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No. 00007
DATE: 2000/12/15 01:57:21
NAME: 犬頭巾
SUBJECT: JULIAN<後編>
夜が深まっても彼が帰ってこないというので、集落は不穏な空気に包まれていた。
白い月光に照らされるなか、建物の下の空き地に寄り合う乞食たちの、どの顔にも、憂慮の色が差している。皆が帰りを待っているのは、ホセという名の、今年十一歳になる、子供たちの中では年長に入る少年であった。
その彼が、昼すぎに、街の方へ物を拾いにいくといって集落を出たまま、戻らない。
付いていった人数が二人と少なく、その子供たちは、リーダー格であったホセの姿を見失い、迷子になってしまった。
自分たちが見知った道に出られた時、ホセなら一人で帰って来れると判断して、いち早く戻ってきてしまったらしい。今彼らは、壁の下に、今しも涙をこぼしそうな顔で座っている。
「どうしちまったんだ」
「さがしにいった奴らは、まだ戻ってこねぇのか」
乞食たちが不安気に呟く横に、シェリーもいた。彼女はいつも集落を訪れる時は、昼前に来て、日没とともに戻るのが常だったが、事態を知り、この時間まで残っていた。両親はさぞ心配し、怒りもするだろう、との考えが彼女の頭をかすめる。しかし、ホセの無事を確かめないことには、自分が安堵することができなかった。両親には、あとで安心してもらおう、と彼女は決めた。
ジュリアンはそんなシェリーの様子に視線を向けていたが、ふと、気づいて、首を道の方に巡らした。「おっ! 戻ってきたなぁ」
数人の乞食が、冬物の裾の長いボロを路面にひきずりながら、列を組んで歩いて、戻ってきた。頭二つ分ほど抜けて、マストの姿があり、その背中に、ホセが背負われていた。力無い様子である。
「ホセ……おい、ウェズ、どうだったんでぇ!」
「どうもこうも無えや……橋の上で倒れてたよ。顔や腹に殴られた跡だぜ」
ジュリアン達は押し黙った。
「歩いてた人間の服のすそ、ひっぱって、破いちまって。そいつに、絡まれたんだってよ」
ホセが、うめき声を上げた。しかし自分が、すでに集落に帰りついていることに気づくと、安堵の笑みをもらして、口を開いた。
「えへ……。自分の力で戻ろうと思ったんだけどな。心配、かけて、ごめんよ」
「大丈夫……?」
マストの問いかけに彼はうなずく。
「子供に暴力振るうなんて……」
シェリーは瞳を怒らせ、悔しそうに唇を噛んだ。
傍らで、ジュアリンがつぶやく。
「仲間を傷つけるような奴は許せねぇのはもちろんだ。しかし、加えてそいつは、ホセの格好を見て、乞食だから殴ってもかまわないって具合に、差別した。……自分より苦しんでる貧乏な人間を虐められる。アタシに言わせりゃ、そんな強者意識を持つ人間は、どんな理由があろうと、勘弁できねぇ。『金持ち』になってるんだ、本当の悪人だ」
一般人の少女は、静かに震えながら、うつむいていた。
受け口のウェズはホセを毛布の上に横たえながら言った。
「こいつが街から橋の上まで、這うように歩いてるとき、誰も手を貸さなかったってのがな、やりきれねぇぜ。ヤな、街だ」
シェリーはホセの方を見る。その目が潤んでいる。
「……街の人間って、なんでこう……ごめんね……」
声を殺して呟く。ふいに、ジュリアン達、乞食の視線が彼女に集まった。
「今日は帰るわ」
「ええ。どうも長く残って頂いて……」
それから、ホセを看護する数人を残し、乞食たちも眠りについた。とりあえず、落ち着いたような表情を浮かべて。
その日、十二の月、十四の日は、穏やかな晴れの日だった。
透き通るように冷たい午前の空気の中、シェリーは食べ物を籠に入れて家を出、乞食達の集落を訪れた。
