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No. 00064
DATE: 2000/02/15 06:00:04
NAME: アイシャ
SUBJECT: 愛と狂気の狭間で……
「……っ……かは」
女の白い裸体が、男の口から吐き出された鮮血によって、赤く染められていく……。
二人は、恋人同士だった。出会ってからの3ヶ月間、愛を語らい、体を重ね……。ごく普通の恋人同士として、今まで過ごしてきた。
今日も、いつもの時間に、いつもの場所で待ち合わせをし、お気に入りの食堂で食事をした後、少々値の張る宿屋でお互いの愛を確かめ合っていた。
だが……。
今、まさに絶頂感に打ち震えていた男の腹には、短剣が深々と突き刺さっていた。その短剣の柄を握っているのは、もちろん男の下で悶えていた女だ。
男は、困惑の表情を浮かべたまま、愛する女の顔を見詰めた。
濡れたような漆黒の黒髪は、汗で顔に張り付き、えも言われぬ妖艶な色気を醸し出しいていた。髪と同じ色の潤んだ瞳も、いつものように熱い想いをたたえながら、自分を見詰めている。男が一番気に入っていた表情だった。
それなのに……
「……な……なぜ……?」
「……あなたを、愛しているから……」
女はそう答えると、男に突き刺さった短剣を、突き立てたままの状態でひねりあげた。
「ぐはっ!?」
そして、おもむろに引き抜く。
「…っくぁあああっ!」
開いた傷口から、大量の血が吹き出し、女の体を真っ赤に染め上げていく。
これで、男は死神から逃れる術を失った。
「……へ、へへ……。なる……ほど……。ギ、ギルドの……っ……差し金ってわけ……か……」
紅いドレスで着飾った女は、黙って、男を見詰めつづける。深い悲しみの色に彩られた女の瞳から、溢れるように涙が零れ始めた。
男は、自分の傷口を押さえる事も忘れ、震える手で女の涙をぬぐう。
「はぁはぁ……お、俺も……ヤキがまわった……か……。だがよ……お前を……こうやって抱きながら……死んでいくんだ……。へっ……お、男として……これ以上の……死に方はね、ねぇ……な……。……俺には……はぁはぁ……で、出来すぎた死に方だ……」
女は、ゆっくりと手を伸ばし、男の頬をそっとなでる。
「愛しているわ……今、この瞬間も。私の……あなたへの愛は、まぎれもない本物よ?」
「ああ、分かっているさ……」
そう言うと男は、女の唇を荒々しく奪う。そして、喉の奥からあふれ出る、自分の鮮血を、女の喉に流し込んで行く。
「……! ……んっ……う……んぅ……」
最初は驚いた女も、男の行為を黙って受け入れ、男の血を喉を鳴らして飲み込んで行く。
そして、しばらくその行為を続けた後、女の瞳からひときわ大きな涙だこぼれおちた。
「(……さよなら)」
心の奥で別れの言葉を投げかけたあと、手にした短剣を男の心臓に突き立てる。びくんっ、と男の体が痙攣する。
その瞬間、女は、性のものとは明らかに違う快楽に打ち震えた。他のどんなものでも味わえない、究極の快楽。悲しみの表情を浮かべる顔の中で、唯一、口だけが、愉悦の形に歪められていた。しかし、それは、ほんの刹那の時間……。
女は、短剣を放り投げると、男の体を強く抱きしめる。男の体は2、3度痙攣した後、動かなくなった。女はそれでも、男との口付けを止めようとはしなかった。
そして、男の体から、温かさが感じられなくなった後も、女は声を殺して泣きながら男の体を抱きしめつづけた。
強く……強く……。
自分たちの愛が、本物であった事を、確かめるかのように……。
「ご苦労だったな。これが、今回の分の報酬だ。……おい」
そう言って、隻眼の男は、隣に控えていた部下に合図を送る。それに答えて、その部下の男は、手に持っていた袋を女の方に放り投げた。
「………………」
女は、目の前に落ちた袋を黙って拾い上げる。
ショートカットにまとめられた、濡れたような黒髪。そして、それと同じ色をした瞳。その瞳には、深い悲しみが見え隠れしていた。
小さな村の、誰も使わなくなった納屋。その中に、男が二人と、それに向かいあうように女が一人、先ほどからなにかを話し合っていた。まだ昼間だが、窓を閉め切っているため、納屋の中は薄暗く、互いの顔もはっきりとは見えないほどだった。
