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No. 00127
DATE: 2000/06/08 01:45:05
NAME: リック、リュイン、リヴァース
SUBJECT: □黄金の鍵□
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注:夏の一夜,暑さにうだっているときなどにお読みください。
なお、食前には召されないことを,お勧めいたします。
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夏。
オランの国境を越え,エレミアに入り,自由人の街道を進むこと数日。
賢者の都では,そろそろ雨の季節がやってこようとしているが,乾燥したこの地域の太陽は,翳ることを知らないようである。
ここに,西進を続ける旅人一人。
太陽の光を吸い込む艶のない漆黒の髪を,シルフがなびかせて遊ぶ。
ぬけるような青空の中,遥か前方にはバヤン山脈の、黒い岩肌に浮かぶ残雪の白が,かすかに浮かんで見え、背後にはエストンの濃い緑が横たわる。大いなる山々を伴いながら,リヴァースは,風に溶け込んでいく錯覚に捕らわれた。
この花はおまえのために,色づき,装いを凝らしている
なのに,口うるさい神のいうことになど,耳を傾けるものではない
摘め,早う,摘め。人は限りなく道を通り過ぎていくよ。
言葉は,照りつける太陽以上に,おれも人も,ただ疲れさせてくれる...
自由人の街道。
風乙女の睦みにそって,わずかな低い声が流れてきた。
聞いたことのある唄だった。
酒樽といくつかの品々を馬車に満載した商人が,馬に鞭を当てながら,歌っていたのだった。樽は,遠くラムリアースやファンドリアから運ばれる,エールやワインのようだ。道中揺られることによって,味や風味は,風の精霊のいたずらを受けて,少々変わってしまう。しかし,異国の雰囲気を手軽に味わえる酒は人気が高い。大陸最大の人口を誇る賢者の都には,地元の者たちのほかに各地の出身者が集う。故郷の味を求める人間たちによって,それらの地方の酒は多く消費されるのだ。一月の後,もしかしたら,これらの酒樽は,あの酒場に集う連中の喉を潤しているのかもしれない。
その唄は,100年ほど前の詩人,エリサリクのものだった。彫刻家,画家でも大成した異才で,作品のいずれにも,人生と酒と女を扱い,享楽的ながら,生きることに対する,悲嘆,懐疑,苦悶,そして憧憬が,込められていた。リヴァースは,芸術品に興味は無かったが,過去も未来も恐れないような,刹那的なその詩が好きであり,誰も耳を傾けぬようなうらびた酒場で,その詩人の唄を,ライアの練習がてらによく口ずさんでいた。
商売のためか,その商人は芸術にも造詣があるらしく,仕切られた奥には,西側の珍しい楽器や絵画が積んであった。演奏もできないのに楽器収集癖のある酒場の親父がいる,そこへいけば良い値で売れるかもしれない,と伝えた。
その商人から聞いたところによると,数刻ほど奥まったところに村があり,そこには小さいながらも宿があるという。
そろそろ,服も汗と埃を吸い汚れたので洗いたい。旅用の水分の無いぱさぱさした糧食にも飽き,みずみずしい果物が恋しくなった頃だった。冷たい水で足を洗うと,さぞ気持ちがいいだろう。街道沿いの旅籠ではなく,少々の手間をかけても,そちらのほうに赴いてみることにした。
その村は,乾燥した土地でも育つ,でんぷんの多い芋の栽培と,羊の牧畜を,主要な産業としていた。特筆するようなことはなく,平坦な大地に牧歌的な風景を広げていた。
商人は,4,5年前には,ひどい干ばつの上砂嵐が舞い込み,作物がほぼ全滅した大飢饉に見舞われたといっていた。しかし,今年は,昨年同様,精霊の向きがよく,まとまった量の雨も期待できるとのことで,皆の顔も明るい様子である。
宿はすぐにわかった。というか,まともな公共の建物は,幸運神の祭壇が申し訳程度にあるほかは,それしかなかった。あとは,砂をかぶった黄土色の煉瓦造りの家が,まばらに建っている程度だった。村にしても規模が小さく,そんなところに宿があること自体が不思議だった。旅人が珍しいのか。意味ありげな村人の視線が,気に掛かった。
日が暮れるとにわかに雲が立ち込めてきた。一雨あるかもしれない。乾燥しているので気温がにわかに下がる。湿気のあるオランの夏とは,違う。
