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No. 00073
DATE: 2000/02/24 23:20:47
NAME: ケルツ
SUBJECT: 淅瀝余話
風が吹き込んでくる。これであの宿代はぼったくりだと寝ぼけた頭で考える。木目の浮き出た寒々とした壁の間から細い冬の朝の光が差し込んでいるのを見て、ケルツはため息をつきながら薄い夜具を跳ね除けた。
目的地だった故郷への道を行過ぎて、数日。さらに北上しムディールへと入ったのが昨日。かすかに記憶にある町並みをたどりどうにか宿を取ったのは夜半過ぎ、ケルツはそのまま倒れこむように眠りに落ちた。藍色の厚い上着を羽織った上にマントを重ねようとして、もはや旅路ではないのだと思い出した。多少長くなった髪を一つにまとめながら、溜息をつく。雪で閉ざされた故郷への道は彼を拒絶しているようで、今更ながらに引き返したいという気すら起こってくる。春まで待つといい、道を尋ねた老人はそう答えてくれた。道中に見た木々の固い蕾を思い出す。春までの時間と、残り少ない路銀のことを考えてもう一度溜息をついた。
傍らで柔らかな布から木目を覗かせるサズを見る。この寒さでは、広場に出ているものはそういない。宵に酒場ででも歌うかと考えて、ふとリヴァースが気にしていた「月琴の詩人」のことを思い出した。どんな噂でも言いから拾ってきてほしいといわれ承諾したものの、よく考えればケルツはその詩人について何も知らない。尋ねればよかったと思いながらも、その名を口にしたときの、リヴァースの遠くを見るような瞳に立ち入るだけの勇気は無かった。
旅の途中でいたんだ弦を取り替えるため、楽器を扱う店を訪れる。立てこんだ路地の突き当たりにあるその店の古びた戸を押すと挿し油の臭いがつんと鼻をついた。いらっしゃい、と柔らかな声が呼びかける。くすんだ金髪の主人が手に持ったリュートから目を上げてこちらを見つめている。少し待つようにと手でこちらを制してから一通りの音を出し、主人は満足した顔でそれを卓に広げた皮布の上に置いた。
「修理かい?」
こちらの手にもったサズを眺めて言う。ケルツが弦を変えたいのだと言うと、彼は手にとったサズをしげしげと見つめながらこんなに硬い弦があるかなと呟く。戸棚を探し、肩をすくめながら戻ってくる主人を眺めてケルツは思い出したように口を開いた。
「ちょっと聞きたいんだが、月琴の詩人の二つ名を持つ吟遊詩人というのを知らないか?」
我ながらもう少し切り出し方が無かったのかといささか赤面し、ちらりと主人のほうを見ると彼も唐突な質問に驚いたようにこちらを見ている。目があって互いに苦笑。若い主人はしばらく首を捻ったあとに「知らないな」と返答する。あきらめて店の戸を押したケルツの背中に「替えの弦のことだが、3日後にもう一度来てみてくれ」と声が降ってきた。
夜目にも白く、細かな雪が降っている。地表はうっすらと白いもので覆われ、所々に塗り残したような道の黒々とした色が浮かびあがる。明日の朝までには積もるかもしれないと一人ごちながら、ケルツは故郷の風景を思い出していた。真綿にくるまれた箱庭のような故郷の村。その村の裏手の山に分け入り鬱蒼とした木立をぬけると、小川を越えると斜面に穴を穿ったような空間に出る。せり出した斜面が邪魔をして村からではその場所を窺い知ることは出来ない。そこがケルツの隠れ場で、その場所から村を見下ろすのが彼の常だった。村はいつも異邦人を、余所者を拒絶していた。
(気が弱くなっているな・・・それとも村に手が届く場所にきて気後れしているか・・)
細く一息をついて窓から目をそらし、酒場の喧騒へと首を巡らせる。酒場の人の輪の中心にいるのは二人の男女で、聞けば結婚したのだという。輪の外側へ行くほどになにやら分からず、ただ便乗して騒ぐ人間が増えていくのだが、それでも二人は幸せそうだった。冒険者を辞めちまうなんてよぉ、誰かがそう口にするのが聞こえる。頼まれて歌いながらケルツの頭に浮かんだのはファズのことだった。
