![]() |
呼ばれている、と何気なくそう思った。声も聞こえていないのに、呼ばれていると。いつかどこかで味わったような感触ではあるんだが、それが何なのかが思い出せない。 聞こえない声、というのが妙に気にかかる。気配からすれば、人間ではないだろう。多分、精霊だ。 「最近、イラついてんな」 そう、カレンに言われた。とりあえず、苦笑で返す。 「あ〜…まあね。でも八つ当たりはしてねえだろ」 「ああ。まだされてないな。何かあったのか?」 「いや。何もねえよ。ただ、なんて言うか…聞こえそうで聞こえないっていうか…」 自分でも何て言っていいのかがわからない。 「聞こえないって…何が?」 「精霊の声……かな? あ、いや。精霊たちに関しては、いつも通りだよ。ただ、何かに呼ばれてるような、そうでないような……。何かこう…もやもやしてるだけ」 そう言った俺の言葉に、相棒は首を傾げるだけだった。当たり前だ。言ってる俺自身、よくわかってない。 そんなある日。例によって例のごとく、何故か喧嘩に巻き込まれていた。売ってきたのは向こうだ。俺は買っただけ。…っていう理屈が成り立つように、売らせたってのはあるかもしれないけど。そこはそれ。世の中には事情ってものがある。たとえば衛視に見つかった時の言い訳とか。 しかし…なんでだろう。俺って見かけ、そんなに弱そうに見える? こんなごろつきの2人くらい、問題外なんだけど……。だって、喧嘩なんか…殴られなきゃ痛くねえんだし。 とまあ、そんなことを考えつつ、やり合ってる最中に、ふと耳元で声がした。 <……呼…ば……に……> ……なに!? 思わず振り返る。声は背後からだ。喧嘩相手の2人はちゃんと目の前にいる。なのに何で背後から? っていうか、いつのまに背後とられてたんだ? が、振り向いても誰もいない。当たり前だ。場所は路地裏だ。そして、どうせ逃げることなんか考えてなかったし、背後をとられないように路地の奥にいたはずだ。振り向いた目に映るのは、空いた酒樽がいくつかと、木材の切れ端がいくつか。あとはゴミ。 ……っとと。振り向いて考え事してる場合じゃなかった。取り込み中だったんだ。 ─── しばらくのあと。ゴミを2つばかり増やして、俺は路地の出口へと足を向けた。あの後も、何度か耳元でよくわからない囁き声が聞こえたが…とりあえず考えないことにした。考えてもわからない以上は、目の前の厄介事を片付けるのが先だと思ったからだ。 しかし…それにしても、誰の声だ? 聞いたことはあると思う。女の声だったようにも思う。そして、囁かれると同時に、背筋を寒気に似たものが走った。あれは一体………って…そういえば、精霊語だった。そうだ。あの一瞬、混乱しかけたとは言え、思い返してみればそれは歴然としている。話しかけてきたのは…精霊だ。ってことは…さっき聞いた声が、ここ最近のもやもやのもと? と、そこまで考えた時。路地を出る寸前に、風が通り抜けた。石畳の隙間から顔を出している、足元の雑草を揺らしながら。そして同時に、シルフの笑い声。ドライアードのそれまで重なっている。 <なんだよ、おまえたち。…なに、くすくす笑ってんだよ?> 思わず問いただしてみる。が、返事はない。……相変わらず気まぐれな奴らだ。 宿に戻って、とりあえず自分の部屋へと向かう。途中、仕事を押しつけようと店主が何か言いかけていたようだが、それは無視。宿代はきっちり払ってんだ。文句を言われる筋合いは全くない。そして2階の部屋へ向かおうとして…やめた。そのまま階段の横にある裏口から裏庭へと出ていく。 夕暮れ間近の風が、裏庭に吹いていた。年若い楓の木も葉を揺らしている。…ちょうどいい。 <おい、さっきのは何だ? 何か俺に言いたいことでもあるのか? ここ最近、呼んでたのはおまえたちか?> <違うわ。違う違う。私たちは呼んでないもの> 薄青い、半透明のシルフたちが風の中に見え隠れする。…揃いも揃って笑ってやがる。 <あら、あたしたちだって呼んでないわ。