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五一二年八月の半ば。盛夏の烈日が照りつけ、オランの家並みに明暗の隈取りを鮮やかに宿している昼下がり、ロビンは所用で南の郊外へ外出していた。知人に託された書状を届けに行き、ついでに瓜を買ってくるのである。 エストン山脈の山肌を覆う緑が遠目に美しい。道筋傍らの樹林では、蝉が大気を揺るがし鳴きしきっていた。 中背で均整の取れたしなやかな体躯を持つロビンの風貌は若々しく、そろそろ二十歳に差しかからんとする彼を年齢より幾分か幼く見せている。生国であるプロミジーの人々の特徴である色白の肌は小麦色に焼け、引き締まり具合をさらに際立たせているようだ。 剣を帯び、颯爽と道を行く彼の物腰は青年の活力に満ち溢れている。オランでの暮らしも二年目となるが、都雅より野趣と言う言葉のほうが似合うのは、戦士の性か、或いは生来の気質であろうか。 用件を済ませ、瓜を携えてオランへの道を戻っていたロビンは、道筋が二分する地点でふと立ち止まった。 大きな一方は真っ直ぐ北へ伸び、オラン市街の目黒通りへ繋がる。ロビンはこの道を通って郊外へ出てきている。 他方はか細く北東へと続き、途中より緩やかに傾斜して丘に到達する。オランの人々が俗に東の丘と呼ばわるそれは、麗しい景観を誇るでもなく、吟遊詩人が詩の題材に取り上げるべき逸話が伝わるでもない。市外中央に聳え立ち、ラーダ教団の大伽藍を擁する太陽丘とは到底、規模も知名度も比較にならぬ場所である。祭事が催される事もなく、年中閑寂として立ち寄る者もない。頂には木々が生えておらず、陽射しや雨風を凌ぐにも向かぬため、乞食すらも住もうとしない。 余人は一顧だにせぬその丘の頂を、ロビンは不動のまま凝視していた。表情には厳粛な気配が張り詰めている。 「そうか。もう三ヶ月になるかな」 彼は無意識の内に慰霊の印を結んでいた。終えてからそれに気付き、頬を歪めて苦笑いを浮かべ、目を細めて空を見上げた。鮮やかな蒼穹の彼方に、刷毛で引かれたような片雲が棚引いている。 「ムディールはあっちだったかな」 ロビンは視線を北東に向けた。地平の果てにグロザムル山脈の鋭利な稜線が浮かぶ。その先にミラルゴ領フォスの古風な街並みが広がり、フォスを一端とする風の果ての街道に沿って北上すると、孔雀羽根の都と名高いムディール王都に至ると言う。 吟遊詩人や旅人が折に触れて口の端に上せる東国異聞の内容を口中に反復しつつ、ロビンはまだ見ぬ最果ての地の情趣を想像した。 「あの国からやって来たんだな。あの人は」 ロビンの視点は再び、丘の頂に据えられた。 嘗て、遡る事三ヶ月余り前、その名もなき丘の上で血戦が果たされた。ロビンは立会人として、その一部始終を見取ったのである。それは彼が知る中で凄愴さと壮絶さの最たる死合であった。 午後の風が、ロビンの体を洗っていく。 彼の思いは風に運ばれ、時間をサッと遡って行くようであった。 五月某日、暮春の候。 その日は朝から天候が定まらず、鉛色の雨雲が重苦しく空に広がっていた。朝餐の鐘が鳴る頃にはもう小雨が降っていたが、程なくして豪雨に変わり、堰を切る勢いで地を叩き始めた。オランは年に一度、孟夏から仲夏にかけて雨季を迎えるが、その日の雨は、精霊の気紛れで、例年より早く入梅したのではないかと言われるほど激しいものであった。 ロビンが滞在している旅篭、騎士の栄光亭は、ハザード側に架かる二本の橋の北、通称を北橋と言うところから西側に伸びる大路に沿って建っている。大路にはヴェーナー神殿も面しており、西側の目抜き通りと言う事もあって街路はよく整備されている。ロビンは定宿を二三持っており、騎士の栄光亭はその一つである。 東側の大路に面した彼の部屋からは、いつもならば、早朝から人馬で溢れ返る往来の様子が窺えるのだが、今朝の思い掛けない豪雨のため、人気は乏しい。 ロビンは床に座って大きく脚を開き、念入りに屈伸を行っていた。上半身はなにも身に付けていない、一見すると細身だが、鉄条を幾つも寄り合わせたような、引き締まった精悍な体躯である。 充分に体を解し終えたロビンは、傍らの小剣を手に立ち上がり、半身に構えて瞑目した。 ロビンの脳裡に剣を携えた戦士の姿が描き出される。 戦士はじりじりと間合を詰めて寄ってくると、袈裟を撃ち込んできた。ロビンは後の先を取って大きく右手前方に踏み込み、相手の左腰を薙ぎ払う。崩れ落ちるなり、それの姿は消え、距離を置いて新たな戦士が姿を現した。ロビンは構えを元に戻すと、二人目めがけて素早く襲いかかった。受け止められた剣を鮮やかに舞わせ、二の太刀、三の太刀を猛然と撃ち込んでいく。相手は堪らず腰を崩し、ロビンは間隙を逃さず体当たりをかけ、跳ね飛ばした。 この間、ロビンの体は寸毫も動いてはいない。つまり、仮想の訓練である。早朝の宿で激しく動き回るわけにはいかない。早立ちの旅客を除けば、まだ大半の人間は淡い眠りを貪っている。 幻像の戦士は次第に動きの鋭さを増し、ロビンの死角を突いて迫ってくる。七人目の戦士の喉元に突き技を浴びせた刹那、背後に殺気が膨れ上がった。突いた剣を素早く手元に引き、地に右膝を突くや、背後へ大車に剣を揮う。白刃の軌跡が鮮やかに円を描いた。ロビンの背を斬ろうと迫ってきた戦士は、腰から脇腹を一閃される。同時に現れた新手が、真上から渾身の斬撃を打ち下ろした。ロビンは咄嗟に右へ体を開いたが逃れられない。そこで幻像の総ては霧散し、一面は闇となった。 ロビンは眼を開くと構えを解き、小さく息を吐き、傍らの手拭を取り上げた。微動だにしていないにも関わらず、彼の全身には、うっすらと汗が滲んでいる。 外から響く雨音は依然、強く大きい。鎧板の隙間から覗く空は一面、灰色であり、雨は夜半まで続くと思われた。 「この分だと、今日は休みだな。昼飯どうしよう」 洗い晒しの上着を纏いつつ、ロビンは呟いた。 休みになるとは、数ヶ月来の日課となっている稽古の事である。 毎日、朝から正午にかけて、聖ゲオルギウス門近傍の空地で、剣法と組打を中心に訓練を繰り返している。 稽古はスカイアーと言う戦士とともに行っている。スカイアーは三十路がらみのロマール人で、傭兵上がりの冒険者であり、エレミアを拠点に活動した後、昨春よりオランに滞在している。彼の豊富な戦歴と沈勇の性質を見込んだのが、チャ・ザ教団の聖堂騎士カール・クレンツであった。 カールとロビンは昨夏より交流がある。カールはロビンの天稟を評し、心法と剣法の指導を行っていたが、教導活動のためオランを離れることになった際、ロビンとスカイアーの二人を引き合わせ、師弟の約を結ばせた。これが五一二年一月のことである。 以来、二人がそれぞれの都合に携わる期間を除いて、ほぼ連日のように稽古は行われている。後に、ライナス旧家の令嬢ホリィ・ブラックシールドがこれに加わり、人数は三人になった。ロビンは朝から昼前まで、ホリィは正午から昼過ぎまでを稽古の時間に当て、空地のスカイアーを訪ねる。 ホリィは武人の実兄とともに、知遇のあるパン職人のもとへ寄寓しており、彼女が稽古に来るときは、稽古道具の他に、その日焼き締めたパンの余り物を入れた手提げ籠を携えてくる。スカイアーが特に束脩を要求しなかったため、代わりとしてホリィが自発的に持参しているものである。これがロビンの昼食としても存分に消費されていることは言うまでもない。 