両親は,仕事があるからと,ナイジェルを治療院に置いたまま,でかけてしまった。
ナイジェルは,病院の廊下に飾ってある,珍しい楽器を目にした。平べったい,丸い弦台の,見たことのない大きな楽器だった。お医者様に聞いてみると,月琴という,ムディールのリュートだ,と答えてくれた。以前に患者が,治療費のカタにと置いていったが,演奏の仕方を知っている者がいない。誰も奏する者もなく,飾りとして埃をかぶっているものだということだった。
普段ならそのまま,興味を示すだけで,その楽器を弾いてみようなんて,思いもしなかっただろう。
兄と同じ病室で寝ているリヴァースのもとに,見舞いに来た剣士スカイアーが,それに興味を示した。内気なナイジェルには,強張った雰囲気で話をしている剣士とハーフエルフが,苦手だった。そうでなくても,人を殺したりもできる剣を腰に佩いて歩き回っている戦士と,異種族の血が混じる目つきの悪いハーフエルフは,子供たちには別世界の人間のように思われた。友人相手には,鷹のように鋭い眼光を垣間見せる剣士は,しかし,子供好きらしく,ナイジェルと目が合うと,優しい深みのある黒い目で微笑むのだった。この人はいいひとだと思ったが,ナイジェルは自分の悪いところを見せるとまた嫌いになられるかもしれないと,おどおどとした態度をやめられなかった。
出自の良い騎士としての教養と,冒険者としての経験のある剣士には,楽のたしなみもあった。彼は無骨な手でそれを爪弾いた。しかし,かろうじて緊張した音が出せた程度で,音楽にはならなかった。弦の抑え方が,彼がそれまで知っていたリュートとはまた違うらしかった。兄のアスペルも試してみたが,音すら出せなかった。それをじぃと見入っていたナイジェルに,スカイアーは戯れに,月琴を弾くことを薦めた。最初は首を振って断ったが,スカイアーの優しげな低い声に諭されて,おそるおそる,少女は月琴を手にした。最初,ビン,というかすれた音しかだせなかった。やっぱり自分は何も出来ないんだと,ナイジェルは目を伏せた。
そこに,それまで黙り込んでいたリヴァースが,口を出した。細い弦から力を抜いて,何度か音の出る位置を探してみるといい,ということだった。
そのおりに幾度か弾いてみると,弦の一番やわらかい位置で,染みとおるような音が流れ出た。その調子だ,とリヴァースは,はじめて自分でその楽器を手に取り,簡単な音階を教えた。月琴は,リヴァースに音楽を教えた詩人が持っていた楽器だということだった。疎林に浮かぶ月を思わせる,哀しげな美しい音がはじき出された。清廉としたその音に少女は魅せられた。
教えられたとおりに,ナイジェルは,段階的な音を爪弾いた。先ほどのぎこちない音ではなく,ハーフエルフが弾いたのと同じような,低く響く音が弦から紡ぎ出された。
ナイジェルは,学校でも唯一音楽が好きだった。一人で笛の練習をしていたときは,我ながら上手に吹けると思っていた。その日,みなの前で一人一人吹くテストがあった。誰もが知っている簡単な童謡だったが,あがってしまって,ちっともまともに吹けなかった。結局,周囲に笑われ,教師に呆れられ,やっぱり自分は駄目なんだという思いのまま終わってしまった。
覚えた音階で,その同じ曲を奏でてみた。ゆっくりとした手つきで,間違いも何度かしたけれども,おしまいまで,ちゃんと奏でられた。何度も練習した笛より,はじめて触れた月琴,大人の剣士様もまともに弾けなかった楽器のほうが,とてもうまく奏でられた。二度目に同じ曲を紡いだときは,ずっとうまくできた。渋みのある低い音が,病室に廊下に,流れ出た。
動ける他の病人たちが,病室に聴きにきた。いつもの怖い顔のお医者様まで,少女のはじく音に引き寄せられたように病室にまでやってきた。みんな,自分の曲に耳を傾けては,誉めてくれた。何よりも、他の誰でもない,自分自身がその音を出しているということが嬉しかった。 自分が,その些細な日常の場面における,はじめての主役だった。いつも自分に何も言わないでため息だけつく兄も,病気になっては特に自分を疎ましがっていたのに,このときばかりは笑って誉めてくれた。