気づかないのね、呼んでたのはあたしたちじゃないのに> 楓の木を仰ぎ見ると、葉の合間に、緑色の人影が揺れ動く。ドライアードだ。 <んじゃ、誰なんだよ。おまえたちの仲間じゃないのか?> <でもちょうどよかった。呼ぼうと思ってたの> <そうそう。あたしたちもそう思ってたの> ……人の話を聞けよ。まぁ、精霊との会話なんてこんなものだとわかってはいるが。通じそうで通じない。通じていなさそうで、通じている。 ただ時折声が聞こえるだけで、他には何も影響はない。だから放っておいてもよさそうなものだが、精霊が話しかけてくる声を無視するわけにはいかない。精霊使いを名乗る者が無視などできるわけがない。 気まぐれに姿を現して声を掛けてくる彼らは、この世界とは別の世界の住人だ。この世界では、彼らの存在そのものが力になる。そして、彼らの存在は、彼らの意志。肉体を持ってはいないが、その姿形を精霊使いに知らせてくる。滅多なことでもない限り、それは精霊使い以外には見えない姿。そして聞こえない声。 ならば。 昔、親父が言ってた。精霊使いたる者、その声を聞ける以上は、彼らの意志を汲み取ってやることだと。互いに少しずつ干渉しあっている、精霊界と物質界。その2つの界の接点を担う者として。 それでも、時折考えることはある。精霊たちはどこまで、明確な意志を持っているだろうかと。邪神に仕える者にでも、そいつに能力さえあれば、精霊たちは従う。狂うことなしに。それに、精霊をただの道具としか見ない奴もいる。そんな時の精霊たちが不本意そうかと言えば、そうでもない。 多分…感じかたの違いなんだろう。善悪の認識は、物質界でしか通用しない。精霊たちは、本来違う位相のものなのだから。精霊たちは『感情』はほとんど持たない。彼らにあるのは『意志』だ。肉体を持たないからこその、剥き出しの意志。 だからこそ…道具としてなんか使えない。せめて自分自身は彼らに恥じることのないように…精霊たちに後ろめたく思うことのないように、と思う。精霊たちが持たない感情は、使う側に委ねられているような気になるから。それはもしかするとただの錯覚で、俺の自己満足にすぎないのかもしれないけど。それでも、精霊を感じることの出来ない者たちに、せめて精霊たちが悪しく思われることがないように、と。精霊たちが認めてくれた以上は、それは多分、精霊使いの義務だろうから。 ……昼間、声を掛けてきたのは紛れもなく精霊だった。人間の声じゃない。それは自信がある。女の声…となれば、ノームとサラマンダーも除外していいだろう。そして、シルフとドライアードは違うと言っている。あとは…ウンディーネか? だが、あそこに水の気配はなかった。まさか、フラウ? いや…違うな。確かにここ最近、寒くはなってきているが、フラウの気配は間違えようもない。 <知りたいの? 教えて欲しいの?> くすくすと笑うシルフの声。 <ああ。知っているなら教えて欲しい。教えてくれないか?> そう問いかけた俺に応えてきたのはドライアードだ。 <でも貴方は知ってるはず。貴方が知らないのはおかしいわ> <ええ。おかしいわ。貴方なら知ってるもの> <そうよ。サーヴァルティレルの息子、ラストールド。貴方なら> ……ちょっと待てよ。教えてくれるんじゃなかったのか。ひょっとして俺……遊ばれてる? 彼女たちは、それだけ言うと、笑いながら姿を消してしまった。これ以上は教えるつもりはないらしい。もちろん、呼びだそうと思えばそれは可能だ。姿を消したとはいえ、風の吹く屋外、そして揺れる若木。彼女たちの力はそこにある。だが、無理矢理に呼び出したとしても応えてなどくれないだろう。今日のところはこれまでってことだな。 あれから数日。やっぱり声は聞こえている。いつでも、じゃない。ほんの時々。…気になる。昼間の雑踏の中で囁かれても、言葉は聞き取れない。最初の頃よりははっきりしてきたが、まだ全ては聞き取れない。 …妙にいらつく。囁きかけてくる精霊に対していらついてるわけじゃない。それを聞き取る力のない自分に、だ。 とは言え、仕事の最中にまで、そのことを考えているわけにはいかない。