宿は,老夫婦が経営していた。それのみを生業にしているわけではなく,家を出ていった息子夫婦の部屋が空いているのを,旅行者に開放しているものらしかった。
宿の手続きをしていると,やや背の低い男女の二人連れが入ってきた。男のマントから,茶色のリスが顔を覗かせては,ひょこ,と懐に戻っていく。頭からかぶっていた砂防のマントを取った二人には,見覚えがあった。二人とも,こちらを見て驚いている様子である。
「...そこの目つきの悪いの。」
リヴァースは呟く。
「おまえに言われたくねぇよ!」
速攻,男のほうから反応が返ってきた。
リックとリュインだった。街道で,同じく商人から話を聞いて,ここにやってきたらしい。
「新婚旅行か?」
お約束だなと思いながら,とりあえず突っ込んでおく。
「ただの旅だ。」
ぎッ,と眉間に皺を浮かべてリックが即答する。そのいいようと,同時に「そんなんじゃないよ」と頬を赤くそめて目をそらしたリュインを見ると,本質的にはまんざら外れてるわけでもなさそうだった。
「あ,そ。」
いかにも,納得した風に返しておいた。
旅人が久しぶりに訪れて,しかも知り合い同士の鉢合わせなんて。チャザの縁かね。家の中が明るくなってよいの,と灰色の髪の,砂で痛んだ肌の老婦人は,目を細めて喜んでいた。
この宿のならわしなのか,旅人への夕食は,彼らの手で用意されるという。特に断る理由は無いし,地方ゆえか値段も適当なので,頼むことにした。老夫婦は,献立について,裏の野菜を取ってこようとか,どこそこの鳥を潰そうとか,楽しげに語り始めた。
「なぁんにもないところですが,楽しんでいってくださいな・・・」
そういって,老人はにぃたりと笑った。そして,旅人たちに,環で3つ束ねられた鍵を渡した。
一つは銅の鍵。一つは鉄の鍵。そして,もう一つは,古びた金の鍵だった。
銅のものは,それぞれの部屋の鍵。リヴァースにはこれ一つだけが手渡される。あとの鉄のものは,台所兼荷物置き場の鍵ということだった。
「金の鍵はなんなの?」
リュインが尋ねる。
それは,あなたがたの使う鍵ではない。3つ環になっていてはずせないから,一緒に渡しているだけだ。気にしなくてもよい。そう,老人は答えた。
そういわれると何の鍵だか,よけいに気になるよね,とリュインはリックに耳打ちした。
「もし,その鍵の合う部屋を見つけても,決して中を覗いてはならんぞ・・・」
リュインの言を聞きとがめたのか,老婆はそう付け加えた。
ずいぶんと意味ありげだと,リックは眉をひそめた。
荷物を持ち,いちいち鍵をあけて部屋を案内する。
老夫婦の,客人への喜びようは,異様なほどであった。リュインをねめつけるように,視線を注いでは,若いお嬢さんが訪れたのは数年ぶりだよ,今夜の食事は豪勢にしなきゃね,とはしゃいだ。リックは怪訝な表情で,警戒を怠らないほうがよさそうだ,と気を引き締めた。
古いが,ベッドは清潔で,部屋もよく手入れされていた。子供が笑っている絵が掛かっていて,安らげそうだった。部屋だけを見れば。
久しぶりにベッドでくつろげそうだと,リュインは,白いシーツの上に手足を伸ばして横になる。青みかかった髪が散らばる。鍵の束をつまんで,興味深々に覗いていた。
「金色の鍵,どこのだろうね。気にならない?」
そうリックに尋ねたが,彼はそっけなく,気にすんな,と返すだけだった。
リュインは不満そうに頬を膨らませ,跳ね上がった。鍵の束をもって,立ち上がった。
「僕,散歩してくるね。」
「おい!」
リックはとめようと,リュインの肩に手をかける。
大丈夫だよ,なにかあっても,僕は自分の身ぐらいは自分で守れるんだから。リュインは不満げにそう返し,彼の手を振り払って出て行った。
自分の過保護さが,リュインに信頼のなさと受け取られ,諍いの元となってしまったことが思い起こされた。リックは追うのをやめた。
なにかこの家はおかしい。鼻がむずむずする感覚が,リックは気に入らなかった。リュインは金の鍵の当てはまる部屋を探しに出かけたのだろう。あれこれ考えて,彼女を追って探しにいくと,また,ややこしくなる。
ふと,隣の部屋のリヴァースはどう感じているのだろうと思ったが,彼にわざわざ尋ねるのは何か気が食わなかったし,部屋を訪れること自体に気が向かなかった。あの半妖精にも,関わらないで居られるならそれに越したことはないという直感めいたものを感じていた。
