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No. 00155
DATE: 2000/08/06 00:05:34
NAME: リゾ、オムルズ、ネルガル
SUBJECT: 死ぬまで闘う定めのいきもの
1
夏の日中。
ロマールの北側、貴族の邸宅が建ち並ぶ町並みは、奇妙に閑散としていた。
その中の一軒の館である。
いちばん東の、二階の窓の一室は、差し込む日光に暖められ、ひどく蒸した。
そのなかで、ぎしぎしと寝台の軋む音が、止み間なく続いていた。音のなかには、荒々しい息づかいと、すすり泣く細い声が混じっている。
がちゃりと扉が開く音。
長身、黒服の金髪の男は、入ってきた扉をうしろ手に閉めると、両手をズボンの隠しに突っ込んで背筋を伸ばし、いたって無表情にその光景を眺めた。
「無粋な奴じゃナ」
低い笑いを漏らしながら、汗ばむ、しみだらけの肉体は言った。その下に敷かれ、白く脆弱そうな、うつぶせに伏した身体がある。
裸の老人の名は、ネルガルといった。
言葉に反して、全く動じた様子はない。彼は、注がれる視線をかえって楽しむように、寝台の上で大蛇のように少年の身体に巻き付いていた。彼は、この倒錯の趣味を満足させることを、毎日の日課のようにしている。
「あとに出来ないですかね?」
首を傾げて男が言った。
「ムリじゃ。かまわぬから、用件をいえ」
金髪の男は少し目を細めた。この老人は、十年前から全く変わらない、と思う。放胆な気性は出会った時から同じだった。そのカラダも、これ以上、歳経らぬかのように、活力を失わずにいる。
(まるでガキの身体から精気を吸っているって感じだ)
「実ぁ、すこし面倒な事になっちまってる。ケベスの奴、金の代わりに、人数集めて来やがってよ」
オホ、とネルガルは目元に皺をつくった。
「おるもんじゃな、まだそういう輩が……。むろんそんな場合、答えはひとつだ、リゾ。その程度のこと、儂の判断を求めに来ずともよい」
「いちおう、ですぜ」
金髪の男、リゾは、すこし憮然として言った。
「くわっ、かっか。そうだな。ひとつ指示を与えるとするか」
ネルガルはそういうと、肉体の絡みをほどき、のそのそと寝台から這い出て沓を履いた。
そして、部屋の戸棚の前に立ち、なかに納められた一振りの刀剣を取り出す。刃はよく研がれており、窓から差し込む黄昏の陽が、刀身をにぶく光らせた。
「徹底的にやるのだ。後始末は気にしなくてよい」
言って、ネルガルは頬げたをゆるませてみせる。リゾは手を伸ばして刀を受け取った。
「広刃の剣が、お前の手もちだったな。あの時期に体得した業は、身体が一生忘れまいなぁ。久々に、剣闘士、”悪童”リゾの腕前を見せてもらおう」
リゾは、剣を持つ手首を返して刃の具合を確かめる。そうしながら、かるく肩をすくませた。
「ヘッ、そんな時代もあったっけね」
そう、ちょうど七年前、ひと夏の間で俺は時代をきずいた……。
2
──504年、六の月、ロマール──
その日は酷暑であった。太陽が中天に燃え、照りつく日差しが、あちこちに貼られたテントの柱の影を黒くしている。
闇市は変わらない活気に満ちていた。行き交う人々は、この暑さにむっとして匂う人いきれに辟易しながらも、道の脇の店々に目を配りながら、気を急いて歩を進めていく。
辺りでは、人々の話声、客引きの声、値段を交渉する声が絶えず飛び交い続ける。
そのなかで、市場のはずれの広場は、一際さわがしく喧噪に満ちていた。集まってくる野次馬の群衆が列を作りながら、押し合いへし合い、ざわめきながら一歩でも前に出ようと身を乗り出す。──彼らの視線の先の、広場の中心では、歓声と怒号、木剣のぶつかり合う剣戟の音が、はばかりなく辺りに響いていた。
八本の粗末な木の柱の間に、大きく間隔をあけてロープが結わえ付けられ、空間が作られていた。衆人環視の中、十人以上からなる人間が、そのなかで入り乱れ、闘っているのである。 息づかいは獣のように荒く、半裸の身体に、汗が光り、その肩や背中には、焼き印が血を噴きそうに赤く浮き上がっている。
「うらぁっ!」
いま、中央に立っている男が、背後から忍び寄ってきた敵の腹に振り向きざま、木剣を食らわせた。打たれた相手は吐瀉物をまき散らしながら、その場に転がるが、倒したほうの目線はそれを確認することのないまま、次の相手をさがす。
今日、ここで行われているのは、剣闘士養成所に籍をおく者たちについて、その実力をみるため、定期的に催されるコンテストだった。そして、剣闘士奴隷たちの品評会でもある。このなかでよい成績を残せば、報奨金を受け取ることができるが、もっとも期待されることは、招かれた賓客たちの中から買い手がつくことだ。
誰か個人に身請けされることは、高い契約金を貰い、より良い生活待遇を得る事ができることを意味しており、彼らは実践さながらの必死さを見せ闘っていた。養成所からそのまま、闘技場に出る事にくらべ、後援者を得ることができれば、さまざまに便宜を図ってもらい、自らの生き残られる確率さえ変わる事もある。
特別席では、身請け人たちが、闘技者たちの闘い振りを、歓談を交えながら眺めている。
中には、賓客として、名の知れた貴族や商人の姿も見られた。彼らにとって、金に任せてすぐれた剣闘士を発掘しようと試みるのは、止みがたい娯楽のひとつである。
「あの端のはなかなか、いい動きをしてやぁしませんか」
「何の、あのでかいのはさっさと二人も倒している、あれは強いぞ」
「あはは、刃物を持っても強いかはわかりません。料理人以下かもしれませんよ」
「ふむ! あいつは軍隊仕込みだな、太刀筋に品があるわい」
「みてご覧なさい、今日参加している奴らの経歴……おおくが正規の訓練課程を経ていない、いわくつきですよ」
人数が減るにしたがい、容易に決着はつかなくなり、また、起きあがる者もいるので、見物客たちは長い間、その闘いを楽しむことができた。しかし、人数は絞られていき、ついに四人ほどに数を減らした。
「おおっ、るらぁ!!」
生き残った一人──それはリゾだ。短く刈り込んだ金髪。二十代のまだ若々しい柔軟な筋肉のついた身体を日に焦がしている。
彼は歯を剥き、吠えながら、目標に向かって、木剣を振った。