「それと、こいつだったな」
そう言って、隻眼の男は懐から、一本の紅い薔薇を取り出し、女に放り投げた。女はそれを、受け取ると服の胸のあたりに挿した。
「しばらくは休暇だそうだ。今回の報酬だけでも、贅沢しなければ一年は遊んで暮らせるだろう。また、依頼があれば、こちらから連絡するが……。どこへ行くつもりだ?」
「……オラン」
「オラン?」
「……あの人が、生まれた街。そう、言ってた」
「そうか……。
こちらからは以上だ。定期的に連絡は取るようにするが、あまり、街から離れるなよ? 逃げたと思われて、今度はお前が殺される羽目になっても知らんからな」
「そんなこと、言われなくても分かってるわ……。
話はそれだけね? じゃあ、行くわ……」
そう言うと、女はゆっくりと振り返り、納屋の出口へ向かう。板を打ちつけただけの扉を開けると、冬の柔らかい陽光が女を照らした。
「表に馬を用意してある。そいつを使え。あまり可愛がるなよ? 愛着が湧くたびに、殺されてたんじゃかなわんからな」
隻眼の男にそう声をかけられると、女はゆっくりと顔だけ振り返った。
「ふ……もうしないわ」
男たちの方からは、逆光となり、女がどういう表情をしているかは分からなかった。
しばらくして、馬のいななきと共に、けたたましい蹄の音が聞こえ、そして、だんだんと小さくなっていった。
「……気味の悪い女だぜ」
「? そうか……お前は、あいつに会うのは初めてだったな」
何気ない部下の問いに、隻眼の男が答える。
「兄貴。なんなんですかい、あの女は? 男に取り入って殺しをやる女は、俺達の業界じゃ珍しくもねぇが、あの女はなんか違う気がするんでさぁ。なんて言うか……もう一人の俺が、関わり合いになっちゃいけねぇって、必死で叫んでる……」
「……その、もう一人の俺って奴の意見は、これからも、尊重した方がいいな。そうすりゃ、お前は長生きできる」
そう言って、隻眼の男は、女が出ていった納屋の出口に視線を向けた。
「アイシャ・ロズウェル……俺達のギルドの処刑人の一人さ。もっとも、あの女は、自分がどこの国のギルドのために働いているのか、知りもしないがな……」
「<仲間狩り>、ですかい……」
「ああ。あの女の手口はな、まず、殺す相手にとことん惚れ込むのさ。相手と恋に落ち……本気で愛し合い……そして、殺す……」
「な、なんですかい、そりゃ? 普通、ああいった手口を使う女の殺し屋は、なるべく相手にのめり込まない様にするんじゃねぇんですかい?」
「……お前、真っ白な雪が積もってるのを見たとき、足跡を残したくならないか?」
急に関係のない話題を振られ、部下の男は戸惑ったが、素直に答える事にした。
「え、ええ。あっしは、北の方の生まれだったもんで、子供の頃、積もった雪の上をよく走りまわったもんでさぁ」
「気持ちよかったろ?」
「ええ、そりゃもう。誰も踏んでない所を見ると、他の連中と争いながら、自分の足跡をつけてましたねぇ」
「……それだよ」
そう言って、隻眼の男は、部下の男の方に顔を向ける。
「はい?」
「それにとり憑かれちまったんだよ、あの女は……」
そして、再び、女……アイシャの出ていった扉を見据える。その視線には、わずかな憐憫が含まれていた。
「奇麗なもの、大切なもの、かけがえのないもの……。そういったものを、自らの手で破壊するとき、快楽が味わえる。破壊衝動。解放感。その快楽をどう呼ぶかは、人それぞれだ。
そして、あの女は、その快楽の虜になっちまった。決して、目覚めてはいけない……名もなき狂気の神だけが与え得る、禁断の快楽にな。
あの女は、自分の愛したものを壊さずにはおれないのさ。ほんの一瞬、かいま見える、その快楽のためだけに……」
(そして、そのあと襲い掛かってくる、どうしようもない喪失感に涙を流す……哀れな女だ……)
表情には出さず、心の中だけで、隻眼の男は呟いた。
(だが……同情はしねぇぜ……)
一方、部下の男は、想像を絶する話を聞いて、ほとんど硬直していた。冷たい、嫌な汗が、背中を伝うのが分かる。
「……そんな……ことって……」
「事実だ。でなけりゃ、今まで何人もの刺客を返り討ちにしてきたような奴を、あんな女一人でどうにか出来ると思うか? 本当に愛し合っていたからこそ、あの女が刺客だと言う事に気がつかなかったのさ。……いや、もしかしたら、気づいていたのかもな……。気がついていても、この女になら……と思わせる魅力があるんだろうさ。男にとって、あれほどたちの悪い刺客はいねぇよ……」