桶に汲んだ水で,リヴァースは,白い砂にまみれてなお黒い髪を漱ぎ,手足の埃を落とす。水の精霊たちも,砂で漉された澄んだ水に居てか,機嫌がよさそうだ。チャザ神殿の蒸気風呂とまでは行かないが,これだけでも相当さっぱりする。この気候では衣服を洗っても一晩で乾くだろうが,洗濯はやめておく。ベッドに寝転がって,石造りの屋根を見上げた。
あからさまに怪しい宿であるが,落ち着けるところは開き直って落ち着く。相手から何か仕掛けてこなければ,快適なのだ。幽霊屋敷の話は,詩人の唄にもいくつかレパートリーがある。ゴブリンがでるか,グールに食われるか。ひとまずは,出方を待つことにしていた。
リックはどうにも落ち着かなかった。不安がざわざわと,胸の底を蠢いていた。リュインに強引についていけばよかったと,幾度も歯をかみ締めた。
日もとっぷり暮れ,今宵の餌を求めた腹の虫の騒ぎが抑えきれなくなった頃。
ようやく,老人が,夕食の準備が整ったと呼びにきた。その頃になっても,彼女は戻ってこなかった。老人は,外に散歩にでもいき,村人たちに呼び止められて,旅の話を乞われでもしているのだろう,なにぶん,娯楽の無い村だから,といい,にたりと笑った。
台所に古びたテーブルが置かれ,骨の見えた肉料理を中心とした皿が,所狭しと並べられていた。
ランプに浮かび上がった老夫婦の顔は,やけに現実離れして見えた。
「いや,時間が掛かって申し訳ない。引き締まった,しなやかな,よい肉が手に入りましてねぇ・・・。少々解体に,手間取っておったんですよ。絞めたときまで,元気に声を上げてましたよ。おかげで,ひさびさに,良い料理ができましたわい・・・・」
いちいち説明してくれる。
リュインはまだ来なかったが,婆さんを呼びにやったので,食べているうちに戻ってくるだろう,とのことだった。
食器は使わず,青菜に肉を巻いて食べるのが,この地方の食べ方であるらしかった。それを説明し,老人は自ら,毒見をするというように,肉を殺ぎ落として青菜で包んでは,くちゃくちゃと食べて見せた。その視線がやけに,ねちっこく感じられた。
「悪い。見てのとおり,混ざり物なんでね。菜食主義なんだ。その分,そっちの兄さんが,平らげてくれるよ。」
しれっと,リヴァースが言った。
「それは残念。しかしお若い方は,いくら食べても満腹を覚えぬものでしょう。お好きなだけ,召し上がってください。」
老人が慇懃に微笑む。
このやろう・・と,恨みがましい目で,リックはリヴァースを睨んだ。
その視線を他所に,リヴァースはスープをすする。
あまりに老人がせかすので,断りきれず,言われるとおりに食べてみる。独特の匂いのある肉が,青野菜の清々しい香りと調和して,すばらしい味だった。弾力のある歯ごたえと,さくさくした野菜の感触がまたうまく合わさって,食べ応えがある。
一流のコックによる洗練された味ではないが,毎日でも食べても飽きないような,家庭料理のまろやかさが感じられた。
いったん踏み切ると,若い彼の食欲はいやがおうにも増す。
とたんに,この料理を食さない目の前の半妖精が,哀れに思えてきた。
食の進み始めた青年をほほえましげに見やって,老人は,ごゆっくり,とその場を後にした。
食事をしながら,意外に,リックとリヴァースの話は進んだ。といっても,ほとんど,リヴァースが聞き手にまわっている。世間話をしているつもりが,いつのまにか自分自身の話になっている。当り障りの無い話をしてるつもりなのに,それを種に深くまで分析される。故郷を出たときの話や,リュインと知り合ったときのこと,そのときの心の動きなど。それをごまかせばよいのだが,図星をつかれると,ついつまってしまい,真実を認める形になるのが,リックの若さといえた。
ある程度食が進むが,未だ,リュインは戻ってこない。
流石に心配になり,夕食の席を後にして,探しにいこうとした。
ふと,流し台の下部に,青い布の切れ端が見えた。その色が,彼の相棒の像を脳裏に浮かび上がらせる。リュインのスカートが,ちょうど同じ色だった...。
テーブルの上の,シチューを眺めた。熱を加えられ茶色く変色した塊・・・。
やわらかそうなお嬢さんだねぇ・・・
老婆の声が頭の中にこだまする。制止を振り切って出て行ったリュインの姿が明滅する。
まさかまさかまさかマサカマサカ!!!