ジュリアン達、一部の大人は、情報屋の仕事のために出払っていた。
辺りを見回し、子供たちの様子を見に行こうと彼女は思った。
その時、背後から誰かに呼び止められ、振り向いた。
「あ、長老さん……」
この共同体の長である、<長老>がそこに立っていた。
「シェリーさん……ちょっと、二・三、伺いたいことがあるんじゃがの。まぁ、立ち話しもなんじゃ。こちらへ来なさらんか」
そう穏やかに頬笑んで、彼女を話しの席へ誘った。
ここは、<白鷺通り>。一般人の街中である。その石で固められた路上を、人目を避けるようにして、みすぼらしいなりの男たちが、歩いていた。ジュリアン達である。
今日、彼は、情報屋の仕事の依頼があるというので、街にでかけることになったのだが、
何人かの仲間たちが、同行を申し出た。最近、集落全体に収入があって、多少、各人に小遣いの配分があったため、どうやら、何か買い物をする腹積もりがあったらしい。それならついでということで、ジュリアンの用事に付いてきたのだ。やはり、一番土地鑑に詳しいのは、彼だった。
「あぁ、ジュリアンさん、別にそう急ぐこともないんじゃねぇか。待たしときゃいいじゃねぇか、依頼人なんか。どうせまた、片思いの相手の身辺を調べたがってる、助平とかだろ」
「商売を長く続けるためにゃ、そんな手合いの相手も我慢するしかないんだよ。まぁ、まだ、待ち合わせまで時間はありますがね」
「なら、ちょっと屋台に寄っていってもかまぁねぇだろ? さっきから、羊肉を焼く匂いが漂ってきてよう、俺はどうにもたまんねぇんだ」
涎を垂らして、ウェズが言うと、他の乞食たちも調子を合わせた。
「しょうがねぇなぁ」
その時だった。列の最後を歩いていたマストが、巨体をゆすりながら、前を歩く乞食たちを呼び止めた。大きな声に、乞食たちはびくりと足を止める。
「待、待ってえ、ジュリアン達」
「おう、何だべ、マスト?」
「お願いがあるんだ。そのお金……やっぱり、自分のためには使わないでくれないかなぁ?」
どもりながらそう喋った。長く考えていて、言い出せなかったことらしい。だがそう聴いて、他の乞食たちは、目を丸くした。
「な、何をふざけたことを言い出すんだあっ」
「違うんだ、そのお金で、買うんだ、贈り物。いつも世話になってるシェリーのために……。ねぇ、お願いだよ」
「なんだってえ……」乞食たちは顔を見合わせた。
「そんなの、お前一人で買やぁいいじゃねぇか! 俺は肉食うぞ肉ゥ」
「僕のお金じゃ、ちゃんとしたの買えないから……それに、みんながお世話になってるんだから、やっぱり、みんながお金を出さなきゃとも思うんだ」
みな、押し黙った。その後で、喧々囂々の、議論が始まった。
「ば、ばかっ、いいべさ、そんな、余計な気ぃ回さなくて」
「いや確かに、シェリーにはみんな、よくしてもらってるからなあ」
「シェリーは、街の人間だから、少し値が張るぐらいのもん貰っても、嬉しくねぇかもしれねぇよ」
「そういう話じゃないっすよ」
「マスト、お前一人の金で買えるものでいいじゃねぇの」
「それ、気が引けるじゃねえか、やっぱり。俺らみな、感謝するべきだ。ちょっと出すのが辛え、ってぐらいの思いしなきゃ、だめなような気がするなぁ」
「そうだそうだー!」
「けどもよ、シェリーだって、好きでやってんだろべ? それをなんで、俺らが感謝しなくちゃぁ……」
「なんっすかそれ! あのひとが、気持ちよくなりたいから、やってるとでも言うんですか!」
「べ、別にそこまで言ってねぇけど」
「だからよ、あれだ、貧乏な俺たちが身銭切ったりまでしたら、シェリーは恩に着てしまって、辛いと考えるかもしれねぇじゃねえか」
「身銭切るからこそ、俺らのすることには価値があるんだよ。恩に着せることにもならん、それだけのことをしてくれてるんだ、そう説明すればいい」
「本当にそうっすよ」
「だどもなぁ〜」
