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<宿帳をご参照下さい→「幽霊屋敷?の仕事1(番号なし)〜5」> 「なぁ、仕事しねぇ?」 ラスがそう切り出した。ここは、古代王国への扉亭。酒場の奥まったテーブルを囲んでる人間たちにとっては馴染みの店である。 ラスの隣で、ワインに口をつけながら、ロイランス──通称ロイがうなずいた。 「そうそう、やっぱ僕とラスだけじゃキツくってさぁ〜。ねぇやろうよ〜」 その2人の視線を受けて、それぞれの向かいに座っていた男たちが同時に溜め息をつく。カレンとシュウである。 「……神殿から戻ったところをラスに捕まったと思ったら…」 「オレなんか、ロイの奴が学院まで迎えに来たぞ」 で、どういう話なんだと、カレンとシュウが話を聞く体勢に入る。ラスが主筋を、ロイが補足をするという形で説明が始まった。 ──曰く。 幽霊屋敷の始末を請け負って、2人で出かけたところ、幽霊騒ぎの原因はその大半が狂ったブラウニーの仕業だったこと。屋敷内を歩いている内に、たまたま見つけた部屋には、動いて、言葉を話す、オーラの黄色い骨がいたこと。状況から推測するに、ゴーストだと思われること。 「…そして、こいつがわざわざその話なんか聞きやがったんだ」 ラスが不機嫌そうに呟く。 「いいじゃないか〜。なんでもかんでも切っておしまいってのは良くないと思うよ? 話を聞いて、未練を取り除いてやることで、あの人が昇天できるならそのほうがいいじゃないか。不死の化け物のまま消滅させられたんじゃ、可哀想でしょ?」 ロイの反論に、カレンがうなずいた。 「俺もそう思う。……っていうか、おまえだっていつもならそう言うじゃないか」 そう言って向けられた視線には応えず、ラスが口を開いた。 「……で。続きだけど」 ──ゴーストが言うには、40年前に賊が押し入って来た際に、孫娘が1人さらわれてしまった。その孫娘にどうしても渡したいものがあるから、孫娘を屋敷に連れてきてほしい、と。 「そうしたら…こいつ、何て言ったと思う? はい、わかりました、だぜ?」 仲間の前では遠慮がないとばかりに、ラスが不機嫌さを隠そうともせずに言う。ロイはそれを気にもせずに微笑んだ。 「だって、他に言いようがないじゃないか。まさか、いやですなんて言えないしね〜。幽霊になってから悪行の限りを尽くしたって言うならともかく、彼は生きている人間たちに危害なんか加えてないんだよ? ただ、お孫さんが心配で未練が残ってるだけなんだ。救ってあげたいと思うじゃないか」 それまで無言でエールを飲んでいたシュウがふと顔を上げた。 「ラスはこの仕事に反対なのか?」 「……別に。受けた以上はやるよ。途中で放り出すような真似できるか。それにやらねえと、最初の依頼そのものが終わらねえんだからしょうがねえだろ」 「その…狂ったブラウニーとやらは消したんだな? 探す孫娘の手がかりなんかはあるのか?」 カレンが尋ねる。 「……消したんじゃない。…帰したんだ」 仏頂面で呟くラスに肩をすくめて、ロイはテーブルの上に布で包まれた物を置いた。ことり、と置かれたそれに視線を移して、シュウが尋ねる。 「これは?」 包んでいた布をほどきながらロイが答える。 「手がかり。オルゴールだよ。ブラウニーが投げつけてきたなかにあった。……子供部屋でね。ブラウニーが幻覚を見せてくれたよ。春の陽射しのなかで嬉しそうにしてる女の子の幻。そして、このオルゴールの曲が聞こえてた。僕の知らない歌だけどさ。幽霊さん…っていうか、骨の人が教えてくれたんだけど、お孫さんはカタリナ・ハウゼンって名前だってさ。当時12才。だから〜今は52才かな?」 「……生きてりゃの話な」 ぼそりと呟いたラスにロイが振り向く。 「なんだよ〜? そんなの探してみなきゃわからないじゃないか。何だってそう絡むのさ?」 「考えてもみろ。賊にさらわれたガキの行く末なんか知れてるじゃねえか。慰みもの、奴隷……娼館ならまだ幸せだ。生きてる可能性なんか限りなく低いぜ?」 「それでもゼロじゃないだろ〜?」 「だったらなんで戻ってこねえ? 生きて、無事でいるなら戻ってきたっていいはずだ。40年もの間、戻ってもこられないような状況だってんなら、本棚一杯の書類あさろうが、何百人もの“鼠”に話聞こうが、居所なんかわかるかよ」 「そんなのやってみなきゃわからないじゃないか〜」 その2人の会話に終止符を打ったのは、カレンだった。 「……とにかく。依頼は受けた。…そうだろ? なら、やろう。ロイが乗り気だってのも珍しいしな。シュウも異存はないんだよな? それに、ラスだって中途半端はイヤだろ?」 「オレはかまわない。情報収集なんかは苦手だが、調べものくらいならできるからな」 飲み干したエールのお代わりを店員に頼みつつ、シュウがうなずく。 「俺も…別に。確かにハンパで終わるのはイヤだし。もとはと言えば最初に話受けたの俺だし…っていうか、やらねえとは言ってねえじゃん」 そう呟くラスに、カレンが小さく溜め息をつく。 「……じゃあ依頼は受けるってことで……依頼主ってゴーストなんだよな。なかなか…珍しい依頼だ。