リヴァースは,半音階も教えてみた。すると少女は,その短音階を含んだ違った曲を,もう一度弾いてみるのだった。スカイアーとリヴァースは,少女に際立った音感と楽奏の才能を見出した。剣士は,リヴァースに,少女に詩人の楽を教えるように薦めた。どうせ数日は寝てるだけで暇だし。ハーフエルフはぶっきらぼうにそう答えた。
「あたし,詩人さんのお勉強,したい。」
少女は恐る恐る言ってみた。
集まった周りの皆は,そうしなよ,と賛成した。レヴィンは,少女が吟遊詩人になったら,自分はファン第一号になると約束した。少女ははにかんだように微笑んだ。初めて,他人から誉められたのが,認められたのが,嬉しくてしょうがなかった。
トレルは少女の心の病を見ぬいていた。兄の見舞いに来ては,俯いて黙り込んだまま,申し訳なさそうに親の傍でたたずんでいるナイジェルを気にかけていたが,忙しさにかまかけて,ろくに話し掛けてもやれなかった。楽器を奏することが,良い形での少女の人格形成につながれば良いと考えた。
レヴィンは,月琴をナイジェルにあげてもいいか,少女の前で兄のトレルに聞いた。
「うまく弾けるようになったな。楽器も,ほこりを被った置物になっているよりは,上手に演奏してあげられる人の元にいる方が喜ぶだろう。」
トレルは弟に甘かった。兄の了解をえて,レヴィンは少女に約束した。ナイジェルの瞳が,これまでになく輝いた。
それを,優しげな漆黒の深い瞳で,リヴァースは見守っていた。
子供相手にはそういう顔もするのだなと,スカイアーは揶揄した。するととたんにいつもの仏頂面が戻るのが,このハーフエルフだった。
少女がいつも浮かべていた孤独な瞳に,リヴァースは共感を見出していた。自分がエルフの森にいた頃のものと,同じ色の目だと感じていた。そのモノトーンの寂しさが,払拭されるのなら,楽器を教えるぐらいわけはないと思った。
リヴァースは,ぼろぼろの精神状態のときに,暴漢に襲われて,完膚なきまでに叩きのめされ,しかも風邪を悪化させた。その一件から沈み込んでいた。身体が弱れば心も弱る。死んでも良かったんだなどと呟く,張り合いのかけらもないハーフエルフに,少女を任せることによって彼が自信を取り戻すきっかけとなればと,スカイアーは考えていた。
その日一日,両親が仕事から帰ってくるまで,少女は月琴を奏でていた。レプラコーンは,少女の中に自分の居場所は無くなりそうだな,と感じ,足元の石を蹴飛ばした。
少女は,仕事から戻ってきた母親に報告した。自分が初めて誉められたことを。自分が音楽に向いているということを。
音楽をならっていいか,うれしそうに目を輝かせながら,母親に聞いた。ナイジェルが自分から何かをやりたいと言い出したのははじめてだった。しかし,そのめったに見せないナイジェルの明るさが,母親の癇に障った。おりしも,彼女の年老いた父親が,路上で乱暴を受けて息を引き取ったと,ファリス神殿から連絡があったばかりだった。大切な父親を急に亡くし,また,息子も徐々に失うことになる彼女に必要なのは,彼女の心理を推し量り慰めてくれる者だった。沈みきった心に同調してくれる者だった。しかし,幼い少女にそれが理解できるはずも無く,自分の嬉しさを表すので精一杯だった。
アスペルの命は後一ヶ月も持たない。医者の宣告が,母親の頭の中を渦巻いた。アスペルはもう,やりたいこともできない。今はただ,慰めてあげなければならない。かわいそうなアスペルを,もう動けないアスペルを,死に向かうしかないアスペルを。なのに娘はどうしてそんなことを言い出すのか。兄の気持ちをわかってやらない,なんて狭量で,自分本位な子なんだろう。
母親は,ナイジェルをしかりつけた。ナイジェルの配慮の無さを責めた。そんな薄情に育てた覚えはない,と怒鳴った。