「しょうがない。たまには自分の財布を開いて昼飯を食うか。いや、それよりも誰かに奢ってもらうと言う手もあるな」 何やら厚かましい考えを口にしたロビンだが、 「その前に朝飯だ。昼のことはその時になって考えりゃいいさ」 一人頷いて部屋を出、階段へ足をかけたとき、階下より宿の主人が顔を覗かせた。 「あぁ、ちょうどよかった。ロビン、先生がきているよ」 主人の隣に、雨具を手にした壮年の偉丈夫が並び立ち、顔を上げた。それを見て、ロビンは驚きの声をあげた。 その人物は、紛れもなくロマールの剣士、スカイアーであった。 すぐに食事を運んでもらうよう取り計らい、二人は部屋へ戻った。部屋には寝台以外の調度品がないため、二人は床に坐して向かい合う。 スカイアーの身丈は中背のロビンより僅かに高いと言う程度で、戦士としてはさほど大柄ではないが、贅肉のない、引き締まった五体からは豹を連想させる柔軟な身ごなしが窺える。濡羽色の毛髪を短く刈り込んでおり、癖が強いのか、ところどころが跳ねあがっている。眉に秀で、鼻梁の通った顔立ちだが、印象は文雅と言うよりはむしろ剽悍に近い。それでいて、藍色の瞳に浮かぶ光には荒々しさがなかった。 「珍しいですね。今日は休みだと思ってましたけど」 「うむ。雨天の中を無理に行うこともない」 「わざわざ、それを伝えにきてくださった、と言うわけでもないみたいですね」 「うむ」 「それで、ご用向きは」 「お前とは以前に、カールの取り持ちで師弟の約を結んだな」 「えぇ。あれから随分経ちますよね。あまり実感はないんですけど」 ロビンは髪をかきつつ笑うが、スカイアーは黙ったまま、返事をしない。ロビンは慌てて咳払いをして、表情を改める。 「すいません。お気を悪くされましたか」 「いや、そうではない。私もお前と変わらぬ気持ちでな。これまでのことを振り返っていたが、やはり師範など柄ではないよ」 そう言って、スカイアーは僅かに口元を綻ばせたが、すぐに真一文字に引き結んだ。 「だが、今日は弟子としてのお前に頼みたいことがあって、来た。お前にしか頼めぬことだ」 「なんでしょうか」 「私の死に水を取ってもらいたい」 「えっ」 食事を運んで来る女中の足音が聞こえ、会話はそこで一旦、途切れた。スカイアーは腰の財布を紐解き、二人分の代価をロビンに手渡した。 食事の内容は、挽き割り麦のミルク粥に、魚肉と野菜を混ぜて煮出したスープ、それに夏蜜柑である。 料理をよそう間、ロビンは神妙な面持ちで押し黙っていたが、やがて思い切って口を開いた。 「先ほど、死に水とおっしゃいましたけど」 「うむ」 「いったい、どういう経緯で」 「決闘を行う」 「なんですって」 「約定によってな」 「どこの、誰とですか」 スカイアーはそれには答えない。 「お前には相手方へ使いに立ってもらいたい。面倒ながら、頼む」 言葉を切り、黙然と食事を始めたスカイアーを、ロビンはただ見つめるしかない。やがて、彼も小さく息をついて食事に専念することにした。しばらく、部屋の中には食事を啜る音だけが響いた。 食事を平らげると、スカイアーは蜜柑を手に取り、皮をゆっくりと毟りながら、話を始めた。 「そやつと勝負をするのは、二度目になる。最初にまみえたのは七年前のことだ。当時、私は傭兵で、そやつも隣国の傭兵だった。冬の某日、私とそやつとが所属する部隊が国境で衝突した。雪の深い、寒さのことさらに厳しい夜だった」 雨足はさらに激しさを増し、瀑布が間近にあるのではないかと思われるほどに強まり始めた。 ロビンは静聴しつつ、鍋の中から三杯目の粥をよそっている。 「強かった。わざわざ国境を侵してまでして、忍んで来た連中だ。いずれもかなりの遣い手だったが、そやつの強さは抜きん出ていた。戦いが終わりに差しかかり、敵味方とも散り始めた時、私とそやつは示し合わせたように向かい合っていた。我々だけが剣を把っていたから、次の相手はこいつだと、互いに思い定めていたのかもしれんな」 「そして、戦ったんですね」 「そうだ。その時は、私が辛うじて勝ちを得た」 「では、なぜ」 「生かしておいたのか、ということか」 ロビンは黙って、スカイアーの言葉の続きを待った。 「確かに、その時に殪しておれば、此度のようなことは起こらなかったろうな。つまり、このスカイアーと言う男の往時が、それだけ未熟だったのだ。未熟の振る舞いのつけは必ず回ってくるものだが、それが偶さか、この時期であった。そういうことだ」 スカイアーの口振りは、他人事を話すようであった。蜜柑を齧り、静かに咀嚼する表情に後悔や懊悩と言った雰囲気はなく、恬淡としている。あっさりとし過ぎているくらいである。 蜜柑の皮を皿の中に捨て、スカイアーは杯に紅茶を入れた。湿気に満ちた部屋の中に、芳香混じりの湯気が漂う。 「後で、先方へ出向いてもらえるか。雨の中を歩かせることになるが」 「構いませんよ。これを食べたらすぐにでも行って来ます」 差し出されたカップを受け取り、答えるロビンの声音は、しっかりとしたものであった。 それから半刻ほどして、雨具を纏ったスカイアーとロビンが、相次いで宿を出て行く姿が見られた。 スカイアーは西の八本大路方面へ、ロビンは北橋へ、それぞれ非常な早足でその場を離れていった。 雨は先ほどに比べて幾分か弱まってはいたが、以前、熄む気配もない。 エストン山脈に源流を持つ大河ハザードは、オランの中央部を貫いており、水上交通の要となっている。街中を流れる部分を便宜上「川」と呼ぶ場合もあるが、この川の北部と中部に中州が浮かんでおり、これに橋を架けて東西の街区を結んでいる。これも便宜上、北橋、南橋とでも呼ぶことにする。 北橋を渡って東区に入り、まっすぐ進めば、しばらくして、悪名高い常闇通りに入る。博徒や盗人、無宿人などの無頼漢が横行する気風の荒い場所であり、盗賊結社の本拠地があるとまことしやかに囁かれるこの一帯には、オランの警察力も及ばない。 いつもは地回りややくざの類が我が物顔に闊歩し、屋台の連なりの前に立った香具師連中の長広舌が喧しく響く往来も、今は雨が地面を打つ音以外に何もなく、人影も疎らである。 ロビンはこの一帯の地理に明るいわけではなかったが、あらかじめ道筋を詳細に聞かされていたため、然して時間もかからずに辿り着くことができた。 天禄苑と流暢な字体で店名が彫られた方形の看板が、上等の黄金細工であるのを見て、ロビンはその贅沢ぶりに呆れ返った。看板は、店名を薔薇の木々が囲み、それらに二匹の夢魔が肢体を絡ませ、蠱惑的な笑みを浮かべる図柄である。不謹慎な代物には違いないが、造りは見事であり、手掛けた彫金師は、おそらく名うての人物なのであろうと思わせた。 ロビンの視線は看板から、それを掲げた門柱へ、次いで外壁へ移った。この店は外壁と門を備えている。建物自体は大きくないが、貴族の館とも見紛うほどの壮麗な構えであり、立地に似合わぬ清潔さを感じさせる。 ロビンはもう一度、看板を眺めやり、大袈裟にため息をついた。 この看板を見なければ、そして、ここが常闇通りの色街でなければ、この建物が娼館だと言われても信じる気になれなかったろう。 天禄苑、色街に並び立つ娼館の中でも最上の部類に位置する店として知られている。この店が提供するものはすべて、等量の銀貨に相当するという。 ロビンが訪ねるべき相手は、ここで用心棒をしているとのことだった。 ロビンは裏手の通用門に回った。ノッカーを叩くと、少し経って、下男が姿を現した。 