瞬間、渇いた高い音が響き、相手の剣がその一撃を受け止めた事を彼は知った。
「よし、それまで!」
その時に銅鑼の音が響いた。リゾたちが振り向くと、主催者である興行師が、手を打ち鳴らしながら終結を宣した。
「あまり優劣をきめて、御仁たちの間で、『商品』を巡ってのいさかいが起こっても困りますからな。この辺が頃合いでしょう」
その言葉に、そばの賓客たちは苦笑しながら、結果を見届けられなかった不満をのべた。
「いや、そう思し召すならばお客様がた、どうぞ彼らをお買いになって、闘技場で闘わせてみて下さいな」
そう言ってふくやかに微笑むのだった。
3
「よお、てめぇ」
リゾは木剣を肩に乗せて荒い息をつきながら、自分の斬撃を受け止めた相手に声をかけた。汗に濡れた身体にはいくつか痣ができ、左の二の腕が腫れている。
「新入りみたいだが、強えじゃねぇ。なに者だ」
「オムルズ。レイドの人間だった」
肩の腫れを気にしながら、素っ気なく答えた。オムルズは、若く、瑞々しい肉体を持った男だった。だが、きつく結んだ口元、顔の印象の方は、円熟したものが感じられる。
リゾは事情を了解したというように、にやりと唇の端をあげた。
「あァ……いくさ捕虜かい、へっへっへ。まあ道理でな、あの打ち込みを受け止められるとは思わなかった。だが、あれが本気だと思うな、腕を殴られて力が鈍ってたんだよ。……またやりあいてぇもんだな、オイ」
そう言ったリゾの目を、オムルズはじっと見た。彼がそのまなざしに何か不愉快なものを感じたとき、戦場帰りの軍人は一言つぶやいた。
「こういうのならな」
須臾の空白をおいて、口を開きかけた時、すでにオムルズは踵を返していた。
「お呼びがかかったようだ──じゃぁな」
オムルズは、誰か客の目に止まったらしい。右側の賓客席の中央で、数人が彼を呼ばわっていた。戦士は彼らの方に歩いていく。土埃が舞った。
「けッ、くたばり損ないめ、なにかムカついたぜ」
それから、気づいて彼は、群衆のざわめきの収まらぬ周りをぐるりと見渡した。
「オラぁ!!」
両の拳を突き上げて叫び、盛大に自分を顕示した。
彼の身請け人が現れたのは、広場の興奮の残り火も消えかけた頃だった。
リゾは主催者の退出の命を待っていた。地に差した木剣に身体を預け、位置を変える太陽を仰ぎ見ていたが、向こうからのしのしと歩いてくる影に気づくと、視線を移した。
「儂の名は、ネルガル。お前はこの儂が引き取ろう」
銀鼠色の髪をわずかに鬢に残す、大柄の老人で、顔の造作では、鼻が常人に比してかなり大きく長く、目立つ隆起となっている。突き出た額の下に隠れた鋭い目つきは、今は笑っていた。地味だが、値の張りそうな服を着ている。背筋は伸ばされ、全身を覆う、歳に似合わぬ気力が感じられた。
「……あんたの素性は?」
「これでもロマール貴族じゃ。政界から隠退はしたが」
「おう。あんたのお仲間は、見る眼がねぇ奴らばかりだな」
「くわっかか。吹くな、今回お前は、客たちの眼にとまっておらんよ」
老爺はにっと笑って続けた。
「なにせ他のがいい。今回は、商人のやつが、もと捕虜の腕の立つのを、たくさん拾ってきている。奴らの剣業は整ったものだ。お前のような、スラム出身の悪たれ坊主のものとは違い」
「ふん、レイドの負け犬どもなんか買って、ケチがつくとは思わねぇのか」
「お前は問題が多いそうだなぁ。言葉遣いが悪く、乱暴。養成所でも目上の先達相手に、ハデに暴れた事があると聞いたワ」
「ちっ……」
リゾは、年歳のわりにかくしゃくとした風のこの貴族を、仔細に観察しながら、舌を打ちならした。
「かかか。儂は気にせぬ、気性の荒い者のほうが、よい働きをする」
ネルガルは身体をゆすって笑ったが、また今度は、重々しく口を開いた。
「あぁ勘違いはするなよ。儂がお前を選んでやったのは、そのまま単に、お前を使えば儲けられそうだと思うからだ。妙な感傷を期待されても困るワ。単に博打遊びってやつ。ものにならぬと踏めば、直ぐに四匹のライオンと戦わせる……儂は、興行料をもらって、お前とは永遠にご縁切れだ。まぁそんなつまらん結果は避けてもらいたいものだが」
「てめえ……」
リゾの顔色がさっと上気する。
「自分のコトを金を儲けられそうな人間と言われて、怒るなよ。讃辞じゃないか。それに、怒ったとてお前に何ができる? ふふ、食い詰めて、自分を売った者に何ができるのだ。駆け出しの剣闘士の扱いなぞ、ひどいものだぞ、どこでも。それでも耳を垂れず、儂に手を出すというのなら、破滅するつもりでやるのじゃなぁ。すぐに大勢がお前に殺到する」
「…………」
震える拳を握りしめた。スラム街で大小の犯罪を繰り返し、やがて、剣闘士になる以外に、生きる術を失った。貰えるわずかな給金のために、これまで様々な屈辱に耐えてきたのである。この立身の機会で、抑えるしかないと理解した。
「わかりましたぜ、オーナー」
しかしリゾは同時に、この老人の迫力に気圧される自分を感じてもいた。自然と、敬語が口をついたのだ。
「わかったか。くわはは……。それとな、教えといてやる。お前は逸材だ、先ずは、これ」
ネルガルはリゾの左腕をぴしゃりと叩いた。
「持ち手が左なのは、右利きの相手と闘うことになれた闘技場の剣闘士たちにとって、脅威だ。かなりの好材料」
そして順々に、剣闘士の身体の具合を確かめて、老人はいった。
「身体は大柄で、しなやかな筋肉がついている。負けん気の強そうな面相も……あと十歳若ければ、儂は別件でお前を買ったかもしれぬワ、かか……戦い振りが大仰でよろしい、アピールをしたな、あのけれん味の多さもよい、客は喜ぶ。スラムの暴れん坊という出自も、じつは、話題性があるものに仕立てられる」
「傷が痛ぇんだ、あんま、触ンねぇでくれ……だが、そういうものかい」
「ここまで揃って、ようやく財布の紐を開けられるのじゃ。おまえ、他に自己評価できる所はあるか」
「……人間、殺したことぁ、ありますぜ」
4
ネルガルのお抱え剣闘士としての生活は、底辺の剣闘士奴隷のそれとは、明かに一線を画していた。ネルガルが、過去は政界での実績がある、貴族たちの間でも、低くない地歩を占めている男であることを彼はまもなく知った。