「……わ、わかるような気がしやす。あの女を抱けるんなら……いや、あの女に愛されるのなら、殺されたってかまわねぇ……そう、思っちまう……。あっしが感じた嫌な予感は、きっとそれだったんでさぁ……」
そう言うと、部下の男も納屋の扉の方に目をやり、先ほどのアイシャの姿を思い浮かべていた。
容姿が良く見えない暗い納屋の中でさえ、伝わってくるような妖艶な色気。知らず知らずのうちに、口に唾液が溜まっていたのに気づき、部下の男はそれを飲み込んだ。
部下の様子を見て、隻眼の男は一瞬だけ表情を崩す。複雑な苦笑い。が、すぐにもとの険しい表情に戻った。
「……あの女を知っている一部の人間は、恐怖と嫌悪を込めて、あいつをこう呼ぶのさ」
隻眼の男が一瞬、言いよどむ。まるで、その名を口にすることすら、禁忌であるかのように……
「……ルナティック……ローズ」
「……<狂った愛>……か……」
たき火の前に、膝を抱え込むようにして座りながら、アイシャは誰に言うでもなく、そう呟いた。
オランへ向かう街道沿い。この道を旅する人のために立てられた掘っ建て小屋の中にアイシャはいた。
「小屋」とは言っても、床は地面がむき出しで、雨風がしのげるだけというものだったが、氷乙女たち溜め息が吹きすさぶこの季節には、それでも十分ありがたい物だった。
アイシャは、小屋の中にあらかじめ用意されていた薪に火をつけ、暖を取っていた。何をするでもなく、ただじっと、燃え上がる炎を見詰めていた。
そして、冒頭のセリフ、である。
しばらく薪がはじける音だけが、小屋の中に響き渡っていた。
不意に、胸に挿した薔薇の花を手に取り、じっと見詰める。殺しを終えたあと、報酬の一つとして、毎回アイシャが要求する物だった。今回も、わざわざガルガライスの方から取り寄せさせたものだ。
(いい、アイシャ? この花びらが、すべて落ちるまでは……あの人の事をおぼえていてもいいわ。でも、その後は……)
心の中で、自分自身に言い聞かせる。しかし、愛する男を殺してから2週間以上たった今でも、最後まで言葉を続ける事は出来なかった。
男は、悪党だった。何人もの人間を殺していた。何人もの女を犯していた。麻薬を売買し、挙げ句に、ギルドの金を奪って逃走したのだ。
……だが、それでも愛していた。
最初は仕事のために、無理矢理、気持ちを偽りながら。そして、男の良い所を一つ一つ見つけていき、次第に本気で愛し始めた。そうしていくうちに、男も本気で自分を愛し始めてくれた。そして、お互いの気持ちが最高潮になったとき……殺した。
「……くっ」
膝の間に頭を埋めるようにして丸くなり、アイシャは泣き声を押し殺した。
愛する者を殺すときの快感。常人には理解できないその感覚は、アイシャにとっては、なにものにも代え難い快感だった。だが、快感を味わえるのは、ほんの一瞬だけ。そのあとに残るのは、激しい後悔と喪失感……そして、自己嫌悪だった。
「……ジェーン」
アイシャは思わず、自分の唯一の理解者だった、育ての親の名を呟いた。
(……ジェーン。あなた、最後に私に言ったわよね。この呪縛から、逃れる術があるって……。本当なの?)
うずめていた顔をゆっくりと上げ、目の前で揺らめく火蜥蜴の乱舞を見ながら、自分と同じ境遇だった女に問い掛ける。自分に化粧の仕方から、人の殺し方まで、全てを教えてくれた、師匠でもあり、母親でもある女性。
……そして、アイシャ自らが、その命の精霊の営みを断ち切った女性……ジェーン。
(私には分からない……でも、あなたの言ったように、いつか……)
「……オラン。……そこで、私は……何かを見つける事が出来るのかしら……」
そう呟くと同時に、アイシャの目に眠りの精霊が砂を撒き始めたようだ。
(……眠ろう……辛い現実を忘れて……。オランで私は……夢を見るんだ。目が覚めるまで……楽しい夢を……)
そして、アイシャはまどろみへと落ちていった……。深い、夢の世界へ……
オランは、もう、目と鼻の先だった。
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