「ちょっとお尋ねしたいんだけどさ」 ロビンは素早く心づけを手渡した。 「ここに、アン・ツァンって用心棒がいるだろ。俺、その人の知り合いなんだけど、呼んできてくれないかな」 まだ年端も行かない下男は、手渡された数枚の銀貨を見て、目を白黒させた。 「よろしく」 ロビンが促すと、下男は小さく頷き返し、銀貨を大事そうに懐に仕舞い込んでから、足早に去っていった。 軒下で雨宿りをするロビンの背後に徒ならぬ気配が立ったのは、それからまもなくのことだった。 「くろがねの使いか」 太く錆のある声に、ロビンは振り返った。 ロビンはムディール人を見たことがない。極東地方から他国へ訪れる人間が稀なのだと言うが、プロミジーにいた頃はそもそもムディールと言う名前すら知らなかった。 褐色の髪膚と深墨の瞳を備えた眼前の男は、霜に覆われた古木の如き峻厳の気配を発する、逞しい壮年の人物だった。背丈はロビンと変わらぬくらいだが、体つきは男のほうが二回りは大きい。年は三十路半ば頃と見え、身ごなしから一目で武門の出身と知れる。佩刀は反りの高い、見慣れぬ造作である。 男は隻眼であった。左目の瞼から頬にかけて走る刀創が生々しい。疵はかなり古いものと思われた。 「アン・ツァンだ。見知り置かれたい」 「ロビンです」 握手を交わした時、ロビンは全身が粟立つのを覚えた。それと気取られぬように手を離し、拳を柔らかく握る。 「おぬしは、スカイアーの、くろがねの弟子か」 「成り行きですけど、一応、そうなります」 「ふふ、成り行きか。定めし、筋がよいのだろうな」 「おそれいります」 頬を緩めて笑みを刻むツァンと対照的に、ロビンの表情は固く強張っている。 ロビンは懐中から折り畳んだ紙を取り出した。 「預かってきた書状です」 ツァンからスカイアーへ送られた果たし状に対する返信であった。ツァンから念押しの手紙が届いたのが、一週間前のことだったとロビンは聞いている。 ツァンは書面に素早く目を走らせ、やがて頷いた。 「確かに承った」 「では、明後日の日の入りの刻限、南東の丘にて」 「うむ。使者の用、ご苦労であったな」 ツァンの返答を受けて、ロビンは頭を下げると足早に立ち去った。店を離れ、角を曲がったところで立ち止まると、右手で左の二の腕を強く握り締めた。腕は寒気に当てられたように鳥肌が立ち、震えている。 ロビンは大きく息を吐き出した。背筋が汗に濡れるのを覚え、低く舌打ちをする。 「畜生、震えがとまらないぜ」 手を握った瞬間から、ロビンはツァンの雰囲気に圧倒されていた。ロビンも戦士である。いかなる時でも油断の生まれぬ心構えでいるし、ましてや対する相手が同業であれば、隙を曝すような無様な真似はしない。 しかし、ツァンと相対した瞬間から、ロビンは己の守りをあっさりと切り崩され、がら空きにされてしまったような感覚に襲われた。 「強い」 ロビンはそれを認めざるを得ない。彼我の技倆の懸隔をはっきり思い知らされていた。 「俺とは、強さの格が違う」 帰路を辿るロビンの足取りは遅鈍としている。 その表情は冴えず、頭上の空模様をそのまま映し出していた。 戦国時代の人物である聖ゲオルギウスは、異教徒征伐と魔物退治で偉勲を経てた、某国の騎士である。飛竜殺しの名前で知られ、死後は戦神マイリーに近侍する聖人の一人に列せられた。彼の名前を冠した門が、八本大路の一つ、近衛軍兵舎とマイリー神殿の敷地に面する東大路の中道に設けられている。戦士の中には、神殿に参拝した後にこの門をくぐり抜け、聖人の加護を恃みにする者も多い。 スカイアーが聖ゲオルギウス門をくぐり、マイリー神殿に足を踏み入れたのは、ちょうどロビンが常闇通りに着いた頃合であった。 「おや、スカイアーじゃないか。雨だと言うのに、熱心だなあ」 門衛に立っていた寺男が声をかけた。折を見て参拝に訪れるスカイアーは、神官や司祭とは顔馴染である。 「訓練場に寄らせてもらおうと思ってな。それとセーヴェル殿に挨拶に」 「司祭殿にかね。わかった。今、人をやるから、中で待つといいさ」 寺男は、番兵小屋へスカイアーを招いた。 「訓練場に行くなら、後で俺も一手お願いするよ。あんたが来ると、稽古に気合が入るって、長が言うしね。俺も勉強になる」 葡萄酒を注いだ杯をスカイアーに渡し、寺男は身を揺すって笑う。その表情は無邪気で、まだ、かなり若いことがわかる。身の丈六尺を越す巨漢で、麻の僧衣に包まれた体は屈強そのものである。ロプスと言う、神官戦士の任務に就いている若者の一人だ。 「それに、傭兵ギルドなんかで、うっかり勝ちすぎると、後が怖いだろ。その点、うちは大丈夫さ。その時々の勝敗にとらわれて恨みを抱くような奴はいないよ。だから、毎日こっちに来ればいい」 ロプスの快活な誘いに、スカイアーは静かに笑みを返す。 正義ある戦いを至上とするマイリー教団の教えと、己の勝利と生存をひたすら図らねばならない傭兵の観念との間には、埋め難い溝が横たわっている。その矛盾に悩み続け、或いは武器を捨て、或いは戦いに殉じた人間を、スカイアーは多く見てきた。彼はロプスの言葉に頷いて見せ、葡萄酒を呷るだけである。 若い神官がスカイアーを呼びに来た。 「セーヴェル司祭が、お会いするとのことです」 スカイアーは立ち上がると、神官とともに宿舎へ向かった。 マイリー教団は戦闘に関するあらゆる技芸と知識の牙城である。軍学、武術の一流を興し、名を馳せた過去の人物にはマイリーの神官、司祭が多い。故に、いずれの国家も盛んに教団を庇護し、養われた人材を国益に供してもらおうと図る。文治主義者のカイアルタードが治めるオランも例外ではない。マイリー神殿と近衛軍兵舎とを隣接させているのも、それなりの思惑があってのことであろう。 そのマイリー教団オラン神殿において、烈士セーヴェルと言えば、ひとかどの武人として昔日のオランで知られた人物である。 今、スカイアーは彼の私室を訪れていた。 「久し振りだな、ロックウェル殿」 セーヴェルは親しく彼を出迎えた。まもなく五十路に達するこの壮年の司祭は、スカイアーよりもやや背が高く、痩せてはいるが、骨格が逞しく、手足が大きい。身を動かす時の腰の据え方は、この人物がいまも武辺者として並々ならぬ力量を備えていることを容易に窺わせる。 スカイアーは丁重に頭を下げた。 「ご無沙汰をいたしております」 「うむ、私もそろそろ便りを寄越そうと思っていたところだ」 法衣を身奇麗に着澄ましたセーヴェルは、紅茶を差し出した。 「断酒をしていてな。君にはすまないが」 スカイアーは碗に注がれた茶の香りを嗅ぎ、莞爾と笑って言う。 「銘茶ですな。馳走になります」 「ほう、茶の味がわかるか」 セーヴェルは感嘆し、嬉しそうに笑みを返した。 スカイアーはセーヴェルに問われるままに、己の近況について述べた。セーヴェルは黙したまま耳を傾け、茶を時折含んでいる。 スカイアーの言葉が跡絶えた時、セーヴェルは口辺に笑みを含んでいった。 「雨中をわざわざ近況の報告に来ただけではあるまい。そろそろ本題に入りたまえ」 口調は穏やかだったが、有無を言わせぬ迫力があった。スカイアーは稲妻に打たれたように居住まいを正し、表情を引き締めた。 「このスカイアー、明後日に仔細あって決闘を行うこととなりました。つきましては、私が不覚を取った際に、司祭殿に私の身柄を処分していただきたく、お願いにあがった次第です」 淀みなく言い終え、スカイアーはセーヴェルを見据える。 