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<512年 6の月 18の日> (何か……何やってんだろな、俺…) オランの酒場で出会った薬草師の女、ロリエ・ディナンドと共に歩きながら、ラスは心の中で溜め息をついていた。 彼女とは、一晩を共にした仲である。…と言えば、艶っぽい状況が想像される。確かにその事実は否定しないが、ラスの心中はと言えば、はなはだ複雑なものであった。 (言動とか…仕草とか…やっぱ、あの男くせぇんだよな…。だいたい、女とベッドに入るのに武器の確認したのなんて…あまりあることじゃねえぞ) 脳裏に浮かぶのは、真紅の魔術師の異名を持つ男である。レドウィック・アウグスト。その男のことは、さして深く知っているというわけでもない。だが…とりあえず、人となりくらいは把握している。そして、彼の最近の情況も。 グロザムル山脈のほうへ、と言い残してレドが旅立ったのは5の月の末だ。そして、ロリエが酒場に姿を見せたのが6の月半ば。ホープから来た薬草師だと名乗っていた。その2人に容姿としての共通点はない。何と言っても男と女なのだ。強いて言えば、その長い黒髪だけが似ているといえば似ている。だが明らかに別人であるその2人の間に、何故か似通ったものを感じてしまう。どこが…と聞かれれば、返答に詰まってしまうような曖昧な印象でしかないが。 たとえば、隣に座ったときに感じるかすかな緊張感。 たとえば、流し目をされて、背中をつたう冷たい汗。 たとえば、抱きつかれた腕を振りほどきたくなるような居心地の悪さ。 そして、指輪の件もあるよな…と、ラスはロリエの指を見つめた。その細い指には不似合いな少々ごつい感のある指輪がいくつかはまっている。そして、その1つ2つには明らかに見覚えがあった。レドがしていたものである。ルーンが刻まれたその指輪のことを、一応尋ねてはみた。だが、にっこりと微笑んでかわされた。 「まぁ…きっと同じ魔術師が鍛えたものなんでしょうね」 と。その言葉には、反論は見あたらず、反論する気もなく。 …謎はいくつもある。もしも、ロリエ・ディナンドがレドウィック・アウグストであるとするなら…レドがそんな風に、魔法を使ってまで他人のふりをするのは何故なのか、とか。自分の誘いに乗ってベッドを共にしたのは何故なのか、ホープまで一緒にと誘ってきたのは何故なのか。 1つめの疑問には、答えらしきものも浮かばなくはない。ラス自身も巻き込まれた…というか、かなり張本人の1人だった騒ぎの、一番の原因がレドなのだから。オランの街に居づらくなったとしても不思議はない。ただ…何故、よりによって女の姿なのかが気にはかかるが。そして2つめの疑問。ベッドを共に…というのも…ひょっとしたら、単純な好奇心なのかもしれない。魔術師の例に漏れず、レドはかなり好奇心が強い。好奇心…というよりも、学術的な興味だ。常人では体験し得ることのない経験に心惹かれたとしても何の不思議もないほどに。そして…ホープへの誘いとなれば、それは皆目わからない。…行ってみればはっきりするだろう。 (そう思ったのは…単純すぎたかな。好奇心の誘惑ってやつには…魔術師じゃなくても弱いもんだ。ま、急ぎの予定はなかったし、最近の…何て言うか…自分の落ち着きのなさを考えなおすのも悪くねえしな) もちろん、ロリエの中身がレドじゃない可能性もある。普通に考えれば、ロリエ=レドと言うのは、かなり突拍子もない考えなのだから。それに、自分の精神の健康を考えるならば、そんな突拍子もない考えはさっさと誰かに否定してもらいたい。いくら、その可能性を考慮した上で事に及んだとは言え、事後に吐き気と目眩を覚えたのは確かなのだから。 