武器を確認しながら俺は頭を切り換えた。これから一戦交える相手は素人じゃない。何もない空間で振り返ってる暇なんかあるわけもないから。 今夜は人手が足りないから手伝ってくれとギルドの人間に言われた。そうして、ここに…つまり、港の倉庫裏に来ている。ギルドが保護している商会が狙われているらしい。狙ってるのは、他国(よそ)から来た『お客さん』だとか。まぁ、詳しいことは知らないし、知りたいとも思わないけど。とりあえず手が空いていたのと、上納金割引の言葉に惹かれただけだ。 ……いやぁしかし。さすがに人数多いな。こっちも足りない人手かき集めたみたいだけど。真夜中の港で、しかもギルドの管轄となれば、官憲も手出しはしてこねえだろうから…いっそ魔法使っちまおうかな。 目の前で振るわれた短剣をぎりぎりでかわしながら、俺はそんなことを考えていた。古代語魔法みたいに、一発で全員ってわけにはいかないが、何人かまとめて無力化するくらいならできるだろう。盗賊の仕事の時に精霊魔法を使うことで、昔は皮肉られたりもしたが、オランではそうでもない。本業は精霊使いだってのをわかってるらしくて、時々それを当てにされたりもする。ま、それならそれでこっちもやりやすい。 ってわけで、魔法を使うためにその場から一歩ひいた。確実にいくなら…混乱の魔法で何人かをまとめて無力化させて、その隙に叩けば……。光の精霊呼び出すよりも、そのほうが確実だろう。そう思いつつ、左腕をそっと上げはじめた時。 <我を…呼ばぬのか? おまえが呼べばそれに従おう> …っ…! 耳元で!? いくら、魔法のために一歩ひいたとは言え、これだけの人数が接近戦やってんだ。いつもの囁き声なんか聞こえるわけが……。いや。それでも聞こえたんだ。はっきりと。いつもみたいに、聞き取れないような声じゃなく、はっきりと彼女はそう言った。……『彼女』。ああ、そうだ……この声は……。……聞き覚えがあって当然だったな。 「何、呆けてやがるっ!」 ……あ。やべ。 いつのまにか走り寄っていた、顔見知りの盗賊の声で我に返った。 そいつの短剣が、俺の目の前にまで迫っていた別の剣をはじき飛ばす。 「わりい」 短く返して、あらためて俺は呪文を唱えた。混乱の精霊への呪文を。 <呼ばぬ、か。まあ良い。次もある。…我はいつでもここにいる。おまえの中に> 再び、声。そうか…そうだったのか。おまえだったのか。……ヴァルキリー。 次の日の昼間。俺は宿の裏庭にいた。 吹く風の流れの中、薄青い、半透明の身体が浮いている。エルフによく似たその瞳を笑みの形にとどめて。揺れる葉の合間にも、同じように、エルフによく似た姿がある。長く豊かな緑の髪をその緑の肌に巻き付けるようにして。シルフとドライアードだ。 <……まったく。人が悪いぜ。っていうか…人じゃねえんだから当然か> <呼ぼうと思ったの。本当よ> シルフが笑う。 <ああ、そうだろうな。おまえたちが笑っていたわけがやっとわかった。声にも聞き覚えがあったはずだ> ヴァルキリーに呼びかける言葉は知っている。戦いに赴く者へ、勇気を与える呪文。何年も前に覚えた呪文だ。そうか、だからあの時ドライアードは言ったんだ。俺のことを、サーヴァルティレルの…親父の『息子』と。 彼女が…新しい力を貸してくれることを、俺は望んでいた。なのに、そのことに、何日も気づかないでいたとはな。……馬鹿みたいだぜ。 <あたしたちも力を貸すわ。今まで以上に。必要になったら呼んでね> ドライアードの声。 <ヴァルキリー…戦う者の勇気を司る戦乙女。……おまえもか?> 呼びかけて、しばし待つ。目の前に、輝く鎧を身につけた女性が立っていた。凛とした気品。輝く美貌。…あでやかな冷たさというのがもしもあるなら、彼女の笑みはまさにそれだろうと思う。 <ああ。我もだ。……おまえが滅したい敵は何だ? 立ちふさがる魔獣か? それとも剣を向けてくる人間か? おまえが敵に立ち向かう勇気を忘れない限り、我はおまえの望むようにしよう> 氷のような、だが不思議と酷薄さは感じさせない表情でヴァルキリーが告げる。