ロマール闘技場の地下には、猛獣の監房や合同訓練所のほかに、剣闘士奴隷たちを収容する部屋があり、その数は大きなものが四つ、小さなものが八つで、その他は個室である。リゾは、闘技場の外の宿舎に入れられず、この地下で、ネルガルが以前に抱えていたという剣闘士奴隷が住んでいた個室を、割り振られた。寝台とテーブルがあるばかりの簡素な作りだったが、駆け出しの剣闘士奴隷の待遇としては恵まれていた。先輩剣闘士が、この部屋に帰らずにどうなったのかを、リゾは尋ねなかった。
彼は、薄暗く空気のねばつく、闘技場の地下を所在なさげに歩いていた。天井を越えた上方からは、地響きのような、観客の歓声が伝わってくるのがわかる。耳を澄ませば、剣士たちが干戈を交える音も聞こえてくるかのようだ。個室を与えられようが、気を落ち着けて眠れるまでには時間がかかりそうだった。
獅子、虎、熊、どう猛な野獣の繋がれた監房をのぞいたあと、練習部屋の前で立ち止まった。汗を飛ばし、壁に向かって剣を振る数人の屈強な男たちを詰まらなそうに眺める。
しかし、視線を部屋の隅の腰かけに移したとき、彼は、居すくんだようになった。
そこには、巨岩の如き人影があった。
リゾの背筋が緊張する。身体に命令を発して、身構えた。
縮れた金髪、浅黒い肌。途方もない巨躯の持ち主であり、立ち上がれば、天井に頭頂部がこすれるように思えた。胸板は脂肪と筋肉の層が幾重にも重なり、皮膚はぱんぱんに張りつめている。手足は、この闘技場の階層を支える柱の一本ほどの太さを持ち、血管が太い筋肉繊維に圧迫されて浮き出していた。えらが張りだした顔は巌のようであり、髪と同じ色の瞳は、ハ虫類のそれのように感情の色がなかった。
大男は、宙に視線をさまよわせたまま、何かモグモグと口を動かしていた。手にした壺から何か、うごめき、悪臭を放つものをつかみだして、口に運んでいる。それは、腐りかけた肉に付着した蛆だった。
「ぐ……」
リゾは金縛りにあったように動けず、その光景をうちまもりながら、低くうめきを漏らした。
「おや、臆したのか、リゾ」
声をかけられ、振り向くとオーナーの姿があった。豪奢なガウンをまとって、ネルガル郷である。
「オーナー」
「メインイベンターの勇姿じゃ。あいつこそは、この闘技場のチャンピオン、ジュウラス。”暴君竜”の二つ名を持つ男」
闘技場の王者──それは、この闘いの聖地における、君臨者の姿である。彼らは貴族に召し抱えられているが、奴隷の立場は名目上のことだ。すでに身請けの借金は返し終わり、莫大な富を得、いつでも剣を捨てて安穏とした生活を送ることができる。しかし、闘技場の運営委員や、オーナーの貴族が王者を手放したがらないことがあり、また、王者自身のほうでも、勝ち得た名誉を頭に冠し、栄光の座に着いておきたいと思う結果、闘技場に留まることを選ぶことが多い。
「だが、奴の場合、そういうものとはまたちょっと、別なのだ」
食事をするジュウラスを眺めながら、ネルガルは唇を歪めて言う。
「ふん?」
「奴が、王者を辞めない理由は、もう、なんていうか……奴自身、自分が闘いの天才で、それをするために生まれたことを、承知しておるからじゃ。才能を発揮できる場所に居続けたいと思っておる」
「へっ、才能っていうが、あまり、腕が立ちそうには見えねえがな。のろまそうだぜ。身体がでかけりゃいいってもんじゃねえや」
ネルガルはそれを聞いて、ちがう、というふうに目を笑わせ、首を振る。
「奴にあるのはそういうものではない。奴は、性根から、闘って殺すということが好きだ。もう、無上にな。そのサガがいちばんの才能だ。その才に秀でるを差して、闘いの天才という」
そばの灯り取りの上で揺れる炎が、話している二人の顔に影をつくる。
「けッ……。何を言い出すかと思やぁ、そんなもの。俺だって喧嘩が好きですぜ。人、切ることだって、すぐに好きになる……」
「かはっ、どうかのう。儂の見るところ、お前の才覚は奴の足元にも及ぶまいよ」
そのうちに、ガチャンという激しい音が耳に届いた。リゾがその方を向くと、ジュウラスが手の中の壺を無造作に放り投げたところだった。壺は地面に落ちて、栄養価の高い中身をぶちまけていた。
王者はそうしたあとで、おもむろに自らの股間をまさぐり始めたのだった。獣皮のパンツの中に手を入れている。ぼりぼりと掻きむしる音が聞こえる。
リゾたちはしばらく押し黙った。
「……痒いからって?」
「……あぁ、あの辺りが、お前のような半端ものとの、天分の違いを表しておる。奴にとっては、闘いのほか、例えば人としての行儀などは、考えの範疇の外なのだ。ジュウラスはほかの何ごとにも──まあ、食うこと寝ることは別だが──関心を払わない、まるで興味を持っておらぬ。奴は人前で平気で排便できるのじゃよ。富、名誉、身を飾ること、そんなものにも、何の価値も感じておらぬだろうな。闘うことにのみ興味を示す、これが、選ばれた者の姿というわけだ」
「へッ!」
大きく毒づいた途端、不意にジュウラスは、首を百八十度、巡らしてきた。平素から虚空に睨みを利かせる、恐ろしさのある目が、今、こちらを向いていた。リゾは半ばたじろぎながら、その視線を受け止めた。
ジュウラスは大きくあくびをして、再びゆるゆると首を戻した。
「大丈夫だ、奴はこのあとに試合を控えておる、お前に注意を向けてはおらん。それに、闘技場のフィールド以外のところで問題を起こせば、試合を組んで貰えなくなることも承知しておる。断っておくが、奴の頭は悪くない、むしろ賢明な方よ。殺し合い以外の何をやらせてもダメな男だが、それはまず、その全てに興味を抱けていないから、という事に過ぎん。それが戦いの場になるとちがう、奴は実に、計算高く立ち回るぞ。ここに居る者たちはみな、あれを戦の神の申し子と、畏怖しながら、讃えておる」
王者の様相に眉をひそめるリゾを見て、老人は付け加える。
「かっかっか。理解できんという面だな、無理もあるまい。まあ、こっちの考えならどうだ……あのような、常識を無視した、フザケた無神経が周りにまかり通るという事は、奴がそれだけの強さを持っているということだ。そこさえ判っておればヨイ」
リゾは薄い唇を歪ませて、首を振った。
「ふん、あの面ぁ、見飽きた、行こうぜ」
ジュウラスの脇を通り過ぎ、彼からかなり離れると、リゾは深い息を吐いた。