(あの二人の婚礼はもう済んだだろうか。)
その夜、酒を振舞われ、多少視界をぐらつかせながら寝床へともぐる。夜半過ぎに掠れるような叫び声をあげて飛び起きた。
(慣れぬ詩など謡うものではない)
先刻までの悪夢のおかげで、冬だというのに寝汗をかいている。気持ちが悪いと思いながらそのまま床に臥し、翌日にはしっかりと風邪を引いた。
3日前に訪れたのと同じ戸を押す。先回は鼻についた油の臭いがまったく感じられないのは、ケルツが風邪を引いているからに違いない。いらっしゃい、と客を迎える声すら違って聞こえるのも風邪の所為かと思えば、奥から出てきたのは以前とは別の人物だった。どこか、この間見かけた若い主人の面影の残る横顔を見て、どうやら彼の父親らしいと判断する。この間の・・・と話し掛けると、老人は小さく頷き世話話をしながら、戸棚のひとつを探し始める。
「オランから来たのかい?ずいぶんと遠くからきたもんだ、この季節になぁ」
程なく小さな包みを取り出し、それを検めるとケルツへとよこす。
「少し使いづらいかもしれんがね」
聞き取りにくい口調でそういうと、皺だらけの瞼を押し上げるようにしてケルツを覗き込む。
「月琴の詩人をお探しは、あんたかな?」
背の曲がった老人は、店の奥の椅子へと腰掛ける。
「彼女の知り合いかい?」
知らないと答え、友人が知り合いらしいと付け加えると、主人は何も言わず、ただ好々爺の笑みを浮かべた。ずいぶんと大切な友達なんだろうねぇという彼に、素直に頷いてから首をかしげる。自分は少なくともそう思う。ケルツがそう話すとうんうんと頷いて、老人は手招きをしてから、呟くほどの声で話し出した。主人の話は時に立ち止まり、時に繰り返される。いつ相槌を打って良いのやら分からずに、それもいつしか忘れて、ケルツはただ時間の過ぎるまま老人の話を聞いた。
老人が、正確にはそのころはまだ青年であった彼が、彼女にはじめてあったのはある娼館だった。取り立てて美女というわけではなかったが、つっけんどんな態度でありながら、若い女たちの面倒を良く見るというので娼婦たちに慕われていた。昼間から娼館を訪れた場に似つかわしくない青年は、彼女に何用かと尋ねられしどろもどろに注文を取りに来たと答えた。本当は女を買うために来たはずだった。懐にはもらったばかりの賃金がかすかな音を立てている。心中で、馬鹿なことをと己を叱咤し、そそくさと引き上げようとした彼を彼女は呼び止めた。
「丁度いい、私の琴を見てもらおう」
促されるまま女たちの視線の中を、奥へと案内される。
数ヶ月のうちに彼は其処の常連となっていた。客としてではない、娼婦たちの話し相手、商人として。後に、実は注文など取りに来たのではなかったとばらすと彼女は彼の腕の中で、苦笑した。彼女は月琴の名手だった。格の低い娼館でありながら、その見世では娼婦たちの間で歌舞音曲のいずれかに手を染めるのがその頃の小さな流行になっていた。彼女の影響かもしれない。好きで体を売る娘など少ないとはいえ「あの娘の歌は良い」と客が来なくなってしまえば、対抗心も燃えるのだろう。
彼の雇い主もそれは承知していた。奉公人として雇ったはいいが、楽器などにはさらさら興味の無い彼が、幾つかとはいえ其処から注文を取ってくるようになったのは大きな進歩だったから。