自分のすぐ隣にいる男がそんなことを考えているとは知らず、ロリエもその時同じようなことを考えていた。ロリエ…つまり、ロリエ・ディナンド、23才、女性、職業・薬草師…に扮している、レドである。 (まったく…どうかしてるな、私は…) どうかしてる…そのことは、多分ホープに着いたあの日から始まっていたのだ。ようやく見つけた下宿先の女主人を死体で発見してしまったあの日から。思いつきで解剖してしまった死体。事情を知らぬ村人から見れば、自分が女主人…つまり、ロリエ・ディナンド本人を殺害したあげく、ばらばらにしたと思われてもしかたがない事態だったろう。何故、死体をそのままにして先に村人を呼ばなかったのか…そのことだけが悔やまれる。 とりあえず、その場をしのぐ為に、魔法で姿を変えた。ロリエの姿に。いずれ、時期をみてどうにか事態を収拾するつもりではいるが、今のところ、この生活に不便は感じていない。もともとやろうとしていた、遺跡の研究をするにも都合はいいからだ。 (だが…) そう、だがしかし。誘惑にまけて、オランのいつもの酒場に顔を出したのはやはりまずかっただろうか。悪戯心を出して、いつものワインを頼んでみせたのも…いつものように笑ってみせたのも。…いや、そこまでは問題なかったはずだ。たとえどれだけ、仕草が『レドウィック・アウグスト』に似ていたとしても、今の自分は女性なのだから。盗賊の変装ではなく、魔術による変身なのだから。いくら腕利きの盗賊といえども、決定的な証拠がない限りは、いくらでも言い逃れはできる。現に、そうしてきた。 そこで見かけたのがラスだ。彼の女好きは知っている。化粧っ気もなく、ろくに髪の手入れもされていなかったこの体だが、変身してからは自分なりに手入れをした。妙な趣味があってのことではなく、いくら本来の自分の姿ではないとは言え、怠惰な姿で出歩くのは自尊心に関わるからだ。 そして、からかうだけのつもりで、ラスに愛想をふりまいてみた。案の定、喜んでノッてきた。…が、どこかでためらっているような素振りも見せる。ためらって…と言うよりは、疑っているような。 (なるほど…勘はいいらしい。盗賊としての勘なのか、女好きとしての勘なのかは知らんがな) その疑いぶりとあわてぶりが面白くて、ついつい深入りしてしまった。退くタイミングを誤ったというか…。結果、ラスが開き直ってしまった。それならそれで…と、レドも開き直ってしまった。 学術的興味。尽きるとも知れないそれが、首をもたげてくる。悪癖だと自分自身、承知してはいる。……女性の身体構造に関する純粋な探求心だった。その結果、新たなる発見があったことも否めないが、大きな後悔も抱え込むことになった。ラスのほうでも、自分を疑っていたからには、かなりの後悔があったとは思うが、自分の比ではないだろうとレド=ロリエは思う。 事後に、隣で眠りこけるラスに、何度剣を突き立てようと思ったか。以前、絞めたことのあるその首を、腕に巻いた銀糸で何度絞めようと思ったか。……とりあえずは理性が勝っただけだ。 「この指輪…見覚えがあるような気がすんだけど?」 多少青ざめた…それでも一応は笑顔でラスが尋ねてきた。それも道理だろう。自分が本来の姿の時に、身につけていたものだ。それをラスも覚えているはずだ。…それでも、一晩を共にしたという事実のあとに、そんなことを口には出せない。適当に誤魔化しておいた。 (とりあえずは…助手らしきものが手に入ったからよしとするか。…まさかリッティを連れてくるわけにもいかんからな) そんな風に、最近の経緯を考えるともなしに考えていた2人の視線が、ふと出会う。どちらからともなく微笑みあった。 「……このぶんだと、昼前には村に着きそうじゃないか?」 「……ええ、そうですね。