「何をびびることはねえ、あんなバカ、いずれおれがぶっ倒してやるよ……」
「くわっはっは、まだ声が緊張しているのう。それより、お前の初試合はもうまもなくだ、その威勢、そっちの方に向ければどうじゃ。……ところで、負けることはゆるさん。死ぬか生きるか、ふたつにひとつ」」
リゾは頷き、心配するなと請け合う。
「どんな手を使っても勝つ」
「それを聞き届けにやってきたんじゃよ。そうだ、お前のわがままは、聞いてやったワ。あとで部屋に届けさせよう。一晩貸してやるから、せいぜい雑念を払うんじゃのう」
リゾは目を明るくしてネルガルを見た。
「おぉ、そいつぁ、恩に着ますよ」
薄汚れた彼の住まいに、亜麻色の髪の女が訪れる。
女はこういう仕事に慣れているらしく、付き添いが帰ると、するすると手早く衣服を脱いで、寝台に腰をおろした。
そして営業用の微笑。
「いい女だ……」
にやりと笑い、リゾは上着を脱ぎ捨てる。
女の横に座った。そして、その腰に手を回し、自分の膝の上に、その身体を乗せた。
「これで死んでも後悔はない……ってか」
低く笑い、そろそろとその乳房に指先を伸ばした。
その時だった。
バコンという音をたて、入り口の扉が開いた。
続いて、部屋は地震が起こったような感覚に襲われた。木製の扉が軋んで揺れる。
リゾがその方を振り向くと、褐色の巨体が、部屋の入り口をくぐりぬけようと苦心していた。その上の鴨居にあたる壁に、頭をゴツゴツとぶつけている。
チャンピオン・ジュウラスだった。
「…………」
扉を半壊させて、ようやく王者は部屋の中に侵入を果たした。そして、じろりと黄色い目でリゾの方を睨む。
リゾの方は口を半開きにしている。
ジュウラスはおもむろに、悲鳴を上げる女を肩に担ぎ上げると、しゅうしゅうという変わった息づかいを漏らしながら、またどうにか扉をくぐって、部屋を後にした。
あとには、壊されたドアと、寝台に腰かけたままのリゾが残された。
「やあぁろうォ…〜〜!! ぜってぇ、ぶっ殺してやる……!」
5
そして、当日はやってきた。
銅鑼が低く鳴り響き、闘いの始まりを示すラッパが吹き鳴らされ、ファンファーレが楽団によって盛大に奏でられた。しかし、それらの音に優るのは、大地を揺るがし、雷鳴のように響く観客の歓声のうねりである。それは何か、心の底から興奮を励起させる作用をもって、 聞く者を飲み込まずにはおらなかった。
突然に、無軌道なざわめきであった歓声が、意味を持った言葉に変わる。闘技者の名前が連呼される、剣闘士達が入場してきたのだ。
リゾは、革靴ごしに、闘技場の熱された砂の温度を感じながら歩を進める。また何よりも、手にした剣をずっしりと重量感のあるものに感じていた。鎖帷子と魚飾りの鉄兜、一振りの両刃の剣という出で立ちである。
「ふん……」
彼は、初めて降り立つ闘技場の広さと、観客の多さに、身が震える思いを味わっていたが、機嫌がよくなかった。なぜならば、耳をつんざく歓声は、彼でなく、相手の剣闘士の名を讃えていたからである。
ブェーコン! ブェーコン! ブェーコン!
「おもしろくねえ。こいつら、俺が死ぬ事を期待してやがるんだろう」
だが、もちまえの負けん気が頭をもたげた時、最初感じていた緊張が取れている事には気づかなかった。
「さあ、いよいよセミ・ファイナル……。ただ今、わたくしのそばにて、相手を待ちかまえますは、最近、タクル郷の元で売り出し中、投網を使わせたら、この男がいちばん──”荒くれ漁師”こと、ヴェーコンです! 先日の本闘技場での特別海戦試合、『バイカル人の決戦』では、まさにこの男の本領を見た思い。だが海の男は陸に上がっても強い、それを地でいく猛者であります。さて、その相手を努めますのは、ネルガル郷に見いだされ、今日が初試合という、スラム街出身のルーキー君。勝敗は別にして、健闘を期待いたしましょう!」
ネルガルは貴賓の席の一番端に座って、闘技場の中央の道化の口上を聞いていた。
通常、チャンピオンが参加するなどといった、特に重要な試合以外は、闘技場の試合の組み合わせは、その日参加する一般の剣闘士達の中のなかから、無作為にクジ引きで決められる。その場合も、剣闘士たちが自分で引くのではなく、彼ら自身で戦う相手を決めることはできない。
「くわっはっは、今日はまた、クジ運が悪いのウ」
鷹揚と歩を進める、自分の剣闘士の方に視線を移す。
「だがまぁいい、あの相手に負けるようでは金にもならんしな。ほんとうに大魚かどうか、見極めるとするかのう」
「どこにいやがる、ネルガルの爺さん……まぁいい」
リゾは、自分の持つそう言うと、相手を見すえた。
背をかがめて構える壮年の戦士、ヴェーコンは、三つ又の矛と投網を装備する型の闘士である。網で相手を絡み取って、矛で突き刺して相手を仕留めるのが戦法だ。軽装で機動性を旨とし、リゾのような、重装備の相手も苦にしないという。
天に向けられた三つ又の矛の先が、陽を受けてあやしく光る。
「おめぇなんかよ、この剣の一撃で片が……」
リゾは頭の中で、銅鑼がうちならされてからの、自分の動きを思い描いていた。
しかし、不意にそれを想像することが出来なくなった。
努力とは裏腹に、心の底の暗い淵から、悪寒をともなって急激に、何かが鎌首をもたげてくるのを感じていた。
「俺ぁ、何を……くそっ、手が震えやがる? 何をびびってる……今さら」
自分のなかにわきおこった感情を見つめていく。無論、真剣で闘うことで、殺されるかもしれない事に対する、恐怖があった。だが、その影に隠れて、第二の恐怖というべきようなものが、確かに息づいて感じられた。その思いに囚われ、剣先を見つめていると、そこに、見たくないものが映ったような気がした。それは、かつて、二年前に自分が殴り殺した、父親の顔だ。
「畜生」
今も、むかしも……。俺は、後悔なんざ……
「へ、どうした、坊主」
その様子を見ていたヴェーコンが髭もじゃの口を開いた。
「ブザマなへっぴり腰じゃねぇか、えぇ」
「……なんだとぉ、この野郎」
「みっともねぇんだよ。腰抜けはこの神聖な闘技場を汚すだけだ。とっとと死体に変われや!」
矛先でリゾを差し、挑発した。
「てめ……俺が腰ぬけだぁ? もっぺんいってみやがれ……くるあぁっ」
