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No. 00184
DATE: 2000/10/19 15:46:44
NAME: 血と悔恨を抱く者
SUBJECT: ひとすじの雫
ひとすじの雫。
真闇の中、暗天を貫いて「それ」は私に触れた。
次々と降り注ぐ銀色の雨は光の無いはずの闇夜をまるで薄く照らし出すように光を発していた。
いや、実際はそうでは無いのだろう、それは私の感覚がそう捕らえて居るだけであって、実際光を放っているわけではない・・私がこの光に光明を見出しているに過ぎない事は私にも解っていた。
ふわりとした感触が頬に触れる。 ほんの少しひんやりとした空気・・・風だ。大気に潜む風の精霊が雨に混じるウンディーネに押されるように移動している様だ。確か、昔そんな事を発表した導師がいたな・・ガルガライスの学院だと思ったが。
不意に視界が上昇する・・とはいえ何のことはない、立ち上がっただけだ。私は低い姿勢を保ったまま移動しはじめた、今は『狩り』の途中だ。自然に動く体はくだらない事を考えつつ私を目標に近づける。
あの導師・・・あれからどうしたかな、当時は南の魔術師は頭の中まで陽気な物だ、と馬鹿にしたものだが。
始まりは突然だったのだろう。狩りに来たあの貴族は凄腕で誉れ高き騎士叙勲を受けている。急に馬が倒れたときも最小限の動きで姿勢を取り戻していた。彼にとっては不幸な時間の砂が一粒落ちた砂時計のように。
じっとこの広い草原の中で身を伏せ過ごした数十分、彼は何を考えていたのだろう。敵対している貴族の事、自分が行おうとしている政策の事、毎月狩りに出かける事、腕に自信があり一人で出かける事。・・・そして、じっと離れた所にうずくまり様子を伺う「私」の事。
彼と私の間は弓矢ならば簡単に届く距離、そして、剣は届かぬ距離。
彼の使用人であり、忠実な部下である兵士は屋敷に居る。此所から一km程の所だ。馬に乗っていれば一駆けで届く距離、逃げるには絶望的な距離に感じるだろう。
夕暮れ時に降ったこの雨は、その前兆を示すように急激に茜色の空を雲で覆った。見る見るうちに消え去るファリスの御手の輝きは、暗黒神の司る闇に閉ざされた。
私にとって千載一遇の好機だった。彼の愛馬が毎回通る草叢に仕掛けた細い刃は青色の液体と、あの栗毛の馬の赤い体液が交じり、紫に染め上げられているだろう。
其処から数十秒走り、力尽きたように彼の馬は動かなくなる。・・落馬でもしてくれればもう少し楽だったのだが、彼は手慣れた手つきで馬を押しやるように飛び降りた。
私と彼は互いの距離を保ったまま、じっとお互いの様子を伺っていた。音一つ無い空間、聴覚を研ぎ澄ますかのように相手の動きを待っていた。
この緊張感が永遠に続けばいいと感じていたのは私だけだったのだろうか・・・・そう、きっと互いに愛していると呟き、自分の欲求を満たす、あの街中にあふれる若者たちのようにこの気持ちは独り善がりの物だろう。
ふと、笑みがこぼれる。
降りしきる雨の中で私は小さく呪文を呟いた。『リプレイス・サウンド』マナは私の発する音の場所を移動させる・・範囲ぎりぎり、そう30m程向こうに。
その瞬間、僅かな光がぽうっと指輪から発する。・・この指輪は古代王国の遺跡より発見された物だと聴く、「マナを導き、道を開く」そう上位古代語で刻まれたこの指輪には発動体である他にも意味があると知り合いの賢者は語っていた。私のこの危うげな人生の道を開く鍵であればいい、と思って後生大事に持っている物でもある。
追われている騎士はその僅かな光に気付く事も無く、少しずつ動き出していた。私はその歩に合わせるように少しずつ準備をする、茶色く薄汚れた細い布を巻き付けた鞘から短い刃を抜き出す、刃は薄く、長さは手の平ほど。鈍い光を放つ短剣は砥ぎ込まれ、鋭い切っ先を現していた。