そういえば、さっきちらっと聞いたけど…ロイは神殿に調べものしに行くって? じゃあ、書類調べ担当ってことで、ロイとシュウが神殿。俺はラスに合流する。ギルドのほうで話聞いてくるよ。そんな感じでいいか?」 無口で優柔不断だと、普段はラスにからかわれているカレンだが、実はこのパーティのリーダーはカレンである。結局は最後のまとめはカレンがすることが多い。 「ラス、ロイ。直接に話を聞いてきたのはおまえたち2人だろ。何か言い忘れたこととかないか? 情報は多ければ多いほどいい」 そう言ったカレンに、ふと思い出したようにラスが呟いた。 「…… 家族を照らす小さな灯り。笑顔が消えぬことをいつも願う。おまえが幸せであるように 」 「…なんだ? 精霊語か?」 「そう。あのブラウニーが…この界で残した最後の言葉だ」 翌日。ロイはラーダ神殿にいた。自身も神官の1人として何度か出入りしたことがある場所だ。神殿へと至る、曲がりくねった長い坂道をのぼりきって、ふと眼下を見下ろす。ラーダ神官が、神殿や書庫にこもりがちになるのは、研究熱心だからばかりでもなく、この道を通りたくないからかもしれないなどと、ちらりと思ってみる。確かに、道は長い。だが、眺めは絶景だ。 自分は、戦士として鍛錬を欠かしてはいないから、この程度の坂道をのぼったところで息を乱すことはないが、運動よりも書や瞑想を好む神官達にはさぞきついことだろうと思う。だが、運動不足になりがちな彼らにとってはそれもまたちょうど良いのかもしれない。そして、坂をのぼりきったところで出会うこの景色。左手には堅牢な威風をたたえたラーダ神殿。そして右手には、広がるオランの街並み。豊かに水をたたえて緩やかに流れるハザードと、そこを生活の源とする港湾地区。そして、振り返ればそこにあるのは…堂々とそびえ立つエイトサークル。神殿の入り口を目指して、わずかに残った距離を更に歩く。神殿を左手に見ながら、回り込んでいけば、右手の視界もそれにつれて移動する。港湾地区からスラム街、そして、ハザードをはさんでマーファ神殿。先刻、背後に見ていたエイトサークルの威容が再び眼前に現れる頃、ようやく神殿の入り口へたどり着く。 「……ラスあたりは文句言うんだろうなぁ〜」 仲間の顔を思い出して、ふと微笑する。だが、ロイ自身はこの道は決して嫌いではない。真理へと至る道、と…そう教えられたことを思い出す。 そうして、思う。あの不死者にも何らかの真実はあるのだと。死にきれずに、真実の星々となって星界へと至る道に目を背け、不浄なる者に堕ちた彼にも。依頼…というよりも、取引なのだろう。さらわれた孫娘を連れていけば、彼は消滅する。そうすれば、自分たちが一番最初に受けた、幽霊屋敷の始末という依頼も果たされることになる。もちろん、是が非でもと言うならば、攻撃して消滅させることも可能だ。話し合いにすら応じない、凶悪な相手であったならば、迷わずそうしているだろう。そうせざるを得ない状況になっていたかもしれない。あの場にいたのは、自分とラスの2人だけではあるが、たとえ戦闘になったとしても倒す自信はあった。 神殿の内部を、顔見知りの司祭のもとへと歩みながら、考える。彼は、望んで不死者になったわけではない。酔狂な魔術師であれば、肉体を捨てることも考えるかもしれないが、そうでもなければ、誰が好きこのんで、あんな状態になってまでこの世にとどまろうとするだろうか。あの不死者は、ただ願っていただけなのだ。何を渡したいのかはわからないが、さらわれてしまった愛する孫娘に何かを渡したい。彼女の無事な姿をその目で見たい。ただそれだけが、彼の願いだったのだ。不浄なる者に身をやつしてまでも守りたかった、それもまた真実なのだ。…ならば自分は、その願いをかなえてやりたい。 「ファティ司祭様、いらっしゃいますか?」 ラーダ神殿内の、伝承の灯と呼ばれる部門の司祭の名を呼びながら、ロイは書庫の扉を開けた。時折、いろいろな話を聞かせてもらう、顔なじみの司祭である。穏やかな老婦人の雰囲気を称えたファティ司祭のことをロイは気に入っていた。そして、司祭も、柔らかな印象をもつロイを、自分の息子のようだと言って可愛がっていた。 「あら、いらっしゃい、ロイランス。久しぶりね」 書棚の影から、数冊の本を抱えたファティ司祭が顔を出す。彼女が抱えていた本をさりげなく引き受けて、ロイが微笑む。 「ええ、お久しぶりです。ちょっとお伺いしたいことがあるんですが…お時間、よろしいですか?」 「かまわないけど…何かしら? 私でお役に立てる?」 「ええ。40年前に起こった事件を調べているんですが……」 ロイが丘の上からスラムを見ていた頃、ラスはそのスラムにいた。酒場でいくつかの話を聞いた際に、アイシェンと名乗る詩人がスラムで気のふれた老女がその屋敷の話をしてるらしいと教えてくれたからだ。ギルド内での調べものはカレンに任せて、独特の臭気と雰囲気が漂うこの地区に足を踏み入れる。 まだ陽も高いと言うのに、この澱んだ空気だけは拭えないらしく、奇妙に薄暗い感じがする。これもまた、闇と呼べる類のものなのだろう。光がどれだけ満ちても、確実に闇は存在する。闇が満ちた場所で、光が存在するのと同じように。相対する、それでも同時に存在する光と闇。