雨に降られずにすんで助かりました」 2人は、ホープの村に到着した。いくつかの茅葺きの屋根。中天に昇った陽がそれを照らしている。オランから3日の距離にあるこのホープの村は、さして大きな村ではない。だがそれでも、まるきりさびれた村と言うわけでもなく。おそらくは食事の準備に追われているだろう、人々の気配があちこちで感じられた。 「あんたの家は? 奥のほうって言ってたっけ?」 「ええ…こちらです」 ロリエの案内のもとに、村の奥へと足を進める。時折、すれ違う村人がロリエに声をかける。 「ディナンド先生、お帰りなさい」 「あとで薬草をいただきに行ってもいいですかねぇ?」 ロリエは、その声に微笑んで会釈を返している。その隣を歩きながら、ラスは居心地の悪さを感じていた。村人の視線である。なるべく意に介さないようにつとめつつ、その視線を分析してみる。 半妖精に対する物珍しさと警戒心。“ディナンド先生”が連れてきたよそ者への好奇心。ごく単純に『誰だろう』という疑問。……そして、恐怖。 (……恐怖? なんでだ? 警戒やら何やらはわかるが…なんで恐怖?) そして、ロリエも同じ視線は感じていた。視線の大半はラスに向けられたものではあるが、ロリエ自身に向けられたものもある。 (妙だな…。ラスに好奇の視線が向けられることはわかるが…なぜ、私にまで? いつもの“ディナンド先生”と何か違うのだろうか…。多少は仕方がないか。なにしろ、生前のロリエを全く知らんのだからな…) 「ここです。狭い家ですが…どうぞ」 小さな看板にはそう書かれている。その看板がかかった木製の扉を、鍵を外してあけつつ、ロリエがラスを招いた。それに応じてラスが足を踏み入れる。…ふ、と。何かが匂った。 (……なんだ? 一瞬…何かの匂いが……嗅ぎ慣れた匂いなんだけど……) そう考えて、ラスはその匂いを判別しようとした。だがそれは、徒労に終わった。あたりに漂ういくつかの薬草の匂いがすぐにそれをかき消していったからだ。 「お茶でもいかがですか? 今、食事の支度はしますけど…」 訝しげな顔をしているラスを誤魔化そうと、ロリエが声をかける。うなずいたラスに微笑んでみせて、茶の用意をしながらふと思い出した。 (しまったな…。奥の部屋には私の…もとの姿の私物がある。もちろん鍵はかけてあるが…魔法の鍵も施したほうが安全だろうな。それに、いくつか始末をつけたいものもある。さて……この茶に眠り薬でも仕込むか? だがしかし…奴とて盗賊の端くれだ。薬の匂いに気が付くだろうか? 気づかれなかったにしろ、自分が不自然に眠り込んだことで、警戒心は強めるだろうな。……ふむ…面倒だな。……いっそ……) と、ロリエが不穏な方向へと考えをめぐらせ始めた頃、ラスも別の方向に考えをめぐらせていた。 (さて…どうすっかな。やっぱさっきの視線は気になるよな。警戒とか好奇心とか…その辺なら慣れてるけどな。多少でかい街でも、半妖精に対する視線なんてのはあんなもんだ。まして、こういう小さな村なら尚更に。…けど、恐怖ってのは? 身に覚えはねえぞ? ……ちっと探ってくっか) そこで、2人の視線が出会う。そして、どちらからともなく微笑みあう。 「ああ…ちょっとそのへん散歩してくっから。お茶はあとでもらうよ」 「そうですか…? ええ、じゃあお食事の準備してますね」 「……助かったな。いいタイミングだ」 私物が置いてある部屋に、厳重に魔法の鍵を施しながらロリエが呟く。自分の正体が推測される可能性のあるものも、まとめてその部屋に放り込んだ。 「そして…さっき奴が気にしてたのは…? ……そうか、血の匂いだな」 ロリエ…今の、ではなくもとのロリエ本人を解剖したのは台所のそばにある土間のような場所だ。そこは玄関からも近い。