死をも恐れぬ勇気を司る精霊。危うさと冷酷さと正しさと優しさ、その全てがわずかずつないまぜになったような笑み。 <おまえとて、守りたいものはあろう。我の力ならばその願いは叶えてやれる> ─── 守りたいものはある。確かに。少し前までは守る力をただ欲しがっていた。だが、誰かを守ること…自分の力で、その誰かを守りきろうと思うことは傲慢だ。所詮、守りきれるわけもなく、その誰かも守られているだけでいいはずはない。守る側の都合を押しつけて、おまえは守られているだけでいいと、そう決めつけるのは相手を無視したやり方だろう。それをわかっていても、自分は彼女を…あの半妖精の少女を守りたかった。そして、守りきれなかった時に、自分の無力さを思い知らされて、勝手に打ちのめされる。傲慢で身勝手なことこの上ない。 たとえば、精霊を操る力。剣を振るう力。足りなかったのはそんなものじゃない。自分が、彼女の周りを囲って包んで侵されないように、そうしていなければ安心していられなかった。すがられることそのものに、自らすがりつく弱さ。必要だったのは、守る力よりも、耐えられる強さだったのだろう。自分に欠けていたのはそれなのだと、今は気づいている。そしてその力はヴァルキリーに分けてもらえる類の力ではないことも。 だからこそ、ヴァルキリーの力を受け容れるには、それ相応の覚悟が必要だろう。この力は…使い慣れている光の精霊とは違う。魔獣相手ならともかく、人間相手ならかなりの確率で命を奪うだろうから。滅多なことで使うわけにはいかない。 そのことに緊張感は覚えるが…それでも、男に生まれた以上は、ヴァルキリーの力は憧れだった。名も知らぬ生命の精霊は、俺たち男の精霊使いには応えてくれない。それは、その身の内で生命を育む女たちだけに許された力だ。だが…その代わり、俺たちにはそれを守る力が与えられる。育まれた生命を守るための力が。男なら…欲しないわけがない。 <…とびきりの美人にそう言われて、断れる男がいれば見てみたいもんだ> <我を受け容れるか?> <……ああ。おまえが認めてくれたなら、俺も逃げない。ありがたく受け容れさせてもらう。多分、滅多に呼ばないとは思うけど……いざって時には頼むよ。これ以上心強い味方もそうそういねえだろうしな。………ありがとう> 俺の言葉に、極上の笑みでうなずいて、ヴァルキリーの姿は消えた。そして、シルフとドライアードの姿も。 石に覆われた街にいては、精霊の声も聞きにくいだろう、と。以前、誰かに言われたことがある。そうでもないと言ったら、相手は意外そうな顔をしていた。 精霊の声、姿。それを感じられるかどうかは、精霊使いの力量だ。確かに場所によって、精霊の力の強さには違いがある。街よりも森のほうが精霊たちは元気がいい。それは事実だ。石畳にきっちり覆われてりゃ、ノームが出てこられないのと同じように。 それでも。 精霊はいる。彼らの力は働いている。石畳があることでノームの力を惜しむのは、ノームの魔法に頼れない精霊使いのほうだ。 呼べばいつでも彼らには心が伝わる。それは、森にいても街にいても同じだろう。目の前で笑っていたシルフたちが姿を消しても、力は消えていないのだから。位相が違う、というのはこういうことなんだろう。物質界の束縛は、それがよほどの力を持つものでない限り、彼らには何の影響も及ぼさない。精霊たちにとっては、街でも森でも、どちらでも構いはしないのだろう。自分たちが宿れる何かがそこにあるなら。人の心にすら彼らの力は宿る。…ならば、街のほうがその数はひょっとすると多いのかもしれない。 ─── その光の残滓すら、すでに目の前からは消えてしまったヴァルキリーの姿をあらためて思い浮かべる。俺は自分が精霊使いの道を選んだことを…そして、それ以上に、選べたことに感謝した。 最初に呼びかけに応えてくれたのはシルフだった。あの時の声と微笑みは今でもまだ覚えている。そして、今日のヴァルキリーの笑みも、俺は忘れないだろう。この先ずっと。 |
![]() |