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※筆者注:これは多分、新王国歴512年の秋頃の出来事かと思われます※ “稲穂の実り亭”───そこは、ごく普通の酒場である。見た限りでは。冒険者に見える客も一般人に見える客も、それぞれ無造作にたむろし、カウンターの奥では店員が陶製のジョッキにエールを注ぐ。テーブルとテーブルの間を、トレイをもって優雅な早足で移動していく若い女の子が2人ほど。 つまり、どこから見ても普通の酒場である。が、ここに足を踏み入れた事情を知らない者のうち、勘の良い者は、その独特の雰囲気に気圧されて、ジョッキ一杯のエールを空けると早々に逃げ出すだろう。まぁ、時折は、それでもウェイトレスの仕事明けの時間を聞き出そうとする強者もいることはいるが。 そこは、ギルド直営の“表の店”のひとつであった。ギルド───盗賊ギルドである。情報を管理するための酒場。時には規制し、時には広める。そして、売り買いの場でもある。自然、客のほとんどが盗賊という職業を生業とする者ばかりになる。ギルドの手足としての盗賊であったり、冒険者としてその技を持つ者であったり。 そして今夜。その酒場の片隅のテーブルにもそんな人間たちがいた。3人の男。人間達、とは言ったが、1人は半妖精である。 「…ったく、なんでこんなところでてめえらに会うかな……」 不満げに呟いたのは、その半妖精、ラスだ。その向かい側には20才前後の黒髪の男。肩先にはリスをのせている。そして更にその隣には、もう1人の黒髪の男。こちらはわずかに年下のように見える。 「そりゃこっちの台詞だな。……あんた、何しにきた? 売りに来たのか? 買いに来たのか?」 向かい側の男、リックがそう聞き返してきた。ラスが肩をすくめる。 「買いに来たんだよ。事情はナイショ。ンで、ここでカレンと待ち合わせ。そっちは?」 「俺は売りに来た。別の仕事の途中で拾いモンがあったんでな」 ラスとリックが話しているのは、“情報”という商品の話である。その会話を耳におさめていながらも、視線はウェイトレスに釘付けになっているもう1人の男に、ラスとリックが同時に尋ねる。 『んで、てめえは?』 「ん〜〜…いいねぇ、あの娘。やっぱ、噂どおりだな。うん、可愛いぞ。こっちの店に来たのはひさしぶりだし………って…あれ? 俺のこと?」 エールのジョッキを片手に、ロビンが振り返る。自分を見つめる2つの顔に改めて視線を送りつつ、おもむろにジョッキをテーブルに置くと、ゆっくりと口を開いた。 「ふふふ…知りたいか? この俺様がわざわざこの店に足を運んだわけを。……まあ? キミタチは未熟者だからして、俺様のような腕利きが何をやっているのかを知りたがるのは当然のことだが……」 腕組みなどして、滔々と語り始めたロビンの頭に、両側から平手が飛んだ。すぐ隣にいたリックはもちろんのこと、テーブルを挟んで向かいにいたはずのラスまで、テーブルを乗り越えての攻撃である。 すぱぁん、と軽快な音をステレオで直に感じ取りつつ、ロビンが悲鳴めいた声をあげる。 「ふぎゃっ! 何しやがる、おまえら!」 「叩けば止まるかと思ってな」 と、リックが肩をすくめる。向かい側でラスも同じように肩をすくめた。 「つい反射で。で? 本当のところは?」 「……はい、すみません。新しく入った女の子が可愛いって噂を聞いたんで、見にきました」 「…てめえは、相変わらずそういう噂には耳ざといな。てめえにはもう、ちゃんといるだろ? 浮気なんかしてんじゃねえよ」 ウォッカのグラスを手に取りながら、ラスがにやにやと笑う。それを聞いていたリックもうなずいた。 「ああ、そうだな。浮気はよくない……って、あんたが言うか?」 「……浮気? なんのことだ? 