街において、その闇が色濃い部分がスラムだ。 「噂だから確かなことは言えないけどね。ただ、“夕闇の路地”あたりにいるとは聞いたことがあるね」 アイシェンからはそう聞いた。それに、盗賊の端くれとして、スラムの歩き方程度は知っている。確かにスラムは広いが、このあたりを根城にしている情報屋にも見知った奴はいる。アイシェンの言ったことが事実ならば、夕暮れまでには探せるだろうと思った。 これは…取引だ。ラスはそう思っていた。期せずしてロイと同じ頃に同じことを考えていた。あのゴーストをどうにかしなくては、最初の依頼そのものを果たすことができないのだから。そして戦わずにすむのならそれに越したことはない。あの場で、問答無用であの不死者を倒したならば、一番それが手っ取り早いのかもしれないとは思う。だが、カレンに指摘されたように、話をする余地があるのなら話は聞いてやりたいと、いつもならラスもそう思う。ただ何故か、ここ何日かはいらついている。何もかもが鬱陶しいような気にさせられている。狂ったブラウニーの力が満ちた、あの屋敷の空気も。そのブラウニーが精霊界に帰ったあとに、あらためて気づく負の生命の感触も。 「……まだ、慣れねえってわけか」 スラムの路地を歩きながら、小さく呟いた。ここ数日の、仲間達の視線は気づいてた。あからさまに口に出すような付き合いはしていないが、視線の意味はわかる。気遣わしげな視線。ただ、それを口に出されても困っただろう。大丈夫かと聞かれれば、大丈夫ではない。ただ、どうしようもないのは事実だ。体調が悪いわけではない。精霊使いとして、新しい力を得たことで、幾つかの感覚が剥き出しになっているに過ぎないのだから。 そう、だからいらついたんだ、と自分で納得する。自分がこれまで慣れ親しんできた感覚が、微妙にその範囲を広げたことで、触れる部分が大きくなっている。だからこそ、常の状態ではない、狂った精霊と不死の生命に過剰に反応してしまう。 こうして、精霊の異常がない場所で、冷静に考えれば、今回の依頼の件は別に構わない。多少は、面倒だと思う気持ちもあるが、あのゴーストが口にしたことは、納得できる。 「ま、そうじゃなきゃ動かねえけどな」 ──数刻後。幾つかの路地を覗き、ガメルと引き替えに幾つかの話を聞き、ラスは薄汚い老女の目の前に立っていた。“夕闇の路地”と呼ばれる場所に、本物の夕闇が押し迫る頃合いである。 「よう。ちっと聞きたいことあるんだけどよ」 「……アタシに何か用かい? このアタシに話ぃ聞きたいなら、繻子のドレスを持ってきな。鹿皮のケープでもいいけどね」 年の頃は多分、60になるかならぬかというところだろう。垢じみた服装、黒く汚れた顔、白くまばらな頭髪。瞳はどんよりとして、焦点があっていない。ラスはわずかに顔をしかめた。外見やにおいにではない。本来のあり方をしていない、精神の精霊たちの働きに、だ。 「幽霊屋敷のことは知ってるか?」 「幽霊は黒いドレスを着てるんだ。林檎を食べながら踊るのさ。そりゃあ見事なもんだよ。それがハザード河の水が赤くなる原因でもあるんだけどね」 会話が微妙にかみ合っていないことには拘泥もせず、ラスが続ける。 「あんたが知ってるってのが事実なら、そん時は幽霊屋敷じゃなかったな。ハウゼン家のことだ」 「アタシゃ何も………ハウ…ゼン…家………だって?」 狂女の瞳に光が戻った。 そうして、数日後。彼らは、ミレイズと呼ばれる村にいた。オランの北、蛇の街道沿いにある村である。オランからは2日の距離がある。人口はあまり多くはないが、豊かな畑を擁する村である。オランの人口を食料面で支える手の1つであることから、人口の割には豊かな村であった。そして、村の中央には小さな神殿が建てられている。そこに刻まれた印は、豊穣の神、マーファである。 「すみません、こちらの神殿にカタリナ司祭様はいらっしゃいますか?」 とりあえず、4人の中で一番人当たりの良いとされているロイが、先頭に立つ。 「カタリナは私ですが……どなたですか?」 細い杖を手に、小柄な初老の女性が神殿の扉を内側から開けた。結い上げられた髪は、多少は色あせているものの、まだ十分に美しいと呼べる金色だった。エメラルドを溶かしたような、柔らかな緑の瞳。だが、その瞳は今は光を失っている。それを見てロイが囁くように言った。 「………失礼ですが、眼が…?」 「ええ。光のあるなしくらいはわかりますが…ほとんど見えません。慣れましたから不便はないですが。ああ…こんなところで立ち話も何ですわね。どうぞ中へお入りください」 その言葉に導かれて、4人は神殿の中へと入った。 小さな神殿である。普段は、村人を集めて説法をするらしい場所で、彼らは腰をおろした。カレンが確かめるように尋ねる。 「あなたが…カタリナ・ハウゼンさんですか? 失礼ですが…出身はオランの街なかじゃありませんか?」 それを聞いたカタリナは、静かに微笑した。 「………あなたがたが、何を求めてこちらへいらしたかはわかりませんが…。確かに私はカタリナ・ハウゼンです。家名は…もうほとんど名乗ることなどありませんが。そしてオランに…いた、のでしょう、おそらく。…と、申しますのは……あまり覚えていないのです。