心から、暗い影がゆっくりと遠のいてゆくのを感じた。そして、闘技場の熱狂が再び耳に入ってくる。命の精霊が全身を駆けめぐり、心臓の鼓動が早鐘を打ち出すのを感じていた。長剣の柄を強く握りしめる。
そして試合開始を告げる銅鑼がうち鳴らされた。
数分後、リゾはヴェーコンをうち負かしていた。投網を投げかけられて倒れ、絡み取られてリゾが身動きできなくった事に、ヴェーコンは油断した。その一瞬を見逃さず、彼は腰を浮かせた態勢を取ると、剣を振らずに低い姿勢から突進していったのだ。懐に飛び込み、相手を組み伏せる事に成功すると、スラム仕込みの喧嘩術で、馬乗りから殴打を繰り返した。
ネルガルは大きな鼻をしごいて、満足げに目を細めた。観客も予想外の事態を興奮の体で見守っていた。
「おら!!」
リゾはヴェーコンが抵抗する動きを見せると、今度は思い切り相手の股間を蹴った。
相手は声にならない叫びを上げる。
「潰してやらぁ……お前みてえな弱くて情けねぇのが親になったら、ガキが哀れってもんだ……ああ、弱ェ!」
興奮に目を光らせながら言う。相手が聞いている様子はない。口の端から泡を吹いて失神していた。
リゾは殴るのをやめて、ふと我に返った。決着がついた。自分は勝った……ようやくその実感が湧いてきたころ、巨人の吠えるような、群衆たちの大コールが振ってきた。
間違いなく勝利者である彼に向けられた、怒濤のような歓声である。
リゾは立ちつくしながら、その声を受け止めていたが、そのうち自然と笑いがこぼれた。
「く、くくく……。見たか、この俺の強さぁ!!」
大見得を切ると、観客さらに大きな声援を彼に送った。大いなる満足感と、誇らしい気持ちがあふれてくる。
客の歓声はひとしきりつづいて終わった。
彼らがつぎに送ってきた言葉は、<殺せ>の連呼であった。今日の催しの主賓が席から立つのが見えて、視線を移すと、お大尽は親指を下に向けていた。
「あぁ、とどめを刺せ、か……わかってる、やってやるよ。へへ、楽しみにしてろよ」
「うるせぇな、今やるってんだよ。そう慌てるな」
「 ……どうだ! 殺してやったぞ! 満足だろ?」
「ああ!! そうだ、もっと俺を褒め称えやがれ、へへへ! 観客のクソども!!」
引き揚げる途中の通路で、彼は見覚えのある顔とすれ違った。養成所で一緒だったオムルズという名の男である。オムルズはリゾを認めて口を開いた。
「あんたか、久しぶりだな」
……よう、おめぇか。リゾはまだ興奮が冷めやらなかった。そして、自分がいかに勇壮に戦い、栄誉ある勝利を得たのか彼にまくしたてようと考えたが、言葉が出てこず、ただ相手を睨むようにした。
オムルズは、瞳を暗く燃やしたリゾの様子を、黙って眺める。
「行って来る。話は後にしよう」
リゾに背を向けて、彼は闘いの場に出ていった。
6
剣闘士たちにとって戦いに明けて暮れる日々が過ぎ去っていった。元からロマールの夏は暑いが、今年の闘技場はいちだんと熱気が増したようである。
観客の話題の中心には、二人の剣闘士の名がつねにあった。リゾとオムルズ。闘技場の観客に両者の存在は認知されていき、彼らはやがて、新鋭剣闘士では一番の使い手と目されるようになっていた。
二人の闘いぶりが対照的だったことも、観客の感覚を満足させていた。剣闘士リゾは、それまで闘技場のなかの空気に残っていた、闘いにおいて是とされる礼儀といったものをうち捨てた。剣のみに頼るのでなく、時に目つぶし、金的、組合い、噛みつき……。手段を選ばない闘いぶりが、目新しいものを好む観客の喝采をあび、彼は許容されていった。
いつしか、彼は”悪童””反逆児”などの二つ名で呼ばれるようになる。
対して、オムルズは、無骨ではあったが、戦場仕込みの実直な剣技と、ずば抜けて速い剣閃などで、玄人好みの観客を湧かしていた。先頃ロマールが滅ぼした国の人間をこう持ち上げるのは、豊かな戦勝国の民の抱く、敗者へのあわれみか、それとも自虐めいた楽しみだったろうか。 一部で彼の真実の姿は、ロマール=レイド戦役において活躍した生死不明の勇者、”颪”その人、あるいはその薫陶を受けた者であるという噂が、まことしやかにささやかれていた。
入れこみの強い人々は、彼らがいずれ”暴君竜”の王座を脅かすだろうと言い、はばかるところを見せなかった。
闇のなかにおれはいた。誰かが目の前で、頭を抱え、カメのようになってうずくまっている。そのそばに、武器をもっておれは立っている。天から、殺せ、殺せ、という声が降ってくる。周りには、誰もいないはずだが、その声は耳鳴りとなっておれを急き立てる。殺すしかない。カメをこじあけて、喉を裂くしかない。それは気分が悪くなるから、嫌だと言いたいが、その気持ちを内に押し込める。
……不意に、なぜそうすることで、胸が悪くなるのかという疑問。五大神の教えや、街の道徳に反するからか。でも、決まり事を破るのは愉しいって事もあるじゃねえか。なのに何で……。やはり本能なんだろうな。そいつにだけは逆らえないと思った。
人を自分の手で殺す感触、それだけは、人間、好きになれねえように出来ているんだ。周りの闇からこっちを眺めている大勢の奴らは、それから逃れられる。不公平だぜ。
さて、こいつ、顔を上げやがれ。殺してやっからよう。
けっ、やっぱりあんただったのか。これで何回目の登場だ? 生き返ってんじゃねえよ。命乞いしても無駄さ、周りもあんなに期待している。腰抜けに見られるのは嫌なんだ。
親父、俺は、あんたのような恥ずかしい人間になりたくないだけなんです──
リゾは、汗に濡れる身体を起こした。また、悪夢を見た。三時間と眠れてはいなかった。鏡台の上にある小瓶に手を伸ばした。
「ちっ、もう残ってねえ……。また、ネルガルの爺さんから貰ってこねえと」
鏡に映る自分の、目の下に出来た隈をなぞった。
「なんじゃ、また”ファントム”が欲しいとな?」
ネルガルは目をすっと細めて言った。
「ああ、また最近眠れなくてよ。使いすぎた……ちっ、ひとつ頼みますよ。あれは酒なんかよりずっとイイ。試合にゃ勝ってるんだから、いいだろ?」
ファントム、とは、ネルガルが最近、東から来た薬草師から調合を教わったという薬で、裏町で売られているドリーム・ランナーと同じような効果を持つ、いわゆる、麻薬であった。以前、リゾがネルガルに不眠を訴えると、過度の服用を禁止する条件で、このファントムを渡されたのである。
