No. 00160
DATE: 2000/08/31 03:59:53
NAME: リヴァース
SUBJECT: ≪地の塩≫
――――――『地の塩』――――――
目が醒めた。
静寂に満ちた群青色の空。星明りの下なお、ねっとりと絡みつく熱暑の大気。火蜥蜴の尻尾が、蛇のように、空気に混じり、自分の身の回りを、のたうっているように思う。
乾いた荒野。黄土色の岩肌と、さらさらに干からびた砂ばかりが、周囲を覆う。
体の下が、湿っていた。手を回してみると、荷物の下側も濡れている。...雨が降ったのか、と思った。
どうしてここで寝ていたのか。熱さで霧がかかった記憶を掘り起こして、回想する。
『終りなき夏の街』ガルガライスの南東。十の子供達と称される都市国家群、最南の街をぬけ、さらに南、道無き道に、リヴァースは足を進めていた。
大陸で随一の炎の精霊力の強さを誇る地。そこは、その街ガルガライスよりさらに、炎暑の精霊の力の強まった灼熱の場に近づいた、荒地だった。
夏。リヴァースは、暑いのが嫌いだった。
どうせ暑い夏なら、最も暑いところへ行ってやろう。
旅人の好奇心と半ば自虐的な選択から、夏を過ごすのに選んだのは、その常夏の街だった。
旅の道連れ、アノスの元騎士のアドルファスが、身重で男に捨てられた女に同情して、金を渡した。それは彼のなけなしの、旅費だった。
もう一人、諸国万遊の旅に出ていた、魔術師のリヒャルド。いったんベルダインの実家に戻ったにもかかわらず、さらに旅に出るというと家族の反対に合い、道中の路銀の当てにしていた後手を失っていた。
リヴァース自身も、ベルダインでの思わぬ浪費が祟って旅費に心元が無かった上に、野営中、盗賊に襲われた際、油断したところに小分けしていた宝石袋を奪われた。
かくして彼らは、せっかくの常夏の街にて、海とフルーツの木々に囲まれたリゾートを満喫するどころではなかった。仕事探しに逼迫し、汗を拭いながら走り回っていたのである。
そこに、海軍による海賊退治の依頼が、色とりどりの原色の花の飾られた酒場の掲示版にかかっていた。特に、魔術の技を持つ者が熱望され、特別報酬が支払われるとのことだった。リヒャルドが杖を上げる。また、海賊が街娘に乱暴を働いているところに居合わせ一悶着をおこした、フェミニストのアドルファスの意識も、そちらに注がれた。
海賊退治。人間相手の荒事には、リヴァースは今ひとつ気が沸かなかった。そこに、とある美食家の貴族からの依頼が舞い込んだ。それは、炎の精霊の力を含んだ『紅い塩』を探せ、というものだった。
ガルガライスから南東に赴いたところ。夏の街の暑さの源泉とでもいうべき炎の精霊力が極大的に強まっている個所に、一つの湖があるという。昔は海であったが、現在は閉ざされた塩湖で、暑さで水が干上がり、良い塩が取れるところだ。しかしその地域の熱気ははすさまじいもので、動物さえも近寄らない。ただその塩を採り売ることを生業にする遊牧民が、かろうじてしがみつくように住んでいる、とのことだった。
そして、『紅い塩』。太陽が最も高く上る時間に、炎の精霊の力を受けた純白の塩の結晶が、その湖の中で赤く染まるという。そして、乾燥させた塩は、炎の精霊力を取り込んだまま、その色を保つのだそうだ。
紅い塩を用いた料理は、塩味の他にも、精霊の恵みにより、塩っぱさと辛味と甘味のあいまった至高の味を醸し出すという。美食での自慢のし合いでその伝説の塩の話が友人から出され、道楽者の貴族は、是が非でも手に入れたくなったということだった。
ところが、行こうとする者が見つからない。これまでの依頼で、何度か赴こうとした冒険者もいるにはいたが、あまりの暑さに耐えかねて、皆途中で引き返してきたということだ。そこを知る者はみな、すさまじい熱暑のなか、あそこで生きられる者はいないと、口をそろえて言った。
ガルガライスは豊かな街である。海岸で寝ていても凍死することはない。自生している滋養豊かな南国植物の色とりどりの果実を口にしていれば、生きてはいける。退廃的な暑さの中、わざわざ、苦労することがわかっている絶望的な酷暑の地に赴く気を起こす者もいなかった。
ただ、旅人は幸にして、というべきか。常夏の街に来て、日が浅かった。いかに炎の精霊の支配する荒野といえど、そこに人が住んでいるのもまた確かだ。人間が住めるところなら、人間が行けぬはずは無い。懐の心許無さ以上に、リヴァースに好奇心と意地が競りあがった。
そこで、3人は街にて分かれた。浅慮甚だしい物好きなハーフエルフは、その依頼を受け、熱暑の大地に、赴くことになったのであった。
地の精の墓場と呼ばれる洞窟地帯の脇を通り抜け、南東の方角を目指すこと、数日。
高くなりつつある朝の太陽。中天に達するにはまだ間があるというのに、陽炎のように熱が揺らぐ。サラマンダの息の中にいるかと錯覚されるような大気。視界が炎の色に染まっていないのが、不思議だった。
あまりの暑さのため、虫の羽音、這う砂ずれの音すらしない。生き物すべてが、熱のなかで、うだり、倒れ付している。植物すら、暑さと乾きで、花粉や種が飛んできても、根付きはしない。かろうじて芽を出しても、容赦の無い暑さで、枯れ、風化してしまう。
