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No. 00158
DATE: 2000/08/12 02:04:41
NAME: シャハン
SUBJECT: 夏の街
1
「よう。今日も早いねぇ」
晴天の下、路地を軽快な足取りで行く一人の女性の耳に、聞き慣れた声が
飛び込んできた。
言葉通り、朝の早い時刻。
人通りはそうそう無いはずだが、朝市の開かれる広場へ通じる道であるが
故に、見知った顔ともすれ違う。
声をかけられた女性はにこやかに会釈をして、
「繁盛するのも考えものね。人手が足りなくて、こんな時間に私が仕入れに
行かないといけないんだから」
「そいつぁ災難だ。俺が手伝ってもいいぜ?手間賃は……」
「どうせ『一晩付き合え』とでも言うんでしょ?おあいにくさま」
「ハッハッハ!まぁそう言うなや。そうそう、今夜辺り、モーガンと一緒に
飲みに行くからな!」
言って、手を振りながら遠ざかる職人風の男を背中越しに見送りながら、
女性はさらに歩を進めた。
終わらない夏の街、ガルガライス。
アレクラスト大陸の最南端に位置し、通年で暑い気候で知られている。
暑さ故に住民の服装は自然と露出が多くなるが、それと合致するかのよう
に、彼らの気質もまた、開放的で情熱的である。
一部では「貞操観念が無い」等と侮蔑される事もあるが、それは穿ちすぎ
というもので、服装が大胆で開けっ広げだから、一夜の恋も盛ん、とはけし
て言い得ない。
まあ、紳士淑女にとっては、派手にも見える出で立ちが好ましくないとい
うだけの事だろう。
ただ――
市場が近づいてきたのか、次第に増えてきた人の波にまぎれながら、あく
まで独自の歩調を保つあの女性は、周りの人々の装いとは明らかに一線を
画していた。
薄い青色の、肘丈のカーデガンの下に、足首まである裾が緩やかに広がる
白いワンピース。
初夏の清風とでも言うべきか、割と湿度の高いこの日において、彼女の姿
は一服の涼とも見える。
わずかに波打つ見事なブロンドを頭の上にまとめ、端正な顔立ちをあらわ
にしていた。
周囲の人の群から浮いた、白い肌。
三十代より少し手前か、しかし年齢を感じさせない若々しい雰囲気は、彼
女に声をかける全ての人に、不思議と笑顔をもたらしていた。
今もまた、恰幅のいい宿屋の女将、といった様子の主婦と、その娘が挨拶
をする。
一瞬、声のした方が分からなかったのか、女性は立ち止まり、視線を巡ら
せた。
ああ、と親子連れの姿を見留め、軽く手を振る。
と、立ち止まったのがいけなかったのか、大量の食材を抱え込んだ少年と
ぶつかった。
「わっ」
と少年が尻餅をついた拍子に、果実のいくつかが転がり落ちる。
「ごめんね。大丈夫?」
「あ、はい。前が見えなかったもので、すいません」
どこかの店の下働きだろう。
歳に似合わず丁寧な言葉遣いで、少年は急いで果実を拾い集め、そそくさ
とその場を後にした。
気を付けてね、と、後ろ姿を見送る。
「私も急がなきゃ」
つぶやいて、女性が、元々の行く先へ視線を戻す――
――が、彼女はその日、市場へたどり着く事はなかった。
人が倒れるような音に気が付いて、女性は、近くの袋小路へ目をやった。
そこには朝の光が射し込まないのか、奥は暗くてその様子をうかがい知る
事はできない。
気のせいかしら、と通りに戻ろうとしたが、
「……う……っ……」
苦しげに呻く声が耳に届いて、彼女は逡巡する事もなく、意を決した。
別に、路地裏が怖いという年頃でもない。
乱雑に散らかった木箱やら何やらをまたぎ、あるいは退かしながら奥へ行
くと――
「……だ……れだ……」
再び、声。
すり切れた赤い外套を毛布がわりに、壁によりかかった一人の男。
赤い?いや、元々赤いものでは無い。
「あなた……怪我してるの?」
女性は駆け寄ると、拒む力も無い男の手から、外套をはぎ取った。
鈍色の鎖帷子。
無数の刀傷の痕が見られるが、それより目を引いたのは、腹部からの出血
だった。
衣服を通して鎧をも赤くし、外套にまで染み出している。
早急に手当をしなければ、命に関わる事は明白だった。
「医者を呼ばなきゃ」