この肉――!!!??
頭の中が真っ白になり,すべての思考が吹き飛んだ。
猛烈な吐き気。すっぱいものが喉元をこみ上げる。
がたん,とリックは物音を立てて立ち上がり,流し台に駆け込んだ。そして,これまでに胃の中に収めていたものを,すべて逆流させた。
怪訝な顔をして,リヴァースが覗き込む。
嗚咽しながら,リックは,リュインの服の切れ端を,震える指で,差した。
リヴァースがそれを取ろうとすると,流し台の下側が,ガタンと音を立てて開いた。ダストシュートのように,地下のほうへ続いている。中からは,据えた匂いが漂ってきていた。小柄な人間や子供ならそのままでも入れそうだが,彼らの体格では,中に入り込むのは無理そうだった。
「くそっ!くそっ!! あ,あんの・・・っっ!!なっ・・・なんっっんあああぁぁああああああ!!!」
胃の中のものをすべて吐き出した後,怒りで目の前が真っ赤になり,腕が痙攣した。
「殺してやる!!ぶっっ殺してやるっっ!!」
そう叫んで,部屋から飛び出そうとするリックを。
背後から,後頭部めがけて,リヴァースは蹴り入れた。
つんのめって,机の角に当たり,その上の皿を犠牲にしながら,リックは床を転がる。
「悪い。神官じゃないんで,やさしく理性をとり戻してやる,なんて器用なことはできないんだ。」
怒りの矛先を交わしながら,リヴァースは淡々と言う。その様が,かえってリックの激情を冷ました。
「まだ,リュインが殺されたと決まったわけじゃない...。老人を捉えてからにしよう。」
そういって,彼は踵を返した。リックは転がった皿を踏み砕いて後,それについて部屋を出た。
先ほどの台所の流し台の下側は,ずいぶんと深く掘られていた。地下室になっていることが想定された。
「こっちのほう,あるとしたら,この辺だ・・・。」
宿のすべての部屋を回り,見取り図を書きながら,リックが,倉庫の奥を注視する。
いったん冷静になった彼は,盗賊としての見識を確実に取り戻していた。感情をすべて封じ込め,たった一つの目的のためにすべての力を注ぎ込むような,確実さと危うさを,同時に秘めていた。
あまりに苛烈な感情を励起させると,心の入れ物自体がそれに耐えられなくなり,かえって感情を押さえ込むような働きが,人間にはある。ガラス細工を見るような眼で,リヴァースはリックを眺めた。
「あった。」
倉庫の棚の下の床に隠された石版を,盗賊の目は逃さなかった。注意して見ていれば,ランプの薄暗い光でも,一部分だけ積もった埃が薄くなっているのがわかる。
石版をはずすと,地下への狭い階段が現れた。階段というよりは梯子で,一人がようやく降りられる程度である。
リヴァースが先に,そこを下っていった。
小さい宿の地下である。内部は単純なものだった。廊下に沿って,二つの部屋がある。一つは,扉も無く,鍵もかけられてはいなかった。古い居住跡らしく,埃の積もったベッドや,食器の入った棚,テーブルなどがあった。近年になって使われた形跡は無かった。
「妙な感じがする。」
しかし,そんなことを,リヴァースは言い出した。
「妙って・・・?」
「落ち着かない。精霊が騒いでいる気がする。」
自然の中の意思ある力を見通せる,自分たちには無い視界を持つ彼の言うことがいっそう,リックの警戒心を煽り立てた。
そして,もう一つの奥側の扉の前に立つ。金色の蝶番がはめられ,鍵のほうも黄金であつらえられていた。 宿の老人から手渡された,金の鍵がここに当てはまるだろうことは,容易に推測できた。
禁断の扉。
その鍵はリュインが持っている。
「開けられそうか?」
リックは黙ってうなずく。遺跡によく仕掛けられている,毒針や覗き穴の罠はなさそうだったが,鍵自体の構造は複雑だった。ランプを上から照らし,細密な鍵手の構造を把握する。先の曲がった針金でひっかかりを抑え,もう一本でうまくカムを引き上げ,外そうとする。なんど引っ掛けようとしても,うまくはまらない。手に汗がにじみ,器具が滑る。リュインを部屋から一人で行かせてしまったときの後悔が,蘇る。