思ったほどに乾燥はしていない。海風が吹き込み、空気にはむしろ湿気を伴っている。 しかし、この湿度も、暑さをただ増長させるだけでだった。
悪意の砂漠と呼ばれるところを旅したこともあった。しかしその時は、そこを生まれ故郷とした者に連れられていた。陽をよける方法、乾燥を防ぐ油薬。考えてみると何かと便宜を図ってもらっていた。それに砂漠は、夜は気温が冷える。日が沈むと、蟻や蜥蜴が顔を出す。生けとし者は、熱の煉獄から開放されて、息をつくことができた。
しかしここは、夜には多少の気温は下がるものの、昼よりはマシ、という程度にすぎなかった。この暑さなのに、汗が出ない。皮膚が熱にダメージを受けてしまっていて、本来の身体を冷やそうとする機能をもつ水霊たちがうまく働かない。
体の息が、涼しく感じる。涼しい、というには語弊があるが、そう評するしかない。周囲の熱があまりに暑いので、自分の体内から出される熱のほうが、冷たいのだ。
そして、空気を導いて、吸い、吐きだすはずの鼻の奥は、風邪を引いた時のように、詰っているように、ずっと感じている。鼻の粘膜が、熱にやられていた。鼻を噛むと、鼻水ではなく、血しか出なかった。ぱくぱくと干上がった魚のように、口で息をするよりない。肺が痛む。
さらに、眼がごわごわと、硬くなっている気がする。ゆで卵が押し込まれているような感覚である。乾いて涙も出ない。見えはするが、違和感がある。このまま失明してしまうのではないかという不安に駆られた。
その不快感を増長するように、熱気だけが、大蛸の触手のように、身体に絡み付いていた。
比喩ではなく、熱に浮かされて、リヴァースは喘いだ。
「...熱い―― 〜〜...っっ...!!」
乾いてひりつく粘膜の奥から叫ぶ。
そして、狂人のように、前方に向かって走り出した。確かに、暑さに狂いかけていたのかもしれない。人間、極限状態に置かれると、それをさらに増長させるような自虐を、時たまにしでかす。
しばらく岩場を疾走した後、走りながら、もんどおりうって、岩場の影に転がり込んだ。体がしびれて、わなないた。熱痙攣を起こしたのだった。筋肉が小刻みにひくひくと動き、歯が噛み合わない。
そのまま、震えをとめようと、目を閉じて堪える。そして、意識を失った。
そのまま、夜まで眠り込んでいたのだろう。
体の中が、いっそう砂っぽかった。砂に埋まっていた、といったほうが適切か。
エレミアで買った布で頭を巻き、顔に垂らしていなかったら、鼻や口の中まで砂に覆われ、窒息していたかもしれない。
倒れ意識を失っている間に、短い砂嵐が、雨とともにやって来たらしかった。岩場の影に倒れこんだ身体は飛ばされることは無く、風と水が、自分の身体を冷やし潤してくれた。よく生きていたものだと、礼拝したこともない幸運の神に礼の句を告ぎ、こちらは馴染みのある精霊たちの恵みに感謝した。
闇の中、起き上がる。この地では、砂漠と同じく、どう考えても昼間に行動することは得策ではない。これほどの暑さには、旅人も盗賊も近寄らないだろう。
汗が浮いていた。少し、肌の機能が回復してきたらしい。リヴァースは立ち上がり、再び、南西の方角を目指して、歩き出した。
『紅い塩』のある湖にたどり着く為には、その場所を知るという遊牧民に接触せねばならない。しかし、本当にこんなところに人が住んでいるのか。単に、人を困らせようとした貴族の悪意のある奴に担がれたのではないか。そんな不安が胸をよぎった。
天を見上げると、振らんばかりの星。自分は熱病に冒されて死に、天界のラーダの元に召されたのかとすら思える。
そのとき、星明かりを遮って動く闇の姿が、確かに見て取れた。駱駝と、それに乗った人間の影。
「おぅい!...おぉーーーいっ!」
静寂を破り、精一杯声を張り上げて、リヴァースはその声を追った。
よそ者の半妖精が、遊牧民の村に受け入れられたのは、別段、その村が開放的であるからではなかった。ほうほうのていでたどり着いた来訪者は、体が熱に冒され、休息を必要としており、もはや起き上がることすらできない状態であった。単に、そんな状態の者を見捨てるほどに、遊牧民達は非人情的ではなかった、という話だっただけのであろう。
「ここでは、弱き者は生きてはいけない。歩けるようになったら、さっさと帰れ。」
駱駝の上からリヴァースを拾った男には、そう諭された。男は、街に薬草を売りにいった帰りだった。
頭痛が酷く、鼻と喉と股の間がひりひりした。体中の粘膜という粘膜が、熱により痛めつけられていた。目の奥がちかちかして、起き上がろうとすると激しい眩暈が襲い、吐き気がした。唇は乾いてかさかさで、唾液も出なかった。布に包まれていた髪だけは、ふさふさと艶を保っていたが、今は、熱を蓄え暑さを増長させるだけのものにしかならない。まったく情けない。寝そべりながら、半妖精は唇をかんだ。
『紅い塩』の探索どころではない。もはや自分には無理だと、思い始めていた。族長の言うとおり、動けるようになったら、ガルガライスに戻ろう。かの街の芳醇なフルーツと、陽気な音楽が恋しかった。人の生きる極限など目指そうとしたことがそもそもの間違いだった。旅人などとうそぶきながら、自分は街の片隅で、そこに住む者たちの消費のおこぼれにあづかりながら、細々と人知れず生きていくのがお似合いなのだ・・・体が弱れば、心も弱っていた。
