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No. 00005
DATE: 2000/12/14 02:16:21
NAME: 犬頭巾
SUBJECT: JULIAN<前編>
「あら」
と呟いて、貴婦人が小銭を取り落とした。
オランの都の大通りの、舗装された石畳の上、コインは音を立てて跳ねていき、やがては止まって腹を見せた。
その地面の下を、底にむかって深く、更に深く、潜っていったさきの、奥底である。
オランの地下に存在する、知られざる暗やみ。そのなかに、老人はいた。異様な風体をしていた。犬の頭皮を頭にかぶっているのだ。
彼はつと、固い岩盤の天井を見上げた。やがて、ゆるゆると首を戻す。
老人の前で油が燃えている。彼は敷き皮の上で鎮座していた。力ない両肩に、毛織りのケープをはおっている。
皮の下の老人自身の目線は見えず、犬の頭の虚ろな眼窩は、中空に向けられたまま、動かない。
かつて、地上にいたころ、犬頭巾と呼ばれていた。その顔を覆う犬の頭にちなんだ名である。だが今、この暗がりで日々を送っている彼は、その名で呼ばれることはない。
「司祭様ぁ」
眠っているようでもあった老人は、その声に耳を振るわせ、鷹揚に後ろを向く。
煤けたなりの、毛深い男が近寄って来ていた。男は、唾を飲み込むと、乱杭歯を見せつつ、少し緊張して喋りはじめた。
「神殿の裏手なんだけどよぉ、今、土が崩れて、ぽっかり穴が開いちまったんだぁ。
中を覗いたら、ずいぶん長く続いていて、奥にでかい石像なんか見えてて、どうもおっかねぇ雰囲気だ。ちょっと、見に来て下さらんかね」
「穴、が……?」
犬頭巾は、心ここにあらずといった体だ。口を半開きにして呟いた。
「頼むよぉ。司祭様が来てくれれば心強ぇ」
「判りました、直ぐに行きますよ」
「司祭様は獣のカミのご加護が強ぇからなあ。そう、この間あっしの子供らが産まれた時にも、呪いづけを有り難うございました。お陰さんで五人ともスクスク育っておりやす。生まれがゲンいいんで、ゆくゆくは一人ぐらい、司祭様みてえになってくれたらいいと期待してんです」
「アタシみたいになることはねぇですよ。まぁ、元気ならよかったですねえ。それじゃ、瞑想が終わったら行きますから、もう少し一人にしといて下さい」
「あっ、こりゃいけねぇ、邪魔して申し訳ない……。どうもでしたぁ。それじゃ、後でよろしくお願いします」
「ええ。アタシも直ぐ向かいますから」
犬頭巾はそう答えて、再び男に背後を向けた。
ひたひたと足音を立てて、男は去っていく。
再び静寂が訪れた。
「司祭様、か」
地上を放浪する暮らしから紆余曲折、この地下の集落に迷い込んで来てすぐ、この犬皮の乞食には、集落の祭祀を取り仕切る、神官の職が与えられた。それは、ここに暮らす民に、獣を神として崇める風習があり、彼らは、頭に犬の皮をまとい足をひきずりながら現れた犬頭巾を、獣神の加護を受けた者であるという見方をしたからだった。そのおかげで彼は受け容れられたのだ。
(ここの人たちには、感謝しなくちゃぁ。命を助けて頂いたばかりか、こんなアタシに畏敬を表して下さるんですから。でも……)
ここの暮らしには馴染めなかった。
狭く暗い地底で、地虫と苔を食べて生きるもぐらの生活。何より地上には、自分と立場、境遇を同じくする仲間がいた。この地下の民、獣の神を崇める者たちとは、真実の気分、どうしても連帯を感じることができず、彼は孤独だった。大きく異なる価値観と風習の中に身をおくということにも、耐え辛さを感じている。
(大層な妥協をしちまった)
そう考える。
もともと、荒野で果てるつもりだった。自分の過ちで、同胞の一人を死なせてしまった身の上である。皆の元にいられるはずがないと思い、街からさまよい出た。
だが、どうしても死を選ぶことが出来なかった。その人生は幸薄かったが、彼の生への執着は人一倍強かったのである。
「へへ……やっぱり、わるいことをさんざん重ねた、老いぼれの乞食が、わずかな余生を送る場所として、ここぁ相応しいですか、ね」
彼は、犬皮の下の、視力の衰えきった目を、しばたたかせた。
「いろんなことが……ありましたねぇ」
