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“稲穂の実り亭”──盗賊ギルド直営の酒場──の片隅で、男たちが酒を飲んでいた。テーブルで、エールのジョッキを口に運ぶ2人の男。一般人と見分けのつかない軽装ではあるが、目つきの鋭さは盗賊のそれだ。 「……ったくよぉ、最近目障りな奴が多くねぇかぁ?」 「ああ? そうかぁ? ま、いろいろ流れてきてる奴ぁ多いけどよ。んでも、駆け出しならオレらの仕事の邪魔になるってこともねえだろ」 1人が文句を言い、もう1人がそれを笑って受け流す。だが、文句を言った男は首を振って相手の言葉を訂正した。 「違うっての。駆け出しが邪魔くせぇとかそういうんじゃねえよ。……っつーか、駆け出しってんならまだ楽だぜ。腕もそこそことなりゃ目障り以外の何モンでもねえだろ?」 「……誰のこと言ってんだよ。はっきり言えよ、らしくねえな」 「はっきり? ああ、言ってやるさ。混ざりもんだよ。目障りっつーか…なんてぇか…」 「混ざりもん? ああ、最近は結構…何人か見かけるよな。ま、あいつらぁ身軽なのが多いし、手先も器用だ。見かけがどうにも悪目立ちするってことさえなきゃ、盗賊には向いてるだろ。しょうがねえんじゃねえの?」 エールお代わり、と通りすがりのウェイトレスに頼みながら、男が笑う。もう1人の男は納得できないように、半分ほどエールの残ったジョッキをもてあそんでいた。 「そりゃそうさ。エルフの血って奴ぁいろいろと便利でいいよな。はしっこいし、指先ぁ器用だしよ。オレたち人間様がどうあがいたってかないやしねえ」 ち、と舌打ちをして残ったエールを男があおる。 「そう……かなぁ? そうでもねえと思うけどな。……ま、オレぁ別にどうでもいいや」 そして、そのテーブルから少し離れたカウンター席で立ち上がった男が1人。中途半端に伸びた金髪を、襟足のあたりでひとつにまとめている男。小柄な男、と言うのは、この酒場では珍しくない。少しばかり華奢ではあるが、それも目を引くほどでもない。ただ、半妖精なだけである。 男たちが座っているテーブルの脇を通って、その男は店を出ていった。とりあえず、エールの追加を頼む男たちは、その存在に気づいていなかった。 「……ざけてんじゃねえぞ、クソったれどもが」 古代王国への扉亭へと戻ってきて、その半妖精が呟いた。それを耳にしたのか、カウンター席から、見知った顔が声をかけてくる。 「よう、ラス、どした? 不機嫌なツラして」 「……ああ、シタールか。こっちの店に来てるのは珍しいな」 答えて、ラスがシタールの横に腰をおろした。酒を注文しつつ、隣の黒髪の男に向けて苦笑する。 「いや…さっきまでギルドの店にいたんだけどさ。そこで妙なこと耳にしてね」 「妙なこと? なんだ、らしくねえな! んなふさぎこんだツラぁ似合わねえだろ。いつものおまえなら、ぐだぐだ悩むより即行動!ってんじゃねえのかよ」 豪快に笑いながら、ラスの肩を叩く。 「そうか。……なるほど、そうだな」 納得したようにうなずきながら、ラスは酒を口元へと運んだ。 「そうそう! しみったれたツラしてるんじゃねえよ」 「行動、か。……そうだな、行動だよな。サンキュ、シタール」 にや、と笑ったラスにシタールが大きくうなずく。行動、と言ったその意味が、自分とラスとでは微妙に食い違っていることには気づかずに。 翌日。常闇通りのとある路地裏から、ラスが出てきた。肩で息をして、壁に手をつきつつ。 「……ちっ。あいつら……」 顔をしかめて、血の混じった唾を吐き捨てる。そこへ、唐突に声がかけられた。 「ラストー……いや、ラスではないか。何をやっているのだ、このような場所で」 自分に声をかけてきた人物を確認して、ラスはふと視線を逸らした。 「……別に。何でもねえよ。あんたこそこんなとこで何やってんだ、ラシェジ? ここらはあまり治安のいい通りじゃねえぜ? 