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No. 00006
DATE: 2000/12/15 01:45:15
NAME: 犬頭巾
SUBJECT: JULIAN<中編>
(……以後も彼女、シェリーさんは来られました。彼女の素性は、<黒目通り>に住む、多少裕福な家庭の娘ということでした。十七歳の若さでおられましたが、親からはだいぶ、放任されているようで、だから行動も自由だったんでしょう。とはいえ、娘が乞食の集落に行っていることを両親が知れば、どうなっていたかはわかりません。
シェリーさんの奉仕の活動は、はじめは籠一杯のパンを持ってくることで終わっていましたが、集落の貧困さを目の当たりにするにしたがって、彼女は集落の女たちと一緒になっての雑役や、老人子供の世話まで、やってくれるようになり、集落を訪れる回数も増えました。彼女は、持ち前の率直さと明るさで、皆に好感を持たれ、むらの中に溶け込んでいきました。いつでも外部の人間に対する警戒を無くさずにいた当時の長老も、慣れない労働をしながら不平を言わず、みなを手伝ってくれる彼女の事を、好意的に見ていたようでした。そしてアタシ自身も、街の人間を見る時に、いつも心に抱いているようなひねくれた気持ちが癒され、それは心身が洗われるような心持ちでありました)
高い水音が立ったあと、乞食たちは一様に慌てふためいて辺りの水を掻いた。
「ほらぁ〜、早く這い上がってこい」
シェリーは落ちていた長い棒でハザード河に落ちた乞食たちの頭をつつく。
「せっかく釣りに来たってのに、居眠りしてるから、魚に引っ張られて落ちたりするんだよ?」
「い、いや、寝ていたやつ全員を落としたんじゃぁ、シェリーさんが」
「うるさいっ」
「ぎゃぁっ!」
最後の乞食も水に入り、全員河の中でもがき始める。背後にオランの整然と並ぶ街並みをひかえ、ハザード河はゆるやかに流れる。
「目が覚めたやつから上がってきなよ、あっはは。身体も綺麗になって丁度いいわ」
「か、風邪ひいちまう」
「まったく、かなわねぇや、シェリーさんにゃ」
水面から顔だけ出して、ジュリアンがつぶやく。上空から燦々と降り注ぐ冬の日の陽光に、眩しそうに片目をつぶった。
空は鈍色に光っていた。昼さがり、オランの街にはしめった風が吹いている。
荒れ果てた家々の間を縫っていった先に、少し開けた空き地がある。
石のベンチの上に、ジュリアンは腰を掛けていた。その膝元には箱形の四角い竪琴が置いてある。少し距離を置いて同じベンチにシェリーが座っていた。すらりと足を伸ばして楽な姿勢でいた。
広い空間に、他に誰もいない。
「これはキタラという種類の楽器でしてねえ。割と値も張るものらしいんですよ」
それは竪琴のようであったが、二本の腕木の間、真横に張られた無数の弦を見ると、四角いリュートとでもいうような印象があった。その弦に触りながら、ジュリアンは説明した。
「身分の高い人が弾いたり、王侯貴族のために名のある詩人が使ったりするもの、らしいんでさぁ。実はこれが、貴族の住む街の方で捨ててありましてね。腕木が折れて、弦が外れてましたが、楽器屋に持ち込んで、直して貰いましたんで。もちろん、色々と皮肉は言われましたがねぇ」
彼は目を細めてその竪琴を眺めた。
「ホントに弾けるの〜?」
彼女は怪訝そうな目をジュリアンに向ける。
「もちろんでさぁ、シェリーさん。だからお呼びしたんで。へへ、むかし、芸をやってたやつに基本を教わって、暇を見つけては、練習しましてね……。ちょっといい音色ですよ、聴いて下さいやし」
「ふふん、期待しとくわ」
「何をご披露しましょうか、そうだ、まずはあれにしよう。なにとぞ、ご静聴あれ、へへ」
口調と同様、動かしはじめた指のさばきも、気障なものであった。
黒い垢の詰まった指先が、踊るように動いて、弦に触れた。高音がこぼれる。
そのまま、ゆっくりと楽器をつま弾きはじめた。
彼の言葉通り、練習に裏付けられた、危うさのない旋律が辺りに響く。たまに調子を外すが、基本的にそれは原典の品質を保っているように見えた。
静かで美しい階調の曲。どこか、異国の雰囲気を漂わせながら、眠気を誘うセレナーデ。キタラの音色は広々とした空間にもよく響いた。