思い出したくないことを…忘れたいと願い続ければ、人はその記憶に蓋をして眼を背けることが可能になるのでしょう」 「では40年前のことは…覚えていない、と?」 カレンの問いに、カタリナはかすかに首を振った。 「……いえ。幾つかは……。ただ、オランに戻りたいとは思いません。私が住む場所はこの村ですから」 この村に来る寸前まで調べていた事情が全て事実ならば、カタリナの気持ちはわかる。それが4人の共通の思いだった。誰だって、目の前で家族が殺された場所になど戻りたいとは思わないだろう。 ここに来るまでに、4人はそれぞれの方法で調べていた。そうして、得た情報を付き合わせる。時には補いあい、時には重なる部分を取捨選択して。そうして組み上げた1つの説。 40年前。晩秋のとある日の深夜。幸せに暮らしていたハウゼン家に賊が押し入った。ハウゼン家は貴族でこそなかったものの、なかなかの素封家として有名だった。それは賊を呼び寄せる甘い餌となる。ハウゼン家の家族構成は、当主であるシュテファン・ハウゼンを筆頭に、その妻と、息子夫婦。そして、孫が2人。カタリナとその兄である。当時、まだ住宅街はそこまで広がってはいなかった。街の喧噪を厭い、当主シュテファンは郊外に屋敷を建てたのだ。そしてそれは同時に人目が少ないという事実でもある。 押し入った賊の人数は定かではない。ただ、少なくともごろつきやチンピラの類ではなかった。邪魔にしかならない使用人たちは目につく端から切り伏せ、尋常ではない物音に、何事かと起き出してきた老婦人も一刀のもとに切り捨てた。息子夫婦の寝室に押し入り、金目のものを出させると、そのままその2人も始末する。子供は、生け捕りにして売り払おうと考えていたらしく、カタリナとその兄はその場で捕らえられた。だが、兄は抵抗が激しかったため、殺されてしまう。そうして、賊たちは当主のもとへと行った。そこでどんなことがあったのかはわからない。だが、当主シュテファンも結局は殺されてしまったらしい。 そうして今、当主は不死の者として、屋敷の一室にとどまっている。ただ1つの願いを胸に抱いて。 捕らわれたカタリナは、そのまま賊たちに連れ去られた。が、その数日後。オランの衛視たちと、ハウゼン家にひとかたならぬ寄付をされていたマーファ神殿の組織した追っ手が、彼らを捕らえる。だが、救い出されたカタリナは精神のバランスを崩していた。家に戻したとて、家には誰1人いない。カタリナがただ1人の生き残りなのである。たまたま外出していて無事だった若いメイドがいるにはいたが、事件の起こった翌朝、その惨劇の痕跡を目にした恐怖と衝撃で、彼女もまた心を病んでしまった。そうして、他に身よりのなかったメイドはスラムへと堕ちていったのである。だから、カタリナを待つ人間は誰1人いなくなってしまったのである。そんなところへ、脆い心を抱えた少女を戻しても仕方がない。マーファの神官戦士たちはそう判断した。 そして、カタリナは、ミレイズ村のマーファ司祭のもとへと預けられたのだ。街なかにいるよりも、自然が豊かな農村で過ごすほうが心穏やかになれるだろうとの配慮からである。この村で過ごすうちに、彼女は精神のバランスをゆっくりと取り戻していった。それと同時に、マーファへの信仰も得た。 そして、ぽつりぽつりと語るカタリナの言葉は全て、調べたことを肯定していた。 「戻りたくても戻れなかった…のではありません。戻りたく…なかったのです。私の目の前で、父も母も兄も……殺されました。祖母の遺体は目にしてはおりませんが……それは幸いだと思っております。……恐怖で、泣くことすらできなかった私に剣を突きつけて、賊の1人が祖父に詰めよりました。この屋敷には門外不出の宝があると聞く。相当の価値だというそれを今すぐ出せ、と。出さぬならば私の命はない、と。ですが…祖父は首を振りました」 「賊の要求をはねつけた、ということですか?」 ロイの問いにカタリナは力無く首を振った。 「…覚えて…いないのです。意識を失ったのかもしれません。……私の記憶はそこで途切れているのです。思い出そうとは…思いません。祖父が首肯しなかった理由が、いずれ何であろうと…昔には戻れませんから。今の私は、マーファの慈悲を人々に伝えるためだけに生きております。……あの時…信仰を得て……そうして、マーファが私に語りかけてくださったときに、私は一切を決心いたしました。思い出せないものを思い出そうとするのはよそう、と…。思い出せば、私は恨みや憎しみすら思い出してしまうでしょう。私から全てを奪った賊を…あの時、首を振った祖父を………」 「……おじいさんを?」 カタリナの囁きの最後を、ロイが聞き返す。 「ええ…そうです。あの時、祖父が首を縦に振ってさえいれば、祖父は助かったかもしれないのに……。祖父もあの時に亡くなったと…あとから知りました。私の命などどうでもよかった。私は祖父が助かれば…それで……。なのに、祖父は賊の言葉をはねつけたのです。そして…私1人が助かりました。高く売れるだろうと言って…そのまま連れ去られました。商品だからと言って、私に傷をつけるようなことはありませんでしたが……恐ろしかった。目に入るもの、全てが恐ろしかった。夜の眠りも安らぎではなかった。……眼を閉じれば、紅い闇に満たされました。