「ふん……わかった。だが、少しずつ、量を減らしておけよ。こいつを飲み過ぎるとどうなるかは、何どもいっておる。守らない場合はゆるさんぞ」
張り出した額の下の眼をするどく細めて、ネルガルはすごんだ。
「ああ、判ったぜ……」
リゾはばつが悪そうにしながら、うなずく。ネルガルはそれを確認すると、
「よし、ならいいワ。後で届けさせる……ところで、儂はこれから人を待っている。貴族の知り合いと会う予定があるんじゃ。お前は、席を外しておけ」
頭を下げて退出した。
薄暗い闘技場の地下に戻ってくると、オムルズが訓練場で一人汗を流していた。
リゾは部屋に帰る脚を止めて、その姿を眺めやった。
「よぉ、精が出るな、レイド人」
両者は、新米たちの激闘から、生き残った者同士として。お互いに会話を持つようになっていた。ともすれば、二言三言で終わる事もある内容の会話ながら。
二人は、友人といえる関係ではなかった。だが、常に互いのことを意識している感があった。
「試合は終わったんだろ。へっへへ、今日も生きてたか」
オムルズは剣を止めて、呟いた。
「死ぬわけにはいかんさ、もう引退するんだ」
「……何い?」
「そろそろかせいだ金も解放額にとどく。そうしたら剣を捨てて、秋にはロマールを離れるつもりだ。まだ、誰にも話していないが、もう腹は決まっている」
「おい、また、どういうことだ……こら」
リゾは肩をいからせて近づいた。オムルズは振り向く。
「悪いとでもいうのか? お前には関係ない話だろう」
「……何で辞めんだ。ワケを聞かせろ」
「見せ物で人を殺すのに、嫌気がさした。これ以上闘いたくないからな」
それを聞くと、リゾはまなじりを決して睨みつけた。
「あぁ! ふざけるない。”鎌風”さんよ、お前は、この闘技場では、いっぱしの人気だろう。それが、客の期待を裏切って、闘いたくない、だぁ……これから、いくらだって、富と名誉が手に入るんだろうが! 冗談はやめろ」
「解放をのぞむのは、剣闘士奴隷として正常な思考だと思うが」
わずかの沈黙のあと、”悪童”は再びかみついた。勢い猛に詰め寄る。
「おい、お前は今更、何びびり出してるんだぁ? もう殺したくねぇだと、甘えんじゃねえ! お前、俺達の仕事が間違ったことだとか思っちゃいねえだろうな?」
オムルズは黙って腕を組む。リゾは口から泡を飛ばして続けた。
「コラ、誰だって自分の手を汚すのが嫌だ、だが、その辛さにうちかって闘うからこそ、剣闘士は偉エんだろ。暴力を操って、観客の弱虫どもを楽しませてやる……奴らの期待に応えてやるのが、俺たちのあるべき姿で、格好いいところなんだよ。そういう、闘いの聖地なんだぜ。金さえ貯まれば、もう剣は持ちたくないなんて言や、それは恥だ。同情してくれるのは一部で、大勢の客や仲間から臆病者だと、ののしられるのが落ちだ!……それを正常な思考だぁ? ふざけやがって」
オムルズは薄く笑ってリゾを見た。
「期待に応える、か。お前というやつは、”反逆児”だのと呼ばれているくせに、そのじつ、素直で従順なところがあるからな」
「なっ」
「確かに、ここの闘技場の空気はお前の言ったとおりだ。だが、そんな周囲に流されずに、自分の考えを貫き、嫌なものは嫌といえる事も、強さのひとつだろう。おれにはここの暮らしも、常識も合わん。だから、出ていく、それだけのことだ。何を言われようとかまわない。その行為が恥ずべきものかどうか決めるいちばんは、他人や客ではないぞ」
リゾは、歯の根を噛み鳴らして立ちつくした。彼は拳を振るわせながら、頭を巡らせる。だが、言うべき言葉が見つからず、代わりに出てきたのは、なぜ自分は、オムルズがとろうとしている行動を知って、これほどむきになっているのだろうかという疑問だった。
何を聞いても、臆病者のせりふと聞き捨ててしまえばいいのだ。
……だが、それができない。
他の凡百の剣闘士なら、一つあざけって終わりにできた。しかし、オムルズの言葉──
自分が唯一認めている男の言葉は、無視できない力をもって迫ってきていた。
己が信じてきたものを否定された気を振り払えない。
剥いた牙を収めることはできそうもなく、再びほえつきはじめる。
「言いたいことはそれだけかってんだぁ! オムルズ、お前だけ……ゆるさねぇぞ!!」
オムルズは、ちらと目線を腰に帯びた剣にやる。
「そう興奮するなよ……」
「オムルズうぅ……」
しばらく二人は緊張した面もちでにらみ合っていた。
間をおいて、リゾは口を開いた。
「ああ、どうせ、お前とはやり合う運命だった。どうにかしてお前と試合をするぜ。お前はここを出られずに終わるんだ。ファンファーレの鳴り響く中で──死ね」
「……そんなことも言い出すかと思っていた。ああ、受けてたとう」
「俺は、”鎌風”のオムルズとの闘いを所望する──」
翌日、リゾは闘技場の試合に勝利して、月桂の冠を授けられた後で、観客席に向かって身を割るような大声で叫んだ。
賓客席では、ネルガルがその様子を無言でうちまもっていた。
7
引き締まった胸筋が布地の下から浮き上がり、深い呼吸に合わせて、上下を繰り返した。血を送られた筋肉が目覚め、生命の精霊が剣士の身体に漲る。
オムルズはゆっくり眼を閉じた。
「あらあら。対戦が決まったと聞いたら、もうその気に?」
その女性は、音階の高い声で、背後から彼に声をかけた。髪と瞳が黒く、きらびやかなドレスを着ている。歳の頃は三十半ば、衰えの見え始めた肌を、厚化粧で覆い隠していた。
「……身体が、柄にもなく緊張しているようで。相手が手強いですから」
オムルズは瞑目をやめ、背後の女性の方を見るか見ないか、ぶっきらぼうに言った。
「アハハハ、リゾとか言ったわねえ。あんな野蛮人に、あなたのような英雄が負けるようなことがあって?」
「自信があるとはいえず……それから、英雄は止めてください、オーナー」
オムルズが話しているのは、彼の身請け人の貴族の女性であった。
「うぅん、いつになったら、フラシスと名前で呼んでくれるのかしらねえ?」
彼女は、すねたようにしながら、艶っぽく微笑んだ。
「でも、貴方はぜひ最後まで生き残り、英雄にならなくてはならないわ。その器なのだから……。そう、名前を告げるだけで、社交界のはげ茶瓶たちが頭を隠すことも忘れて、帽子を脱ぐほどの男に」