商売人として、そういうところを訪れていると自然と分かってくることがある。夜になれば鮮やかな衣に身を包み、南の海にすむという極彩色の魚のように男の腕に身を寄せる娼婦たち。この世に悩みの何も無いかのように笑い声を上げ男たちの戯言や恨み言に耳を貸す娼婦たちは、だからこそその行き場の無い感情に引きずられ涙する。愚痴に近い話を娼館の女たちから聞かされる時、ただ月琴を爪弾く彼女だけは何事もないように平然と前を見据えていた。時には、ほかの女の話を彼女がそれともなしに聞いている場面を見たこともある。男から娼婦たちへ、そしてあの女へと注がれた感情はどこへ行くのか、この女が自分には分からない心を抱えているのかもしれない、彼女の白い躯の中で、なにやら分からぬものがじっと息を潜めている気がした。
そうこうする内に、青年の雇い主はその短い生涯を閉じた。彼は町を出た。そう、とだけ彼女は言った。彼は南へと旅をし、その地でいくつも恋を重ね、友と出合い別れた。やるせない感情を歌に乗せることを知ったとき、やっと彼女が歌うわけを知った気がした。
「急いで帰ってきたんだが、もうその娘はいなかった。儂が町を出た直後に、何かあって店をやめてしまったらしいなぁ」
相変わらずもぐもぐと話しつづける老主人は、そこでいったん言葉を切り、皺をゆがめて笑った。
「儂は、今のかみさんをもらって結婚した。はっきりものを言う女でなぁ。あんたも嫁にするならそういう女がいい。放っておいても勝手に引っ張っていってくれる。なんなら儂が紹介してやろうか?」
話がずれていくのを感じて、ケルツは慌ててその後の彼女を知らないかと尋ねる。冷えた茶に手をやりながら、老人は何かを思い出すように近くの壁にかけられたこ琴に目をやる。首が短く胴が奇妙なほど丸い。これが月琴だと指差され、そちらに顔をやるケルツの耳に老人がぼそりと呟くのが聞こえた。
「喉を患っておってな」
彼女が娼館を後にした理由と関係あるかどうかは分からない。ただその頃を境に彼女の声は、がらりと変わってしまっていたらしい。探すにも時間がかかった。もはやこの町にはいないのではと思い。場末の貧民屈に近い酒場で歌っていると聞き、尋ねたときには本人かどうかすら疑った。最後に別れてから20年近くたっていた。声をどうしたのだ問うと、ちょっとね、と言ったきり口をつぐんだ。その声について問うたびに、一瞬悲しげな影が彼女の顔をよぎった。さらに数ヶ月して喉を病んでいるのだと知ったが、いくら奨めても施療院へ足を向けようとはしない。厭うように頑なに口を閉ざす彼女に、それでは理由くらい教えても良いだろうと詰め寄ると客といざこざをおこしてしまったのだと言う。彼が何も言わずに彼女を見ると、かつて、いつもそうしたようにふいと目をそらした。その瞳が嫌悪を浮かべていたか、あるいは戸惑いを浮かべていたのか彼は知らない。釈然としない思いを抱くのと比例して、彼が彼女の居場所へと足を運ぶことも稀になった。
子供をもうけ、店を持ったばかりの彼にはやることがあまりにも多すぎた。
しばらくぶりに会ったのは、数年の後、噂で彼女が何かの事件に巻き込まれたらしいと聞いた後だった。もはや、雲雀のように高い声は影をひそめていた。敢えてそれを聞けば、これはこれでいいという意外にあっさりとした答えが返ってきた。彼を真っ直ぐに見る瞳の中にかつて彼を見るときの色は浮かばなかった。そう知ったとき、彼はやっと安堵した。それ以来、彼は彼女を訪れなかった。それが何故なのか彼にも分からなかった。月琴の詩人の名を聞くとことが稀になり、彼女が死んだという噂が流れ始めた。
死んだのじゃないのかとケルツが聞くと、老人はさぁなと首を傾げる。
「声が出んよぅになったという話は聞いた。それきり酒場に来んようになったのを誰かが死んだと言い出した。それ以外は知らん」
ところで、と老人は続ける。
「あんたの友人というのはどんなやつかね?オランの話を聞かせておくれ、これでも昔は旅人じゃ、あの国にも行ったことがあるよ」
徒然に話は弾み、ケルツが店の戸を押したのは月の傾く頃。またおいでとうれしそうに手を振る老人が亡くなったのは、この十数日後だった。
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