自慢じゃないが、ここんとこナンパ成功率は一桁を下回ってるぞ?」 本当にわからない、という顔をして、ロビンが2人に聞き返す。 「一桁を下回ってるってのは…ゼロとか言う数字か?」 「そうともいう」 リックのツッコミに、律儀に返すロビン。相変わらずのにやにや笑いを浮かべながら、ラスが身を乗り出す。 「ボケてんじゃねえよ。いるだろ、ほら。同業の女で、足のきれいな……ミュラちゃんが」 「………………………はぁ!? おまえ、本気で言ってる?」 ロビンが聞き返す。が、その隣ではリックも無言でうんうんとうなずいている。そんなリックに、だよなぁと言う視線を送りつつ、ラスが言葉を続ける。 「結構、似合いのカップルじゃねえの? 確かにミュラは、ちょっと乱暴な……じゃねえや、元気のよすぎるところはあるかもしんねえけど。んで、一部の噂じゃバイオレンスカップル略してバカップルなんて言われてるけど。おまえの唯一の特技はその打たれ強さだろ? イケんじゃん」 「いや……だって。2枚もいらないだろ?」 「あ? 何が2枚?」 「洗濯板。俺、もう持ってるから。木製のやつ」 ラスの冷やかしに、ロビンが言い返す。それを聞いていたリックが溜め息をついた。 「洗濯板って……まぁ、確かにスレンダーではあるけど。可哀想じゃねえか、そういう言い方は」 「ええ〜〜〜? だって……ボリュームあるほうが……こう……なぁ?」 微妙に問いかけの形にして、ロビンが2人の顔を交互に見る。 最初に答えた、と言うか、聞き返したのはラスのほうだった。 「へぇ? おまえ、やっぱこう…胸とか尻とか…ボリュームあるほうが好き?」 「うん。で、こう…ウエストがきゅっと締まっててさ……あ、太股とかも……」 その会話を聞きつつ、エールのジョッキを片手にリックは首を傾げた。 「ロビンの好みはそれとしても……ラス、あんたは? 言っちゃ悪いが……カイはあまり……」 「あ、俺? 俺はどっちでもいい。サイズとか形よりも、触り心地重視だから」 さらりと返された返事に、リックが問いを重ねる。 「はぁ? 触り心地ぃ?」 「そう。こう…柔らかいのが…。柔らかければ、多少小さくてもいい」 「や…やわらか……っ…って! なんてコトを言い出すんだ、おまえはぁっ!」 ロビンが心なしか頬を赤らめてそう叫んだ。飲み干したウォッカのお代わりを店員に頼みつつ、ラスが呟く。 「……そうか。触ったことのないおまえには、刺激が強すぎたな。わりいわりい。……リックは? スレンダーなのとグラマーなのとどっちが好みだ?」 「俺は……どっちかっつーと…スレンダーなほうが……。ま、大きさよりも形を重視…って何言わすんだ、こら!」 「え〜? やっぱ大きさじゃないのかぁ? ……いや、聞いてくれよ、2人とも。こないだ覗いた風呂で……」 「………てめ…また覗きに行ってたのか?」 「そのうち、ここの酒場にも張り紙されるぞ。覗き魔退治募集とかな」 「また、って! ラス! 俺がいつもいつも覗いてるように言うな! リックも! 退治されてたまるもんか」 言い返しながらも、決して覗きそのものをしていないと否定はできないあたりがロビンである。 夜の酒場、野郎3人が顔付き合わせていて、こういった方面に話が進むのは、さして珍しいことでもないだろう。しかも、女好きと評される者が2人もいるのだから。 「覗き魔退治の募集かかったら、俺行こうかな。報酬少なくてもいいや、てめえをしょっぴけるならな」 笑いながらのラスの言葉に、リックもうなずく。 「ああ、俺も同感だね。…まったく、覗きなんてせこい真似してんなよな」 「せこいって何だよ! 男の純粋な欲望をおまえらは………。ま、いいや。ともかく、こないだ覗いた風呂に美しい女性がいたんだ。……俺は一目で虜になったね。出来ることならば、この俺の胸に咲く赤いバラを彼女に捧げたい……」 「覗いた風呂ってどこだ。