シェリーは目をしばたたかせた。「あ、すごい」
「たしか、『月姫』っていうらしいですよ。キレイな曲でしょう……う、しまった」
詩人は焦ったような声を上げ、それにともなって音色も乱れた。彼はふいに手を止め、キタラを膝元におろした。
「ここからはやっぱり、覚えきれてねぇや。すいませんねえ」
彼は口惜しげな苦笑いを浮かべた
「あはは、そんなことだろうと思った。でも、もう少しじゃない、上手かったわ、ほんとに」
「あぁ、そういって頂けるとほんとに嬉しいでさぁ。有り難うございます。……でも、実はレパートリーはこれだけじゃあないんですよ、もうひとつふたつあるんで、聴いて下さい。……どうか、へへっ」
彼は気を取り直したように、再びキタラを顔の横まで持ち上げた。
「へえ、それじゃ、聴かせてもらおうかな」
たらららら、らら……うって代わって、早いリズムが刻まれる。
辺りに響くその旋律は、主として軽快で勇ましい調子の曲だった。しかし、どこか道化けているような印象も残す曲である。
ジュリアンは顎を胸につけて演奏を続ける。シェリーは視線を空に向けたまま、聞き入った。
「うん。こんどはちょっと、文句が出ないわ。驚いた、まさかあんたに、こういう芸があるなんてさぁ」
シェリーは、詩人に向かって笑いかける。彼は一節を弾き終え、その指を止めた。
「へへへ、それほどでも……」
「これ確か『敵らに逃げ場無し』でしょ。簡単な曲じゃないわよ、拍手ものよね〜」
「確かそんな題名でしたねぇ、明るくって、いい曲でしょう。恐れ入ります、じつは一番得意なんですよ」
「堪能したわよ♪」
「ありがてぇや、甲斐がありました」
「それにさ、この曲は懐かしいわ。こどもの頃、聞いてたけど、印象に残ってる。今でも覚えてるわ、曲に付けられた物語…。どんな話かというとね、むかしハームの街を荒らし回ってた泥棒の一団を、ついに衛視たちが罠にかけて、捕まえるのよ。こずるい泥棒に悪事の報いを受けさせる話を聞いて胸がすっとしたもんだわ。正義は悪に勝つってね」」
それを聞いたジュリアンの目の色に、すっと影が横切った。
「そんな物語がついてたんですか?」
「うん、確かそうだったと思う」
「…………」
「どうかしたの?」
「ちょっと疑問に思うことがありまして。その物語の内容に」
「え、いったい何が?」
ジュリアンはその問いかけを聞いてる風もなく、重々しく口を開いた。
「シェリーさんは。どろぼうは許せないでしょうかね?」
「ん、そりゃ、まぁ、そうだよ。盗みってもの、とか、誰かに迷惑をかけるやつなんてのは、ふつうの道徳感っていうのに反するから、好感もてないわよ。良心を疑ってしまうからね。あたしたち普通の人間から見れば、そういうやつには何をされるか判らないって、恐ろしさもあるわよ、当然でしょ?」
「……へへ。それじゃ、シェリーさんは、考えてみたことがおありですか……普通の人間がどろぼう、ひいては、悪党になる、その背景になにがあるかということを」
頭を掻いてから、彼女は首を振った。ジュリアンの言い方に真剣さがあったため、軽い気持ちで返答するのをやめたのである。
「わかると思いますが、九分までは、貧乏と、それからギルドの存在のせいですよ。この二つのカードが揃うと、人間は易々とどろぼうになります。うちの集落が盗みをしないでいられるのは、ほとんどまぐれのようなものなんで」
彼女が眉間に皺を寄せて考えている。
「まぁそのことについて、アタシはこんな風に考えております。少々こみ入った話になりますが、聞いて下さいますか」
ジュリアンはさらに事を細かにして語りはじめた。
「貧乏な人間の抑えがたい物欲は、自然と犯罪を産みます。それをあなたのおっしゃるような、良心で抑えることはむずかしいことなんですよ。なぜって、彼らは貧乏で、良い家庭をもちません。良心を含めた人間の道徳は、教える人がいないならば、備わらないものなんですから。本当に貧乏な人間に、教育が行き届いているとお思いですかね……。そのように生まれついた彼らを責められますか。──まあ、これで話しが終わってしまっては何ですから、もう少し続けましょう。かまいませんよね?