老人は、思い出の書のページを繰っていく。楽しいことをさがすのではなかった。先に考えるのは、自分が、他人と比べて、どれほど恵まれない人生を歩んできたか、ということだった。天運の悪さを思い自分を憐れむことが、ここにおいて慰めになった。
思い出は、ほとんどが、詐欺や裏切り、ペテンなどの犯した罪に汚れ、色をくすませている。しかし、彼がそのことを悔やむことはなかった。
不意に再び、集落の仲間の、鹿婆ぁを死なせてしまった過ちが頭に飛来し、彼は、苦痛を感じた。そして、それに連鎖して、ある一つの記憶が蘇ってくるのを感じた。
思い出してはならないことだった。
「あ……」
呆けたように口を開ける。鹿婆ぁの一件と、過ちの本質を同じくする事件──。
「あおぉ……」
彼は犬皮の、両のこめかみを押さえて、苦悶の声を漏らした。顔を歪めながら、蘇ってくる記憶の奔流に向かって、身がまえた。それは、長い間閉じこめられていたものである。
ひとりの女性の肖像が脳裏を駆け抜けた。
犬頭巾は、頭を抱えながらゆっくりと、前の地面に倒れた。身を折り、しゃくとり虫のようになる。身じろぎもしなかった。
ねっとりと濃密な闇が、犬頭巾を包んでいき、静寂が、辺りに満ちた。
世に詩人の言う──
「老いたる者をして、静謐のうちにあらしめよ。そは彼ら、心ゆくまで悔いんがためなり」
<大陸歴483年、オラン ──約三十年前──>
「へっ。また、ジロジロみてきてよぅ……」
受け口の乞食は、その突きでた下顎に力を込めて、そうこぼした。老朽した建物の赤煉瓦の壁を背に、 みすぼらしい姿の数人の物乞いが、輪になって座っている。
ここは、ハザード河に近接したスラム区域、<亀裂>、その外れ。
彼らは網垣の向こうの、ハザード河沿いの道から、物思わしげな視線を向けてくる一般人たちを、じっとにらみ返していた。
「あ〜……。ここは、きれえで居心地いいが、周りの視線がいやだよなぁ。全く、見せ物じゃねぇってんだ」
ひとりが、そうぼやく。
「おれらのこと、見下して楽しんでやがるよな。あの目は」
「そうそ。あと、あからさま、可哀想、って言いたげな視線もあるよな。ヤだね」
眼球を左右に動かしながら、口々に乞食たちは言う。そこで一人が、
「単なる好奇心で見るのかもしれないっすよ。おれたちボロは、外壁のしらみになって暮らしているのが多いから」
そう言うと、周りはすぐに反発を開始した。
「違ぇよ!」
「そんなはずねえっての!」
彼らの声を黙って聞いていた、座の真ん中に座っている男が、顔を上げた。
歳の頃は四十がらみ、だがもっと上かもしれない。重そうな一重の瞼、鷲鼻で、長い人中が目立つ。張りのない黒ずんだ皮膚に多くの皺が彫刻されている。
彼は無精ひげに囲まれた唇を歪めて、言う。
「まぁ、おまえ達も、もうわかってる様子だが、あの人らはどんな形であれ、アタシらを見て、快感あじわっているんだ。見下してくる人は優越感を……同情を送ってくる人は、自分があんな風でなくてよかったという、安堵感を楽しむ、って具合に」
まわりに無精ひげを繁らせた唇をゆがめて、続ける。にわかにまなじりに皺が刻まれる、彼は笑っていた。
「軽蔑してやればいい」
黙って周りで聞いていた乞食たちは、へへ、と低く笑って問う。
「お恵みをくれる人間についちゃぁ、どうなんだい?」
「好きなように生活して、余った金で、さらに施しの気持ちよさも味わおうって腹のお人たちばかりだ。これは世界の秘密だが、アタシらも何を思っててもいいんだ。こっちから手を合わせて、金を無心しておきながらも、だ」
卑劣で、ひねくれ曲がった言葉の数々が交わされる。異様な光景であった。
ここにいる者たちは、明らかに、普通の物乞いたちとは雰囲気を違わせていた。
総じて、オランに住まう物乞いたちは、自らを押し流していく状況の空気と雰囲気のままに、自分を他人より貶めることに慣れている。まともに身過ぎをしている者や、チャ・ザの恩恵に浴す者についても、悪いように考えることなく、ただ、己とは違う身分にある、と認識するのみだ。
自分たちの不遇を、神の与えた意図不明な<罰>とさえ、考えているものも多いほど。人間は、納得できる理由さえ見つかれば、不幸に耐えられるものである。