この半月ほどで、随分と匂いは薄れたと思ったのだが、初めてここを訪れた者にはわかるらしい。 「…しかも、この匂いを血の匂いと判別できる者なら尚更か…」 棚から取り出したラベール草を、手でもみほぐしながら、丹念に振りまく。消臭効果のある薬草だ。精神を落ち着かせる作用もあり、またこのあたりでは容易に採集できることから、大量に乾燥保存されていたことが幸いした。 疑われぬように、食事の支度を始めながら、ふとロリエが呟く。 「さて……あいつは何を探りに行ったやら…」 ロリエの家の前に続く獣道を、村まで引き返しながら、ラスは村人の姿を探していた。先刻、向けられていた視線は自分にだけではない。確かに大半は自分へのものだったが、そのいくつかはロリエにも向けられていた。疑いと怯えの視線が。 (少なくとも、ここに住んでるはずの人間に向ける視線じゃねえよな…) いくつかの家が並ぶ通りに立って、あらためて周囲を見渡す。…が、ちょうど食事時なのか、それとも避けられているのか、村人の姿は見あたらない。とりあえず、突っ立ってるわけにもいかず、適当に歩き続ける。 と、脇道からいきなり声が飛んできた。 「悪魔だ! 先生を食べちゃうつもりだろ!」 「あっち行け〜! 村から出ていけ〜!」 見ると、数人の子供達が、怯えつつ精一杯の声をあげている。 (食べちゃうって…もう遅……って、そうじゃなくて! ……なんだ? なんで悪魔? そこまで言われる筋合いはねえぞ) そこへもう一つの声。 「こらぁっ! おまえたち! くだらんことはやめんかっ!」 老人の声だ。その声に振り向くと、白髪の老人がそこに立っていた。杖を振り上げて、子供達を追い払う。 「…サンキュ、じいさん」 子供達が逃げ出していくのを目で追いながら、ラスが老人に言う。老人がそれを見て微笑む。 「いやいや、子供のしたことじゃ。気にしないでくれるとありがたい。…どうも……時期が悪くてなぁ」 …どうやら、この老人は話が通じそうだ。そう思って、ラスは老人に尋ねた。 「どうやらあのガキどもは、半妖精を見たことねえみたいだけど…じいさんは?」 「ああ、昔何度かな。まぁ…ここの村人でも、見たことのある人間は少ないだろう。さっき村に入ってきた時に、じろじろ見られたろう? 最近は、村人の間で妙な噂が流れてるもんでな。皆、敏感になっとるんじゃ」 「……噂? どんなだよ」 「ああ、少し前に、旅人が来てな。下宿先を探しておったんで、ディナンド先生のところを紹介したんじゃが…その旅人はそれっきり一度も見かけなんだ。そして、ディナンド先生の様子がそれから少し……そう、ほんの少しおかしくてな…。まぁ、たいしたことじゃないとは思うが……」 「…じいさん、その話、詳しく聞かせてくれよ」 ロリエの作る食事ができあがる頃、ラスが戻ってきた。 「ただいま。……お、いい匂い」 「おかえりなさい。何かおもしろいものでもありましたか?」 ロリエがにっこりと尋ねる。食卓に座りながら、ラスが微笑んだ。 「いや…まあ、ただの散歩だしな」 「そうですか。……田舎ですから」 同じく微笑み返しながら、ロリエが食事を出す。 (…嘘をつけ。おおかた、そこらの村人に何やら聞いてまわってたんだろう。確かに先刻の視線は気になるものだったしな。…しかし、こんな小さな村で半妖精が動き回れは相当に目立つと……いや、そうでもないか。もともと、旅人そのものが珍しい村だ。人間だろうと妖精だろうと同じことか。ただ…余計なことをその中途半端に尖った耳に挟んできていなきゃいいんだが…) 出された食事に手をつけながら、ふとラスはロリエを見つめた。 (さっきのじいさんから聞いた話によると…多分、下宿先を探してた旅人ってのはレドだよな。んで、ロリエのところを紹介されて…それから先、姿を見かけない。