部族の村は、あまりに簡素で粗末だった。本当にそこに人間が住んでいるのかと、疑わしくなるようなたたずまいだった。家のようなものもあった。椰子の皮で作られ、潅木の枝で屋根が覆われている。しかしそれは、単に、料理の為の風よけの小屋であるという。人々は、家の中ではなく、野外で、眠る。
壮年の男が来て、面倒をみてくれた。村の祭祀だという。彼は、この村での冠婚葬祭の礼を取り仕切ると同時に、精霊を使う術を心得ていた。ここでは、人々の生活は、精霊達の動向に大きく関わっている。遊牧民たちの尊敬を一心にうけ、彼らが灼熱の地においてすこしでも心穏やかに生きられる術を説いていた。
彼の看護のおかげで、少しずつ、熱にやられた体が持ち直していった。
食事は大抵、乾いたパンと、椰子のスープだけだった。パンは固くて、歯が立たない。スープに浸して、ようやく食べられるようになる。それにしても、美味しくはない。ガルガライスの色とりどりの瑞々しい果実やナッツが懐かしい。保存食もあったが、帰りの分も考えておきたい。食べないと体が持たないので、これは美味い、やわらかい、と自己暗示しながら、無理やり口に押し込んだ。
椰子は部族にとって貴重な資源だった。皮は住居や、寝るための敷物になる。繊維は服になり、実は彼らの肉となる。樹液は水分源となり、彼らは常にそれで喉を潤している。この熱い地では、とにかく水が必要だった。
風は熱風。空気が動くと、余計に暑い。体温を冷やす為に、貴重な水を体に塗る。あっという間に乾く。そうして、水を無駄遣いをするなと怒られた。
砂漠と違って、意外と、この近辺に水は豊富であった。しかし、昔は海であったらしいこと、灼熱の地にあって水が蒸発し、岩から塩分が溶け出していったことなどから、ほとんどは、塩水だった。塩の混じった水は、飲めない。動物も寄り付かず、植物も育たない。
そういうわけで、湧き水があっても、ほとんど海水のように濃度の濃い塩分を含んだ、塩水魚などの特別な生き物しか寄り付かぬ水しか存在しない。はるばる、一刻もはなれた生水の湧く場所まで、人々は水を汲みにいく。どうしても足りない時は、精霊を操る祭祀の家系の男が、塩水を真水に変えるのだった。
清水の湧くすぐ近くの場所に住めばよいのに。家財がほとんど無いのであるから、移住は簡単であろう。そう言うと、人が水の傍に住むと、水が汚れると、祭祀が説明した。水はこの地では、動物達にとっても希少なものだ。他の動物たちから水場を奪わぬために、泉から離れて生活しているという。
極限の生活を強いられていると、他の動物どころではないだろうに。そういうと、動物が居ないと、糞便や屍肉も生じない。大地は荒れ、植物もますます枯れる。それはまた、自分たちを死に追いやる行為である。そう、祭祀は返した。
涼しくなれる場所がある。そういって、祭祀は、未だへたばっているリヴァースを伴った。そこに、岩に覆われた水場があった。それは特別な泉であるという。入れといって、自分は先に浴した。 どうせすぐに乾くからと、リヴァースも服のまま飛び込む。瞬間、驚愕の表情を浮かべて飛び上がった。
「熱い!!」
星の光、砂の粒の数ほども呟きつづけたその言葉を、再度張り上げたが、少々意味合いが異なった。
そこは温泉だった。水の中に確かな炎霊の力を感じる。余計に頭が、奥から溶けそうになった。
抗議すると、まぁ、待っていろと、祭祀はいう。
なにが良いのかわからなかったが、温泉からあがってから、火照ってどうしようもなく失調した体に、確かな涼しさが戻ってきたのが感じられた。
意外なことだが、水は、空気よりも多く、炎の精霊力を蓄える。熱容量という。
有名なザーンの岩風呂の水蒸気も、中に入ると心地よい。しかし、同じ熱さの水に触れると、火傷をする。同様に、冷たい水に濡れているとすぐに風邪を引くが、同じ温度の乾いたところであれば、耐えられる。北海で難破した者は、海の中に居ればすぐに凍死するが、何とかそこから這い上がると、長く生きつづけることができる。
同じ理屈で、温泉は、熱く感じる。そして、同じ温度の大気に上がったとき、比較として、涼しく感じられたのだろう。そう考えた。
温泉の効用自体もあったのだろう。その後数日、沐浴を繰り返すうちに、リヴァースの体調は徐々に回復していった。
人の体とは不思議なものである。環境に順応する。
確かに、熱さには苛まれた。しかし、いてもたってもいられない狂おしさは、どこかに失せていた。頭痛や吐き気も去っていた。じっとりと汗のうかんだ肌を撫でながらも、ぼんやりする熱さに居心地の良さすら、感じ始めていた。
こうなると、やる気も欲も出てくる。
自分の来た目的を、祭祀と族長に告げた。『紅い塩』を求めに来たのだ、と。
「弱い者は生きていけぬ。ここは灼熱に生きる者たちの地。回復したならば、帰れ」
村長は、来た時に、通商に出ていた男に言われたのと同じことを、頑固な瞳で、確固として言った。
『紅い塩』は確かに存在する。唇を噛む自分に、それを傍から聞いていた祭祀の男は、そう告げた。