……家族の血で……。時折与えられる食事も、私にとっては血の味でしかなかった。いっそ、あの時家族と一緒に殺されていれば、と…何度も思いました。……そうして何日経ったのか…眠らずに、ろくに食事も摂らずに…おそらく、かなり衰弱していたでしょう。それでも…それすら、もうどうでもよかったのです、その時の私は。そうして…私は、神官戦士の方々に助けていただきました。…争いになった折りに、賊が私を突き飛ばして…その時の怪我がもとで、視力はだんだん衰えてきました。今、やっとのこととは言え、光を感じることができるのは、幸いです」 震える声でそう語るカタリナに、ロイがかけるべき言葉を探す。だが、容易には見つからない。ならば、せめて依頼された件を、と思うが、どう伝えていいのか、また言葉を探す羽目になる。 …それでも。と、ロイは思った。それでも、自分があの屋敷の当主から話を聞いて、うなずいた以上は、これは自分の役目なのだろうと。 「カタリナ司祭。……僕たちがここに来たのは…ひとつの依頼を果たすためです。ただ、貴女は、思い出したくはないと…おっしゃった。だから、この話をする僕たちを疎ましく思うかもしれません。それでも……聞いていただきたいのですが…」 自分があの不死者に感じたものが、願わくば真実であるように、と。マーファの神殿にありながら、ロイは祈らずにはいられなかった。自らが奉じるラーダに。 「……なんでしょうか。ハウゼンの名前が出た時から…そして、あなたがたが私の過去をお調べになったと聞いた折りから…ある程度の覚悟は出来ております」 カタリナの指が、胸元の聖印に触れる。そして、ロイも同じように、自らの聖印に指を触れさせていた。 「貴女のおじいさんからの依頼です。……貴女に渡したいものがあるから、屋敷まで連れてきてくれ、と。……僕たちと同行していただけませんか?」 「………………え?」 かすかなささやき。 「嘘じゃないんです。作り話をするために、ここまで来たわけじゃありません。この神殿内で発するのにふさわしい言葉ではないと思いますが…それでも、僕は僕の信じる神にかけて。…嘘じゃないんです」 沈黙がおりた。戸外で吹く風が、神殿の窓を揺らす。誰も、一言も発しなかった。 ──そうして。何度目かに窓が揺れた時。カタリナは小さな溜め息をついた。 「……わかりました。まだ……失礼ながら、まだ祖父の依頼だという事実を信じたわけではありません。ですが、疑う気持ちも持てません。真実を求めるという知識の神…かの神を信じる貴方を信じます。それに……あれから40年。今まで目を背けていたものを見つめてみるのも…よいのかもしれませんから……」 支度をするので…という言葉に、4人は神殿を辞した。村には、小さな宿が1件だけある。今夜はそこで休んで、明日の朝、司祭とともにオランへ向かおうと決めた。 「なんで、ひとっっっことも喋らなかったのさ〜〜?」 夕食の席で、ロイがラスの肩を小突く。 「別に? 喋る必要なかったし。…んなこと言うなら、シュウだって喋ってねえじゃん」 「シュウはもともと無口じゃん。カレンと2人で放っておいたら、絶対2人とも喋らないよ? でも、ラスは違うでしょ〜?」 「うるせえな。…神殿ってやつが嫌いなんだよ」 「え〜〜? それだけぇ? だって、あの司祭様、綺麗だったじゃない。神官だろうと何だろうと、綺麗な女の人には見境なく声かけるくせに」 「見境なくってのは、余計だ!」 そんな2人の言い合いに、ふとカレンが口をはさんだ。 「…見境があるかどうかは、置いとくとして。確かに静かだったな、おまえ」 「……俺が静かじゃ悪いかよ」 「別に。悪くはないさ。……珍しいだけで」 カレンのその言葉に、シュウとロイもうなずく。 「そうだよ。そのせいで、今日は僕、たくさん喋っちゃったじゃないか。今日はもう、3日分くらい喋ったね」 「俺とは関係ねえだろ。もともと、今回の件はてめえが交渉役って決めてたじゃねえか」 ラスが仏頂面でそう言う。ワインに手を伸ばしながら、ロイがうなずいた。 「うん、まあね。だってさぁ〜なんだか…あの骨の人がねぇ〜〜……可哀想っていうのとはちょっと違うんだけど。骨の人も、カタリナ司祭様も、なんて言うか…あるべき所におさまってないって感じがしてさ」 ワインを一口飲んでから、ロイが再び口を開いた。 「あ。でも、違和感ってのとはちょっと違うんだよね。ん〜〜…なんていうのかな、こういうの……。ほら、こういう、もやもやっとした感じ」 そう言いながら、周りに同意を求める。 多分…と、シュウが口を開いた。いつの間にか空になっていたエールのお代わりを店員に請求しながら。 「多分、おまえが言いたいのは、お互いの納得ということなんだろうな。オレは直接見てないが…おまえの言う“骨の人”…ゴーストのことだろう? 当主らしき人物。彼は、孫娘が幸せであるようにと、そんな姿になってまで物質界にとどまっている。孫娘のほうはと言えば…はたから見れば、今の彼女は不幸じゃない。過去に辛いことがあっても、今の彼女は決して不幸じゃない。だけど、目を背けて築き上げた幸福よりも、全てを知った上での幸福であるならそれに越したことはないし、ゴーストのほうもそれを願っている、と。