チャ・ザの公衆浴場か?」 リックの問いに、ロビンは首を振った。 「いんや。リバーウッド通りの浴場。……彼女は美しかった。その白い姿態もさることながら、肩に流れ落ちる蜂蜜のような金の髪……」 うっとりと呟き続けるロビンは無視して、ラスがふと口を開く。 「そういや…スレンダー好みって………リュインは?」 「え? ………いや、あいつは……なんて言うか………だから……」 「何だよ、今更照れてんじゃねえよ。おまえだって、今まで幾つか経験くらいあんだろ。そん中でリュインを選んだのはやっぱり、体型も理由のひとつ?」 ここぞとばかりに、ラスが追いつめる。リックは、とっくにぬるくなったエールのジョッキを、ただもてあそんでいた。 「いや…まぁ……その……」 「あ。でも……リュインって着やせするタイプだよな。意外と胸あるし」 ふと思い出したように、さらりと言ったラスに反応したのはリックだけではなかった。バラがどうの、囁く小鳥がどうのと、謎めいた言葉を呟いていたロビンもである。 「なんであんたがそれを知ってるってんだ!」 「そうだぞ、ラス! まさかおまえ、覗いたのかっ!?」 左右からの大音響に、思わず耳を押さえながら、ラスが答える。 「覗いてなんかいねえよ。てめえじゃあるまいし。こないだ…いつだったかな、2〜3日前。酒場から宿に帰る途中で、リュインとウォレスに会ったんだ。ウォレスの馬鹿がまた逃げ出しててよ。リュインが説得してたんだ。……んで、帰るぞって手を引いたところで、ウォレスが過剰反応してさ。怖い怖いって、手を振り払って。そのはずみで、リュインがこけて。……それを、俺が受け止めた、と。だから、覗いてもいねえし、意識的に触ったわけでもない。俺にやましいところは何一つないぜ?」 「…………で、その……リックの前で聞くのも何だが…どうだったんだ?」 ロビンが身を乗り出してくる。……何故かリックまで身を乗り出してきた。 「…………着やせするタイプって……?」 「おいおい……ちょっと待てよ。マジかよ、おまえら……」 半ば呆れたように、ラスは額に手を当てて溜め息をついた。 「ロビンの馬鹿はともかくよ。…なんでおまえが聞いてくるんだ?」 リックにそう聞いてみる。が、リックは答えない。心なしか、頬がわずかに赤くなっている。 『いいから答えろっ!』 再び左右から同時に言われて、ラスが仕方なく肩をすくめる。 「だからさ……さっき言ったろ。意外と胸あるよなって……」 それを聞いた2人が、同時にラスから顔を背ける。 「あ………俺、もうダメ……想像しちゃっ……」 横を向いたロビンが鼻を押さえていた。リックは…と言うと、無言で俯いている。 「……………」 「…おい、リック? 怒ったのか? いや、悪かったとは思うけどさ。事故じゃん。リュインにはちゃんとその場で謝ったし」 「………いや…怒っては………いない」 ラスが顔をのぞき込む。………赤くなっていた。 そこへ。 「な〜にやってんのかな〜? 見たことある顔が揃ってんなあ」 聞いたことのある声。が、2つ。 「あ〜〜っ! リック、こんなところにいたんだ。僕、探しちゃったじゃないか!」 最初のは柔らかそうな茶色の髪をした小柄な少女。次のは、青みがかった黒髪を肩先で揺らしたボーイッシュな少女。つまりは、ミュラとリュインである。 タダイマトリコミチュウである、ロビンとリックに代わって、ラスが挨拶をする。 「よう、2人とも。仕事で来たのか? ……ま、急いでねえんなら座れよ」 奥に詰めて2人に椅子を勧める。勧められた椅子に腰掛けながら、ミュラとリュインが口々に答えた。 「ボクは仕事だよ。こないだ請け負ったやつが終わったんで、その報告に。リュインちゃんは?」 「仕事じゃないの。リックを探しにきただけ。