そしてロリエの様子が以前と違う。…姿形は一緒だが、口調が優しくなったのと、身なりを気にするようになった…。なるほどな。以前のロリエってのは、変人だったらしい。それが普通になったんで、村人が気にしてるってわけか…。赤い悪魔にたぶらかされた…とか何とか…んで、今度は金色の悪魔がやってきた……。…おいおい、ふざけんじゃねえぞ。レドはともかく、この心優しい俺が悪魔だってか) そして、2人の視線がぶつかる。微笑みあう。 「……お食事、お口に合いますか?」 「……ああ、すごくうまいよ」 その夜。案内された部屋で、ベッドに寝転がりながらラスは、最初にこの家に入って来たときに感じた匂いを思い出していた。2度目に戻ってきたときには、すっかり跡形もなく消えていたが、最初はかすかだが確かに感じた。 (あれ…血の匂い……だったような気がするな。……ってことは? 村人に聞いた話と合わせると……) 暗闇のなかに、視線を漂わせながら推測を組み立てていく。 (…やっぱ、ロリエ=レドか? レドがこの家に下宿に来た。だがレド本人はどこにもいない。…と思う。少なくともこの家のなかに他の人間の気配は感じない。そして、レドが来た日…確かなことはわからねえけど、その前後からロリエの様子がいつもと違っている。……そして血の匂い。……レドが何らかの事情でロリエを殺害。そしてそれを誤魔化すためにロリエに化けている。こう考えるのが、一番しっくりくるか。……しかも、やりかねねえよな、あいつなら) たった今思いついたその可能性は、ラスにとって一番納得のいくものだった。その件に関しては、それで納得することにして、もう一つの疑問にとりかかる。 (んで? 俺をここまで連れてきたのは? 俺が疑ったから…その始末? いや、違うな。言い逃れしようと思えばいくらでもできた。何と言っても、証拠がねえんだから。ん〜〜……わかんねえや。とりあえず…寝るか) たいしてきついものでもなかったが、旅をしてきて今日ここについたばかりだ。眠りの精霊はすぐに訪れてきた。 だが、眠り込む前に、武器の点検と扉への仕掛けは忘れない。誰かが侵入して、扉を少しでも動かせば大きな音を立てるようにと。 (まったく…なんで、こんな真似まで……。しょうがねえか。相手はひょっとしたら、アレかもしれねえんだしな) ラスが溜め息をついている頃。ロリエも自室で溜め息をついていた。 (昼間の視線……どうやら、余計なことを耳にしてきたらしいな。さて、どう誤魔化すか。生前のロリエと今の私と…どこが違うのだ? ……そうか、この体の手入れの行き届かなさは…常のものだったのか。どうりで、ひとつだけあった紅もあまり減っていないはずだ。なるほど…気を遣いすぎたか) 扉にはしっかりと魔法で鍵を施してから、着替えてベッドへと潜り込みながら、これから先のことを考えてみる。 (村人を誤魔化すのは簡単そうだな。ラスを…婚約者だとでも言えばいい。そうすれば、恋人が出来て身なりを気にするようになって、人当たりも柔らかくなったと…噂好きの田舎連中なら勝手にでっち上げてくれるはずだ。頬でも染めてみせれば信憑性は高まるというもの。赤い外套を来た旅人は…そうだな、結婚間近の女が別の男を下宿させるわけにもいかんから、下宿は断ったと言えば納得するだろう。そのあと、その旅人がどこに行ったかは自分も知らない、と。……さて、あとは…あの馬鹿をどう誤魔化すか、だな) 考えてはみたものの、結局は、口先でかわし続けるくらいしか手だてもなく。 (いっそ…ひと思いに……。いや、そうすれば、村人への言い訳もまた考えなければならんしな。まぁ…あのウルサイ奴も、使いようによっては使えるだろう。しばらくは助手をしてもらうとしようか) <512年 6の月 23の日> 結局。