少女は,勇気を振り絞ってかろうじて見せることができた自我を,全て否定されたと感じた。両親はいつも,兄のことばかり。ようやく見つけた自分自身が好きな物すら,母親は許してくれず,自分が悪いというばかり。それでも,せっかく見つけた,はじめて自分に自信が持てそうもののためだった。
「お兄ちゃんのこととは別だよ!あたしがやりたいものなんだもの!」
少女はくいさがった。精一杯の反抗だった。
しかし,母親は聞く耳持たなかった。
「あなたは,アスペルがかわいそうじゃないの!? どうしてそう,自分のことしか考えられなの! 自分勝手な子! そんなにわがままな子なんて,いらないわ!」
母親の言葉は,少女なの胸をえぐった。仕事と息子の病気,そして妻のヒステリーに疲れた父は,傍で見ていたが,何もいわなかった。
両親はいつもいつも兄のことばかり。あたしのことはもう,どうだっていいんだ。兄だけが大切なんだ。いつもいつも。兄さえいなければ,自分はすきなことが出来るのに。自分も楽しい思いができたのに。これまで比較されつづけてきたことによる嫌な思い出が,いじめられてきた哀しみと憤りが,急激に持ち上げられてきた。分かってもらえないのが悲しくて悔しくて,少女の目から涙がぶわ,とあふれた。
「おにいちゃんなんて,死んじゃえばいいんだ!!」
少女は泣きながらそう叫んだ。
目を背けていた兄が,振り返り,悲しそうな目で,自分をみた。
言ってはいけないことを,口にしたと感じた。少女は耐えられなくなって,病室を飛び出した。
がらがらと,心の中で何かが崩れたような音をきいた。自分がその言葉を言ったこと自体に,ナイジェルはショックを受けた。少女は兄が好きだった。自分に無いものを全て持っていると思っていた。自分もいつか兄のようになりたいと思っていた。それが,それまで少女のもっていたただ一つの,上を目指せる希望だった。しかし,その灯火を,少女は自らの手で吹き消してしまった。
兄にあこがれる部分を否定することによって,少女は自分の心の良い部分,全てを拒絶することになった。少女は自分が悪い子だと感じた。いてはいけない子だと思った。
少女は,ふらふらとさまよい出た。
スカイアーとレヴィン,風邪の回復したリヴァースたちがかけまわって,一人川原の土手で,泣き疲れて眠っている少女を発見した。
連れ戻された少女は,両親に容赦のない叱責を受けた。悪いことは続くもので,得意先を商売敵に取られたり,仕入先が破産したりと,親たちの商売も,低迷していた。両親のストレスは頂点に達していた。親たちは,少女の孤独を理解することなく,ただ,娘の至らないところを責めるだけだった。
少女は,親の叫びのような叱責から外に逃げ出して,月琴を弾こうとした。母親は追い,それを取り上げようとした。奪われまいと,少女は歯向い,月琴を抱え込んだ。母親は,それをもぎり取る。
勢い余って,異国の楽器は宙を舞い,柱の角にぶち当たった。木の折れる鈍い音がした。銀色の弦が,はじけるように,ぶち,と切れた。スローモーションのように,ゆっくりと,その光景が,ナイジェルの脳裏に映し出されていった。
少女の心に残った最後のかけらも,砕け散った。
兄の病室に連れ戻されたとき,アスペルが,苦しそうにうめくのが,聞こえた。
兄がこうなったのも,自分のせいだと思った。落盤事故のときに,自分が兄を止めなかったから。...自分の静止を振り切って,兄が坑道の暗い奥に走っていったとき,心の底の底で,「もう帰ってこなければ良いのに。」そんなことを考えてしまっていたから。兄は一度は帰ってきたが,今,永遠に去ろうとしている。
蹌踉と,少女はよろめいた。
神様は,どうしてよくないお願い事ばかりかなえてくれるのだろう。どうして,こうならなければいいのに,と思ったことばかりが,いつも現実になるのだろう。
「あたしは悪い子なの・・・」
少女は,呆然とした表情で,ただ,無表情にぶつぶつと,自責の言葉を呻吟するだけだった。