運命に心と身体を虐げられた彼らは無気力で、ぼんやりしている。何の教育も受けていない彼らの頭は、もっぱらその日の飯にありつく事を思い浮かべる。そして、施しをしてくれる人間たちには、無量の感謝を表すのだ。
そういう状況の中で、この乞食たちが富貴の者をなみするような考えを持つことは、特異な現象といえた。
思想の啓蒙者は、中央に座る、右足の萎えた無精ひげの乞食である。
「お前たちによく言っておくが、お恵みもらうときも、心から有り難がってペコペコするのは、やめることですよ。まず何より、てめぇの誇りを大事にしなさい。一方的に何かをしてもらうことは、無力感を刺激されるが、お前たちはそれに耐えて、自分をおとしめねぇようにしなさいよ。むしろ、胸そらして金を受け取れるような権利がこっちにはある、そう思っていなさい。そして、助ける真似をしながらアタシらを利用しようとする奴らを見抜けるように、注意をはらっておきなさい。
やつらは別に命を助けてくれるわけじゃねぇ。アタシらを襲った不幸の全てから救い上げてくれるわけじゃねぇ。ただ、小銭を投げるなんて簡単な話をこなして、その上、気持ちよくなってる。どうして感謝の必要があるでしょうか」
彼は長年、何も難しげなことを考える隙間のない仲間の乞食に、くりかえし、この種の言葉を語り聞かせてきた。結果、聴く者のほぼ全員が、何か得体のしれない活力を得たのであった。
また彼は、共同体の仲間とともに、他の乞食の集落では考えられないような危ない橋をわたる仕事「情報屋」を行うことを考えついた。そして今、集落全体の糊口をしのいでいる。乞食たちの尊敬は自然とこの男に集まった。
彼の名はジュリアンという。
乞食の一人が、気づいたように網垣の向こうを見た。
「よお……。またあいつが来てる。こっち、見ているぜぇ」
「なに、またかぁ。クァ〜、よく飽きねぇなぁ」
「へっ……」
ジュリアンは顔を上げた。
五十メートルほど隔てたところで、亜麻色の長髪の上に帽子を乗せた、背の高い少女が立っていた。草色の布地の薄い着衣に、飾り気はなく、一見すると少年に見えないこともない。
凛として口元を結び、黒い瞳で、黙ってこちらを見ている。
「あちゃぁ……。しかも、今度は、真っ正面からですか。全く、もう少し遠慮ってもんを、知ってほしいもんだ」
下卑た笑いを浮かべた。
「可愛い顔して、趣味の悪い子ですねぇ。昨日からですよ、もう何度もみに来ているんだから」
話は昨日にさかのぼる。ジュリアン達のグループがこの場所にきて、すぐのことだ。この少女が現れ、じっと、無言の視線を送ってきた。そして、小半時もそうしていると、何の感興も示すことなく、立ち去った。そして時間がたつと、また同じ場所に、現れる、そういうことを何度か繰り返した。日が変わっても、同じことをしているのだ。
「ほうっとくしかねぇな」
「へへ……おれはもう、慣れた。見たけりゃ、好きなだけ見ればいいぜぇ。これが世に言う乞食でござい、と……。何なら、服を脱いで、カラダの隅々まで見せてやらぁ」
「うひゃひゃ、いいねぇ」
受け口の乞食が、胸元でかきあわせたぼろ布に手をかけた、その時だった。
ジュリアン達は、はっとして、前を見た。
少女が網垣を飛び越えるところであった。
着地した彼女は、乞食達に向かって、一散に駆けてくる。帽子がするっと風にふかれて、地面に落ちた。
「な……なんだぁ?」
乞食達は、吃驚に目を丸くする。
少女は辿り着く。
彼らの目の前で、藍色染めのズボンを履いた細い足が、ざしっと、土を踏みしめた。
「ちょっと……あんた達ねっ」
少女はまなじりを決し、張りのある声で五人の乞食に言った。
「ずっとここで、ぼおっとしてるけど、何か他にすることはないの?」
抑えていたが、苛立ちをはらんだ口調に、乞食たちはあっという間に、後込みした。その中で、ジュリアンだけが、いち早く平静を取り戻し、口元に薄笑いを浮かべて、返答する。
「……することと言われても……へへ。アタシらには、まともな職もないもので。だからこうして、暇してるんです」
「嘘よ、ずっと暇でいいわけないじゃない……乞食なんでしょ。それなりに、やることあるでしょう。たぶん、仲間がいるんだろうけど、その人達に任せて、自分たちだけ日向ぼっこしてていいの?」