おまえは、ゴーストの願う幸福と、彼女の幸福とを一致させたいんだ」 そうそう、そんな感じ、と微笑むロイの隣で、ラスが呟く。 「それは…多分、ブラウニーも同じものを願ってたんだろうな」 『幽霊屋敷』──ハウゼン家の前に立って、4人の冒険者と女司祭は荒れ果てた建物を見上げた。 「………なつかしい…はずですよね。それでも…何か、私には欠けているような気がするんです。私は…過去にあったことを、自分が覚えている限りは、言葉にして語ることができます。……薄布一枚隔てた向こうの出来事のように。それは…多分、私が語ることは『知っていること』であって、『覚えていること』ではないからでしょう。……屋敷の前に立っても…ええ、もちろん、私の目では見ることは叶いませんが…それでも…何も感じません…」 かすかな泣き笑いの表情で、カタリナが冒険者達を見る。旅のためにと、その髪は綺麗に結い上げられている。うなじのわずかな後れ毛が冬の風にかすかに揺れた。 先頭に立ったラスとロイが、正面の扉を開けて、他の人間を招き入れる。数日前と寸分違わぬ様子で、屋敷は人間たちを受けいれた。ただ、ブラウニーの気配だけが足りない。そのことに気が付いているのは多分、自分だけだろうとラスが溜め息をついた時。 「……空気が…何かが足りません…」 カタリナが小さく呟いた。その呟きに思わずラスが顔を上げる。 40年の月日。全てが変わって当然だ。暖かな笑い声に満ちていた屋敷は血で染められた。幽霊屋敷と呼ばれるまでも、何人もの人間が出入りした。あのゴーストとブラウニーは屋敷を守ってはきたのだろうが、それでも守りきれなかったものも数多い。ならば、空気は違って当然なのだ。そして、カタリナは覚えているのではなく、知っている、と。そう言った。紗のかかった記憶でしかないと。 気のせいか、とラスが目をそらす。わずかにではあるが、カタリナの呟きに、自分の溜め息と同質のものを感じたような気になったのは…やはり気のせいかと。 「ロイランス・マクリーンです。…先日、貴方の依頼を伺った者です。……入ります」 軽くノックをして、ロイが部屋の扉を開ける。当主の書斎にあたる部屋だ。 部屋の中央に位置する机には、先日と同じものが座っていた。干涸らびて、骨だけになってしまった死体。書棚から全ての書は消え失せ、天井の梁には蜘蛛の巣がかかっている。床には、破壊された家具調度の破片とうず高く積もった埃。そして、変色して、黒ずんだものとしか見えなくなっている染み。何かを引きずったようなその染みは、ゴーストが座っている椅子まで続いている。 「……ここ、ですか?」 細い杖を頼りに、カタリナが部屋の中へと足を踏み入れる。その瞬間。…かたん、と音が鳴った。 カタリナとゴーストとの間に位置していたロイが、音のした方向を見る。ゴーストが、骨の指を机の上に載せた音だった。まるで身を乗り出すかのように、死体が動く。 「………カタリナ……カタリナ……おまえなのか?」 ぴくり、と。カタリナの足が止まった。 「ああ…カタリナ。……おまえだけでも生きていてくれて…私は嬉しい。愛する私の孫娘……カタリナ、私はおまえの幸せだけを願っていた…」 かたかたと、頭蓋骨が音を鳴らす。カタリナの目が何も映さないことを、ロイは神に感謝したくなった。変わり果てた姿の当主も、断末魔の模様を描く床の血の染みも…全てをカタリナの視界に入れさせないことが、確かに救いだと思ったから。 カタリナが一歩引いた。戸口に立っていたラスの足に、その杖が当たる。 「あ……あ……おじい…さ…ま? ……うそ……だって…こんなの………マーファよ…私は…」 カタリナの声が震えている。声だけではない。体も震えている。 確かに、季節は冬だ。決して暖かいとは言えない。荒れ果てた屋敷にはすきま風が容赦なく吹き込んで来る。だが、屋敷の奥にあたるこの部屋にはほとんど風は吹き込んでいないのだ。しっかりと外套を着込んだ人間が震えるような温度ではない。 だが、カタリナは震えている。視力を失った目は何もとらえていないのに。通常の視力を持った人間でさえも、光源がカレンの持つランタン1つとあっては、甚だ心許ないのに。 そして、再びラスは思った。彼女が感じているものは、自分が先ほどから感じている悪寒と同じものではないのかと。無防備に負の生命の力に触れれば、それは悪寒となって体を襲う。今の自分は、微妙な制御が利かない。だから、無意識に負の生命の存在を感じてしまう。ならば…彼女は…。 自分の目の前で震える肩を見ながら、ラスは小さく囁いた。 「…… 家族を照らす小さな灯り。笑顔が消えぬことをいつも願う。おまえが幸せであるように 」 カタリナが振り向く。何も映さぬその目で、ラスを見つめた。 「あなたは……何故…その言葉を?」 「………あんたこそ、なんでだ? あんた……精霊が…?」 だが、カタリナは小さくかぶりを振った。 「いいえ……精霊使いと名乗ることはできません。いくつか…目立つものであれば、感じることはできますが…。私が言葉を交わせる精霊は…たった1つです」 「ブラウニー、か」 「ええ……。そして、先ほどから……部屋の奥に…何か…違う気配が……」 それは、負の生命だと…言葉にすることは憚られた。