彼ら、熱の地の部族の人間は、通商のための生業として、塩採りの旅をする。男も女も、その隊商に参加し、無事に戻ってきて初めて、一人前の大人と見なされる。年齢の制限は泣く、子供でも参加し、挑戦することはできる。しかし、大の大人でも、大抵は体力が尽き、そこで熱病に倒れ死に伏すか、駱駝に乗せられてほうほうのていで帰ってくるという。
無事に仕事を成し遂げられなかった者は、男も女も、成人とは見なしてもらえず、結婚もできない。食事を作ったり洗濯をしたり、椰子の繊維から服を織ったりと、日常の下働きのようなことしか、させてもらえない。再挑戦も可能だが、一度失敗した者の心理的ダメージは大きく、二度と行きたがらない者も多い。
そして、成人に達せるものは、この地で生まれ育った者でも、半分に満たない、という。一度で成功させた者は、それだけで、一生の自慢にできる。過酷な儀式といえた。
塩捕りは、部落からさらに数日、奥に入ったところにある塩湖で行われる。地に閉じ込められた海は、塩分濃度が特に濃くなり、灼熱の中でとっくに飽和に達していた。そして、その底には結晶化した塩が多量に沈んでいるのだ。それを採りにいくのが、この部族の成人の儀であった。
その塩の湖の中央に、確かに、紅く光る塩が存在するという。一日のうちで最も熱い時間にのみ、その色を目にすることができる。彼らは、それは火の精霊の湧き出る聖地だといって、直接そこには近づいたことはなかった。
しかし、つい2年程前に、外から来た男が、それを調べていったという。炎の髪を持った、快活な人間で、火霊の申し子のような男であったらしい。冒険者であり、ガルガライスの熱さの正体が知りたかったということで、物好きにも、この灼熱の地やってきた。そこに、炎の精霊界への扉が存在すると考えたらしかった。しかし、調査の結果、残念ながら、紅い塩の海は、火霊たちの世界への道では無かったと知り、その男は、町へ戻っていった。
その者にできたのなら、自分も、と半妖精は主張した。
しかし、「炎の髪」と彼らが呼んだ男は、居丈夫で、たくましい腕と分厚い胸、無限の体力、そして何事にも動じぬ鉄の精神を所持していたという。それに比べ、この貧相なハーフエルフの実態はどうか。
最初にふがいない姿を見せたのだから、反論の仕様が無い。
しかし、ここまで来たら、意地、というのは確かにあった。
そしてそれ以上に沸き起こったのは、拒まれたくないという感覚だった。
エルフと人間の血を双方もつ自分。どちらの社会にもしっくりと馴染むことはできない。しかし、中間的な立場に生まれついただけに、双方を傍観者の視点で眺めることはできる。それをもってして、変化を求めぬエルフと、多様さと成長の中に生きる人間。その二つを結びつける蝶番のような存在になれれば。そしてひいては、物質界に根を張った妖精達と人間を結びつける枝になれれば。それが自分の存在意義になるのではないか。
旅の中、ドラマティカルに千変万化する人間たちの社会を見るにつけ、いつしかそういう希望が沸いていた。ゆえに、そこに人間がいる限り、その人間を知ろうとすることが、いわば存在の証だった。
炎熱の地に生きる彼らは、人間の多様さを表す者の中でも、特に顕著な存在だった。いっそう、彼らに交じりたくなった。交わらねばならぬと思った。
ここで引き下がったら、自分、は自分の行った選択に負けたことになる。目標を見失う。
リヴァースは、頭の布を取り、矜持も恥ずかしげも捨てて、陽炎の地の民にそれを告げた。そうして、塩採りへの旅の同行を、懇願した。
そこまで、求めるならば、次の塩採りに参加するが良い。ただし、命の保証はしない。
祭祀は溜息混じりに擁護してくれた。しかしそれは単に、リヴァースが精霊を使え、いざという時に塩水を真水にする能力が、隊商の仲間に役立つだろうという目論見が働いたからでもあった。
そういう祭祀自身も、塩採りの隊商に参加した事はあった。しかし、途中で熱にやられて倒れ、駱駝で運ばれる羽目になった。駱駝は、通商に用いる塩を運ぶ為の貴重な動力である。倒れ駱駝に乗せられるということは、その分、彼ら全体の収入を減じさせることに直接つながる。通常ならば、未熟者のレッテルを貼られるところだ。
しかし、祭祀はその旅の中で、炎の精霊の声を聞くことに目覚めた。疲労と熱病に浮かされた頭の中で、自分の存在を確かに精霊に共感させることができたのであった。それから、部族の代々の祭祀に師事し、その地位の後を継いで、今にいたるという。彼らの中には、そのようにして精霊使いになる者が、十数年に一人の割合で生じた。
途中の岩場自体にも、危険は潜んでいる。猛毒を持つ固い殻に覆われた蠍、人間に匹敵するほどの大きさもある巨大な蟷螂、さらに、肉食性の蜥蜴などである。しかし、一年のうちで最も暑いこの時期には、さしもの凶悪な怪物たちも、なりを顰め、岩場でじっと、暑さをやり過ごす。通常、昆虫は冬、気温が下がる時期に冬眠をするが、この地では逆である。だからこそ、この灼熱の時期にキャラバンが出されるのだ。
隊商といっても、駱駝が4頭と人間が6人程度のものであった。道程の入り組んだ岩場では馬車は引けようがない。そもそも、馬自体が、熱さにやられて動かない。