「余計なことを考えるな。プロならおまえはおまえの仕事をしろ。」
背後から低い声が掛かる。
余計な事いってんのはてめぇだ。そう,心の中で毒づく。
集中力。
カチャリ,と,奥側の鍵手が外れたのが聞こえた。
糸一本も逸れると達成できないその作業を,やり遂げた。息をつく。
「開けるぜ。」
道具をしまいこみ,リックは扉を押した。蝶番は音も立てず,扉はすんなりと,奥にその道をあける。
金の鍵。決して開けてはいけないよ・・・・
老婆のしわがれた声が,脳裏に蘇る。
扉の奥から、カツカツ、とも、ごつごつ、ともつかない音が聞こえてきた。その不気味さが、さらに扉を押す手を躊躇わせた。
「うっ!!」
覚悟はしていたが。中にあったのはその想像を上回った。
リヴァースの身体が硬直する。
闇の中に浮かんでいたのは。
おびただしい数の,骸骨。骸骨。骸骨。
髑髏が積み上げられ,天井からは,無数の体骨が,ぶら下がっている。衣服はぼろぼろになって剥がれ落ちていた。
手前には,ランプの光を受け,臓物らしいものがぬらぬらと光っていた。
命の精霊の灯火のもはや感じられぬ,塊。
虚ろな眼窩がただ,虚空をにらんでいる。
リックは思わず,一度開けた扉を閉じた。冷や汗が吹き出る。荒くなった呼吸を整える。
振り返ると,背後のリヴァースの様子が異様だった。
蒼白な顔で,全身を震わせている。
「おい!?」
呼びかけるが,応答は無い。魂をどこかに置き忘れてきたかのように,普段はきつい光を湛えている黒曜の瞳の焦点が,定まっていない。
体中から冷たい汗が噴出し,全身を裏返されて鋼で打たれているように,心臓の音が鳴り響く。
胃の中からせり上がってくるものを,かろうじて口の中で堪える。
わんわんと,頭の中で何かがこだましている。
リヴァースは,甲高い悲鳴をあげ,頭を抑えてうずくまった。
扉の中に悪霊でもいて,取り付かれたのか!?
どうなっちまってるんだ,この宿は!!
恐慌にきたされようとする恐怖心を必死に押さえつけ,リックは剣を抜いてリヴァースに身構えた。
もう一度扉を開けようかどうか迷ったが,まずはリヴァースをどうにかすることが先決に思われた。
亡霊に憑依されたのなら,引きずり出しても,正気に戻してやる。
リックはリヴァースの肩をつかみ,がくがくと揺すった。リヴァースはそれを跳ね除けようとする。おびえる子供のような反応だった。うつろな目。現在を見ていない。記憶の断片が堰を切って押し寄せては,明滅し,荒れ狂っている。
「おいってば!!」
リックはリヴァースの両の頬を,渾身,張った。
壁に打ち付けられ,しばらくリヴァースはうつむく。
警戒し,リックは様子を見る。
しばらくして,そのリヴァースの唇から,低い声が流れはじめた。
商人の話。
干ばつで,収穫の無かった上に,砂嵐で畑が打撃を受け,飢えの極まった時期。羊たちも食む草無く,身を土に横たえる。それまで大地に緑をもたらしていた滋養ある芋は,こげ茶色の枯れた姿を晒すだけ。
老人や子供など,体力の無い者たちから,餓死していった。残った人々が生き延びるには。
――死者の肉を喰うのみ。
兎よりも鹿,鶏よりも牛。肉食動物にとって,最も美味に感じられるのは,己の種族に近い肉であるという。しかし,同族喰いは,おそらくは神が授けた倫理の一つ,不自然さ,というものに対する抵抗が本能的に染み付いているので,基本的に行われはしない。
ただ,飢饉のときにその味を知った彼らは,飢餓が通り過ぎてもその味を忘れられず,道行く旅人を誘い入れ,その肉を...。
そして,また,共犯者としてその肉を味あわせ,仲間を増やしている...
