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No. 00106
DATE: 2000/04/14 18:50:04
NAME: ケルツ
SUBJECT: 帰郷 ◇精霊を見た日◇
8年ぶりに私はその木の前にいた。
村の脇手へそれた細い道を半刻ほどたどれば、その大きな木に抱かれた空間に出ることができる。枝葉のおかげでその場所は隠され、そのくせこちらからは村の様子を一望できる小高いその場所が、かつても私の隠れ場だった。
目を閉じて、地の上へ腰をおろす。枯葉が積もり、朽ちてできたその地は柔らかい。木肌に体重を預けると、混濁した液体からなにかを掬い上げるようにいくつもの記憶がよみ がえってきた。
始まりの記憶は春。まだうす寒い風の吹くちょうど今と同じ季節。多分私が5つか6つのときだ。
朝方からジゼの機嫌の悪かったその日。火のついたように私を叩いていた彼女は、昼過ぎになればまたいつものように私の存在を忘れ、家を出て行った。入れ違いに入ってきた薬師がため息をついて部屋を見回す。
「あの子にも困ったもんだ」
そう、呟いて掃除をはじめる。そのころの私が聞くのは薬師のため息に似たその呟きと、母の独り言とだけだった。そのせいかもしれない、周りの同じ年頃の子供たちがこましゃくれた言葉を使い出す年頃になっても、私は共通語はもちろん村でつかわれていた東方語すらろくに話すことができなかった。
彼女が掃除をはじめるのと前後して、私も自分の家を出る。通りを歩けば村の女たちがすと目をそらし、その雰囲気に気がつくのか近くで遊んでいた子供たちは皆で顔を見合わせてどこかに行ってしまう。
それは日常で、別に不快なことでもなかった。ただ、かすってできたらしい目の上の傷がじくじく痛むのだけが嫌だった。
そのまま村を抜け、いつもの場所へと上っていってそこにある大木に身を寄せる。
見下ろせば村が箱庭のように地に張り付いている。そこにいるあいだは村の誰もが私のこと見ないということが私を安穏とさせ、逆に自分が異邦人のような気がして無性に悲しかった。
木の根に身を寄せて、じっとしていると風に乱された木の葉のすれる音や、時折遠くで鳥の鳴くのが聞こえる。青い空、受け止める地、真直ぐに天を突く木々、香り始めた草木、目に映るそれらの存在はあまりにも大きくて、その中で押しつぶされもせずに自分の存在するのが不思議だった。
もっとも、そうはっきりと感じていたわけではない。ただ、ぼんやりと自分といろいろなものとが何故溶け合ってしまわないのだろうと思っただけだった。
木の葉でできた柔らかな土に、小さな手はすぐに埋まった。そのまま掌を上げれば小さな木の枝や土はさらさらと指の間から落ち、自分の手だけが残った。手が土に溶けてはしまわないのはその歳でも当たり前の事だと知ってはいたが、そのときにはそれが不思議でたまらなかった。
もう一度同じことを繰り返す。今度は手の上に羽虫の幼虫が残り、なぜかそれが私を喜ばせた。嬉しくなって何度も同じことを繰り返す。
幼虫はもうでてはこなかった。
私の手が土に溶けることもなかった。
ふと何かを感じて振り仰ぐ。微笑んだ誰かの顔があったと思ったそこには誰もいなかった。あったのは木々の梢と、その間から降り注ぐ夕暮れの日の光だった。
「言葉を知らなければ、それについての概念を持つことも困難である」
後になってファズに借りた読み書きの本の序文にはそんな一文があった。錯覚という言葉を知らなかった私はその後たびたび目にしたその微笑のことを気のせいだとも思わなかった。反対に精霊という言葉も知らなかった。村のほかの子供たちが、炉辺で、あるいは床の中で聞く御伽噺を聞かせてくれるものはいなかった。
どうやらその木に宿っているらしい彼女の姿がはっきりと見えるようになってからですら、私が彼女が何なのかを知らなかった。私はその村での大半の時を彼らと主にすごした。
口元に不思議な笑みを浮かべた彼女の、あるいは空を行く風の中にふと姿を見せ、あるいは気難しげな顔で土地の中に消えていく彼らの名を知ったのはそれから5年以上あとだった。
目を開けるとそこには懐かしい微笑があった。
「やぁ・・・」
相手が私を覚えているのかどうか、確信は無かった。立ち上がれば唇に笑みを浮かべたままこちらを見る。幼いころこの瞳を見つめて、伝わりもしない言葉を何度語りかけただろう。
「頼みがあってきた・・・これをここにおいてやって欲しい」
木の根元の、一段と掘り下がった場所にサズを置く。父と母が眠るには場違いな気もした、しかしそれ以上にふさわしい場所も思い当たらなかった。
彼らを憎む気持ちはけして消えてはいなかった。けれど炭火のように燃えていた心も今は凪ぎ、そう遠くないいつかに色あせて、記憶の深い淵に思い出の一つとなるだろうと感じていた。
彼女はその小さな木の塊に一度目をやって消えた。
「母さん・・・・」
初めて口に出した言葉はやはり馴染まず、舌の上を滑っていった。思わず苦笑がもれる。私は彼らにとって息子だっただろうか。
「ジゼ、アーシュア、せめて死した後くらいは安らかにな」
言い直し、木を振り仰ぐ。そしてお前も、大木に向かいそう付け足して、踵を返した。
日はまだ中天に達せず、春特有のあまりにはっきりとした景色が広がっていた。箱庭のように見えた村も変わってはいない。何もかもはそこにありながらもはや昔のものだった。ただ、昔、自分が溶けてしまうかもしれないと思った世界だけは相変わらずそこにあった。
今、村を出れば、日の暮れるまでに麓に着くことができるだろう。もうこの村にも来ることは無いという確信とともに、私はかつて通いなれた山道をたどり始めた。
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