「気に……するな。大した怪我じゃあない」
「マントが真っ赤になるほど出血してるのよ!?」
「阿呆……そこまで血が出てたら、とっくに死んでる。……ありゃ返り血だ」
「どっちでもいいわ。とにかく、何とかしないと」
女性は有無を言わさず男の手を取り、肩を貸して立ち上がった。
「重いわねっ……鎧、脱げない?」
「……くっ、無茶、言うな」
腹部の傷が痛むのか、顔を歪ませて、男が言葉を吐き捨てる。
額と言わず、顔中脂汗と泥や汚れにまみれ、切れ長の双眸からは弱々しい
生気しか感じられない。
「あなた、名前は?」
「……」
「名前は!」
「シャ……ハン」
「そう、シャハンね。しっかりしてシャハン!私はルビィよ。もうすぐ、通
りに出るから!」
「……」
ぐったりとうなだれた男――シャハンを引きずるようにして、ルビィと名
乗った女性もた額に汗を浮かべながら、来た道を引き返して行った。
2
目が覚めて、シャハンは半身を起こした。
が、腹部に鈍痛が走り、低く呻いて、再びベッドに身を預ける。
シミの目立った木の天井が、ぼんやりと視界に入った。
浅黒い肌の、二十代後半の男。
細身だが引き締まった体躯。鍛え抜かれた体だった。
寝返りを打つ。
また痛みに顔を歪めるが、我慢できないほどではない。
ベッドかかすかに軋んだ。それほど質の良いものでは無いかもしれない。
だが、近頃はロクに眠っていなかった彼にとっては、寝床があるというだ
けで、ここが別世界のように思われた。
その上、自分がベッドで眠っていたという事実が、比喩でもなんでもなく、
信じられない。
(俺は――)
ゆっくりと目を閉じ、記憶の糸をたぐり寄せる。
刃と血。
夜明け。
女の声。
そうか、と目を開けるのと、部屋のドアが開くのとは、ほとんど同時だっ
た。
「あら、目が覚めたのね」
聞き覚えのある声。
記憶の底に、かすむようにしか覚えていないが。
入ってきたのは、女性だった。
真新しい衣類の入ったバスケットを、シャハンが寝ているすぐそばのテー
ブルへ置く。
彼女の、頭の上でまとめたブロンドだけは、はっきりと覚えがあった。
「世話になったみたいだな。……ルビィ、だっけ」
苦痛をこらえて、今度こそ半身を起こしつつ、ぼそぼそとつぶやく。
短い銀髪を掻きながら、シャハンは、自分が何も着ていない事と、腹に丁
寧に包帯が巻かれているのに気付いた。
「名前、よく覚えてたわねぇ。あ、これ、替えの服。あなたの、なんかもう
ボロ切れみたいだったから」
「すまない。……手当、してくれたのか」
「お礼はマーファのダリ神官に言ってちょうだい。全く、あなたのおかげで
ツケをチャラにされたわ」
女性――ルビィは悪戯っぽく笑うと、言葉を続けた。
「だいたい寝過ぎよ、あなた。もう二日と半分」
「……そんなに?」
どうりで頭が重いはずだ、と思いながら、シャハンは頭を振った。
ぼんやりとしか覚えていないが、ルビィの服装も、自分を助けた時よりも
う少しラフになっている。
「ところで、ここは?」
わずに痛む腹をさすりながら、シャハンは室内を見回した。
どこと言って特徴の無い間取りだ。家具も質素で、必要最低限のものしか
置かれていない。
疑問なのは、生活感が無い、という事だけだろうか。
「客室よ。私のお店のね」
「……宿?」
「兼、酒場」
アレクラスト大陸に存在する多くの街では、酒場と宿屋が兼業する事はけ
して珍しい事ではない。
報酬次第で様々な依頼を引き受けたり、各地に点在する遺跡を探索する事
を生業とする「冒険者」が旅の途中で立ち寄り、情報を集めたり休息を取っ
たりするために、非常に好都合なのだ。
「ま、さっさと服を着てちょうだい。サイズは多分合ってると思うわ」
返事はせずにうなずいて、シャハンはベッドから立ち上がった。下着だけ
ははいているのは、ルビィも承知らしい。
「お腹の傷も、無事塞がったみたいね」
「……」
あてがわれたのは、白いシャツと黒のレザーパンツだった。
手早く着込んで、一息つく。
ベッドの脇に置かれたブーツは自分のもので、こればかりは愛用のもので
ないと具合が悪い。見れば、空になったバスケットが置かれたテーブルの椅
子に、身に付けていた鎖帷子もひっかけてある。