「...あくまで,想像なんだが。」
そういってリヴァースは,ゆらりと立ち上がった。
憑依した亡霊が語っているのかと思った。しかしその声は,紛れも無くリヴァース自身のものであった。
大丈夫なのかよ,とリックは手を伸ばすが,目の光は戻っていて,いつもの彼と同じ状態であるようだった。
そうして,鍵の外れた扉をもう一度,押し開けた。
今度は,不覚を取らぬとばかりに,真実を見極めようと,目を開く。
「...これは。」
リヴァースは床に転がっていた骸骨の一つを拾い上げ,いぶかしげに眺める。
「...木だ。」
髑髏の眼窩に指を差し入れて,くるくると回転させながら,そう言った。
「はぁ?」
思わず,間抜けな声を出す。
よく見ると,臓物とおもわれていたものは,ソーセージと干し肉の塊だった。
そのとき,リックの背後に,骸骨がもたれかかった。
「ばあ!!」
「うわああぁあ!!」
思わず,飛び上がり,剣を抜こうと構える。
「わ,タンマ! 僕だよ,僕!」
骸骨がもろ手を上げる。その背後の闇に,小柄な少女の姿が浮かび上がった。
「リュイン!?おまえ,肉になっちまったんじゃなかったのかよ!?」
今日は驚きっぱなしだ。そう思いながら,再び間の抜けた声をリックは出した。
肉ってなんだよ,と唇を立てながら,リュインは説明した。宿の中を探索し,金の鍵が当てはまる扉を見つけてリックに報告しようとしていたこと。そして,台所で地下室へのシュートをみつけ,その周囲に黄金の鍵にあてはまる鍵穴がないか探していたところ,その中に落ちてしまったこと。
「閉じ込められてどうしようかと思っちゃったよ。この部屋,内側からは鍵穴が無くって開かないし。でも,きっと来てくれるって,信じてたよ。」
そう,あっけらかんとリュインはリックに言った。
そうやって過保護にされるのをいやがってたんじゃないのか。
女心ってやつはよくわからん。そう心の中でため息をつきながら,リックは安堵して,リュインの頭を撫でた。
その二人を他所に,リヴァースは,ぶら下がった骸骨や,散らばった骨を一つ一つ見ていった。それらはすべて,木彫であり,亡霊のように浮かんでいたのは,ただの人物像だった。衣服は骸骨にそれぞれ掛けられていたものらしかった。
いったい誰が,何の目的でそんなものを作ったのだろうと,首をひねった。
ふと,奥に掛かっていた絵画のポーズと衣服が,椅子に掛けられていた,ドレープをまとった骸骨に肉付けをされたらそのままだ,ということに気がついた。
絵画のサインは,Erisaricと記されていた。
「おやおや・・・。そこをみつけなすったのかい。」
そのとき,背後で老人の声がした。
「さぞびっくりなすっただろうに。だから,くれぐれも入らんように,と注意したのに,若い者はまったく・・・。」
くっ,くっ,と声を立てて,さもおかしそうに,老人と老婆が笑いあっていた。
どういうことだと詰め寄る旅人たちに,老人たちは説明をはじめた。
そこは,彫刻家であり,画家である,芸術家,エリサリクのアトリエだった。
乾燥した気候が,木彫や絵画の保存にちょうど良く,涼しい地下に仕事場を作ったのだった。
エリサリクは天才の誉れの高い芸術家だった。ただ,気性が難しく,一つの作品に,独特な方法で異様な手間を掛けると有名だった。そうしたことが許されるのは,元貴族の次男という財力があったからでもあった。
彼は,人間と生というテーマで,絵画,彫刻,詩のあらゆるものに挑戦をした。死体を解剖したり,内臓をスケッチしたりと,一歩間違えば犯罪者まがいのことまでしでかし,周囲の者には煙たがられていた。
彼は,すべての人体の基本は骨格からと,老若男女あらゆる骨を作り上げて組み立て,絵画にせよ彫刻にせよ,そこから肉付けを行っていった。アトリエに散らばった夥しい数の骨は,そのためのものだった。かれは自分が神になり人間を作る気持ちで,作品をつくりあげていると,言及していた。