隊商の頭は、闊達な長身の女だった。もうすでに、5回の塩採りを成功させていて、その経験を買われ、隊の頭の地位を与えられて、張り切っていた。ここでは男女の性差は少なく、ただ、塩を採れる体力のある者が、上に立つことができる。
精霊を使うよそ者が参加すると聞いて、女はなにやら期待していたようであった。しかし、リヴァースの姿をみて、明らかな失望の色を見せた。彼女は、「炎の髪」がやってきた時に、隊商に一員として同行していた。その男が戻ってきたのかとカン違いしたということだった。どうやら、女は外来の居丈夫の男に恋心を抱いていたようだったが、再会の期待は外れたということだ。
かくして、熱気のくぐもるの闇の中、キャラバンは進む。
さらに炎の精霊の集う地に近づいていく為か、気温はいっそう、上がっていくようだった。昼間はとても、歩けたものではない。幾分気温が下がる夜中に歩き、陽が中天にあるうちは、ひたすら岩陰で休む。
意気込んだは良いが、早速、ヘマをやらかした。この地では、命の次に大切な水を湛える皮の水袋。枯れ木に引っ掛け、それに穴をあけてしまったのだ。そして、引き返さざるを得なくなった。自分ひとりの軽率さのために、全体に迷惑をかけた。最初から、失態だった。周囲の者達に、何もいえなくなってしまった。熱さで脳みそまでやられたのかと、揶揄された。
女隊長だけが、それでも一緒に来い、絶対に諦めるなといった。励ましというよりは、半ば脅迫のように感じられた。
落伍者を出すのは、隊長としても、恥であるようだった。なるべく皆が成功させるように勤めるのも、その役目だった。
リヴァースのほかに、初めて参加する者は2人いた。彼らはいわば、隊商の新参者で、外モノの半妖精と共に、何かと下働きをさせられていた。
駱駝の世話。食事の支度。休息時に太陽を遮る為の岩場を組むこと。これが思いのほかに重労働だった。駱駝は弱っている人間を尊敬する気はないのか、まったく言うことをきこうとしない。手綱を引っ張っても、思いの方向に進んでくれない。どうにかするとその綱を噛み切って、逃げようとする。岩場を組むにも、ベテラン達が何もせず座っているところに、重い岩を積み上げる作業をするのも、まったく面白くない。
風霊を操り風を起こしても、熱風が吹き付けてくるだけである。風は、体温よりも温度が低くてはじめて、涼しいと感じる。
普段ならばさほど理不尽だと感じない作業も、熱さと疲労の中で行うと、いっそう苛立たしく感じる。半妖精はまったくの無口となり、口をへの字に結んだまま、むっつりと、岩肌を睨みつけた。
物質化したサラマンダが、周囲にうようよと、邪な笑みを浮かべて蠢いているのが、目にみえるようだった。
そんな顔をしていると、余計に暑くなる。笑え。にこにこしろ。
そういって、隊長の女はリヴァースの背中を叩いた。
笑うにも、力が要る。にいぃ。無理やり、いびつに笑うと、泥人形のような面だと、笑われた。
この燃えつくような大気が、永遠にのさばっているわけではない。この季節が過ぎれば、いくらか、過ごしやすい気候になる。それでも、他の町の真夏よりはずいぶんと暑いのであろうが、冬には、枯れ果てた荒野にも、暑さと乾燥に強い潅木が生い茂るという。
つらいときは永遠に続くわけではない。一つの灼熱を乗り越えた後は、その分大きくおおらかな心を手に入れることができる。幸福と安楽は、身体を癒そう。しかし、心を鍛えるのは、苦行である。その苦難が大きいほど、後に手に入る満足は大きい。
そして、それを手にした者こそが、成人にふさわしい扱いを受けることができるのである。
出立前に、祭祀はそう、半妖精に諭した。
にもかかわらず、リヴァースは、この部隊の中では、どうしようもない子供だった。
今という間に今ぞ無く
今という間に今ぞ過ぎ行く
子待つテントに、妻のパン
いそげ、いそげや、岩の道
ラクダの歩み、砂に消ゆ
岩の文様 明日になし
熱さ苦しさ、刹那の風
つらきことなど、後の露
枯れ木も水場で蘇る
季節は緑を巡り越す
乾きに去りゆく青鳥も
風化せぬ地に回帰する
今今と、今という間に今ぞ無く
今という間に今ぞ過ぎ行く
陽炎の地に、隊商の男達の、野太く明るい調子の唄が響き渡っていく。
歌を歌うのは、熱さにささくれ立った心を静める為。そして、駱駝を落ち着かせる為である。
この暑さでは、駱駝はやせ細り、水をためるという背の瘤も小さくなってしまっている。渇死しそうなときは、瘤の水を飲めというが、それは迷信である。そのようなことをすると駱駝は死んでしまうだろう。駱駝は、乗り物であり、荷運びの力であり、日よけに用いられる、この熱の中で生きることができる貴重な生き物だった。
気持ちを強く、健やかにもて、といわれた。気持ちが弱まると、身体も蝕まれる。
腹のへその下に力を入れ、何も考えずに息をただ、吸い、吐く。吸って、吐く。
そうすれば、風の精霊が、熱に曝された身体と心を、優しく労わってくれる。
心を強くことは、体内のマナを活性化させることだ。自分のマナを知覚し、大きく持つことで、魔法的な変化のみならず、精神に及ぼす自然の作用に耐えられるようになる。
