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住宅街の壁や扉を見渡して、思わずそう呟いた。 安宿で偶然出会ったリヴァースが俺に押しつけてきた仕事。壁の落書き消し。 どうやら、犯人はレプラコーンらしい。それも、狂ったレプラコーン。 「私はその姿を直接確認してはいないが……まぁ、せいぜい気をつけろ」 あまり、心のこもった…とは言い難い激励の台詞を残してあいつはいなくなった。……まったく、感謝感激雨あられだな……。 さてと…こうして眺めていたって仕事は終わらない。引き受けた以上はやらないとマズイだろうし。 とりあえず、俺は仕事を始めた。 取っ手のついた樽に水を汲む。そこにブラシを突っ込んで、水で濡らしたブラシで壁をこする。 …っておい、落ちねえじゃねえか。 「お〜い、そこの半妖精! 水だけじゃダメだ。コレ使えっ!」 一緒に仕事をしていた男が叫ぶ。他にも数人いるらしい。めんどくさかったから数えてないし名前も覚えてねえけど。 とにかく、年かさらしい男が、樽に石鹸らしきものを入れて歩く。何だろう? どうやら、洗濯に使う石鹸を細かく削ったものらしい。…ま、いいや。これで落ちるってんなら。 石の壁や木の扉をとりあえず、手当たり次第に磨いていく。何人かいるとはいえ、ここら一帯の家を全て掃除するとなれば、自然に人は分散していく。ふと気が付くと、今いる路地には俺の他には誰もいなかった。時折、「落ちねえぞ!」などと叫ぶ男の声は聞こえるが。 …そういや、リヴァースのやつ、レプラコーンがどうのと言ってたな。今のところ、気配は感じねえけど…ま、確かにレプラコーンがやりそうな悪戯だよ。 壁一面に炭で描かれた落書き。誰かの似顔絵らしいが……誰だ? うずたかく積み上がった本の山から降りられないで半泣きになっている男の顔。状況からして…ラーダ神官ってとこか。ひょっとしたら、ラーダ神そのもののパロディかもしれねえけど。他にもいくつか…人間の顔や、動物、馬車、船…数えればきりがない。 「これはこれで…ま、前衛芸術といえなくもねえよな」 今にも沈まんばかりの船の絵を、ブラシでこすって消しながら思わず呟く。 ふと、家の窓が開いた。その家の主婦らしき女が顔を出した。 「おや、ごくろうさん。…なんだ、あの子じゃないんだね」 「……あの子?」 期待はずれだとでも言うような、中年の女に聞き返す。女は笑って答えた。 「いや、うちの子がさ。金色の髪で耳がとがった人が掃除してるっていうから…てっきりいつものエルフだと思ったんだよ」 豪快に笑う彼女が説明してくれた。賢者の学院からほど近いこの辺りは、そこに通っている魔術師やその卵たちがよく通りかかると言う。そして、その中に、金髪のエルフがいるのだと。 「その子がさ…いや、妖精さんだから、あたしよっか全然年上かもしんないんだけどね。見た目が随分と幼いもんだからつい……。んで、その子が、前にも落書きされたときに、ちょうど通りかかって、嬉しそうにしてたんだよ。こっちゃあ落書きされて溜まったもんじゃないって言うと、ちょっと困った顔になってさ。『すみません。でも、なんだかこういう悪戯が懐かしかったもので』なぁんて言って、やっぱり笑っててね。なんだか、あんな顔で笑われちゃぁ…文句言う気もなくなるってもんさ」 それ以来、そのエルフとは時折、顔を合わせると挨拶や世間話を交わす仲だと言う。 壁の落書きを見上げて、俺もふと思い出した。 「…そう言われてみれば、確かに懐かしいかもな」 エルフの村で暮らしていた頃、外の世界に憧れて、船や馬車の絵を描いたこともある。説教たれるエルフどもが気に入らなくて、尖った耳の代わりに、ツノが生えている絵を描いたことも。 「まあねぇ…懐かしいっちゃ懐かしいね。うちの子は…今、そこらを走り回ってるのは下の子でね。女の子だからあまりそんなことはしないし。上のは男の子だから、よくこんなこともしたけど。最近は、おっきくなっちゃったからね」 そう言って、女がまた笑う。 「ま、あんたもがんばっとくれよ」 おおらかな笑顔のまま、女は手を振って顔をひっこめた。閉じられた窓の桟を磨きながら、ガキなんてものはどこでも同じなんだな、と笑いが漏れた。俺みたいなハーフエルフも、そのエルフも。そして、ここんちの人間のガキも。 …ふ、と。気配が生まれた。近づいてきた? …いや、違う。いきなり……こう……この気配は…レプラコーン? 壁をこする手が思わず止まる。リヴァースの言葉を思い出す。 と、そこまで考えた時、足元に何かを感じた。視線を落とす。……裸の小鬼がそこにいた。 《見える? 見える? ねえ、ボクのこと見える?》 唄うような精霊語。