しかし,世間が彼の才能と作品を認めるにつれて,彼はその世間自体を倦むようになった。その現実味と質感のある彼の筆に描かれ,自らの姿を後世まで留めおこうと,王侯貴族やその夫人が,こぞって彼に注文をした。そういう名声に惹かれる者たちにかぎって,彼に,虚構の像を押し付ける。やれ,肌の色が悪いの,やれ,鼻をもっと高くしろだのと押し付けた。彼らにとって,現物をありのまま映すという評判の芸術家に頼むからこそ,美しく仕立て上げて欲しかったのである。そしてそういう人間から,彼が感じとれるのは,虚飾と醜悪さのみだった。
彼が望んだのは,人間をありのまま描き,その本質を再現することだった。貴族たちの傲慢な要望は,彼を辟易させるのみだった。やがて彼は,隠者として,地下に引きこもり,自分の思うままの作品のみを創作することとなった。
彼は,俗世間から隔絶されたこの地下のアトリエを,こよなく愛した。世間から消えたとみなされた彼の生み出すものについて,時間的にも作品の出来に関しても,文句をいう者はいない。ここでは彼を評するものは居ない。伸びやかに,健やかに,彼は自分の思うままの表現を行うことを許された。
老婆は,彼の孫に当たる者だった。
彼女は,彼の死後,作品を整理し,彼の用いた,気味の悪いモデルたちを,処分しようとした。しかし,彼の死後,この部屋に住み着いた精霊が,それを邪魔したのである。最初,彼女の祖父が実は生きていて,いたずらをしているのかと思った。祖父は,孫に対して,少年のような茶目っ気をもっていた。
そのうち,祖父の愛したこの場を守ることが,自分の役割なんだと思うようになった。彼女は,祖父の不気味な遺品には一切触れず, この部屋を黄金の鍵で閉ざした。
決して誰にもここを見せないように。そう思っていたが,隠せば隠すほど,この部屋を見ようとする者は増える。ならば,見せてやろう。宝捜しのように。それが,いたずら好きの祖父の本意に適うように思われた。
「特に冒険者の方々は,間違いなくここを発見してくださって,驚いてくださいますわい。」
そう,老人はかわって,矍鑠(かくしゃく)として,笑った。
隣の農夫がやってきて,老人たちに金を払っていた。今回のは,とっぽそうだから,わからんかと思ったんだかなぁ,などといって,笑っている。どうやら,彼らがこの秘密のアトリエを見つけるかどうかで,賭けをしていたらしい。ろくに旅人も通りかからぬこの村では,こういった些細なことも娯楽にされてしまうのだった。
なんて人騒がせな村なんだ...。
つまり自分たちは,まんまと,老人と村人どもの暇つぶしに,玩(もてあそ)ばれたわけで...。
果てしない倦怠感が襲ってきて,リヴァースはため息をついた。
この食糧は?
積み上げられたソーセージや干し肉を指して,リックは老人に尋ねた。
これが不思議でね。いつのまにか誰かが台所から持ってきて,ここに積み上げているんだよ。おかげで,物が無くなるといつもここに来ざるをえなくなるのじゃよ。
そう。老婆は答えた。
ブラウニーが,彫刻家の帰りを待ちわびて,あるいは寂しがって,食料置き場から肉を持ってきて,人を誘おうとしていることなのかなと,リヴァースは思った。
ただ,そのブラウニーが老夫婦の家への思いにより生み出されたにしては,その行動は不可解だった。
ふと,リヴァースは昔を思い出した。育てていた薬草園でイタチが死んでいた。いくら追い払っても,薬草の根をかじり,だめにしてしまうので,疎んじて,いつも早く居なくなってしまえばいいのに,と思っていたものだった。しかし,死んで冷たくなった姿を見ると,無性に哀しくなった。機敏な動きや,くるくるした瞳や,温かな毛皮はどうなるのだろうと思った。
そのときに,父親同然だったエルフに,生物の持っていたあたたかさや息吹は,死後,精霊になると,教えられた。
もしかしたらあのブラウニーは,エリサリクの,アトリエや作品への愛着の心が変化して,あの空間に住み着いたものかもしれない。そうして,ブラウニーは,彼の死後もなお,旅人の目を楽しませようと,せっせと働いている。
あの精霊は狂っていたのだろうか、いや。
旅人を驚かせて楽しんでいるんだよ...