いつもの酒場にいなかったからここかなって。……ねぇ? どうして、そこの2人は顔背けてんの?」 「そうそう、ボクもそれ疑問に思ってた。しかも…ロビン君、上向いて鼻押さえてるし。……鼻血?」 ウォッカを口に運びつつ、その疑問にラスが答えた。至極マジメな顔で。 「とある女性の裸身を想像して、悶えてる途中らしい。…修行が足りねえな」 「うっわ! サイテ〜〜〜っ!」 ミュラがいかにも軽蔑しきった視線をロビンに向ける。鼻をつまみながら、ロビンがそれに答えようとした。 「い、いや、違う! 断じて違うぞっ! そこの混ざりモンの陰謀だっ! 俺はリュインの裸なんか想像してな……」 言葉は途中で途切れる。ごすっという鈍い音と共に。その音の発生源は、リックの肘とロビンの脇腹との、接触点。 が、時すでに遅し。 「………………僕のこと?」 リュインの表情が固まっている。そして、そのままリックへと視線が向けられた。慌ててリックが顔を上げる。まだ赤味の残る顔を。 「いや! その…! そうじゃなくてっ! ロビンが公衆浴場を覗いたって話から……っ! って言うか、ラスが悪い! そうだ、不埒な真似をしたラスが悪いっ!!」 「うっわぁ〜…きったねぇ奴ら…」 しれっとそう言って肩をすくめるラスに、リュインとミュラが詰め寄る。 「ホントなの? 確かにラスさんは女好きで浮気者で手当たり次第って話だけど!」 「それは誤解だ、ミュラ」 「でも、なんでよりによって僕……じゃないや、私の話なのさ?」 リュインの問いに、ラスが話し始めた。 「いや……グラマーとスレンダー、どっちが好みかって話になって、んで……ほら、こないだのウォレスとの一件があったろ? あん時のこと思い出してさ。リュインって着やせするタイプだよなって言ったら……この2人はこの始末。……ああ、あの夜は悪かったな。悪気はなかった」 「え? それだけ? あ。あの夜のことはいいよ。あの時も謝ってくれたし。事故…っていうか、受け止めてくれなかったら怪我してたかもしれないしね♪ ……それより、どうしてこの2人がこんな過剰反応するのかがよくわからない」 リュインの返事に、うんうん、とミュラもうなずいている。 「とにかく……想像力豊かだってことだけは確かだな。想像だけで楽しめるなんて、手軽な奴らだ」 そう言って笑うラスに、ミュラが尋ねる。 「ねえねえ、ロビン君はちなみにどっちが好みなの? で、リック君は?」 「うん、私もそれ、気になるな。ラスの好みはグラマー?」 リュインも同時に尋ねてきた。 「いや、俺はどっちでもいい。んで、ロビンがグラマー好み、リックはスレンダー好み。……らしいぜ? っていうか……女性の前でするような話じゃないとも思うけど…」 「いいじゃん♪ 気にしない気にしない♪」 軽く言い放って、ミュラが手を振る。 「私もあんまり気にしないよ?」 リュインがそう言って、運ばれてきた柑橘水に口をつけた。 そんな2人に、血に染まったハンカチを握りしめたロビンが食ってかかる。 「ど…どうしてだっ! なんで2人とも、俺とリックには最低とか言っておいて、こいつには怒らないんだっ!? ひっじょ〜〜〜〜〜っに不本意だっ!」 「そうだ! 俺も不本意だ! 元はと言えばラスが言いだしたことなんだぞっ!」 「………人徳♪ でも、ひとつ言っておくけど、もとはロビンの話からだぜ?」 そう言って、ラスがにやりと笑う。が、ミュラとリュインの答えは違った。 「だって…ラスさんはもともとこういう人だってわかってたし」 と、ミュラ。 「そうそう。それに、2人とも赤くなってるってことは、はっきりしっかり想像したってことでしょ? ってことは、想像しちゃった人間が悪いんじゃないか」 と、リュイン。 その返事を聞きつつも、ラスが分析をする。さすがに口には出さないが、ミュラとロビン、そしてリュインとリックを見て考える。 (……って言うか、俺が、“お互いにとっての当事者”じゃねえからだろうな。こういう時の蚊帳の外ってのは…気楽でいいや) 「ふ〜〜ん…でも、そうなんだ。ロビン君って。……意外じゃないけどサ」 にやにやと笑いながら、ミュラがロビンの趣味を突っ込む。隣ではリュインが同じようなことをしていた。 「なるほどねぇ……リックの趣味って聞いたことなかったけど。そうだったのか」 (しかし…リックとリュインはともかく。ミュラとロビンって…どうなんだ? ミュラがロビンをオモチャにしてるだけのような…それだけとも言いきれないような……。いや、実際、オモチャにはなってるけど) そんな方向へと、ラスが考えをめぐらせ始めた頃。 「よう、悪い。遅くなった」 そう言いながら、ラスの肩を叩いた男が1人。浅黒い肌の黒髪の男。ラスの待ち合わせ相手である。 「あ、来たか。いや、いいよ。いい暇つぶしがあったから。……で、仕事のほうは?」 「ああ……とりあえず持ち越しだ。事情が変わった。あとで説明するけど……それより、そこの雰囲気、ちょっと異様じゃないか?」 通りすがりのウェイトレスにエールを頼んで、カレンはラスの隣に座った。 「いやぁ…気にするようなもんでもねえさ。珍しくもねえだろ」 そう言って笑うラスに、カレンがぼそりと呟いた。 「…俺………悪いことしたかな」 「は? 誰に?」 「いや……」 と、言いよどむカレン。その目の前では、まだ、ロビンとリックが、ミュラとリュインに『にやにや攻撃』を受けていた。 そして。頭上から降り注ぐ声。 「あらぁ…やっぱりぃ〜。ここにいらしたんですのね。リック様ぁ〜…」 地を這うような声は、わずかに歓喜の色を帯びている。病的なまでに白い肌は、赤らみもしないが。 その声を聞いた瞬間、リックはびくり、と肩を震わせた。 「いやぁ…さっきそこで偶然会ってさ。リック知らないかって言うから、知らないって言ったんだけど。いつもの店にはいないって言って…俺に、どこに行くのかって聞いてきたから、『稲穂の実り亭』って言ったら、ご一緒させてくださいって……。断る理由もないしさ。……まあ、こういう種類の奴らが集まる店だから…居心地は悪いかもと思ったんだけど…」 ぼそぼそと言い募るカレンの台詞を耳にした者は、隣に座る相棒だけだった。が、その相棒すらも、今はそれどころじゃない。眼前に繰り広げられる見せ物に夢中だ。そして、それはロビン、ミュラ、リュインにも同じだった。 盗賊じゃないにも関わらず、この店の居心地の悪さを気にしないその女性は、いつのまにかリックの隣に腰掛けている。そして、リックは動けないでいた。逃げようにも、反対隣にはロビンがいるのだ。 「リック様、ここで出会えたのも、運命でございますわねぇ…」 にまぁ…と、おそらくは笑みであろうものを浮かべ、女性は……つまり、フールールーは、持っていた袋から小さな瓶を取り出した。その様子を視界の隅にとらえて、リックの額に汗が浮かぶ。冷や汗という名の汗が。 「あ……ああ、え…と、ひさし……ぶり、だな?」 できればずっと、会わないでいたほうがよかったのに、という心の声はさすがに口には出さない。が、フールールーは、悲しげに目を伏せた。 「リック様……わたくしになど…会いたくはなかったと申されますの? あまり…嬉しそうではございませんですわねぇ〜…?」 小瓶を握りしめて、フールールーが声を震わせる。ハンカチを持った手をそっと目頭に押し当てた。 「女性を泣かすなんてっ!」 とりあえずロビンが叫ぶ。 「ヒドイよ、リック君!」 ミュラも便乗。 「あ〜あ……泣いちまった」 ラスがぼそりと。 「リック……僕のことは気にしなくていいからね」 リュインがダメ押し。 カレンだけは何も言わなかった。というか、言えなかった。