では、その貧乏な人間が、比較的まともな家庭、あるいは、それに似た共同体の中に身を置いていると仮定して、彼に道徳が備わっているとして、考えてみましょう。この道徳のうちわけを考えてみると、良心そのものと、罰を恐れる心で成り立っているんで……。この二つが貧乏人の欲望を抑えているんです。
まあでも、どちらがより強く抑えているかというと、アタシに言わせれば、純粋な良心のほうより、むしろ、あとのやつ、罰に対する恐れだと思いますね。それで、またこれにも種類がありまして、牢に入れられるといった即物的な刑罰に対する恐れのほかに、人から後ゆびさされたり、自分のいるところから追放されてしまうのが怖いというような、社会的な罰に対する恐れがあって、それが一番最初に利いてくる薬なんだと思いますよ。
人はみな、自分をとりまく社会に受け容れられたい、まわりによく思われたいって思っており、これは人間にとって、物欲と同じように強いものですから。この、社会との関係性を大事にしたいという思いが、貧乏人さえも、罪を犯すことを踏みとどまらせる。誰もが一線を越えることをためらえるってワケでさぁ。
ところが、この街には、大きな勢力をもつ盗賊ギルドが存在します。あれは、現状の社会のきまりごとにあわなくなってきた人間に、新しい価値観の社会と人間関係を与えるところで。誰も、今まで育ってきた社会、共同体から離れきることはできませんが、それでも同時にギルドの方に属すれば、この新しい社会のほうでは、盗み等をしたって受け容れられるんです。
ギルドに入れば、物欲を優先させながら、同時に社会に受け容れられたいという思いも満足させることができる。……そんな想像が、実際にたくさん前例があることとして、貧乏人の目の前でちらつくんでさぁ。結果として、貧乏なやつはためらうこともなく、盗賊ギルドに入ってしまいますよ。
ところで、盗みは一度犯してしまうと、止めがたいものですね。それは自分自身の慣れの問題でもあるし、また、一般社会の方での信用回復を放棄していくせいということもあるでしょう。ギルドで認められ続けることを選ぶワケで。そして、ギルドはやっぱりやくざ者の世界ですから、色々と、必要でない悪さをすることもゆるします。やっぱり、持っていた良心を、腐らすやつも出てきますね。余儀なく盗みをしていたどろぼうの中から、一人前の悪党も出てきてしまいます。しかし、彼らも、はじめから、そうなることを望んだわけではないんでさ。
長くなりましたが、結局、言いてえのは、この街で犯罪者や悪党になる人間のほとんどに対して、被害者でもないものが、どれだけ憎めるのか、唾を吐いていいのかということです……へっへ。誰だって、一般の人や金持ち連中だって、この街で貧乏に生まれついたら、世間で言われる悪人になりやすいはずですよ。そうならば、聖人曰く、”この世に犯罪もなければ、またしたがって罪業もない、ただ飢えたるものがあるばかり”ということになります。金持ち連は犯罪者や悪党のことを口汚くののしるけれど、たんに置かれた立場の違いがもたらした結果に過ぎないんじゃ、ありませんかねぇ? わかりますか、アタシの言ってる事」
黄色い歯を剥き、静かに聞いていた相手のほうに目を移す。
シェリーは両肘を掴んで腕を組んでいたが、やがて口を開いた。。
「うん……ジュリアンの言ってることもわかるよ。悪人にはそうなるだけの理由があるってことね。でも、自分の生まれや、境遇なんかについては、誰もがある程度、受け容れるしかないんじゃないかな、って思うの。生まれ育ちに原因があるからって、免罪していいものかな……?
それに、今の考え方が一般に言われるようになったら、貧乏人は、自分が悪さをすることを正当化してしまうわよね。……貧乏な人が悪人になるとしたら、いちばんの原因は、貧乏のせいでも、ギルドのせいでもなく、そういう理由があるからしょうがないって自分で言い訳する気持ちなんじゃないかって思う。だから少なくとも、自分たちは罪をおかしていい、と決めこんで、良心を麻痺させることは、よくないわ。
それに、私達も、貧乏な人を、悪人になりやすいって、差別したくない……」
彼女は喋っている間中に、なんとか日頃の通り、笑顔をつくる機会を探していたらしかった。ついにそれを見つけることが出来なかった彼女の語尾は、残念そうに、細く小さくなっていた。
(思わぬ反撃を食らって、アタシはにわかに苛立ちを感じました。この内容を、彼女のような裕福な人間が言うのかと……いや、それだけじゃぁねぇ。白状します、その時、アタシは、その怒りの中にはもっと別な要素も含まれていたことに、自分で気づいてしまいました。……それは、彼女に対して、精神的優位に立とうと言う無意識の作戦が、失敗に終わりそうなことを歯がみする心持ちでありました)
押し黙っていたジュリアンは、ようやく口を開いた。重たげな瞼の下のその目は、表情をなくしていた。