彼女は多分知っている。 「……気にすることはない。ブラウニーがいないせいで、目立つだけだ。それとも…怖いか?」 カタリナは答えなかった。肯定でもあり、否定でもある。 「怖くないと言えば嘘になるんだろうな。正直、俺だってそうだ。でも…話くらい聞いてやれよ。あんたの……じいさんだろ? それに…さっきの言葉、どうして俺が知ってたか教えようか。…この家にいたブラウニーが最後に囁いたんだ。あのブラウニーは、それだけを願ってこの屋敷にとどまっていた。居場所なんかとうになくなってるのに。そして…あのじいさんと、この屋敷で共存していたんだ。………それぞれが、同じことを願っていたからだ。…すまないが、ブラウニーは精霊界に帰しちまった。だから、これは多分、伝言だ。… おまえが幸せであるように 、と」 ラスの言葉を聞いたカタリナの目から涙が一筋流れ落ちた。そうして、あらためて部屋の奥へと足を進める。杖で床を探る、その反対側の腕を、ロイがそっと導く。 「当主、シュテファン・ハウゼンさんですね? お約束通り…カタリナさんをお連れしました」 「……おじい…さま?」 焦点の合わない瞳を、それでも確かにゴーストに向けて、カタリナが囁くように言った。 「カタリナ…カタリナ、カタリナ……おまえの幸せだけが…私の願いだった…。ああ…おまえに渡したいものがある。ハウゼン家に伝わるものを…おまえに……おまえのためだけに…」 骨の軋む音がする。カタリナが一歩前へ進み出た。 「おじいさま…それは……40年前におじいさまが守ったもの…ですか? ご自分の命と引き替えにしてでも渡さなかったものですか? ならば私は…」 「それは違う、カタリナ。おまえを盾にとられて、私は観念したのだ。自分の命はどうあってもよい。おまえさえ生きていてくれるなら、ハウゼン家の宝など…そう思って、私は奴らに言ったのだ。おまえたちが望む宝はそこにある、と」 「ならばどうして…っ!」 更に一歩前に進んだカタリナの杖が、机に当たる。よろけそうになるのを、ロイが支えた。 「どうして…どうして、おじいさまは…っ!?」 「奴らは…私が指し示した宝には、何の興味も持たなかったのだ。同じ場所に保管されていたペンダントは持っていったようだが…奴らは、他にあるはずだろうと、更に詰め寄った。名だたるハウゼン家の宝がこんなもののわけはないと。そうして、それ以上は答えようのない私を奴らは……」 「…そんな……そんな…」 「だが、それは真実だ。奴らが放り投げていったそれを、私はもとの箱に戻した。胸の傷から零れる血でそれを汚さないように……箱にしまい……私はそれを床下へと…そして、その上にこの椅子を…。40年間、おまえを待っていたのだ、カタリナ」 骨が発する平坦な声は、それでも何かを伝えてくる。言葉以外のものを。かたり、と音を立てて、骨はロイを見やった。 「…冒険者の方々よ。すまないが、私の椅子をよけて、その下から取り出してくれないか。それこそが、わが愛する孫娘への贈り物だ」 箱は、黒ずんだ染みに覆われていた。染みが描く幾筋もの指の跡。これもまた、カタリナの目に触れなくて幸いだと、ロイは思わずにいられなかった。 「この箱の鍵はどこに…?」 箱の前にひざまずいたまま、ロイが当主を仰ぎ見る。ロイと共に箱を取り出したカレンが、かすかに首を傾げる。 「これは…多分、魔法の鍵だ」 「そうだ。それは、わたしが共通語魔法でかけたものだ。合い言葉は…カタリナが知っている。私の孫娘ならば……。覚えているか? 我が家に伝えられる詩の一節を…カタリナ…」 語りかけられて、カタリナは目を閉じる。震える喉が、言葉を紡いだ。 「……家の灯りは…絶えることなく……」 かちり。と、音を立てて鍵が開いた。留め金を外して、ロイがその蓋を持ち上げる。 現れたのは──花嫁衣装だった。 多分、色あせてはいるのだろう。いくら保存状態がよかったとは言え、少なくとも40年の歳月が流れている。だが、ランタン1つのわずかな光では、それを認識することは難しい。こまやかな細工の…美しい花嫁衣装だった。箱の周りにはあれだけ、血の染みがついていたというのに、その花嫁衣装には染み1つない。 「貴女の…ものです」 ロイが、カタリナの手にそれを渡す。 「着て…見せてはくれないか」 骨の鳴る音。 カタリナは静かにうなずいた。 隣室で着替えを済ませ、再び書斎の扉を開けて、カタリナは当主の前に立った。 上質の絹が持つ、独特の光沢。薄闇のなかにあってさえ、なおしっとりと艶めく白。奇跡的に無事だった窓硝子は、分厚い埃に覆われている。だが、そこから月の光が差し込んだ。カタリナのまとう白に誘われるように、光が移動する。 結い上げられた髪は、今はほどかれている。流れ落ちる蜂蜜のような金色の髪に、月光が反射した。胸のふくらみと腰の曲線を柔らかになぞって絹がきらめく。長い裾には、銀の刺繍がほどこされていた。 「それは…ハウゼン家に伝わるものだ。女は家を守り、暖かにする。それこそが宝だと…そう伝えられてきた。おまえの祖母もそして母も。そのドレスを身にまとった」 当主の発する平坦なはずの声が震えて聞こえたのは錯覚か。 「おじい…さま……私…は……」 「ハウゼン家は…絶えた。それでいい。