この地の人間は、ただ、肉体的に強いだけでは、やっていけない。精神的な強さが、要求される。
負けるものかと、リヴァースも、腹の底に力をこめ、声を張り上げて歌った。いつも薄暗い酒場の隅で、ぼそぼそと唄う自分にも、こんなに大きな声がでるのかとびっくりした。
森の中で精霊たちの営みに満たされ、意思ある力に共感しながらながら唄う声ともまた違った。
それはひたすら、焼き尽くさんがごとくに襲いくる熱に抗い、生にしがみつく為の、賛歌だった。
不思議なもので、唄うことにより余計に消耗すると思われた体力が、唄の糧となる息を吸い込むたびに、蘇ってくる気がした。
歌声は、男達の声と合唱になり、陽炎をいっそう、揺るがせた。
この暑さからは、どうあがいても、逃れられない。我慢するしかない。
大切なのは、何を耐えたか、ではなく、どう耐えたか、なのよ。
その声に聞き入りながら、女隊長が、笑った。
砂嵐が来た。風が熱を伴って、渦を巻く。激しい上昇気流に、大気中のウンディーネたちが集い、雨をもたらす。それは、おそらく、パンを一つ胃に収める間の時間でしかなかっただろう。しかし、風と雨の洗礼を受けた赤茶けた岩の地は、それで確かに、息づく。水を吸った岩肌はその地表下に雨を貯める。それは岩の裂け目を縫って低地に流れ出し、湧き水を生成する。日の当たらぬ影に、わずかな苔を生やす。そしてそれを舐める動物が、寄ってくるのだ。
雨を肌に浴びて、身体を冷やし、一息入れる。ただ、この恵みの水に活力を注がれたのは、人間達ばかりではなかった。
この季節に珍しい獲物たちを狙い、巨大な蟷螂が、岩場から人間の後ろに立つ駱駝達をめがけて、上方から襲い来た。
不意を討たれたが、駱駝は何が何でも守らねばならなかった。
羽を広げた蟷螂が、地に降り立つ瞬間を見計らって、リヴァースは、露出した岩肌に住む地霊に命じて、石の礫をぶつける。
比較的柔らかな腹の部分を、瓦礫に突き破られ、巨体の昆虫は、紫色の体液を撒き散らした。シギャァァという羽音が、威嚇にも恨み声にも聞こえた。
そして、巨大な蟷螂は、狂暴化し、人間の方に向かってくる。
対し、まだ少年と言っていい年齢の男が、大人たちにいいところを見せようと勇気を振り絞って、斧を片手に向かっていった。その一撃を受けた仕返しとばかりに、死神の鎌を思わせるその手で、蟷螂は少年の腕を、ちぎらんばかりに鋏みこんだ。少年の顔が、苦悶に歪む。
そこを背後から、女隊長と部族の男が手斧で切りつけた。しかし、戦士の訓練を受けていない彼らの手つきは、腰が入っておらず、見る目に危なっかしい。それを擁護しようと腰の剣をまさぐるが、そこにあるのは、慣れない直刀だった。父親の名を刻んだ曲刀は、旅途、砂漠に赴くという剣士に託されていた。
思い直し、再び、精霊に働きかけ、光霊を召還してぶつける。エネルギーの球に乾いた胴体を焼かれ、どうと巨体が倒れ付した。
少年は、初めてキャラバンに参加したうちの一人だった。腕は切断こそされなかったが、肉が断たれ、真っ赤な血を滴らせていた。腱が切られているかもしれなかった。
止血を施し手当てをするが、動くとまた傷が開きそうであった。何より、痛みが激しそうだった。裂傷に、発熱もするだろう。しかし、このまま歩いて行くと、少年は言い張った。何より、駱駝に乗せられることに抵抗していた。だが、 周囲の者たちに咎められた。駱駝は塩を運ぶための貴重な動力である。人間がこの駱駝に乗ることは、成人のための試練に失敗することを意味した。
しかし、隊長の命令で、少年は無理やり、駱駝の背に担ぎ上げられた。お前は勇敢だった。それはここの誰もが知っている。そう慰められたが、最後まで悔しそうに、痛みと不甲斐なさの涙を浮かべながら、少年は駱駝の背にしがみついた。
リヴァースの方は、凶悪な昆虫を倒し、面目躍如かとも思われた。しかし逆に、そんなに好く精霊を使うのに、なぜおまえの精神は弱いのだ?と笑われた。確かに、この旅で、最も消耗し、疲弊した面をみせ、休息を要求しているのは自分だった。
よそ者なんだから容赦してくれと、疲れたようにいうと、女隊長は、『炎の髪』はこの部族の誰よりも強かったと主張した。よけいなことをしてくれたものだと、半妖精はその冒険者を恨んだ。
永遠に続くかとも思われた道程。
確かにそれには終わりがあった。
世界には自分に抗うものしかない。そう、夜の闇の中、絶望的に思い始めたとき。
熱風が吹きつけた。急に、視界が開けた。
延々となだらかに連なる岩を登りきったところだった。
崖になった下方に、水晶石が凝縮されたかと思わんがばかりの水面が、昇り来る暁光を受けて煌いていた。
そして周囲には、薄茶色のウパスの木が生え、ほんの少しの緑を見せていた。薄茶色に覆われた岩場に浮かんだその命の色と、エメラルド色に輝く塩の海の対比が、涙が出るほどに、美しかった。それは、死に絶えたと思われるような世界のなか、自分たちを優しく包み込むために広げられた、大いなる自然の織り成す命の布だった。
ウパスは、火の精霊力を内包する樹である。この木の皮を煮詰めたものを煎じると、吐き気を催させる毒となる。誤って他の毒などを服用した際に、用いられる。隊商はこの木の皮を剥がして束ねて持ち帰り、これも通商の糧とする。木は貴重である。決して一度に、一本の木からしか皮をはがず、一度剥いだら、1年は同じ木から皮を取らない。それが、彼らのやり方だった。