「うん、ぴったりね」
なぜか満足そうなルビィには答えず、シャハンは鎖帷子を取り上げ、腹部
を手で探った。
鎧の上から腹を貫かれた、異様な感触がまざまざとよみがえる。
こんなみのを着ていてあれほどの深手を負う事自体考えられないが、事実
は事実だ。
シャハンは唇を噛みしめた。
「……ところで、さ」
「聞かない方がいい」
「え?」
機先を制して、シャハンは、鎖帷子を椅子にかけ直した。
「なんであんな所に、あんな格好で倒れてたかって、聞きたいんだろ」
「別に。聞きたくないけど」
「あ、そ、そう」
肩透かしをくらったように慌てるシャハンに、ルビィはまたころころと笑
った。
「ウソよ。本当はとっても聞きたいけどね」
「……」
「でもま、根ほり葉ほりするのは趣味じゃないし。あなたを助けたのだって、
人間としては当たり前。まあ、ウチは泊まりの客は少ないし、傷が癒えるま
では居ていいわ。出て行くなら行くで別に止めないし」
ルビィの言葉に、シャハンはばつの悪そうな顔をした。
「金……持ってないぞ」
ブロンドの美女が、目を丸くする。その表情が、少しだけ幼く見えた。
「それは好都合ね」
「……何が?」
「ウチも、人手が足りないのよ」
数分後、シャハンは、エプロンを付け、モップとバケツを持たされていた。
「あのさぁ……」
「なあに」
「普通、怪我人に、雑用とかさせるのはとっても鬼な行為だと思うんだが」
嘆息とともに、半眼でルビィを睨む。
目前には、手狭とはいえ、そこそこに広さのある店内。
円形のテーブルが等間隔に並べられ、それぞれ四つの丸椅子が、足を天井
に向けて、テーブルの上に置かれていた。
入り口のドアには、営業中と書かれた札がチラリと顔をのぞかせている。
こちらから見て営業中という事は、現在準備中という事だ。
「でも、お金が無いのにこんなに世話になって、嗚呼俺はなんて甲斐性の無
い男なんだぁ、とか思って、自分を追いつめたりしない?」
「……もういい」
シャハンが乱暴にモップがけをはじめると、ルビィを鼻歌まじりで厨房に
姿を消した。
(不思議な女だ)
ちらと視線を厨房に送って、シャハンは心中、つぶやいた。
見た目には、こんなところで酒場など経営している女性ではない。
だが言葉を交わしてみると、いかにもな感じで、内外で幾らかのギャップ
がある。
人間としては当たり前――
ルビィの言葉を思い出す。
もちろん、助けてくれた事には恩義を感じていた。
モップがけをしていても、それほど腹の痛みは感じない。早い段階で、最
善の手を尽くしてくれたのだろう。
(ただ――長居はできない。それは事実だ)
バケツの水に、モップを浸す。
と、入り口のドアが開いた。カウベルが鳴る。
「あ、まだ、準備中――」
店員らしい事を言ってみたりするが、食材を抱えているのを見ると、おそ
らくここの従業員なのだろう。
「店長!ただいまです!……あ、こんにちは。傷、良くなったんですね」
少女は、はつらとした笑顔だった。
「……ああ」
「頑張って下さいね!」
すっかり、働き手としてアテにされているらしい。
従業員の少女が厨房へ行くと、シャハンは再びモップがけに邁進し――
ふと店の片隅に目をやった。
壁に立てかけられた、一本の槍。
モップを置いて、歩み寄る。
槍を手に取ると、馴染んだ感触が伝わってきた。
「だめじゃない、買い忘れたりしたら……あ、シャハン?ちょっと頼みが」
厨房から出てきたルビィが、言いかけて、声を切った。
「あ、それ。やっぱり、あなたのだったのね」
「ん。ああ」
「ここのお客さんが、親切に運んでおいてくれたのよ」
何故か目を伏せがちに、ルビィは言った。
「そうか。上、運んでいいか?」
「ええ」
槍をかついで、シャハンは、階段を上って行く。
厨房から、先程の少女が顔を出した。
「……あの人、冒険者なんですかね」
「さあ。一人で旅する冒険者なんて、あんまり聞かないけど?ほら、あの人
の事はいいから、仕事仕事!」
少女を再び買い出しに行かせて――
ルビィは、シャハンが上って行った階段を、静かに見つめていた。
つづく
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