オムルズは黙り込む。フラシスは、その背中に手を這わせて語りかけた。
「ねえ、女が、男ばかりが偉い、貴族の世の中に暮らすのって、とても辛いのよ。居場所といったら、妻として、旦那の斜め後ろ、召使いの場所があるだけ。とても耐えられないわ! だけど、誰もが認める強い男を横に侍ることができたら」
フラシスはオムルズの首のうしろの日に灼けた肌を、ツツと指でなぞった。そして、うっとりした声で言う。
「よくって、英雄に護られる女は”姫”なのよ。わたしはメレーナ姫で、貴方は建国王リジャール。そのカリスマで周りをかしずかせ、二人は立身していく……よくって。だから、貴方は勝ち続けてちょうだい」
くっ、とオムルズは苦笑した。女主人の妄想癖をまえから倦んでいた。しかも、自分は、金が貯まり次第、引退を申し出る腹でいるのだ。
(いずれ金を置いて出ていくというのに、滑稽だ。……だが、いつかは終わる夢、なら、ぎりぎりまで見せてやろう。この人はおれに金を払った。その行為に応えるだけの事はせねばならないから。……すべては、リゾに勝ってからだ)
「失礼します。練習場に行かなければ」
オムルズは一礼すると、おもむろに身を動かして、戸口に向かう。
「そう、そんなに不安なの?」
フラシスは両眉を上げながら言う。
「大丈夫よ、安心していらっしゃい。貴方は死なないわ、いくら手強かろうが、あんな奴に負けやしない」
語尾に、くすりという笑いが混じった。オムルズはふとそれに気をとめたが、立ち止まらず、そのまま足早に部屋を出た。
「まったく、勝手なことをしてくれたな。あのオムルズに喧嘩を売るとは」
「また、そう言わないでくれよ」
夕刻。リゾとネルガルは、酒場で机を挟んで向かいあっていた。特別試合はもう一週間後に迫っていた。リゾが観客にオムルズとの闘いを訴えかけ、結果、全体の興味が二人の対決に向けられ、試合を組まざるを得なくなったことに、ネルガルは初めから難色を示した。いずれ、避けられない事だとわかっているが、何もこちらから望むことではない、という見解だった。老人としては、少しでも順当に勝ちを重ねさせ、オーナーとしての利潤を得たいと思っているらしい。今回のように、危ない橋を渡ることをきらっている様であった。
「俺の腕を信じてくれ」
リゾは熱っぽく声を振るわせて言った。すでに酒が入り、顔が紅潮している。
「ああ、信じちゃあいるわい」
ネルガルは薄く笑いを浮かべて言った。
最近、ネルガルは私事に追われて忙しいということで、自分の剣闘士に会いに来る回数が減っていた。リゾは何か後ろめたさと、寂しさとを味わっていた。だから今日、ネルガルが酒場で共に飲もうと言ってきたとき、喜んで応じた。
「楽しみで仕方ねえんだよ、一週間後が……」
二人は時間をかけて酒を飲んだ。
「ああ今日もこのあと、知人と面会する予定があるので、儂はそろそろ戻るぞ。おまえは、一人で帰れるだろうな?」
ネルガルは腰を浮かせながら言った。
「ああ、もちろん。もうちょっと飲んでから帰りまさぁ」
リゾは危ういほど酔っている自分に気づいていたが、そう答えた。
ネルガルが戸口を出ていくと、彼は肘をつき、掌を組んだところに額をつけて一息つく。
しばらく、その格好のままでいた。
ネルガルが出ていった同じところから、ドヤドヤと、風采の上がらない客が大勢入ってきた。大きな声で怒鳴り合いつつ、席を探している。
リゾは赤い顔でうつむいていた。
しばらくして、彼のそばに置いた酒瓶が持ち上げられた。
「よう、兄ちゃん。もう飲めねってんなら、おいらが貰うぜぇ」
「ヒヒッ、これしきでつぶれてんじゃねぇよ」
リゾはうろんな目で声の方を見た。十人を超える人数の、ざっかけない与太者の目が、笑いをたたえてこちらを見ている。
「……あぁ!?」
リゾは事態に気づいて、歯を剥いて言った。
「てめえら、誰のもの掠め取ろうとしてやがン……」
「ヒヒッ! 何か言ってやがるぜぇ、舌まわってねぇ」
ゆらりと立ち上がった。
「おいおい、歩こうとして大丈夫か? ”はいはい”したいんじゃねぇのかい、坊や」
「ギャハハ……笑えるなぁおい……うぶっ!?」
ひきつったように笑っている獅子鼻の男の顔に、リゾの拳がめりこんだ。
「……ああ、この野郎!!」
男たちは喧嘩慣れしていた。だがもう後には引けない。酔いに回る頭は、ただ闇雲に身体を動かすことだけを命じていた。
「このどぶ泥どもが、誰に喧嘩売ってると思ってやがる!」
「ウヒュウ、このガキ強ぇ! 油断すんなよ!」
「げほぁっ!」
「……そりゃっと!」
「ナイスだ、ゲンベナー! よーし、畳んじまえ!」
「うがっ!」
「そらそら、こっちにもいるぜ!」
「そのまま押さえ込め」
「さっきのお返しだぁ!」
「くの! くの!」
「ガキのくせに、いい服きやがってナマイキなんだよ!」
「髪つかめ髪」
「合わせろや! 前後から首折りだ!」
リゾは集団に組み伏せられ、為す術もなく殴られ続けた。
「ぐあぁぁぁ……」
抵抗する力はすでに残っていなかった。男たちがいつまでも暴行を止めないことに、ふと恐怖をおぼえ、また疑問にも思った。
(痛ぇ……もうよせや、なんでそこまで……)
だが、意識は糸を切られたように、ふいに途絶した。
ネルガルは、自分の館で、寝椅子に深く腰かけていた。そばの燭台の上で炎が燃えている。
そこへ、使用人の一人が歩み寄ってくる。
「旦那様。フラシス殿からの伝言が着いております。”ことはつつがなく終わりました。お礼申し上げます”という……」
「あぁ、ごくろう」
「しかし、旦那様、なぜ、目をかけていた剣闘士を今になってお切り捨てに?」
「儂は、話を承諾して手引きしただけだった。みんなフラシス、あやつの描いた絵でな」
ネルガルは鼻をいじりながら、小さく息をついた。
「あやつ、儂が麻薬で商売をはじめたがっていることを知っておってなぁ。この話をもちかけてきおった。つまり、リゾを切れば、あの女が持つ、闇市の人間のあいだでの人脈をこっちにも寄越してくれるという話だった。あれは、なかなかに顔が広くてな。交易商、仕入先とのコネ、儂が今喉から手が出るほど、欲しいものだった。儂はもう彼らと顔つなぎは初めているから、今夜にでも、約束を果たさせねばならなかったのだよ」