左手で懐から取り出す小さな陶器の瓶、コルクの蓋を取り外し、中に詰まっている黒い液体を刃に重ねるように垂らす。雨の中でそれはゆっくりとした動きを持って短剣の光を覆っていった。
空になった瓶を地面に置き、再び呪文を唱える。
前方から声が聞こえ立ち止まる気配・・、雨の中で視界が定まらない中、彼は瞼に流れるこの忌々しい雨を腕で拭っていた。
降りしきる雨と灰色の闇の中に男が立ち上がる、私でもなく、彼でもない。
鎖帷子の鎧を着たその男は斧槍を構え、誰かを探しているようだった。
私は声を上げる準備をした、喉の調子を確かめる・・・最近、呪文を唱えるほかは使っていない。
魔術の修行は単調な物が多い。発声は完璧な物になるまで繰り返される、妥協は、無い。他には操身・・・というか体そのものを操る技、複雑な身振りはほんの僅かな違いも呪文をただの呟きに変える。此れはほんの基本である、系統毎に苦労は倍加するといっても過言ではない。絵を描くのも修行の一つ、例え魔術そのものが使えたとしても役に立たなければ仕方が無い。幻影の魔術を使うものは素描を繰り返す、自分の頭の中の意識像が実物と変わらぬ様に成るまで。そしてそれは観察力の源にも成る、魔術師に観察力は欠かせぬものだからだ。何百枚も小石の絵を描く・・そして一人前に近づくのだ。
鎖帷子の男の名はルバート、屋敷に住む彼の手下の中でも隊長格にあたる、私が見ている中ではもっとも彼と親しく、そして彼に対してお節介な人間だ。彼ならばこの降りしきる雨の中、迎えに来る事もあるだろう。
「・・・様ァ・御館様ァ・・・」
雨の中、音は良く通らなかったが、彼はルバートの姿と前方から発する声を見つけた。響き、重なるような声、雨の中ではそんな風に聞こえるものだろうか?。
私は三度呪文を唱えた、そして立ち上がる・・。
彼はルバートの名前を呼び立ち上がる。
その瞬間、彼の後頭部。首との境目に短剣が飛来する、彼は気が緩みきって居たのだろう、絶え間無い緊張感とそれに追い討ちを掛ける降りしきる雨、体は冷たく硬直していき、心は闇をおそれる。ルバートの存在は彼にその全てを忘れさせた。
そこまでは計算の内だった、彼の体が大地に沈み込む事も。
しかし、それは私の投げた短剣の成果ではなく彼の足元にあった小さな石によって行われた。計算外の動き、彼の頭頂部をかすめて短剣は闇に消えた。
倒れ込んだ彼はルバートの体をすり抜けた。・・そう、ルバートは私の作り出した幻影だ、何十枚と素描した彼の幻影は完璧だった、はずだが実際に存在する小石一つには勝てなかったらしい。
そこに近寄る私、彼は私に気付いた。
「ルバート・・・」
彼は疑わしい目で私を見たが、私が手を差し伸べ、彼がその手を握ると安心したように立ち上がった。
彼はよろめき私にもたれかかった、僅かに血の匂い・・短剣はかすっていたらしい。彼は頭を振りながら呟く。
「曲者にやられた。まだ近くにいる・・毒が塗って在ったらしい、目眩がする」
私は言った。
「安心して御休み下さい、御館様・・後はこの私が」
彼は、ああ・・と呟いたまま動かなくなった。私の手に握られた短剣が彼の首の後ろに刺さっていた。私はこのルバートという男が羨ましかった・・・信頼される人間とはどんな人間なのか、私にはまだ理解できなかった。心を許す友とは如何なる存在なのか・・彼の首筋から流れる赤い雫を天から降り注ぐ雨が大地に流していった。
「御館様ァ〜・・・・」
向こうから声が聞こえる、未だ存在する幻影と私。そして彼を合わせれば3人のルバートがいる。・・・しかし彼が死ぬまで信じた男はあの声を上げているルバートだけなのだ。
私は彼の死体を地面に置き、雨の中に消えた。
新王国暦502年魔法王国ラディス・ロクスドール領地にて
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