セーヴェルは顔を引き締め、視線を受け止めた。 「決闘か。君のような稼業をしておれば、初めてのことでもなかろうな」 「九度目になります」 セーヴェルは腕を組み、目を閉じた。 「相手は、相当の手練者なのだな」 「これまでに立ち合った中でも、一二を争う遣い手と見ております」 スカイアーの言葉に誇張の色はない。セーヴェルは事情を納得したようであった。 「立会人は誰が務めるのだね」 「身内に頼んであります」 「では、その者の連絡を受け次第、人を遣るとしよう」 「忝く存じます」 低頭するスカイアーの傍らに立ち、セーヴェルは優しく言った。 「武人の本懐を尽くそうとする意気込みに依存はないが、必ず生きて戻りたまえ。息子も、君がヴァルハラへ来ることはまだ望んではいまい」 セーヴェルの思い掛けない厚情に、スカイアーは痛み入る面持ちで聞いている。 セーヴェルはスカイアーの肩に手を置いた。 「ロックウェル家の戦士スカイアーに、マイリーの加護あれ。すべての勇士の魂が汝の楯となり、剣とならんことを。汝の道に正義の光輝と賞勲の凱歌の満ち溢れんことを」 「慎んでお受けいたします」 スカイアーは込み上げて来るものを辛うじて抑え、神妙に答える。セーヴェルを拝し、印を切る彼の胸中は感慨無量であった。 訓練場に立ち寄ると、稽古着に着替えたロプスが彼を出迎えた。 「待っていたよ。ほかにもあんたと手合わせをしたいって言う連中を何人か連れてきた。さあ、やろう」 訓練場は石畳を敷き詰めた正方形の大きな空間である。中では老若入り混じって剣、槍、鋒、棒の稽古が賑やかに行われている。 教団での訓練は、習い覚えた型に沿って動く間切り稽古が中心だが、勢いの激しさは傭兵ギルドなどと比べても遜色がない。型通りの動きとは言え、実戦を意識した速さで行うため、動きが遅れれば、致命的な打撃を受けかねない。命を落としたり、四肢に不具合をきたす者の数は、現代からは想像もつかないほどである。 教団は癒しの技を持つ者を多く擁しているため、傭兵ギルドに比べて大事に至ることは少ないが、そういった後ろ盾の存在が、却って若い神官たちを血気に逸らせ、実戦ではすべからざる大味な体捌きへと駆り立てる傾向にあることをスカイアーは知っている。 借りた稽古着に着替え、剣を提げたスカイアーが訓練場に立つと、訓練をしていた他の神官たちは動きを止め、様子を見守った。 「じゃあ、最初は俺からお願いするよ」 剣を手にしたロプスがスカイアーと向かい合った。 検分役の司祭が、開始の合図を告げると、二人は離れて剣を構えた。 中段に構えたロプスは膝を軽く曲げ、ばねをためて、いつでも飛び出せる姿勢を取る。スカイアーは棒を立てたように真っ直ぐな姿勢で、下段青眼の緩やかな足取りである。 ロプスは気合鋭く様子を窺っていたが、先を取って打って出た。大兵の彼は力が強い。勢いに任せた左右の袈裟切りを無二無三に放ってきた。 スカイアーは後ろへ下がり、ロプスの剣は空を切る。スカイアーの守りを切り崩そうと、ロプスは強引に剣尖を巻き込み、左小手を狙ってきた。 スカイアーが左手を剣から離して小手打ちを躱すと、ロプスは追い込んで面への一撃を見舞った。地を割る勢いの激しい打ち込みだが、スカイアーは動きを読んでいた。 目の前でロプスの剣が躍るのと同時に、スカイアーは入れ違いに右前へ出て、流れるような抜き胴を放った。剣が胴を打つ冴えた音が響き渡った。 「うーん、参った。やっぱり強いや」 大きく息を吐くと、ロプスは一礼して引き下がった。続けて、若手の神官たちが挑みかかってくるが、スカイアーは余裕をもって、これに応じる。 四人目を退けた時、壁際で様子を見守っていた壮年の男が、前に出てきた。それを見て、周囲の者たちが声をあげる。 男は、神官戦士団の中でも指折りの遣い手と知られるクルドであった。クルドはエレミア騎士の出身であり、槍の名手として鳴らしたと言う片手突きの技は、余人に卓越した鋭さがあると評されている。 クルドは腰の剣を抜き、口髭の豊かな顔に不敵な笑みを浮かべた。 「おぬし、また腕を上げたようだな。是非とも手合わせを願いたい」 クルドの強烈な戦意を感じ取り、スカイアーの双眸は燃える。彼はかつてクルドと三本勝負を行い、二本を取られ、敗れていた。彼の胸中に闘志が湧き起こった。 「望むところだ」 ロプスが検分役に立ち、試合を宣した。 二人は騎士の礼法にのっとり、半身の姿勢から、顔の前で垂直に立てた剣を十字に振ると、素早く飛び下がり、構えを取った。 スカイアーは緩やかな足捌きで弧を描くように移動する。クルドは両足の踵をつけ、真っ直ぐ立っているが、前へ出る時の動作は迅速であった。 スカイアーはクルドの両拳に視線を注ぎ、剣の動きを読む。クルドの突きは精確を極め、宙に放り上げられた銀貨を弾き飛ばすほどという。それだけに不気味な迫力が、彼の痩せて背の高い体から滲み出ている。 クルドは剣尖を浮沈させつつ、ゆっくりと前に出た。スカイアーも応じて進み出る。二人の間合は次第に近付いていく。 撃尺の間合にさしかかるなり、クルドが突いて出た。切っ先が伸び、スカイアーの喉をまともに突く。がっ、と激しい音がして、クルドの剣が逸れた。スカイアーが鍔で受けとめたのである。クルドが連続して三度突きかける。スカイアーはすべてを鍔だけで防ぐ。クルドの動きは止まらず、体を弓なりに反らせて左右胴斬りを放つが、スカイアーはいずれの攻めも払い落とす。 スカイアーはまったく動揺していない。クルドの嵐のような攻撃に向かいながら、切り崩す機会を窺っている。クルドがまた猛烈な連続突きの攻勢に出た。スカイアーは足取りを弾ませつつ、これらをすべて叩き落した。 クルドが、訓練場の壁に反響する裂帛の気合とともに、稲妻のような片手突きを入れて来た時、スカイアーは初めて反撃に出た。彼はクルドの剣を押さえつつ、手許に踏み込んだ。クルドの動作の拍子を読み取ったのである。 クルドは間合のうちに入りこまれ、咄嗟に前へ出て攻めを封じようとしたが、スカイアーは彼の狼狽を見逃さず、剣尖を絡めてクルドの動きを圧しにかかる。クルドがやむなく後退するのを、スカイアーは許さず追い込んでいき、一気に攻勢に出た。スカイアーの剣が閃き、牙を剥き出した獣のように襲いかかる。クルドは床板を踏み鳴らして飛び退るが、逃れ切れず、火を吹くような一撃を脳天に受けて、仰向けに引っ繰り返った。 「勝負あり」 ロプスが手を上げる。 助け起こされたクルドは、破顔一笑して、スカイアーに語りかける。 「強くなったな。武芸はすべて心気力の一致と言うが、先ほどのおぬしの動きはまさにそれだったぞ」 クルドに言われながら、スカイアーは己の膂力が確かに充実していることを感じていた。 常闇通りの娼館、天禄苑の一室で、アン・ツァンは旅支度を整えていた。 私用にあてがわれていた個室である。一介の用心棒とも思えぬ厚遇ぶりだが、そこから、彼の技倆がいかほどのものであるかが窺える。 決闘の期日が決まるまでの用心棒稼業であった。ゆえに、今日、ここを立ち去るのである。普通ならばこのような勝手は許されない。店の主人がツァンを認めていたからこその特例である。 ツァンの荷物は大した量ではない。一切合財を背嚢に詰めこんでも、なお余裕があった。一番嵩んだのは財布である。ずしりと重い数個の袋は、合わせれば数千になろうかと言う大金である。 