「ご賢察恐れ入ります。確かに、アタシたちには大勢の、助けてくれる仲間がいますし……だから当然、アタシたちだけずっと日なたぼっこしている訳にはいきません。実はまぁアタシは、集落へもどったら、夜のうちに、皆のために、ちょっと特別な仕事をさせてもらってるんでさ。……まぁ、ほかのところじゃ、昼間から、身体が不自由な人間ほど、すすんで哀れみを買いに出されるって話しですけど、うちのみんなは優しいんで……へへ」
言いながら、自分の、細く萎えた左足を叩く。声音に、相手を責めるような響きを漂わせた効果で、少女も、多少気後れした様子だ。
「ふーん、そうなの」
「ええ……。あと、まぁ確かに、丈夫な身体のこいつらの場合は、あんまりぼうっとしていられる理由、ありませんが。だが、あんまり言ってやらねぇで下さい。たぶん精霊かなにかの仕業なんでしょうねぇ、いわゆる、心身の無気力状態ってやつなんです。何が理由か、働かなくなっちまった。ここから抜け出すには相当の労力がいるんですよ。で、こいつらもただ飯食わせてもらって、じつは肩身が狭い思いをしてます。アタシが周りに無理をいって、しばらく休みを取らせてやってるんですよ。治るまでの間、下らない話しでも、聞かせてやってね。ホント世話の焼ける奴らですけど、勘弁してやって下さい」
滔々と述べ立てられ、少女は、ふぅっと息を吐いた。
「納得したわけじゃないけどね、まぁ、いいわよ。それに、私が聞きたかったのは、ほかの事だったから。ちょっと腹が立ってきてさ。ま、でも、話しかけるきっかけになったわ、あはは」
不意にそう笑ってから、乞食たちを黙って見つめた。
「ねえ、あんた達の住んでるところって、どこにあるの?」
その言葉にブチは肩を振るわして反応した。ゆっくり顔を上げる。
「そいつを聞いて、一体どうするっていうんです?」
「いいから、教えなってば」
「貴方……掲示板をごらんになられたんで?」
「掲示板? 何のこと?」
「……ふむ、それじゃいったい何のご用なんですかね。理由を教えてくれませんかねぇ」
彼は警戒の色をあらわしはじめたが、ふいに面白くなさそうに口を結んだ。隣りの、まだ年若い乞食が、集落の場所を口にしたからである。
少女は、その場所への道筋を声に出して復唱する。
「……うん、わかったよ。ありがとう♪」
そう言って歯茎を見せてほお笑み、一瞬、乞食たちの間の空気がゆるんだ。
「あたしの名前は、シェリー。それじゃ、また会えたら、ね」
名乗ったかと思うと、もう身を翻して、駆けだしていた。
彼女の去ったあとの空間に、秋風が、土埃を舞い上げる。
「まったく……油断するものじゃないでさぁ。みなさん方、あれは、ギルドの寄越した者かもしれないんだぜ」
ジュリアンは唇の端を歪めて、苦々しく云った。
「いや、あの娘は悪い人には見えなかったっすよ。清々しくて……明るくて。ああ、人を信じられるって、いいことですねぇ」
「なんだぁ、おまえ」
若い乞食の言葉に、彼は唇をとがらせた。彼の言葉が最近で見られないほど、活き活きしていたので。
ジュリアン達乞食の集落は、オランの街の北東のスラム地区、<亀裂>の中にある。
その付近は、古く、オランがまだ地方都市であったころ、建国王ハートリーT世が太守として街を治めていた時代に、はじめてハザード河から水を導く上水道と、そこに向かって排水する下水道が作られたところで、当時は一部の街の権力者などが住む場所だった。水道は煉瓦の壁にしきられ高低差を利用する簡素な作りで、一帯に配水がなされていたが、ある時、水の濾過層に汚水が投げ込まれる事件が起きて、長い間施設の機能がストップした。下水道は、ハザード河の上流に汚水を直接流しこむ作りだったことがあり、下流に住む住民がそのことに反感を抱いてやったのではないかとも、言われている。オラン建国後しばらくして、地下を走る給水管が発明され、また測量技術の発達に伴って地下暗渠の設置案など、オラン全域に対する上下水道の整備計画が持ち上がった。名士の一人が、前の工事跡のせいで整備が進まない地域に愛想をつかし、余所へ出ていったのを端緒に、勢い住民が去っていき、付近は段々と寂れた。現在、スラムと化している。建国以前の古い建物や史跡が散見される区域である。