そして、前方に横たわる塩湖。
底に析出した塩の結晶が積もっていて、水の下に、きらきらと白く光っている。それが、濃い塩水の層の上から見ると水と重なり、緑玉石色の、なんともいわれぬ美しい色合いを醸していた。それは、大地母神の涙が凝縮されたかとすら思える、慈悲に満ちた輝きだった。
しかしそこは、外見に反して、まったくの死の海だった。塩には、水の精霊の動きを促す力がある。濃い塩水に身体の粘膜が触れると、塩水より濃度の低い体液が、体内から染み出す。この海の中では、魚も植物も、生きられるものはない。神秘的な光を湛えるこの湖は、頑ななまでに、生ある者たちを全て拒んでいた。
そこにみな、バシャバシャと水音を立てて、入っていった。椰子の木の繊維で編んだ布袋に、底にたまっている白い塩を詰める。持ちきれなくなるぐらい重くなったら、岸辺に運んで、乾燥させる。熱気に曝された塩は見る見るうちに乾き、純白の結晶となる。身体に触れた塩水は、蒸発すると、人間達の肌を真っ白に塗り上げた。
その作業は、苦痛を極めた。ただでさえ暑い最中の、重労働である。熱でやられていた肌がひりひりする。塩が染みて、痛いというどころではない。眼に入ろうものなら、悶えてのた打ち回る有様であった。みな、この激痛に堪えながら、海と大地の恵みを、駱駝に積みきれなくなるまで、一心にかき集めた。
本来ならば、それでこの死の熱の地から退散できるところを、皆に1日待ってもらう。
ファリスの御手の光が中空に達するまでの間。岩場を組んでしばし眠った。
そして、太陽が天頂に達する、大地も空気も灼熱に悶える時間。半妖精が目的にしていた『紅い塩』を得る時だった。
気をつけて凝視しなければ、誰もが見逃していただろう。しかし、正午になって、たしかに、白とエメラルド色だった湖の中央の一部が、ほんの仄かに、紅く染まっているのが確認された。
リヴァースは、水霊に、水中でも呼吸させてもらえるよう助けを求めながら、塩水の中を潜っていった。眼も耳も鼻も口も股間も、体中の穴という穴が、ひりつき、焼かれるように痛む。気の狂いそうな熱痛をただ堪える。眼の奥が真っ赤に染まる。身体中の皮膚が剥がされていそうな気分を味わいながら、塩湖の底の結晶をひたすらに汲み取った。
紅い塩、というのであるから、火のように真っ赤なものを想像していた。しかし、乾燥させてみると、それは、仄かにピンク色を帯びた、四角の結晶だった。光の角度により、その色も、透明になって掻き消されてしまったりする。
宝石は、ほんのわずかな不純物が混じると、色の精霊が、そこにできた、ごくごくちいさな溝捉えられて色を発することにより、様々な色を有するのだと、聞いた事があった。もしかしたら、紅い塩に、炎の精霊が宿るというのは単なる迷信で、不純物の入ってできた塩が、光が天頂から降る角度になると、赤みを帯びて見えるというだけのことかもしれなかった。
紅い塩を手に浮かび上がってきたリヴァースを、隊の皆は歓待した。
舐めてみると、ただでさえひりついていた舌が、焼けるように痛んだ。あたり前だが、塩っぱかった。ただ、普通の塩とは明らかに違った、なんともいえぬ熱さと甘さがあった。悶えるように水を欲して、隊の者たちの失笑を買った。
皆、ここまでたどり着き使命を成し遂げられたことに、歓喜の笑顔を浮かべていた。特に、道中最も悲壮な様相であったリヴァースが、この地に自分の足でやってこれるとは、誰も思っていなかった。本人ですら、途中で何度駱駝に上げてもらおうと言い出そうと思ったことか。自分はこの部族の人間じゃないのだから、成人の儀に失敗したところで何ら関係はない。ただもう、楽になりたかった。
しかし、そう思う毎に、頭を振って、気力を振り絞って、絡みがちの足に歩けと命令してきた。もし、屈して、駱駝の背に乗せられていたら、これほどの達成感は感じられなかっただろう。すべての塩を駱駝に積み上げ、古代王国の魔法人形のように、浮いた塩で真っ白になった彼らは、握手をし、肩を叩き、抱き合い、ひりつく唇でキスをしあっていた。それから逃れるのに必死だった。
帰り道は、無論、同じだけの苦難を繰り返すことになる。とはいえ、意気揚揚だった。こうなったら意地でもここで駱駝に乗せられるわけにはいかない。
村に帰ったら、いくら消耗していても、疲れた顔は絶対に見せるな。試練など、なんでもなかった。やり遂げたのは、灼熱に打ち勝った大いなる人間なのだ。英雄なのだ。笑え。
そう、女隊長に言われた。
塩を駱駝の背に積み上げて戻ってきた時、村人の歓迎の声は、予想以上に大きかった。自分たちは、試練を成し遂げた英雄だった。
蟷螂に片手を切られた少年は、神経を断たれて、指が動かなくなっていた。しかし、その勇敢さを立証され、駱駝の背にありながら、特別に、成人の証を得た。
もう一人、初めて試練に望んだ青年は、帰ってくるなり、勢いに乗って、熱を上げていた部族の少女に、プロポーズをしていた。