「わしにはちと多すぎるな」 ツァンは袋を一つだけ背嚢に入れ、残りは小机の上に置いていくことにした。 衣服の上から革の胸当て、小手、脛当てを身につけ、背嚢を背負う。腰に太刀、小太刀を佩き、外套を羽織る。 ツァンが廊下に出ると、そこいらに座り込んでいた他の用心棒たちが一斉に彼を見た。安堵と怯懦の気色を浮かべる彼らを一瞥し、ツァンは頬を歪ませる。 「これでもう、わしに気兼ねすることなく賭博と酒に興じられよう。達者でな」 ツァンが近付くと、彼らは蜘蛛の子を散らすように離れていった。 裏口をくぐりかけた時、 「お待ち」 ツァンの背中に低い女の声が飛んだ。声に続いて、衣擦れと軽い足音が立つ。 振り向くと、派手な衣装に身を包んだ背の高い女が駆け寄って来る。 「女将」 「忘れ物さ」 天禄苑の主人ダナビアは、ふくよかな肢体を揺らして、ツァンの前に数個の金入れ袋を差し出した。 「これはあんたの正当な取り分だよ」 ツァンは気まずそうにダナビアを見た。 「必要な分は頂戴している。これは些か」 「あんたが持っていってくれないと、うちは金払いが悪い店だと、商売敵に吹聴されちまうんでね」 ダナビアはぴしゃりと制した。 「差し戻すのはあたしの誇りが許さない。他の連中にお零れでくれてやるなんて悪い冗談さ。あんた以外に持っていい人間はいないんだよ。ほら、後ろを向いて」 ダナビアはツァンの外套をたくし上げ、背嚢を開けて袋を放り込んでいく。じゃらり、と音が鳴り、背嚢の重みが増していく。ツァンはどうにも落ち着かない表情でなすがままに任せている。 「それと、こいつ。持っていきな」 ダナビアが差し出した紙包みを見て、ツァンは怪訝な顔をした。 「これは」 「お守りさ。最近のあんた、命を的にって顔つきだったからね。危ないことでもしに行くんだろうと思ったんだよ。だからね」 ツァンは一瞬、驚愕の表情を見せた。ダナビアに決闘のことは話していない。 ツァンは頭を掻いて呟いた。 「女将には叶わんな」 「ほら、ご覧。伊達に三十年も男の相手をしてるわけじゃないんだ」 ダナビアは得意げに笑い、紙包みをツァンの手に握らせる。 「中は開けるんじゃないよ。そうすると効き目がなくなるって言うからね。懐に仕舞いこんで、肌身離さないようにしておきな」 子どもに言い聞かせるような口調に、ツァンは苦笑いを浮かべる。 「拙者のような無頼にこのような気遣い、痛み入る」 「よしとくれよ。痛み入られるなんて柄でもない」 言って、ダナビアは俯き、ややしてから顔を上げた。 「あたしがあと五年は若かったらね。あんたを行かせやしないんだけど」 「女将は今でも充分に美しいではないか」 「なに言ってるんだい。一度も誘いに乗らなかったくせにさ」 ダナビアは、ツァンの胸を軽く叩いた。 「ま、巧くやっといで。用事が終わったら、また戻ってきなよ」 微笑むダナビアに、ツァンは慇懃な表情を崩さず答える。 「女将には本当に世話になった。感謝している。縁があれば、また会おう。では、息災でな」 一礼してそびらを返すと、ツァンは真っ直ぐ歩み去っていった。その姿が見えなくなるまで、ダナビアは戸口に立ち、見送っていた。 館を出てすぐ、己を追って来る複数の者があることに、ツァンは気づいていた。一定の距離を保っているようだが、尾行の技術は素人である。彼らの気配は明確な殺意を発しているが、大路で事を構える度胸はないらしい。 雨は弱まりつつあり、正午近くと言うこともあって、人気は増している。 (では、連中のやりよい場所を選んでやるか) ツァンの足取りは、裏路地へと方向を変えた。昼も夜も変わらぬ物騒さと言われる常闇通りの裏小路だが、大股に闊歩する彼のゆく手を阻もうとする者はいない。 尾行者はつかず離れず、ツァンの後を追って来る。 やがて、ツァンは廃屋が建ち並ぶ一角に足を踏み入れた。まともな建物は一つもなく、雨風も凌げないため、住みつく者もない。 狭隘な通りの真中にツァンが立つと、前に三人、後ろに二人が姿を現した。 娼館にいた用心棒たちである。各々、佩刀に手をかけ、ツァンの隙を窺っている。 「お前たちの狙いは金か」 ツァンは太刀に手を伸ばそうともせず、低く問いかけた。 男たちは返答しない。前に立っていた一人が鞘を払うと、残る四人もそれに倣った。五本の白刃が凶悪な光を放つ。 ツァンは鼻を鳴らした。 「いじましいやつらだ。どうやら、貴様らは金を奪うついでに、わしを消そうと言う腹積もりのようだな」 ツァンは悠揚たる足取りで前に出る。その沈着ぶりに男たちは気圧され、思わず後退りした。 「抜き身を手にしているくせに、徒手のわしが恐ろしいか」 ツァンがせせら笑うと、最初に剣を抜いた男が、搾り出すような声をあげて、大上段に振り被って突っ込んできた。 男はツァンの眼前に迫ると、甲声もろとも、頭上めがけて拝み打ちの一刀を浴びせた。 瞬間、僅かに身を捻ったツァンの腰から一条の光芒が走った。同時に金属を強打する高く鋭い音が響き渡り、男の呻き声が上がった。ツァンの抜き打ちに剣を弾き飛ばされ、当て身を受けて、卒倒したのである。 あまりの迅業に残る四人は動けない。前方に残る二人めがけて、風のような身ごなしでツァンが躍りかかった。二人が忽ちに叩き伏せられ、地べたを這う。剣を一閃させる余裕すら与えられなかった。 後ろの二人は、自分たちの足許に弾き飛ばされた剣が、根元から真っ二つに折れているのを見て驚嘆の声をあげ、蒼褪めた顔でツァンを見る。 ツァンは振り返り、鋭い語気を浴びせた。 「貴様らのようなごろつきどもは、斬っておいた方が世のためだろうが、わしも決闘を控えた身だ。無用の血を流すのは好まぬゆえ、見逃してやる。早々に立ち去れ」 男たちは剣を収めて背を向けると、仲間を見捨てたまま、駆け去っていった。 彼らの姿が消えるのを見届けてから、ツァンは首を巡らし、声をあげた。 「わしの手の内はこれしきのものではない。くろがねに伝えておくがいい。生半可な意地でわしを殪すなど、到底できはせぬとな」 ツァンの言葉を受けてすぐさま、一個の気配が足早に遠ざかっていった。 それを確かめたツァンの姿も、やがてどこかへ消えていく。 雨にそぼ濡れる路地には、倒れ伏した男たちの、微かな呻き声だけが残された。 大路の真中を、飛ぶ鳥の身軽さで疾駆する一人の青年の姿があった。雨具をどこで放り捨てたのか、濡れるに任せたまま、必死の形相で走っていた青年は、橋を渡り終えたあたりで速度を緩め、やがて背を屈めて膝を握り締めると、大きく息を吐いた。 青年はロビンであった。彼の顔は蝋を塗ったように蒼褪めている。 「まさか、あれほどとは、思わなかった」 歯の根が合わず、ロビンの口調は震えている。 ツァンと別れて後、一度は宿へ戻りかけたロビンだったが、彼の胸中にはツァンに圧倒されたと言う屈辱感が重く沈んでいた。それを自覚した時、ロビンは矢も楯も堪らず、ツァンの動静を探りに常闇通りへ舞い戻ったのだった。 なぜそうしたのか、ロビンはその理由を説明できない。ツァンの手の内を盗んでスカイアーに伝えようと言うのではなかった。スカイアーがそのようなことを喜ぶ人間ではないことはよく知っている。そもそも、忍んで様子を窺ったところで、ツァンの剣術を目の当たりにできる保証などなかった。ツァンと男たちとのやりとりを目撃したのは僥倖であったに過ぎない。 ツァンはおそらくロビンの尾行にも最初から気づいていたのだろう。その上で己の技を見せたのはよほどの自信があってのことに違いない。