<亀裂>に住む乞食たちは、壁の外にいる物乞いと違って職能を持ち合わせている。情報屋の仕事である。仲間全員で、街に出かけ物乞いをする先々で、さまざまな噂話しを耳に入れ、おたがいに網の目のような連携を取り、集まる話を頭の中をまとめつつ、さらに多くの話しを聴き続ける。そうすることによって数多くの、商品として価値を持つ情報が出来上がる。求めに応じてそれらを売るのだ。時には、探偵のように能動的に動いて、情報を集めようとすることもある。
しかしそれらの仕事は、あまり表立って行えるものではない。情報を取り引きできる場所も制限されており、彼らは掲示板を使って、ごく限られた数の依頼人と連絡をとる。
この街では、表裏両方の、情報と呼べるものはほとんど、盗賊ギルドが管理し、組織がこれを専売しているので、ジュリアン達を含むそれに属さないものが営利行為として情報を売ることは、強い圧力を受けてしまう。ギルドの情報部は、オランの街の区域ごとに、担当者をおいて、そこでの情報の流れを調べさせ、ギルドを差し置いて情報の売買をするものがいないかということも、管理しているのだ。
だが、<靴ずれ>通りに住む乞食たちは、情報屋を営むのを容認されていた。そのための代価を払っていたからだ。毎月幾らかの金を、ギルドの情報を扱う部門の大本締め、”情報の長”に献金している。賄賂を届けるルートには、<亀裂>を含む区域の管理を任されている男の手を通した。その彼は、”情報の長”の庶子である。
また、この息子は怠け者で、区域の情報を管理するという、与えられた仕事をまるで真面目にしないので、あらかじめ彼から責任を除けておくためもあって、今でも情報の長は口を拭って乞食たちとの取り引きを続けている。
ブチ達の商売は、このようなギルド内での不正によって危うく続けるのを許されていた。だから、シェリーという少女が現れた時も、ジュリアンが、客でもなければ、ギルドの息のかかった者が何かの目的で見張りに来たのではないかと疑った背景にはこういう事情がある。
中午を告げる鐘の音が、集落のなかまで物憂く響いてくる。それを聴きながら、乞食たちは空腹を意識しつつも、その墨を塗ったような顔の表には出さず、それぞれの仕事をこなし続ける。
昇ってきた太陽が、彼らの背後にある屋敷の廃墟を越えると、彼らが今いる場所の半ばは、影に包まれた。
壁際に座する女たちは、繕いや編み物を続けている。数少ない人数の若者が、遠くハザード河まで行き、洗濯をしてきた衣類を壁にかけて日干しをしていた。
男の乞食たちは大勢で、今日、拾ってきたものから、生活に使えそうなものを分別している。食物を選り分ける時は、目を細め慎重な顔つきを見せた。
どこかから現れた集落の少年が、生ゴミの入った編み籠を胸に抱いて、大人たちの所に駆け寄っていく。その走った後に、汁が垂れて転々と地面に黒い沁みをつくっている。
そんな光景の片隅で、ジュリアンは、数人と井戸端の会話をしていた。時折、顎を動かして、頷いてみせる。各自が街のあちこちで耳にしたよもやま話が飛び交う。このようにして噂の断片が繋ぎ合わされ、いくつかの情報は形をなして浮かび上がり、また次に調査すべき事実を示唆するのだった。これらは実に職業上の会話である。
だがもちろん、ときには会話の中に、完全に仕事から離れた私的な話題も混ざる。話しが一段落すると、ジュリアンは無精ひげをさすりながら言った。
「あぁ〜、ところで。チビどもの姿が見えねぇけど、どこいった?」
「さぁ……。ちょっと帰りが遅ぇなあ」
「大丈夫だべ。たぶん、どっかで遊んでるんじゃないかね。それに、遠出していたところで、いつもの通りマストもついてるしな」
マストは、幼い頃に受けた精神的な心傷がもとで、子供のまま心の発達が止まった男だ。集落一の巨漢で、健康で膂力の漲る身体を持っているので、集落の内外を問わず、彼に手を出そうと考える者はいない。この間は、街の酔いどれと喧嘩して相手の骨を二本折っている。いつも子供たちと一緒にいるので、それを護衛する役目は適任だった。
「まぁ、そうだよな……心配いらねぇか」
「お、噂をすればだ。帰ってきた」