「困ってるシェリーを助けたとき……気持ちよかったんだ。ねぇ、ウェズもボブも、一度、ただで、人のために何か、やってみたらどう? ほんと、すかっとするよう!」
「きっと喜んでくれるぜ?」
ジュリアンはそういう議論を、黙って聴きながら、物思っていた。
マスト達の提案を否定するつもりはなかった。ただ、彼らが言うことは、はじめから、倫理に叶うことをする気持ちよさを感じられている自分たちに、都合のよすぎる話のようにも、思えた。ウェズやボブは、その快感に未だ酔えておらず、折角手に入った金を手放すことになるかもしれない不満だけを、切々と覚えている。マストたちがそんな彼らにも、自分たちの倫理を押しつけて、金を出させるのは、どこか公正でないように感じていた。一度しぶりだしたものが、割り切って正義の快楽に辿り着けられるまでが、苦労のいることなのだ。そして、早く納得させ、割り切らせるには、なかなか、微妙な問題のようである。
だが、彼自身、シェリーにお礼をしたいと思っていたし、そのことに全員が協力しなければ、あとで関係がぎくしゃくするということも承知していた。
だから彼は、こんな言い方をすることにした。
「それじゃぁ、こう考えてみてはどうですかね。その贈り物を、シェリーさんの、誕生祝いにすることでは。シェリーさんの誕生日は、もうすぐなんですよ……へへ」
──それを聴いて、皆の顔がぱっと輝いた。
「え、じゃあ、ジュアリンッ……!!」
誕生日を祝う。その言葉は、彼らにとっていささか特別な意味を持っていた。
どこの共同体にも、儀式というものがある。それは、各々が、自分が共同体を構成する人間の一人であることを、確認するためのものだ。ジュリアン達の集落にも、ただ一つ、それに類するものがあった。それは、老若男女問わず、一人一人の誕生日を覚えていて、その日が来れば、皆でささやかにお祝いをするという儀式である。
ジュリアンも、四十の坂をとうに越える歳でありながら、毎年皆の祝福を受けていた。その催しは、不遇の人生を送る彼らが、生まれた日をおたがい喜びあうことによって、生まれ落ちたことへの疑問をなくすための、ひとつの知恵であった。
そして、誕生日を祝うことは、即ち、その人間を集落の一員と認めることを意味した。
「なぁ、シェリーさん。あまり無理はしなくてもいいんじゃよ。貴方には、貴方の生活がある。それらを犠牲にしてでも、とかは、よくない考えだ。ご両親も、心配しておられるじゃろう」
「あ、どうも……ご心配有り難うございます。でも、大丈夫です、わかっておりますから。できる範囲でやっていますし、これからもそうするつもりです。あは、それに、ご杞憂ですよ、だって私はもうすぐ……」
「なになに……おほ、なんと。それは本当に、気のかけすぎじゃったな。いやいや、それなら、儂も安心ですわい、わっはっは」
二人は朗らかに笑いあう。集落についての雑談を交わしつつ、時を過ごした。
ジュリアン達が、集落の手前まで帰ってきたのは、日も暮れてからだった。
「ずいぶん、長くかかっちまいましたねぇ。まぁしかし、シェリーさんに似合いそうなものが見つかって、よかった」
「うおぉ、俺の羊肉がぁ……」
「あっはっは、まぁ機会は幾らでもあるっすよ」
「早くシェリーの誕生日、こねぇかな、きっと仰天するべよ」
そんな会話を交わしながら、一行は歩みを勧める。先頭をゆくマストの分厚い掌のうちには、銀の鎖に琥珀の貴石が下がったペンダントが鈍く輝いていた。
彼らと、自宅への帰途につくシェリーが出会ったのは、それから半時も経たないうちだった。
「おや、シェリーさん!」
(それからの事は、あまり思い出したくねぇ。アタシの人生でも忘れ得ぬ、最悪の一幕でした。だが、これも償いというのなら、あの場面を今、克明に思い出しましょう。……はじめに、彼女が告げました。……来年から、あまり来れなくなるかもしれない、結婚する、という内容でした。相手は、貴族の嫡子、ということでした)