ツァンの抜き打ちは、彼が見たこともない迅速さだった。先刻の様子を思い出すだけで、彼の体は激しく粟立つ。 ロビンは力なく、常闇通りの方角を見やる。ツァンの行方を再び追う気にはなれなかった。 太陽丘から正午を知らせる鐘の音が鳴り響いてきた。 その落日の景色が、ロビンにはいやに生々しいものに見えた。傷口から溢れ出る鮮血の如き朱色の空は禍禍しい輝きに満ち、太陽は歪んだ鏡に映したように無様に引き伸ばされている。 黄昏は逢魔が時とも云われる光と闇の入れ替わる境目の時間であり、人々は陽の落ち切らぬうちに屋根の下へ逃げ込んで、明日を待つ。 だが、俺は今からその暗闇の中で見届けねばならないものがあるのだ、とロビンは己に言い聞かせる。 スカイアーとアン・ツァンの、決闘の当日であった。 アン・ツァンに返信を渡した旨を伝えてから、ロビンはスカイアーと会っていない。盗賊ギルドから唐突に回された仕事の処理に追われていたからである。それに思わぬ時間を取られ、ようやく解放されたのは、夕方に差しかかった頃であった。 ロビンはスカイアーを迎えに、彼の定宿である古代王国への扉亭を訪れた。北東門の近くに建つこの店は、「冒険者の店」の中で老舗である。酒場にもなっている宿の一階は、すでに大勢の客でごった返していた。 人込みをかきわけて進んで行くロビンの視界に、卓を囲んで談笑しているラスとカレンの姿が飛びこんで来た。二人は盗賊ギルドでの同僚であり、何度か仕事を共にした間柄である。 ロビンは声をかけずに通りすぎようとしたが、ラスが目敏く彼を見つけた。 「よう、ロビン。こっちに来るとは珍しいな。来いよ。一杯やろうぜ」 ラスが手を挙げ、呼びかけてきたが、ロビンは愛想笑いを返しただけで、足早に二階へと昇って行った。 「なんだ、あいつ。付き合い悪いな」 「まだ仕事があるんじゃないか」 肩を竦めるラスの向かいで、カードを繰りながらカレンが答える。 「そういえば、一つ急なヤマを回されてぼやいてたなあ。時間がねえとか、なんとか」 思い出すように云いつつ、ラスはゴブレットの中身を干し、女中に追加を頼んだ。 客の殆どは階下にいるのであろう、二階は閑散たる雰囲気である。部屋の前に立ち、扉を叩くと、スカイアーはすぐに出てきた。衣服の上から革拵えの胴当て、小手、脛当てという身軽な防具を着け、腰には長短剣の一対を佩いていた。 「わざわざ済まんな」 スカイアーの言葉にロビンはかぶりを振り、先ほど昇って来た階段のほうを見やった。 「表は喧しいから、裏口から出ましょう」 スカイアーは静かに頷いた。 夏の到来を間近く感じさせる、生暖かい空気の混じった夜気の中を、二人は足早に歩いた。港湾区域に面した東の大路からは、人気は殆ど引いている。誰もが屋根の下に集い、憩いを楽しんでいる刻である。 東大路を真南に下り、このまま進めば、大路は目黒通りと呼ばれる小路へ変わり、その先が彼らの目的地である。二人は黙々と歩く。石畳を踏み鳴らす足音と、スカイアーの佩刀が擦れて立てる音が、やけに大きく響くように思われる。 目黒通りを通り過ぎて、南の小門を抜けると、宵の賑やかさから切り離された空漠の風景が広がる。どこかで鳥が鳴いていた。郊外の道を真っ直ぐに進むと、やがて道筋が真南と北東とに二分する地点にさしかかった。行く先は北東である。濃紺の世界に没しつつある丘が孤独に聳え立つその方角へ、二人は進んだ。 緩やかな傾斜の坂道を進むにつれて、頂きの景色が少しずつ明らかになってくる。 頂きの彼方から東の山々の姿が覗き始めた時、二人は、そこに佇立する人影を認めた。向こうも気づいたのだろう、顔をこちらに向けた。 アン・ツァンであった。 ようやく月が認められるほどに、空は暗くなっていた。太陽は西の果てに、すっぽりと没しようとしている。二人が宿を出た時は、一昨日の雨雲が空一面にまだ重苦しく立ち込めていて、今にも雨が落ちてきそうな気配であったが、郊外に出た頃から、急に風が出てきて雲が走り始め、冷え込みが強まりつつあった。 スカイアーとロビンは、縹渺たる曠野の上で、アン・ツァンと相対した。 ツァンが口を開いた。 「この時を、ずいぶん待った」 懐かしむような口調である。 「長かったぞ、七年は」 スカイアーの顔を見据えて云うツァンの瞳に、鈍い光が宿った。 「ロビン」 低く名前を呼ばれて、ロビンはハッとする。スカイアーはツァンの視線を真向から受け止めたままである。 「検分役を、頼む」 「は、はいっ」 ロビンはスカイアーの後ろを離れ、二人の間に立つ。今から決闘の口上を述べ、開始を宣するのが彼の仕事である。 決闘の行われる旨を戦神マイリーへ告げるロビンの声を聴きつつ、二人の戦士は静かに間合を取る。お互い、まだ剣の柄には手をかけていない。 「ご両人、用意はよろしいか」 「応」 ロビンの問いに、二人は同時に応えた。 「では、ただ今より決闘を開始する」 開始を告げるロビンの言の葉が、闇に溶け切るより速く、鞘走りの音が立った。 風は激しさを増し、轟々と高まっていく。 二人は剣を抜き放ち、左右へ飛び下がって相青眼に構えた。 鏡に映したかのように、彼らの構えはまるで同じであった。棒を立てたように真っ直ぐな姿勢で、両足の踵はぴったりと地面につけられている。遠目に眺めれば像が二体、向かい合う形で並べられているようにも見えよう。 二人は硬直したかのように、ぴくりとも動かない。しかし、ロビンは彼らの間に漂う強力な磁場を感じ取っていた。それは緩やかにうねりながら膨張を続け、二人の間を埋め尽くしていく。二人の剣気が高まりつつあるのだとロビンは覚っていた。 ツァンが動いた。僅かずつ左に体を移していく。スカイアーは軽い身ごなしで正対する。お互い、上体は殆ど動かぬまま、向きだけが変わっていく。ほぼ半円を描くほど動いてから、ツァンは低く気合を放ち、今度は右へと移動の向きを変えた。スカイアーは黙然と彼の動く方へ向き直る。 二人は相手の両目に視線を集中し、井戸の中を覗き込むように、目に浮かぶ表情を読み続ける。彼らと向き合えば、瞳の中に火炎が渦巻くのを見るのではないかと、ロビンは息の詰まる心地で考える。 その時、ロビンは、二人の間合がいつのまにか撃尺寸前にまで近まっているのに気づいて、愕然とした。いったい、いつ二人が前に進み出ていたのか、まるで察知できなかったのである。 スカイアーの剣尖が緩やかに浮沈を始めた。応じるツァンの剣は微動だにしない。二人の足の動きは弧を描きつつ、距離はさらに縮まっていく。 撃尺の間合に踏み込んだ、とロビンが見たとき、スカイアーが、弓弦を離れた矢のような、目にも止まらぬ素早さで飛び出していた。刃音が風を切り、ツァンの体に迫る。 刃と刃が噛み合って火花を散らし、飛び違った二人は、素早く向き直った。 ツァンが突き入れた一刀を打ち払いざま、スカイアーが滑るような足取りで前へ出て右の小手を打つ。ツァンが右手を離して左片手斬りを打ち込むと、スカイアーは剣を立てて凌ぎ、電光のような突き返しを放つ。ツァンが素早く首を振って躱し、同時に足を退いて胴を薙げば、スカイアーはこれを打ち落として飛び退る。二人の間は再び離れた。 おそろしく錬度の高い組太刀を見せつけられたような感慨に、ロビンの体は激しく震えた。豪放かつ繊細な二人の太刀筋には、一幅の軍記絵巻を見るような清涼感すら感じられるほどだった。 再度、二人が前に出て、数合の激烈な打ち合いが続く。