ジュリアン達が視線を向けると、子供たちが大勢連れだって、向こうに見える路地の間から姿を現した。だがそれを見ていて、彼はにわかに眉をひそめた。「なに。ありゃあ」
子供達の列に混ざって、彼らと手をつないで、見覚えのある姿があった。この間出会った、シェリーという名の少女だ。
「あいつ、この間の」
「そうだよ、あの女だ」
その時共にいた仲間も声を上げ、二人で事態をいぶかしんでいる内に、彼女は彼らの方にやってきた。
「あ、この前の奴らじゃない。久しぶりね、元気だった?」
シェリーは、にっと笑ってそう挨拶した。それに反応してジュリアン達も頭を下げる。
「なんで来たのかって聞きたそうね。じつはさ、この子たちに会いに来たの。この前、街で、買い物かごを落としたときだけど、この子たちが拾うの手伝ってくれたのよ。それで、一度お礼を言いに来ようと思ってたの」
「ははぁ、なるほど」
「本当たすかったわ〜」
「驚きましたね、わざわざ。お心を動かされたのは、こんなみすぼらしいなりのチビ達だから、盗むんじゃないかって心配したところの反動とか……へへ」
片眉を上げ、意地の悪い言い方をする。警戒心が消えずに残っていた。
「あは、そんなこと」
「まぁ、盗みはアタシらの間じゃ禁じられてますから、その心配はいらなかったんですよ」
「うんまぁ、それは置いといてよ。お手伝いまでしてくれたのは、この子たちの気持ちでしょ。今日は親切な子供たちに、贈り物を持ってきたのよ」
彼女は右脇に抱えた布の包みをぽんと叩いてみせた。
「この人数じゃ、一個ずつしか、渡らないでしょうけどね」
「パン、パン♪ しろくてやわらかい! マスト、パン好き、シェリーも好きー!」
大音声で言ったのは、子供達と一緒にいたマストだ。腰と肩をふって、大柄な身体を踊らせ機嫌が良かった。
「確かにおっしゃる通りで。ちび達も、よくやったもんですねぇ、へへ。まったく羨ましいこってすよ。そういう訳なら、アタシら大人はご相伴をおあづかりになれねぇ、こっちがガキみてぇに、指くわえてなきゃならねえすね」
「そんな言い方しないでよ」
少女は笑窪を作りながら答える。
「そうそう、ジュリアンの分もまた持って来てくれるよ。お姉ちゃん、また来てくれるって言ったから」
「あっこらっ、私はまだ何も答えてないわよ。あんた達がねだっただけでしょ!」
「えー、また来てくれなきゃヤだよ! ねぇ、シェリーは、僕らのお母さんになってくれるんでしょ、なってくれなきゃ、嫌だあ!」
マストがはしゃいだ声を上げる。この神経の細い巨漢は、その昔少年時代は、一般人の住む街通りでごく穏やかに暮らしていた。その生活は、母親に家出されてから一変し、彼は父親に虐待を受けるようになった。酒に身体をやられて父親が死ぬ時までそれは続き、そのあとは、ジュリアンたちが保護した。彼にとっては、母親のいる時間が、平和な家庭の象徴だったのかもしれない。
「もう、そこで泣かないでってば。あはは、わかったわよ。あんた達のお母さんってのは無理だけどさ、また時々、ここに来るから。そのときは、干し葡萄のはいったパンの方がいい?」
シェリーがそう言うが早いか、子供達やマストは歓声を上げた。広場は明るい声で埋まり、遠くから乞食たちが、彼らにむかって不思議そうな目を向ける。
「嬉しいですねぇ、そん時ゃ、アタシらもお裾分けがあるんで。へへ、期待しちまいますよ。今度はアタシにもどうか、お慈悲を下せぇ。お願ぇしますよ、シェリーさん」
へつらった笑みを浮かべて頭を下げるジュリアンを見て、シェリーは苦笑した。
「そうね。その、卑屈な態度と言葉遣いを改めたら、考えてあげる。そんな風に言われても、別に嬉しくないよ、むしろ逆」
「おっと、こりゃあ参りましたね。申し訳ありません、大体、経験から、お恵みを下さる人と話すときは、こうやって身の程をわきまえないと、先方のご気分を害してきたもので……それにこのへつらい癖は、長年の生活で身に付いたものなんで、簡単にはなおらねぇんで……どうか気にしないでやって下さいませんか、へへへ」
言葉の通り、以後もその言葉遣いが正されることはなかった。
<続く>
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