「──しかし、旦那さま、剣闘士の英雄をお抱えになることの名誉は、何ものにも代え難いものであると私などは愚考してしまうのですが」
「くわっかっか、儂よりずっと若いくせに、考え方が老けておるな、お前は。名誉だけで食っていけるものではないぞ。しかも、自分で君臨せず、剣闘士のうしろでふんぞり返っているような名誉、道楽でもつ以上の意味はないわ。それよりは、実際の富であり権力じゃ。儂は、残る余生のあいだで、麻薬をもってロマール闇市を牛耳る男になるつもりだ」
間をおき、薄く笑って言い添える。
「それと、信念もあるワ。麻薬は、ぜひ、世に出るべきじゃ……それが万人に正しいことであると言えるほどに、面の皮が厚くはないがの」
使用人は黙って頭を下げた。
「あと、まぁ、そういったことがなくてもリゾを闘技場に出したかどうかは、くわっはっは。やつは、臆病だからのぉ」
真夏にしては、日差しの穏やかな日だった。リゾが暴行を受けた翌日も、オムルズは、集団戦闘をこなして生き残りの側になった。
彼らの栄誉を称えているとき、道化の口からリゾが急病で逝ったことが語られたのだった。
観客席にどよめきが起こり、明らかな失望と落胆が広がる中で、オムルズは立ちつくしてその知らせを聞いた。
(リゾが……病気で? そんな話が)
視線をさまよわすと、賓客席のほうで、フラシスが口に手を当てているのが見えた。
刹那、頭に閃くものがあった。あのときも、女主人の薄笑いを耳に聞いた。
まさか……いや、おそらく……。
オムルズは彼女のたくらみに思い至って、ぐっと拳を握りしめた。
(どうする、俺は、このまま黙っているのか?)
彼はうつむいて長い時間を考えていた。
人をこの手で殺す感触からは、少しでも逃れたかった。しかし、奴となら、そういう厭わしさを感じない闘いができるような気がしていた。今となっては、この場所を去る前に、ぜひ臨むべき試合であったような気さえする。
(その闘いを汚され、台無しにされて、黙って口を結んでいて、いいのか)
オムルズは手を腰に、考えつづけた。
しかし、と思う。リゾには強い調子で言ったが、もともと、俺の言い分がかならず、正しかったわけではなかった。むしろ、ここではおれの考えは異端なのだ。ならば、清くあろうなどと思わないこと。
この場所で、なりふり構わない卑怯さを背負って去っていくのは、道理として取るべき道なのでは……。
オムルズは、空を見上げた。闘技場の中心から見える四角い空。だが、色は抜けるように澄み渡っている。
碧雲は、東の方へ緩やかに流れて、世界の果てのない広がりを感じさせた。
そう、俺がここにいるべきでないというだけの話。
俺が身命を投じるべき、ほんとうの闘いは、ここではないどこかではじまる。
手にした剣を、ざくりと、無造作に地面に差した。
早くここから出よう────
薄暗い一室。
満身創痍の傷を負ったリゾは、固い板ばりのベッドの上に寝かされて、苦しそうにうめきつづけていた。
「こら。お前は一体なにをしておる」
いつまにか寝台のそばに立っていた人影、ネルガルは、リゾに語りかけた。
彼はびくっと身体を振るわせ、寝返りを打つ。
「爺さんかい……」
「お前が詰め所にかつぎ込まれたと聞いて、驚いたぞ。しかし、なんとも無様なことになったじゃないか。儂に、大恥をかかせてくれおって」
リゾは答えることができない。
「お前は……病気で死んだことになっとる。その怪我が治るのがいつかはわからんし、もの忘れのひどい観客どものことを考えると、やり直しに手を貸す気にはなれんかった。もし、復帰してから、今回のことが奴らの口から広まったらと思うと、なおさらできない話だ。ここで幕を引いた方が賢かろう。情けないが、仕方がない……ああ、この馬鹿、お前というやつは!」
ネルガルは怒りを露わに彼の方を睥睨した。リゾは、びくりと身を震わせた。そして、不意に、喉を詰まらせ、せきが切れたように一つの言葉を繰り返した。
「すまねえ……すまねえ、すまねえ……」
外聞も体裁もなく、目に涙さえ浮かべて謝っていた。ネルガルは内心で、真実をけっしてこの男の耳に入れぬように気を配らねばならないと考えた。
しかし、そう恐怖したのも一瞬のことだ。
「もういいワ……。リゾ、お前は、儂がお前をこのまま見捨てると思っておるか。なるほど、それは当然のことだろう。まだ、お前のかせいだ金は、解放額に届いていない」
しかし、とネルガルは続けた。
「お前は、儂個人の用心棒として、そばにおいてやろう。今まで以上に真剣に勤めるのだな」
「…………」
リゾは、それを聞いておずおずと問い返す。
「この俺を……こんなみっともねえ姿の俺を、また雇ってくれるってのか?」
「ああ……」
ネルガルは顔を伏せるリゾを見下ろして言った。
「なあ、男は死ぬまで闘いだぜ。生きておれば、恥を晴らすチャンスは幾らでもあるワイ。お前にその気構えがあれば生かしてやるが、エエ、どうする、リゾちゃん」
「ありがてえ……」
強さと優しさとを見せられ、今や、リゾは完全にネルガルに心服していた。
心で求めていた理想の父親像だった。
ネルガルはそれを聞き届け、歯を見せると、踵を返し、部屋を去っていく。
戸口をくぐるときにはもう、凄みのある笑いを浮かべている。
「これでまた……揺るぎない……」
その後、オムルズは剣闘士の座から引退し、東を目指して去っていった。リゾもまた、ロマールの闇にもぐった。王者ジュウラスをおびやかすと言われた二人の英雄候補の名は、表舞台台から消え、忘れ去られた。
─511年 八の月 ロマール──
「リゾの兄貴ぃ、相手がびびっちまって、収まってよかったっすねぇ。二十人ばかりいても、所詮、ちんぴらども。大したことないよなぁ」
「アイツラミンナ、コシヌケダ〜♪」
「ちっ、今日はせっかく、おめぇらに俺の闘いぶりを見せてやろうと思ったのによ」
剣を肩に乗せてリゾはぼやいた。
「はっは、兄貴が強ぇのはよくわかってるぜ」
「モウ、馬鹿ミテエニナ♪」
言われて、笑みが浮かぶのを感じる。
「へっへ、そうだよな。気分わるくねぇぜ!」
<了>
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