創作の手伝いをしていたブラウニー。
あのアトリエ自体が,夏の夜を彩ろうとした,ブラウニーの作品なのだ...。
そう思うことにした。
ぐうぅ,と。
そのとき,リックの腹が鳴った。
食べたものを全て吐き出していたのである。胃の中は空であり,若い肉体は,次の栄養補給を要求していた。
「早く行こうよ。僕も,もうおなかぺこぺこだよ。」
リュインはリックの手を引いて,笑った。
まだ,料理はありますよ。いつでもあたためてさしあげましょう。そう,伝説の芸術家の血を引く,これまた伝説級のエレミア家庭料理の腕を持つ老婆は,笑った。
「この地方でしか取れぬエレミア砂トカゲを食せずに去るのは、許されんぞ。」
それを聞いて、リックは、あの肉はもしや・・・とげっそりした。
それにしても,趣味の悪い家霊だ。
ブラウニーは主人の心を表すというが。
考えてみれば,エリサリクの作品は,どこか滑稽で,自分も他人も揶揄しているものが多い。圧制で有名な領主の像を作れと命じられたとき,胴体の一部,腹の部分だけ真っ黒な黒檀の木を用いたことは,有名だ。
一緒に笑い飛ばしていれば楽しいのだが,からかわれる当事者の身になると,たまったものではない。自分たちは,死後もなお,エリサリクの作品のネタにされたのではないかという気になった。 自分たちはまんまと,故人の思惑にひっかかったわけだ。
次から,エリサリクの詩を口ずさむのは,考えものだと思いながら,偉大なる芸術家に,リヴァースは敬意を現し,ひとり,誰も居なくなったアトリエで,ライアを爪弾いた。鎮魂歌ではなく、ブラウニーのための、子守唄を。
別れ間際,リックは,リヴァースが扉を開けた瞬間に変調をきたしたことについて,おまえでも,怖いものってあるんだなと、ここぞとばかりにからかった。
「...戦でな...」
言葉短かに,リヴァースは答えた。
それで,全てを察してしまった。
そういえば,彼との会話はいつも,はからずしも,リック自身の話にばかり持っていかれている。
「...というと大抵はそれで納得してくれるんだが。」
そのリックの様子を見て,リヴァースは肩をすくめた。
「どうでもいいが,おまえ,尻に敷かれるというよりは,必要以上にやきもきしてて,勝手に自滅するタイプだな。」
何かを返そうとしていたリックに向かって,おもむろに,そう半妖精は言う。
礼やら侘びやら,言おうとしていたリックの口が,それで,への字に閉じられた。
やっぱり嫌な奴だ。そうリヴァースをみてリックは思った。
二人の旅人は,友人たちの待つ東へ。半妖精は,変化を求めて西へ。街道へ戻ろうと,村を後にする。
ここの村の事を自分たちに教えた商人は,もしかして,自分も同じ目にあったのではないか。いや,そうに違いないと,考えた。
振り返ると,宿は,風により舞い上がった砂塵が,光を反射した,ちらちらとした瞬きに包まれていた。それはあたかも,来訪者への礼を述べている,芸術家とブラウニーの趣向のように,感じられた。
さて。
この後,猟奇殺人を行う,乾燥地帯の悲惨な人喰い村の歌が,エレミアの町で流行になった。発端は無愛想な半妖精の吟遊詩人だった。主題は,芸術家の遺志を受け継ぐ家霊についてだったのであるが,そんなことを気にする者は居ない。途中の話の内容の苛烈さに,そこばかりが強調されて流布された。人食い村の伝説が,暑い夏の,砂塵の国の民達に,ささやかな涼がもたらしたというのは,いうまでもない。
それを作った当の本人は,故人の遺業には足元にも及ばぬと,肩をすくめていた。
(終)
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