打ち合う刃から散った火花が大気に溶けるより速く、二人は身を翻して離れている。構えは依然、相青眼である。 二人の実力は伯仲しているが、ツァンは斬撃において、またスカイアーは刺突において、相手より優っているようだと、ロビンは見て取っていた。ツァンの斬り込みはいかずちのように早く、スカイアーの突きは火を噴く激しさがある。いずれも渾身の一撃が決まれば、相手の命をたやすく奪い去る威力が秘められている。 二人は小刻みに動き、三度、間合いを詰めに掛かる。二三歩を動いた時、ツァンは突然、剣尖を下段に構え直して、反り身の姿勢でスカイアーを待ち受けた。 突きが得意な相手に下段で立ち向かうのは、生半な度胸ではできるものではない。殆どの者は剣を振り上げるよりも早く、喉元に突きを食らい、無様に仰け反る羽目になる。初太刀を凌いでも、二段、三段と突きを重ねられたら、まず持ち堪えられない。 ツァンの喉から胸元にかけて、一見がら空きになったように見えるが、ロビンは不吉な予感を覚える。ツァンほどの戦士がなんの策も弄せず、このように大胆な構えに移るとは思えない。 スカイアーは中段に構えたまま、さらに前へと出る。眼光は油断なくツァンの隙を窺っている。彼が攻撃を仕掛けようとしていることを、ロビンは瞬時に悟った。 (いけない、出てはいけない) ロビンは焦るが、しかし声は喉元で絡まって出てこない。おそらくツァンは嵌め手を持っているのだろうと察したが、それを伝えることは叶わない。 (引いて下さい。様子を見るんだ。今、出たりしたら) そう云えたら、どんなに楽なことかと、己を検分役に命じたスカイアーのことを、ロビンはこの時ほど恨めしく思ったことはなかった。 ツァンが僅かに前に進み出た時、スカイアーは右半身になり、火を吹くような片手突きを見舞った。剣尖がツァンの喉元を貫くかと見えたとき、スカイアーの剣は弾かれていた。ツァンが下段から撥ね上げた剣が、スカイアーの突きを外したのである。 ツァンの剣は止まらず、そのまま頭上で反転して、スカイアーの右横面めがけてしたたかに打ち込まれていた。スカイアーは咄嗟に上体を反らしていたが、間に合わない。白光の軌跡が鮮やかな弧を描いて、スカイアーの顔面をよぎる。 「くろがね、とったぞっ」 ツァンの快哉の声に続き、二人の間に血飛沫が舞い散るのを見て、ロビンは全身が砕けるほどの衝撃を覚えた。 ツァンの表情が一変した。剣を構えなおすなり、地を蹴って鳥のように飛び退る。車に回されたスカイアーの剣が、先ほどまでツァンの立っていた空間を鎌のように薙ぎ払う。 「まだまだっ」 足を踏ん張り、体勢を立て直したスカイアーは、鋭く答えた。彼は額から右のこめかみにかけてを、大きく切り裂かれていた。とめどなく流れ落ちる血が顔の半分を濡らして、顔貌を壮絶なものに変えている。血が流れこんでいるのだろうか、右目は塞がっているようであった。 ロビンは背筋に寒気が走るのを覚えた。片目が使えないという点では両者ともに同じだが、隻眼のまま長年剣を揮ってきたツァンと、にわか盲のスカイアーとでは地力を発揮するのに雲泥の差がある。ここでスカイアーが焦って性急に動いたりすれば、それこそツァンの思惑に陥ることになる。勝負が、スカイアーにとって不利に傾き始めている現実が、太い氷柱のようにロビンの胸中を穿つ。 ツァンは中段に構え直し、油断なく間合いを計る。一撃を与えたからと嵩に掛かって突き進む性格は、ツァンには縁遠い。先ほどの技はもう通用しないだろうと冷静に分析していた。 (同じ技を二度続けて食らうような男ではない) むしろ中途半端に手傷を負わせたのがまずかったのではないかとさえ考えている。スカイアーの傷は深い。凡百の戦士なら、ここで猛り狂い、闇雲に打って出てくるところだが、スカイアーにその考えは当て嵌まらない。 このまま逃げの一手を取り、スカイアーの体から血が流れ切るのを待つという方法もあるが、ツァンはあっさりとそれを否定した。 スカイアーが出て来るならば、ツァンは応じるつもりでいる。 二人は最初に対峙した時のように、ぴたりと動きを止めて相手を見据えている。違っているのは、スカイアーの足許で血溜まりが次第に大きさを広げていることである。 スカイアーが剣尖を揺らし始めた。今度は緩やかに浮沈させるのではなく、鶺鴒の尾のように忙しなく上下させている。 示し合わせたように二人はじりじりと前へ進み出した。 スカイアーが先を取った。間合に入るなり、大きく飛びかかり、顔面へ斬り込む。 ツァンが剣を打ち落とそうとしたとき、スカイアーの体が右へ飛び、押さえ込まれた剣を下から半回転させて、ツァンの右横面を襲った。 剣を立て、防ぎの形を取ったツァンに、スカイアーは騎虎の勢で攻めかける。さらに面を三度重ね、横面から突き、風を巻いて胴斬りを放ち、続けて面を打つ。 ロビンは息を呑む。ツァンは体勢を立て直す余裕もなく、守り一方に見えるが、剣を持つ手首を僅かに動かすだけで、どの方向からの攻めも確実に封じている。連続攻撃は技が尽きた直後に必ず虚が生まれる。相手を遮二無二追えば、逆に巧く釣り出され、破滅するしかないのは剣理の初歩である。スカイアーはそれを忘れてしまったのかと、ロビンは目も眩む思いで見つめる。 遂にツァンが動いた。スカイアーの小手打ちを、ツァンは大きく足を退いて空を切らせる。スカイアーが剣を車に回すのを見逃さず、ツァンは飛び込んで面を打った。 転瞬、ツァンの口から思わずうめきが漏れた。剣を立てて追撃を防ぎ、素早く距離を取る彼の顔には、してやられたという表情が浮かんでいる。見ると、左の二の腕がしたたかに斬られ、血を滴らせていた。 ツァンが足を踏み切って剣を打ち出すのに僅かに遅れて、スカイアーが剣を打ち出したのだった。剣を切り落とされたツァンの顔めがけて刃が迫り、咄嗟に身を開いたものの、躱しきれなかったのである。 二人は五度正対し、烈しく睨み合う。 頭上に轟音を聴いて、ロビンは顔をあげた。先ほど吹き過ぎたものが戻って来たのか、それとも遠方から新たに飛来したのか、黒雲が再び空を埋めつくし、雷鳴を放ち始めていた。 それから二人が撃剣を交わした正確な数をロビンは覚えていない。どの一振りが戦いに終止符を打つのか、まるで予断を許さない状況で注意を他に向けることは、ロビンにはできなかった。 疾風迅雷の攻防を重ねて、スカイアーとアン・ツァンは十数度目の対峙を迎える。互いの剣の刃毀れは凄まじく、鋸のように欠けた刃を向けて、両者は気合を振り絞る。 二人はさらに傷を負っている。スカイアーは右手の甲を小手ごと切られ、胴当ても深く裂かれて血が滲み出ていた。対するツァンは左の腿と右頬に裂傷を受けている。 戦いが始まってから既に一時間近くが経とうとしていた。 ツァンが一声唸って、剣を上段に振り被った。 応じるスカイアーは構えを変えず、右半身の青眼。 二人の体から、これまでになく強力な剣気が怒涛のように迸り、周囲を圧倒する。烈しさに滾る気迫を目の当たりにして、覚えずロビンの体はよろめいた。辛うじて堪え、顔を上げたとき、ロビンは唐突に、この死闘がまもなく終わろうとしていることを悟った。 肺腑を抉るような咆哮が大気を震わせた。地を蹴ってツァンが猛然と飛び出したのである。 一足一刀の間合に踏み込んだとき、スカイアーもまた裂帛の気合を発して右半身からの片手突きを撃ち込んだ。 スカイアーの剣がツァンの胸元を貫いた。