「……へへ、すみません、シェリーさんの事を言ったんじゃ、ないんですよ。私的な、一般論でさ。……生まれを言い訳にするな、ですか。へへでも、それは納得しづらいですねぇ。むしろ金持ち連中のほうこそ、生まれや宿命を、自分の都合のいい様に曲げて理解して、言い訳にしている様に思えるんで。それが、どういうことかと、いいますとね」
言葉を一端切って、続ける。
「奴ら金持ちの中にゃ、『貧乏のせいで、罪をおかす人間が多い』って事実を知っており、そのことに同情を憶えている人間もいますが、どいつもその上で、格差も運命だからしょうがないって言い訳してるんですよ。けれどもちろん、手をこまねいて傍観している本当の理由は、そろばん弾いて、自分たちの損得を考えてるからです。貧乏な人間が大勢いる社会を変えるわけには、いかないんですから。とりわけ、自分より不幸なやつを見て慰まりたいという欲望のはけ口の対象が、必要なんですから」
「そうかな……まだ一人一人、よく考える機会がないだけじゃないのかな。自分のいる場所の空気に流されてるだけだと思う。強く訴えて、よく現実の理不尽さを見せれば、さすがに金持ちたちも、良心の呵責に耐えられないと思うわ。革命を起こすとまでは言わないけど、一人一人、貧乏人に何かしてあげようって思うんじゃないかな」
「いやぁ、やつらがそろばん勘定から離れられるとは、とても思えねぇ……。それにやつらがよく考えないわけをごぞんじで。それが苦痛だからです。貧乏人のために何かしなければとか、長い時間そんなことを考えて、具体的な行動を起こすなんてことは、どだい無理な話なんで。だって、そのことを認めていくと、まるで普段とは立場が変わっちまって、むしろ貧乏人の方が、自分たちより偉い……ということに、気づいてしまう、じゃぁ、ないですか。この逆転に耐えられないんですよ。やつらぁ、金持ちに生まれたことのやましさをつつかれるのが、いやで堪らないんですから。だから、どんな訴えがあっても、無視して考えないようにするのが実際のところですよ。
まあ当然、やつらぁ、心の底で、貧乏人に対して後めたいと思ってる……そうでなくちゃいけねぇ。あぁ、この理屈でいくと、悪人がこうまで一般社会で恐れられることの、つじつまも合いますねぇ。あなたさきほど、悪人には何をされるか判らない、とおっしゃいましたが……へへ。金持ち連は心の底で、自分たちが、悪人の正体である貧乏人の『復讐』を当然、受けておかしくないと気づいている、だから、恐れてるって事もありそうなもんですよ」
シェリーは黙って聴いている。
年かさの乞食は、彼女から目をそらした。いまさらながら、少女にあてこするような言葉を並べていたことに気づいた。
「へへ。すいません、シェリーさんのことを言ったんじゃぁ、ないんですよ。そう、一部の金持ちには、貴方のように、有り難いことをしてくれる人もいますね。ただ、残念なことにそういう方々は大概が……」
言葉尻を飲み込んだ。これ以上、彼女の立場を無視した言葉を出すのをためらった。
そうして、場は重苦しい沈黙に包まれた。
「でもジュリアン。そんな風に、貧乏なことの辛さばかり考えてたら、余計に苦しいだけじゃない? たとえばここの集落の子供たちは、私の目には、境遇なんか気にしないで、とても明るくやってるように見えるわよ。心は豊かですら、あるわ。私が、こんなこと言えないとは思うけど、あんたもあんな風にはやってけないの?」
「……やつらぁ、まだ幼いだけでさぁ。アタシは、子供らが幼いままでいいとは、思っていません。あれらもいずれ現実に疑問をもちはじめるでしょう。そしたらアタシはその疑問を捨てさせることのないよう、教育を始めますよ。たとえ、立場を改善できる望みがなくとも、こんな現実に妥協させるわけにはいかんので。不満を継いでいくことは、アタシら弱者の譲れない伝統です。だって本当の幸福を掴むには、今が不幸という事を自覚することからはじめるより、仕方がないんですから。屈辱を忘れずにいれば、いつか、何かの行動がとれるんですよ。これを失わせるわけにはいかないんです」
「それを考えながら暮らしていったりなんか、みんなが耐えられる?」
「へへ、それも大丈夫と思いますよ……アタシは、どうやったら我慢して生きてられるかっていう『秘訣』も、ようく、知ってんですから。まぁそれは、ご想像にお任せしますよ。へへ、シェリーさんはだいぶお疲れのご様子ですから、お喋りは、この辺にした方がよさそうで」
「あはは…っ。うん、それには賛成」
長い話は終わった。
シェリーは苦笑すると、どっと、ベンチに頭を預けて、目を閉じた。すぐ近くまで、まどろみが迫っている気配がした。蕭条たる風の音が聞こえる。
やがて広場には、「月姫」が再び静かに奏でられはじめた。
<続く>
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