ナイジェルの心に,孤独も寂しさもなくなった。自分はいてはいけない子だと思ったから。寂しさは,自分自身の存在を認めた上ではじめて,感じる感情だ。自分が一人で「ある」と感じた上で,成り立つものである。 ナイジェルは,自分自身の存在をも否定した。それは,少女の感情に救おうとしていたレプラコーンを,解き放つことになった。
そして,少女の心に住み着こうとしていたレプラコーンは,行き場を失った。ナイジェル自身が,自分の心を閉ざしてしまったから。
トレルもレヴィンも,風邪患者数の増大のおかげで,てんてこ舞いであった。
リヴァースは風邪から回復し,退院した。迷惑費がわりに,病院を手伝えと,トレルから労働を言い渡された。リヴァース自身,ナイジェルに会える口実でもあると思ったので,変態ブラコン傍若無人サディスト藪医者がと,トレルに対するいわれ無き不平を口にながらも,それを承諾して働いていていた。
ナイジェルの様子は,彼らを当惑させた。表面的には,それまでと変わらなかった。兄のことにばかり気を取られている両親は,ナイジェルの様子に気がつくはずもなかった。少女は,ただ,壊れた月琴を,ときおり爪弾くだけで,彼らの問いかけにも,陰惨な目で生返事を返すだけだった。
少女の様子を見にきたスカイアーは,月琴を直してやると約束したが,少女の心を晴らすことは出来なかった。
リヴァースは,少女の閉ざされた心のなかの,希薄になった感情の精霊たちについて,自分の経験を思い浮かべながら,どうしたものかと考えあぐねていた。
トレルは,忙しい合間を縫って,知人を当たったり寺院を訪れたりして,少年の病気に関連した症例を調べた。しかし,めったにない病気だけに,成果は芳しくなかった。
日だけが,いたずらに過ぎていった。
居所の無くなったレプラコーンは,少女の心から離れ,最初は病院内で,いたずらを繰り返した。薬を取り替えたり,かたっぱしから汲み置きの水をぶちまけたり。そして,それだけでは飽き足らず,すぐに外にでていった。街中をさ迷っては,道行く人に,混乱の魔法をかけたり,記憶喪失にさせたりして,遊んだ。しかし,その心は満たされなかった。
レプラコーンは,いたずら心と混乱の精霊であり,常に愉快なことを求めている。その欲求は,いたずらという行為でのみ満たされる。飽きるということを知らない。しかし同時に,孤独を司る精霊でもあり,一人でいることの寂しさと,他者を混乱させたいという衝動が,同じ階層に存在している。 いたずらは,孤独を紛らわせるために,行うことであるからだ。
精霊は,少女と同じ心を持つものを求めた。レプラコーンは悪ふざけをくり返しながら,さ迷い歩いた。精霊は,もう自分の居場所を失いたくないと思っていた。自分の存在に同調してくれる者に,受け入れて欲しかった。ゆえに,馬車の行き交う石畳に大きな石を置いたり,天からばらばらと砂を降らせたり,持ち前の魔法で人々を放心させたり恐怖におののかせたりして,遊んだ。混乱に侵された者が,他人を攻撃し,怒りや怖れを煽ったりするのを見ては,楽しんだ。
人々は,自分の理解できない現象に恐れおののいた。
オランはおりしも,通り魔の話題でもちきりだった。レプラコーンの悪戯は,その正体不明の通り魔のせいにされては,人々の憎しみと憤りと恐怖を煽ることになった。
孤独の精霊の寂しさは,癒されることはなかった。レプラコーンは,自分が求めれば求めるほど,自分を理解する者がいなくなることに,気がついていなかった。
自分を呼び出した者の手を離れて,レプラコーンは,ただ,人々のあいだをさまよっていった...。
少年の息苦しそうな呼吸が,傍らのナイジェルの耳に届く。
アスペルの身体の硬直は,いよいよ胸にまで届こうとしていた。
戸外では,かざはなが,人々の混乱を嘲笑うかのように,舞い乱れていた。
≪続く≫
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