…どうやら、まだ攻撃的にはなってないようだ。行き場をなくしているだけか? 《ああ、見えるよ。どうした、悪戯の小鬼? 帰る場所がないのか?》 精霊語でそう聞いてみる。レプラコーンは嬉しそうに笑うと、くるくると踊り始めた。 《見えた見えた。見える人と会えた。これで寂しくない。キミはボクを見てくれる》 ……さて。どうしたもんか。行き場をなくした精霊は、精霊界に帰すべき…なんだろう。物質界での存在を消せば…つまりは、こちらから攻撃してこの世界での命を断てば、奴は精霊界に帰れる。…とは言え、それはさすがにしのびない。見境なく攻撃してくる相手ならともかく…。それに、街なかで魔法を使うつもりも毛頭ないし。このまま、精霊界に…って…どうやるんだ? ……やったことねえぞ、んなこと。他に…行ける場所が…帰れる場所があるといいんだが。 《おまえはどこから来た? どうしてここにいる?》 《ボクを見てほしい。ボクと遊んで欲しい。ねえ、一緒に遊ぼう》 《見てるよ。おまえを見てる。一緒に遊ぶのもかまわない。ただ、おまえはどこから来た? そしてどこに帰りたい?》 悪戯と混乱の精霊は、それを聞いて機嫌を損ねたようだ。 《どこでもないとこから来ただけ。どこでもないとこに帰りたいだけ。だってそんなのどこにもない》 相変わらず、唄うようにそう言って、身を翻そうとする。 《…おい!?》 追いかけようとした瞬間に、小鬼の姿はかき消えた。どこに…? そうか、瞬間移動。…それを思い出した次の瞬間に、頭の上にレプラコーンの気配がする。 《寂しそうだね。キミの心の中にもボクの仲間がいるよ。でも、キミはボクとは一緒に遊んでくれない。だって忙しそうだもの。キミじゃだめだよ。やっぱりだめ。きっと誰でもだめなんだ》 屋根の上で唄う小鬼。そしてその手には、いつの間にか小さな樽が抱えられている。さっきまで、俺が掃除に使っていたものだ。……って…おい……まさか。 《おい、やめ……っ!》 叫んだ時には遅かった。やめろ、と言い終わらないうちに、視界が黒く染まる。魔法なんかじゃない。落書きの炭で黒くなっていた水が、樽ごと頭にかぶさっただけだ。 《ここじゃない。そこじゃない。あそこじゃない。どこでもない。ボクは帰らないよ。だって帰れないから。だから出てきたんだから。だって女の子が泣いているから。ボクのせいだから》 頭にすっぽりかぶっていた樽を外して、屋根の上を見上げる。…女の子? 《誰が泣いてるって? どこで?》 …泣いてる? …誰が? ……女の子。まさか…カイのことじゃないよな? 《泣いてるよ。みんな泣いてる。怖いんだ。ボクは怖い。見て欲しい。ボクを見て欲しい。でも怖い。見つかるのが怖い。 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い帰りたい怖い怖い怖い見つかっちゃうよ怖いよ怖い見つけてよ怖いよ怖いよ早く見つけてボクを見つけて 怖い怖い帰りたくない怖い怖い怖い怖い探さないで見つけないでよだって怖いんだ…》 ……ひきずられる。それは呪文なんかじゃない。ただ、レプラコーンのその怯えた気持ちに。孤独を恐れながらも、自分をさらけ出すくらいならいっそ、と思い詰めるその心に。 自分の中のレプラコーンが大きくなっていく。息苦しい。もどかしい。苛立ちにも似た何か。目の前の小鬼が紡ぐ精霊語が、耳から離れない。 《…やめろ!》 叫んだ言葉は、屋根の上にいるレプラコーンにじゃない。自分の中にだ。 《だめだよ。…そんなんじゃだめなんだ》 寂しそうな…それでいて戸惑ったような。そんな色をその瞳に浮かべて、レプラコーンは姿を消した。 レプラコーン。悪戯と混乱の精霊。そして同時に……寂しさと孤独の精霊。 …精霊には、自分の仲間が分かるか。確かにな。カイと…誰よりも大事だと思っていた女と別れようとしてる今、確かに俺の中にはレプラコーンがいるだろう。…そう、あんな飛び入りが入り込む隙間などないくらい。あのレプラコーンは…俺の心を読んだのだろうか? 泣いている女の子。そしてそれは自分のせいだと。 とりあえず…リヴァースには報告しといたほうがいいんだろうか。そしたら…イヤミを言われるんだろう。精霊を目撃したどころか、会話まで交わしておいて、おめおめと逃げられたのか、と。……わ〜るかったな、役立たずでよ。 その前に…この中途半端に黒くなった髪と濡れた全身をどうにかしねえとな。春が近いとは言え、まだ風は冷たい。……ずぶ濡れで突っ立ってていいような季節じゃないことだけは確かだし。…まったく、リヴァースも素敵な仕事を紹介してくれたもんだ。 |
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