鮮血が破裂したかのような勢いで、両者の間を飛散する。ツァンの体は大きく傾いたが、動きは止まらず、地を割り込む袈裟斬りがスカイアーの右肩から脇あたりまでを一気に切り裂いた。 スカイアーは剣を取り落とし、体勢を崩すと片膝を着いた。剣を引き抜いたツァンがとどめの一撃とばかりに振り翳した瞬間、スカイアーが逆手で抜き打った小剣がツァンの膝を薙ぎ払う。地響きを立ててツァンは転倒し、彼の太刀が転がった。 縺れる足を叱咤し、膝を屈して向かい合うなり、二人は跳躍した。それぞれの手中で小剣が、小太刀が閃き、互いを狙い打つ。 二人の体が空中で交錯した。 「うむっ」 いずれの声か、短く一声が響き、霹靂が天地を裂いた直後の如き静寂がその場を圧した。 目を見張るロビンの前で、スカイアーの体が揺らいで片手を着き、ツァンが小太刀を握り締めたまま、前のめりに斃れ臥していた。 「う、うわあぁっ」 言葉にならない叫びをあげてロビンは二人のもとへと駈け寄った。 噎せ返る血の匂いが溢れる中、二人は肩で息をついていた。スカイアーは左手を地に着けて、なんとか体を支えている。ツァンは意識を失っているのか、荒い呼吸が聞こえるのみで、まったく動かない。二人とも全身朱に染まり、衣服の袖は搾るほど血に濡れている。 「スカイアーさん、スカイアーさん」 ロビンが屈み込んで背中に手を回すと、糸が切れたようにスカイアーの体が伸しかかってきた。その体が灼熱のように燃えているのを掌に感じつつ、ロビンは手拭を取り出して震える手で顔の血を拭う。明らかに致命傷であった。 「ツァンは、どうした」 指を動かすこともままならないスカイアーが切れ切れに呟く。ロビンが答えようとした時、背後から唸り声が聞こえ、気配が動いた。 ハッとしてロビンが振り向くと、一転して仰向けになったツァンが隻眼を開いて空を見ていた。 「最後の一太刀、届かなかったか。ふ、ふふ」 掠れる声を振り絞って、ツァンが低く笑う。胸と喉から夥しく血を流す彼の顔色は、既に蒼褪めている。 「ふむ、もう目も見えぬ。耳も遠くなってきたわ。いよいよ最期か。七年間、借りていた命を返すときがきたようだな」 ツァンはそこで咳込み、血を吐いた。 「くろがねの弟子、ロビンと言ったか。そこに居るのだろう。すまぬが、耳を貸してくれ」 呼ばれて、ロビンはスカイアーの顔を見る。スカイアーは頷き、ロビンを促した。 傍らに控えたロビンが耳をそばだてているのを感じ、ツァンは喋り出した。 「最初におぬしに会うた時、わしはおとなげない真似をした」 言われてロビンは、最初の出会いでツァンに圧倒されたときのことを思い出す。 ツァンは続ける。 「いたずら心というやつでな、少々、おぬしの胆を試してみたくなったのよ。大抵の者は、わしの手を握った瞬間に体が竦みあがったものだが、おぬしは気丈に堪えておったのう」 ロビンははっとした。ツァンの手が、痙攣しながらロビンの手をしっかりと握り締めたからである。瀕死の人間とも思えぬ力強さがそこにはあった。ロビンは慌てて、もう一方の手でツァンの手を押し包む。 「おぬしは今に強くなる。くろがねを越えるかも知れぬな。倦まず、弛まず、精進せい」 「はい、はい」 焦点の合わない眼を向けるツァンの顔を見つめ、ロビンは喉元まで込み上げてくるものを辛うじて堪える。頬に熱いものが流れるのも構わず、ロビンは何度も頷き返した。 それを感じたのか、ツァンは一度、笑みを刻むと、再び顔を空に向けると、独り言のように呟き始めた。 「できれば、わしとくろがねのような因縁には関わりおうてほしくないものだ。それが戦士の定めとはいえ、勝つたびに人の恨みを背負い続けねばならぬとはなんとも惨いものではないか。思えば、わしの実父も、養父もそうであった。因縁の鎖は、どこかで断ち切らねばならぬのだよ、どこかでな」 そこで息を詰まらせると、ツァンは見る見るうちに死相を表し、大きく体を震わせ、目を閉じた。 その顔に、ロビンは喩えようもない威厳を感じ、ツァンの手を取ったまま、深く頭を下げた。 丘を駆け上がる蹄の音が、ロビンを現実へと引き戻した。一頭の悍馬がこちらへ向かって来るところであった。 馬上の二人の姿を見て、ロビンは声をあげた。 「間に合わなかったか。惜しいことをしたのう」 ツァンの遺体に印を切りつつ、ダルス・ドームは言った。マイリー教団に所属する高位の司祭であり、熟練の武芸者と知られるダルスこそ、司祭長セーヴェルの命を受けて派遣されてきた者であった。ロビンの連絡を待たずに人を遣ったのは、セーヴェルの慧眼と言うほかはない。 「しかし少なくとも一人は救えました」 スカイアーの体を支え、癒しの手を翳すもう一人の名は、カール・クレンツ。チャ・ザ教団に所属する神官であり、ロビンの先師である。カールを連れてきたのはダルスのまったくの独断であったが、たまたまオランへ出向していたカールを捕まえることができたのは僥倖であった。 スカイアーの傷は完全に癒されたが、精根尽き果てたらしく、足取りは覚束ないものである。 「それでは始めるかの。スカイアー殿には少々、しんどいかもしれぬが」 ツァンの遺体を清め終えたダルスが告げ、三人は頷いた。 ツァンの両手は胸の上で組まれ、大小の太刀は膝の上で向きを違えて並べられた。 右足の傍らにダルスが、左足の傍らにカールが、それぞれ跪くと、まず慰霊の祝詞を捧げた。次にダルスが戦神マイリーにツァンの武勇を知らせ、その魂がマイリーの坐すヴァルハラ(喜びの野)へ導かれるよう祈る。さらにカールが幸運神チャ・ザへ、ツァンの魂がつつがなく導かれるべく、幸運の追い風を授かるよう祈りを捧げる。最後に、もう一度、慰霊の祝詞が斉唱された。 「では、戻りましょう」 スカイアーとロビンを馬に乗せ、二人の神官は左右に付き従う形で、丘を下っていった。 頂きが見えなくなる前に、スカイアーは一度だけ丘を振り返った。作られて間もない小塚が視界に入る。 その下に、ツァンの遺体が剣とともに眠っている。 「さらばだ、鉄人」 頂きが見えなくなる間際、スカイアーは胸のうちで別れを告げた。 その後、神殿で安静にしていたスカイアーは、一週間ほどで快癒し、程なくして剣を揮う姿も見られるようになった。その間に別の仕事が舞い込んでいたロビンは、殆ど見舞いに顔を出すことも叶わず、ホリィになにかと言われることになった。 三人で稽古に励む生活に戻ってから、ロビンはある時、ツァンが寄寓していた娼館、天禄苑の様子を何気なく伺いにいったが、用心棒に見咎められ、すぐに立ち去る羽目になった。 ロビンと女将ダナビアが出会っていれば、一つの後日談が生まれたかもしれないが、数年後、ロビンがオランを去るまでに、そのようなことは遂に起きなかった。 そうして、季節は移り変わり、夏になった。 風の向きが変わったと、ロビンは感じた。先ほどまで南から吹き上げていた風は、今は西から流れ、彼の体を優しく洗っている。 しばらく風の中にじっと佇んでから、ロビンは街へ向けて歩き出した。 鳥の鳴声に顔を上げると、季節外れの候鳥が一羽、ぐるぐると空を回っていた。行く先を定めかねているのだろうかと、ロビンは眺めていたが、やがて飽きると、目線を街へと戻して歩調を強めていった。 しばらく円を描いていたその鳥は、ようやく決心がついたのか、一声高く鳴くと、東の空へと飛び去っていった。 |
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