ささやかながら、宴会が催された。椰子の実の汁を発酵させた酒が振舞われた。ここでは、椰子の果汁は貴重な水分源であり、それを蓄えて量を減らして嗜好品とするなど、とんでもない贅沢とされていた。椰子の酒は、成人の儀を成し遂げた青年たちへの、特別な褒美だった。
残念ながら、その希少価値に見合わず、あまり巧い酒であるとはいえなかった。高温で発酵されすぎて、火霊が働きすぎて甘味がなくなり、辛いだけの酒になっていた。どこの酒場に持っていっても、これを注文する者などいないだろう。しかしそれでも、この地では、最高の贅沢品だった。そして、この瞬間は、王侯貴族も味わえぬであろう、この上なく、甘美な酒に感じられた。
族長から、酒を酌されながら、リヴァースは、どうだ、目にもの見せてやった、と自慢する気にはなかった。それどころか、最初村長の言葉どおり、素直に街に戻っていたらと幾度後悔したことか数え切れなかったのを思い出し、目をあわせられずにいた。
宴もたけなわになり、そんな半妖精を目に、静かな光を茶色の眼に湛えて、族長はいった。
われわれは、『地の塩』であるという。
塩は生きるため・・大地、水、火・・・からだの中のあまたの精霊のバランスを保つ為に、人間にとって必要不可欠なものである。
そして、また、我々生き物も、大地にとって必要なのだという・・。我々が生き、物を食み、死して大地に埋もれることにより、大地は新たな養分を得て、再び蘇る。しかし、悪しき塩、豊富すぎる塩は、大地を荒らし、草木を枯らす。だから、奢侈と驕りを避け、他との調和の中で生きねばならぬ。
我々は、大地にとって、よき塩でなくてはならない。
わずかを望むものよりも、より多く望む者のほうが、ずっと貧しいという。
自然と我々の相補的な関係と、自分たちへの戒め。彼らはそれを、善く生きる方法として知っていた。
我々が、塩を必要とするように。
――わたしたちも、大地に必要とされている。
その考え方に、胸につかえた闇が払われ、星が心の中を照らし出すような清々しさを感じた。
遺跡で古代魔術師と知恵比べするだとか、魔獣と戦うだとか、暗殺者に狙われて生死ギリギリの緊張を味わうだとか。そういったことにも確かに、生を実感する手立てとしては有効であろう。生と死の境界に立ち、ゾクゾクするようなそのスリルに取り付かれ、麻薬のようにそこから抜け出せなくなってしまった者も、冒険者には多い。非日常的な「死」を身近に感じることでしか、生きている実感がつかめない。そして、その味を覚えると、もっと近づきたくなる。それナシではいられなくなる。一見、生命力に満ちている者ほど、その傾向が強い。在野の魔術師のレドウィックや、悪意の砂漠の流砂の遺跡に赴いたエゼキエル、赤鼻の穴熊ジッカなどは、その典型的な者たちだろう。
だが、ここに生きる者たちは、ただ、生きるということを愛している。大地を崇め、熱を恐れ、その中で死を身近に感じながら生きている。死が常にそばにあるからこそ、強烈に生のありがたみを実感している。だから、謙虚でありながら、熱空に揺らめいた空気の中にあって、生きる意志の光を煌かせている。
自然そのものが、生きるということを、眼前に、克明に、常に、描き出してくれるのである。それは、非日常に彩られたきらびやかな観劇の舞台ではなく、日常としての彼らの土壌だった。
そして、それは、自分の存在感を知覚する上で、生まれてきた意味を覚えつづけている。とても重い生き方であるように、感じた。
祭祀が言った、彼らの部族にある格言が、心に残った。
「 死と同じように避けられないものがある。それは生きることだ。」
彼らもまた、善く生きる事を知る民であった。
熱さに灼かれた者ほど、水の冷たさをありがたがることができる。自然の苦境をくぐった者ほど、生命の尊さを知る
旅人として。精霊使いとして。人間の血を持つ者として。
その在りかたに、生けとし者の理想の姿の一つを、見た気がした。
そうして、『紅い塩』を手に。部族を去る。
塩の商隊が街に行くのは、灼熱の季節が過ぎてからである。ガルガライスでは、アドルファスとリヒャルドが先に依頼を終らせているだろう。 連絡なしにあまり待たせるのも、気が引けた。 正直なところ、何より、一刻も早く、この熱地獄から去りたかった。
試練をやり遂げたおまえは、この部族の人間だ。いつでも戻って来い。
そう族長はいった。
火の大気よりなお熱いものがこみ上げてきて、胸がつかえた。
生きることを知る術を知る彼らに受け入れられ、一員とみなしてもらった。自分の命のあり場所を与えてくれた。それが何より、嬉しかった。
この暑い季節が過ぎれば涼しい季節がくる。
つらいことを乗り切れれば、幸せな時も来る。
おまえは一つの苦行を乗り越えた。次には幸福と平安が来たらんことを。
そうして、幸せに飽きたら、またこいと、見送りに来た女隊長と祭祀が、笑顔と別れの涙を湛えていた。
やがて、灼熱の季節は過ぎるのだろう。泣きそうになるほど青い空には、どこかの街で見た、秋を思わせる鱗状の白い雲が、ふんわりと、漂っていた。
_______________________(了)
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