それが告げられた時、乞食は全員沈黙し、呆けたようにシェリーの顔を眺めていた。開けた口の閉じ方も忘れた、というぐあいに。
「そう、結婚するの……今まで、おつき合いしてた人なんだけど……。あは、とてもいい人でね。もしかしたら、みんなを手伝うことも理解してくれるかもしれない。でも、とりあえず新妻の生活に慣れなきゃいけないし。来る回数は減るかもしれないけど、みんなをいつでも応援しているわ」
彼女はそう言って、いつものように微笑んだ。
「……貴族のボンと……シェリーさん……」
ジュリアンが呟いたが、それきり言葉が途切れて消えた。誰もが硬直して、口を利けずにいた、その時である。
かしゃん、と音がして、ペンダントが地面に落ちた。
それを持っていたマストが、声を震わせて喋り始めた。
「嫌だあ……なんでえぇ。シェリー、なんでいっちゃうの? 出ていっちゃうの、もう、戻って来ないの?」
「だから、そんなことないよ、マスト。泣いちゃ駄目だぞ、男らしくないっ」
だが、マストは聴いていなかった。その目に映っているのは、昔、街で家族と暮らしていたころの、苦々しい思い出だ。
「嫌だ……よその男の人と。一緒に、僕たちのところからを出ていっちゃうんだ。パパも言ってた、ママ、イヤラシイ…… イヤラシイよっ!!」
「マ、マスト」
「イヤラシイママなんか、嫌い!! 嫌ーーーーーーーーーいっ!!」
地を揺るがす大声が、冷え冷えとした夕暮れのスラムの一角に響き渡った。そして、その声によって心臓に命を吹き込まれたかのように、乞食たちも、動き始めたのだった。
「そ、そうだ……。全く、ふざけてやがる。まさか、俺らがあれだけ嫌ってる貴族の坊ちゃんとおつき合いしてたなんてよぉ……」
「やっぱり、気持ちよくなりに来ていたんじゃぁ、ねえかっ!!」
「ゆ、許せないっす……いくらなんでも、これは……」
「おいらぁ、前からコナマイキだと思ってたんだ!」
「あの時の涙も、所詮、芝居を見て流す涙と同じだったってことか!」
今度は、シェリーが凍り付く番だった。
「え……え。みんな……どうしちゃったの?」
低いうめき声を上げて、前にいた一人が、シェリーに向かって突進した。
路面で光っていたペンダントは、無惨にも踏みつぶされ、ペキッと渇いた音を立てて貴石にひびを走らせた。
(皆があそこまで怒った理由は知れてます。みんな、あの子に惚れていました。すっかり首ったけだったんです。そしてむろん、その思いはアタシも同じでした……)
ジュリアンは、混乱した頭で、その光景を眺めていた。じわっと吹き出した汗が額から目、頬に流れ伝って、止められなかった。
時間がゆっくりと流れていた。服が引き裂かれる音、叫び声、怒号、群がる乞食たちの動き……全てが非現実的なものに思えてきた。そして頭の中では、<敵らに逃げ場なし>のメロディが、忙しいリズムを刻んでいた。
音楽を聴きながら、彼はその光景に見入った。もっとよく見ようと思って、近づく。急いでは近づけないが、その努力を続ける……。
乞食たちが大勢で、亜麻色の髪の女性を乱暴しようとしている。どこかで、「キライ、キライ」と、大音声で叫び続ける声が、耳に届く。
そして、彼女の呟く言葉が聞こえた。
「やめてっ……! こんなのってひどい!」
彼女は身を縮こまらせ、怯えきっていた。
「ひどいわ……あれだけみんなの世話をしてあげたのに」
ジュリアンは、もっとよく言葉を聞き取ろうと、落ち着いて歩みを進める。
「みんなの為にお祈りしてるし、家で、ご飯だって残さないように食べてたわ……。それなのに、これがその報いなの……?」