ラスの忍耐が保ったのは5日間だけだった。さすがに、5日間こき使われ続ければ、自分が単なる助手としてここへ連れてこられたことくらい想像がつく。 「ええと…古代語は読めます? じゃあ、こちらの資料の整理、お願いしていいですか?」 「すみませんが…手が離せないので、薬草の採取をお願いできます? これとこれ…あとはこちらのとあれとあれと……」 「先日、天日に干しておいた薬草がそろそろいい具合だと思いますから…取り込んできてくださらない?」 ラスを使っているのは、優しげな微笑みと丁寧な物腰ではあるが、本質はレドである。情け容赦などあるわけもなく。 レドの殺人の証拠を見つけて、弱味を握ってやろうと、しばらくは耐えたが、証拠は一向に見つからない。しかも、もしその証拠があるとしても、自分が労働している間にレドがその始末をつけてまわってるのは間違いないだろう。どうやら村人の間の噂も収まったようだ。多分、レドが意図した通りの方向に。 ということで、ラスは5日目にこう切り出した。軽い溜め息とともに。 「…すまないが……どうやら、俺は薬草店の店員には向いてないようだ」 向こうに仕事もあるしオランに戻ってもいいか、と尋ねてくるラスにロリエは内心で苦笑を漏らした。 (…くっくっく……なるほどな。諦めたか。まあ、いい。ここ数日こき使ったおかげで、いくつかの雑用はあらかた片づいた。遺跡のことを煮詰めるのはまだ先だし…その時にはこの馬鹿にも役立ってもらうとして…今回は帰してやるか。必要になれば、また連れにいけばいいしな。…どうせ3日の距離だ) 「まあ…残念です。でも…また会いに行きますから。ラスさんもいつでもここに来てくださいね」 2人は、にっこりと微笑みあって別れた。 <512年 6の月 25日> オランに向けて歩きながら、ラスは手の中で小さな箱をもてあそんでいた。昨日の朝、出発間際にロリエに手渡されたものだ。 「ラスさん…これ、大事なものなんですけれど」 そう言って、ロリエはその箱をラスの手にのせた。 「しばらくの間、預かっていただけませんか? 好きに遊んでくださって結構ですから。また…いずれ会いに行きますから、その時に返していただければ」 にっこりと微笑んで、彼女はそう言った。 手のひらに載る程度の…だが、指で覆い隠せるほど小さくはない、黒い箱。ただし、つなぎ目などは一切見あたらない。 「なんだ…こりゃ?」 そこそこの重量感は感じるが、さほど重いわけでもない。少し曇りかけてきた空を見上げつつ、手の中にあるその箱を、指先でさぐってみる。が、やはり切れ目などは見あたらない。 「ってぇか……だいたい、これ…何で出来てんだよ」 石じゃないことだけは確かだ。そして木でもない。 「金属…か? 鉄ではなさそうだけどな」 ぶつぶつと呟きながら、それでも探り続けている。未知のものが気になるのは、魔術師だけではない。盗賊も…いや、冒険者なら全ての者にそれは言えることだろう。そして、まぎれもなくラスもその1人だった。 「……絶対、利用されてるよなぁ…」 同じ頃。いくつかの資料に目を通しながら、ロリエが呟いていた。 「さて…あいつは何かを見つけるかな? まぁ…あれがどう動くのかは、私にもわからんがな…」 遺跡の資料のひとつとして、手元に置いてあった箱だが、資料を調べるのに忙しく、箱の特性を調べるところまでは手が回らなかった。 「今すぐに必要になるわけじゃないことだけは、はっきりしてるしな。…くっくっく……ラスがそれを探ってくれるなら言うことはないんだが…」 助手としてどこまで使えるかな、と勝手なことを囁いて、ロリエは再び資料をめくり始めた。 |
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