最期に…おまえのその姿を見られただけで私は満足だよ。冒険者の方々…迷惑をかけた」 「おじいさま! ……ごめんなさい。……ずっと…ずっと…私は…貴方のことを……最期まで、私よりも家の宝を選んだのだと…だから…だから覚えていたくなんかなかった…。貴方が殺されたと聞いても…宝を渡さなかったからだろうと……私が連れ去られたのも…何もかもそのせいだと……。憎くて…その憎しみごと記憶に蓋をして……私が恨んでいたのは…賊ではなく……」 「……そうか。つらかったな、カタリナ」 「…責めてください。愚か者だと……貴方の愛を信じられなかった私が、神の慈悲を語るなど、欺瞞でしかないと…」 ドレスの裾を握りしめて、カタリナは泣いていた。 「このような…あさましい姿になってなお、この世にとどまる私に、何が言えよう。あの時、おまえを助けられなかったのは私だ。結果的におまえを1人で辛い目に遭わせたのは私だ。……カタリナ。そのドレスの裾に銀糸の縫い取りがある。今のおまえには読めなくとも、おまえはそれを知っているはずだ」 カタリナはドレスの裾に指を這わせた。 「…こ…れは?」 月光と、ランタンの光を反射するそれを、後ろに立っていたシュウが読み上げた。 「…古代語だな。何かの呪文かとも思ったが違うようだ。…… 家の灯りは絶えることなく、その笑みによりて輝きを増すものなり …」 「その続きは…知っています。 人よ、今宵の光を忘るることなかれ 。ハウゼン家に…伝わる言葉です。結婚の儀の時に…歌われる歌です…。その曲を奏するオルゴールも…昔は……」 「これ、ですね」 懐から、ロイが小さな布の包みを取り出した。あの日、ブラウニーが残していったオルゴールである。蓋を開けると、それは音を鳴らし始めた。名工の手による細かな細工も、歳月には勝てない。いくつかの音は飛んでいる。だが、もとの音色を想像するのは難しくない。 「……カタリナ、忘れないでくれ。死んでいった他の家族も…そして私も、いつだっておまえの幸せを祈ったことを」 「…ええ…おじいさま。いなくなってしまった精霊の言葉も……私は忘れません。………ありがとう…ございます…」 カタリナは微笑んだ。薄闇のなかのそれは、ドレスにふさわしい笑みだった。 「んで? 結局、あのドレス、どうするんだ?」 古代王国への扉亭である。夕食と呼ぶにはあまりにも遅い時間ではあるが、仕方がない。 「ん〜〜…とりあえず、カタリナ司祭様はもう着ることはないけど、村で養ってる娘さんがいるんだってさ。あ、もちろん彼女の子供じゃないよ。孤児を引き取って育ててるって。その娘さんがもうすぐ年頃だから、着てもらうって。さっき、マーファ神殿まで送ってった時にそう言ってた」 ラスの問いには、シチューをすくったスプーンをくわえたまま、ロイが答える。その向かい側で、カレンがエールを口に運びながら、呟く。 「今回のは…マーファの導きみたいなもんかな」 「…なんで? いや、そりゃ彼女はマーファ司祭なんだろうけどさ」 首を傾げるラスに、ロイが微笑んだ。 「ホントにラスはこういうとこ鈍いよね。ま、仕方ないか。……マーファってのはさ、豊穣の神でしょ?」 「だろ? 大地母神ってやつだよな」 「そ。そして、愛を語る神。結婚の守護神でもあるのさ。……花嫁衣装、綺麗だったよね〜」 「なるほどな。……結婚の守護神と、家を守る精霊か」 「幸せになんなきゃ嘘ってもんじゃん。彼女、笑ってたしね。あんな風に笑えるのは40年ぶりなんじゃない?」 そう言って、ロイがにっこりと微笑む。つられてラスも微笑んだ。 「…ま、女性が笑えるのはいいことだ」 「なに、機嫌なおったの? 最近いらついてたくせに」 「ん〜〜…なおったっていうか…。仕事も片づいて…ブラウニーの伝言も伝えられたから…ま、いっかな、と。あのゴーストも未練がなくなって消滅したしな。……俺たちも報酬もらえたし?」 「あ。そう言えば、骨の人がくれた報酬ってなんだったのさ。僕、まだ見てないんだよねぇ〜〜」 「……見たいか?」 「見たいに決まってるじゃん、見せろよ〜〜」 ロイの追求に、あっさりとラスは握った手を懐から出す。テーブルの上で開かれた手から、小さな翠色の宝石がいくつも転がり落ちた。 「これは?」 「まぁ……大きさから言えばクズ宝石だな。翡翠だよ。翡翠ってのには…2種類あるそうだが、どっちなのかはわかんねえ。けど、死者の身につけて埋葬すると、転生の時期が早まるとか何とか…一部のマーファ信者にはそう信じられてるってのを聞いたことがある。それはまぁ…嘘くせぇ話だけど。めぼしいもんは、あの屋敷じゃ、賊に全部とられちまってるからな。残ってるのはこれだけだって言ってたぜ」 「へぇ〜〜、でも綺麗だね」 テーブルの上の1粒を手にとって、ロイが透かし見る。 「ま、売り値なんぞたかがしれてるだろ。ただ働きじゃなかっただけ良しとして…御守りがわりってことで分けようぜ」 壁にかけられたランタンの光を受けて、翡翠が透明な翠色をテーブルの上に描きだす。それは、カタリナの瞳の色に似ていた。 <参考→「鉱物設定<翡翠について>」> |
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