(今でこそ思います。相手の報恩を期待することは、普通の場合には問題のあることではなく、むしろ、それは相手と信頼を築けられることを期待することと、同義でもあるのです。しかし、その時のアタシは……おかしくなっていたアタシは、単にその言葉を、恩着せがましい台詞と取ってしまいました。そ、そして……)
「お祈り……飯、だぁっ……」
ぎり、とジュリアンはその奥歯を軋ませた。そして、やにわに、しゃがみ込んで、相手の髪を掴む。涙を流している虚ろな目を、じっと見据えた。そして、黒ずんだ奥歯がのぞくまで、犬のように歯を剥いて、笑った。
(うう……)
「ど……どうやら、何もおわかりでなかったようですねえぇ!? まさか貴方、この程度でもう、後めたさをなくしてしまったというんですかぁ!?」
(うわあああ)
その剣幕に、周りの乞食たちも、服を剥ぐ手を止める。
「いったい、アタシたちが、日々何を思って、生き抜いているか……! 何を糧として、この萎えきった身体ァ、動かしてるか……ご存じないようですねぇっ! それは、あんたら金持ちより我慢してる、耐えてるっていう誇りですよ! あんた方より一段と偉く生きてるっていう自負だけが、このアタシ達の生きるよすがなんですよぉ!!」
(うわあああああ!!)
「あんたは金を持っていることのやましさが消えるよう、まだまだ努力しなければならなかったんだぁ……。神に祈るとか、飯を我慢するなんて、アタシらにとって何の得にもならねぇ。それは、一人勝手に、あんたのやましさを軽くするだけの行為でしょうね。もうこの辺でアタシらに負い目がなくなったと思ったら、大間違いですよ! そんな勘違い、迷惑な話でさぁっ!!」
彼女はぼんやりとジュリアンの顔を見ていた。
「まぁしかし……結局は、貴方も、一方的に気持ちよくなりに来ていたというわけなんでしょうねえ……! だから、こんなこと言っても仕方ありませんねえっ。最初から、そのつもりだったんですから。……十分、聖母役を楽しんだら、適当なところで、許嫁のところへですか! 『やましさが完全になくなるまで』貴方は、ここにいてくれると思っていました……。信じた、このアタシが馬鹿で……した……」
そこがピリオドだった。頭の中で奏でられていた音楽は、後からかけられた怒声で、途絶された。
「お、お前ら……なにをしておる……っ!!」
長老は、シェリーの忘れていった編み籠を渡そうと、追って来ていたのである。彼は、事態を把握するや否や、その場にいた全員の顔を殴った。抵抗するものはなかった。
彼女に、服をぼろぼろにされた以上の、乱暴の被害はなかった。だが、衝撃で、まだ意識は混濁の状態にあった。
長老は、息がしずまると、事態の収拾にあたった。
どがっ。
勢いよく、ジュリアンの身体は、背中から壁に追突した。
未だ壮健な身体を保っている長老に渾身の力を込めて殴られ、不具者の彼には、為す術もなかった。
「ジュリアン! あいつらのリーダーであるお前が、なぜ止めなかったっ?!」
「シェリーさんが……偽善者だったからでさぁ」
「このっ、何を言うか!!」
ジュリアンの唇が切れ、血が飛び散った。
「あの方ほど……あの方ほど、偽善から離れて慈愛を実践していた方はいなかったのじゃ。お前もそれに気づかないはずはなかろうっ!?」
「……」
「大恩を最悪の仇で返しおって……お前らは、身分は乞食だが、精神はそれ以下じゃ」
「結婚……して、ほしくてねぇ……」
「何?」
「結ばれたかったんですよ。アタシら全員……それを毎日考えて、胸をときめかせておりました」
にぃっ、と彼は口が裂けんばかりに笑った。そして、その目からは、大粒の涙が伝いはじめた。
「な、なっ……お前はぁ」
「それに、そうすりゃ、シェリーさんは、実際に、偽善もやましさも無くなって、お仲間でしょ……。へへへへ。同じじゃなきゃ、嫌なんだよぉ〜!! 同じじゃなきゃあ!!!!」