ここにリックがいることを知らなかったとは言え、フールールーを連れてきたのは自分なのだから。 「え……あ…いや、そういうわけじゃ……」 リックが慌てて自己弁護を試みる。その一方では、フールールーへの観察も怠らない。さすが盗賊である。 (嘘泣き…じゃねえのか? いや、学習しろ、自分! 一体、何度コレに引っかかった? そして、その直後に苦悶と悔恨のうめきを今までに何度あげた? いいかげん、学習するんだ。たとえ非難の目を向けられようとも!) 「……リック様ぁ〜〜…?」 恨みがましい声が、地の底から……じゃない、隣から響いてきた。 「だから…お、俺は……」 自己弁護を諦めず、更に反論を試みようとするリックの声は、言葉にはなっていなかった。少なくとも意味はなしていない。 「いや……その……つまり、だな…」 「この……お薬……リック様の急所を攻め……じゃ、ありませんでしたわ。リック様に弱点を克服していただこうと…せっかく作ってまいりましたのに…ご迷惑でしたのね……」 濡れたハンカチを握りしめて、フールールーがリックに視線を注ぐ。 「リック! 飲んでやれよ! 可哀想だろうっ!」 ロビンが、どん、とテーブルを叩いた。その向かい側でミュラもうなずいている。 「うんうん。…そんなにハンカチが濡れるほど……。いいじゃないか、薬くらい」 「おまえのために、ってんだ。ありがたく受け取るのが男ってもんだろ」 ラスの言葉にリュインもうなずいている。 「特製でしょ? リックの弱点克服だもんね♪」 そしてカレンは……無言でエールを飲んでいた。だから知っている。リックが視線を逸らした隙に、フールールーがテーブルに零れていたエールでハンカチを濡らしたことを。…が、それは今ここで言うべきことではないだろう、とカレンは考える。それに…と、周りを見渡して更に考える。 (…それに、この面子だ。気づいてない奴は、いないだろう) そして、盗賊としては相当の腕を持っているにも関わらず、周りからの視線と、タイミングの悪さにより、それを見逃した男が1人。冷や汗を脂汗へと変化させながら、小さな声で呟く。 「わ……わかった……俺が…悪かった………だから…その………」 「まあああぁっっ!! 飲んでくださるんですのねぇっ!」 一変して晴れやかな表情でフールールーは、瓶をリックの手に押しつけた。 「いや…その………」 ──ここは、“稲穂の実り亭”。盗賊ギルドが経営する、盗賊たちの集まる酒場である。盗賊以外の人間は、事情を知らずとも、そこはかとない居心地の悪さを感じる。そのため、店に集まる顔は限られていた。このテーブルすら例外ではない。集まっているのは盗賊たちである。…ただ1人をのぞいて。そして、このテーブルで今、もっとも居心地の悪さを感じている人間は…その“1人”ではなかった。 「嬉しいですわぁ。作った甲斐がありますもの。わたくし、常からご心配申し上げておりましたんですのよ? リック様…お体がすこぅし、お弱いようでございますから……そう思って、強壮剤を作ってまいりましたの」 「いや…だって、あんたさっき…急所を攻めるとか何とか……」 「お聞き違いじゃありませんこと? わたくし、弱点を克服してくださるように、と申し上げただけでございますわ」 にまぁ、と笑み。 「あ……その…俺、そんなに体弱いわけじゃないし……」 逃げ道を探すリックを助ける者は誰もいない。 「あらぁ…お体には自信がおありですの?」 「そりゃまぁ…冒険者だしな……」 「……でしたら、こんな小さな瓶の薬くらい飲み干したところで、何も怖がる必要はないじゃありませんの」 そう。リックを助ける者は誰もいなかった。神でさえ。 笑みとともに、自分の手の中に押しつけられた小瓶を見つめてリックは自分の血の気が引いていく音を聞いた。 (……突き返せばヒドイ人と言われる。だが、飲み干せばヒドイ目に遭う。……どっちだ? たとえば仮にこの瓶が毒じゃなかったとして…その可能性はどのくらいだ? ああ! またなのか!? また俺は自分の命をチップにしてギャンブルをしようとしているのか?) 「さ、どうぞ」 フールールーの声。 「男だろ。どんと行けよ!」 「……後のことはまかせろ」 「なんていうか…すまない」 瓶を握りしめたまま、リックは3つの声を聞いた。無責任にけしかけたロビンの声と、自分は関係ないなというラスの声と、知らぬこととは言え悪いことしたなというカレンの声を。 「がんばれ、リック君♪」 「宿までなら連れて帰ってあげるよ」 自分の手が震えるのを見ながらリックはさらに2つの声を聞いた。とりあえず面白がっているらしいミュラの声と、それ以上のことはできないけどねというリュインの声を。 「……いや。俺は学習したんだ。……仕事や冒険ならともかく……こんなことくらいで命を落とすなんて…俺は……だから…学習して………」 リックがぶつぶつと呟く。そして、手の中の小瓶をテーブルの上に戻した。 「……リック様?」 「これは…返す。俺は飲まない!」 きっぱりと告げて、リックはエールのジョッキを手に取った。冷や汗と脂汗で、随分と水分を消費してしまった。しきりに喉が渇いている。異常とも言える緊張感のせいでもあろう。 そんなリックを見守りつつ、フールールーはあっさりとその小瓶を手に取った。 「まぁ……それでは仕方ありませんわねぇ。せっかく色々と実験結果を…じゃありませんわ。リック様のお体が丈夫になるようにと思っておりましたのに」 少しぬるくなったエールに口をつけるリックを見ながら、カレンは迷っていた。言うべきか言わざるべきか。盗賊として当然のことながら、彼は気づいていた。リックが瓶を握りしめて震えている間に、フールールーが袋から別の瓶を出して、その中身をジョッキに入れたことを。 (言ったほうがいいんだろうか…? っていうか、みんなはどうなんだ。この面子だ。さっきのあからさまな行動に気づいてないヤツなんていないだろう。……リック以外は) 迷って、テーブルについている他の面子の顔を見る。……全員、それを告げる気はなさそうだ。 「…………リック…」 迷いつつ、カレンが口を開く。 が、時既に遅し。 カレンが迷っている間に、リックは残っていたエールを飲み干してしまった。そして、飲み干してからあらためてリックが顔をあげる。 「え? 何か言ったか?」 フールールーの申し出を断れたという達成感からか、リックは微笑みすら浮かべている。先ほどまで、1人で感じていた居心地の悪さはどこへやら。 「……いや。やっぱり何でもない」 カレンは、言えなかった。と言うよりも、言っても言わなくても事態は変わらないと思ったからだ。 だからとりあえず、別のことを口にした。 「なんていうか……すまない」 「何のことだ?」 問い返すリックに、それ以上説明する気力はカレンにはなかった。 表も裏もひっくるめて、情報を管理するための酒場。ギルドが経営する店のひとつ。だが。情報を売りにきたはずの盗賊の1人は、酒場の客が減り始める頃になっても、トイレから出ることができずにいた。 すこし前までは、それでも客はいたのだ。盗賊ばかりのこの酒場にあって、1人だけ異質な女。ひどく嬉しそうに、震える指で羊皮紙に何かを書き付けている女が。実験結果の記録、などと呟きながら、にまぁと“微笑み”を浮かべ、歓喜にうち震えながらペンを走らせていた彼女も、先ほど店を出ていった。次回へ向けての研鑽を積むために。 彼女、フールールーが浮かべていた笑みを、トイレに籠もっている男は知らない。 |
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