長老は膝を震わせた。その場に座り込みたい気持ちを、どうにか堪えた。だが、目が潤んで来るのは止められなかった。
「ど、どうしても、そうじゃないと駄目なのか……? 『同じ』じゃなければ、受け容れられんのか? うっ、この……。許せん畜生めっ!」
長老はもう一発、ジュリアンの頬げたを殴りつけた。壁の下で背中を預けている乞食の身体は、もうあまり反応しなかった。
「他の奴らは……早いうちから、重く反省したというのに、まだそんな事がいえるとはの……。聞け、シェリー嬢は気がついてから、マストに背負われ、ホセに導かれ、家へ戻っていったぞ。彼女は、何も言わなかった。そのことに、感謝をしなければならんのじゃ」
長老は、目元を拭って続ける。
「ホセは、マストを叱りつけて、正気を取り戻させた。あの子は、この間自分を傷つけた街に向かうことを何ら厭わず、シェリーを先導していった。ああいう子らが、集落の未来を作るのだ。お前などは……自分より下の者の代わりに、金持ちを差別し、益体もない誇りを持ち続ける。その思想を周りにも教える。それを持ったところで、どうしようもないのに。感謝を忘れ、今回のように、得難い縁をも切り捨ててしまうというのに。お前は、儂ら、周りを苦しめるだけの存在じゃ」
ジュリアンは薄笑いを浮かべていた。
「だって、納得できねぇんですからねぇ……。同じ人間なのに、なんでアタシらだけ、恥ずかしく生きて、損をしてなきゃ、なんねぇのか」
「……お前……お前は、人間をやめろ。犬にでもなれいっ!! 自分を貶めて、けして、他人と同じになれると思うな。ジュリアンという、名前も捨ててしまえ。身も心も、犬になりきるぐらいで、丁度いいわ。そして、一生かかっても、あきらめ、納得しろ。不幸な境遇、他人に頭を下げ、その恵みに感謝しながら生きていく。乞食はそういうものだということをなッ」
「……へへ、へ、へへへへへ…………………」
ジュリアンは、虚ろな目をして、はらはらと涙を零した。その目は、現在のどこを見てもいなかった。遠く、未来に向けられていた。そうしながら彼は、たとえどのように、己に言い聞かせる努力をしても、何時までも自分は『納得』できないのではないかという、予感に似た思いに囚われていた。……
<大陸歴512年/オラン>
犬皮の虚ろな眼窩は涙を流さないが、それに覆い隠された生身の人間の顔は、涙を流し続けている。
暗闇の中、犬頭巾は泣いていた。
(もうすぐ……死ぬという段になって、納得は、できたでしょうか……?)
自問自答した。だが、胸の奥を見つめても、そこには虚ろが広がっているだけで、何も判らなかった。
長い回想を終え、もう一度、かつて慕情を覚えた女性の顔を思い浮かべた。だが、そのイメージは、思い出の全体とともに、急速に遠のいていった。
そして、静謐に満ちた闇の中に、ひとり、取り残される。
肌寒さを感じた。
毛織りのケープを胸元でかきあわせ、地面に横になろうとしたとき、彼は、後から呼びかける声に気づいた。
「司祭様ぁ〜。や、どうしました、大丈夫ですかい?」
「あ、ああ……へへ、心配いらねぇ。申し訳ありませんね。ちょっと、疲れて、眠くなってたんですよ。……そうだ、穴がどうとかって、話でしたね」
「ああ、そうなんですよ。実はね、入り口付近から、こんなものが出てきまして……」
男が差し出したそれは、白金の輝きをもつ、錫杖というべきものだった。
「なんか、えらい、綺麗なもんだから、司祭様に鑑定して欲しいと思って。獣のカミ様からの、賜りもんかな……」
「どれ……?」
犬頭巾はそれを手にとって仔細に観察してみた。杖の身体の部分には、縦に字が刻まれている。
そこには、彼には読めない古代王国の字で、”ビラコチャ”と書かれていた。
<了>
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