女エルフがふらふら出歩くような場所じゃねえだろ」 そう言われて、ラシェジと呼ばれたエルフが小さく笑った。もともと小柄ではあるエルフ族だが、彼女はそのなかでもかなり幼い外見と言える。実年齢は、これも見た目通りではないラスの5倍ほどはあるはずだが、幼さを感じさせる高い声と、笑うことによってそれが強調される子供じみた外見は、年齢を想像させない。口調と視線が老成していることを思えば、見た目とのギャップで、年齢を想像することはもっと難しくなるだろう。 「さて、な。治安が良いか悪いかは知らぬ。街は森とは違うでな。せっかく街にいるのだから、森で野宿するだけでなく、街の宿暮らしというものも体験してみようと思うてな、すぐそこの宿に部屋を借りたばかりだ。……して、おぬしは? そのありさまを見ると、喧嘩をして、あげくにこっぴどくやられたようだが?」 壁に背中をもたせかけて、脇腹を押さえつつ苦しげな息をしているラスを見て、ラシェジが言う。が、それを聞いて、心外だと言うようにラスが顔を上げた。 「馬鹿言うな。……やられたことは確かだが、やられっぱなしじゃねえよ」 「……ほう? 相応の報復はしたということか」 「相応…かどうかは知らねえな。とりあえず、殺してはいない。ただ、意識はなかったから、どの程度やったかをあいつらの口から聞くのは難しいだけだ。……っち。脇腹に響きやがる…」 「どれ。見せてみい」 苦笑しながらラシェジが近づいてくる。 「……いいよ、たいした傷じゃない。……いつもみたいに、ちんぴら相手なら問題にもならねえけど……今日のは、れっきとした盗賊が2人だったし、ちょうどこないだ行った遺跡で怪我したところを……って、おい! 触るなって……!」 「ふむ……折れてはいないようだな。それでも手当は必要だろう。我の部屋へ来い。借りたばかりの部屋だがな。荷物のなかに薬くらいは入っている。…ゆくぞ、ついてこい」 常闇通りの中程に位置する宿の一室で、ラスはラシェジの指示通りに寝台に腰かけていた。借りたばかりだというその宿の、殺風景な部屋を眺め回しつつぼそりと呟く。 「……なんでか…逆らえねえよな、あんたの言うことには」 荷物の中から薬を探しながら、ラシェジがかすかに笑った。 「逆らう必要もなかろうに。まぁ…昔のおぬしは、ようたてついてくれたがな。そういえば、タラントの街でもおぬしはよう喧嘩をしていた。あの頃はやられるほうが多かったが…やはり成長したと見える。……さ、服を脱げ。………ほう、体のほうも昔よりは成長したようだな。多少は筋肉もついたようじゃ」 「……どこ見てんだよ」 「いや…二の腕とか腹筋とか…」 「そりゃ昔とは違うだろ。今ならあんたをベッドに押し倒すくらいできるぜ?」 「200越えてるようなババァに手など出さんのではなかったか?」 悪戯っぽく微笑むエルフを見て、ラスが苦笑する。昔なじみのこの女エルフは、こんな笑い方をするとますます子供っぽく見えるよな、と思いながら。 「ち、覚えてやがるのか。……まぁな。年はともかく、遠いとはいえ親戚に手ぇ出そうなんて思わねえし…エルフはまだあまり得意じゃない。ところでさ、薬って……それ、何の薬?」 「これか? これは…アリエスの根とオオサルシダの葉をすりつぶして……そのような顔をせんでもよかろう。心配するな、塗り薬だ。……飲む薬ではない。望むなら、飲む薬もあるぞ? 痛み止めだが」 「……知ってて聞くなよ」 「そうだな。……そこは昔と変わらんのだな。やはり今でも薬は苦手か?」 「ああ。…薬なんてのは、飲んだら吐いちまうしな」 「……悪気はなかったのだろう、とは言わないでおこう。おまえにしてみれば、それは言い訳にもならぬことだろうからな。ただ、我らの部族が半妖精を育てることは初めてだった。それは事実だ」 用意した薬を手にとって、手当をしながらラシェジが呟くようにそう言った。 「……知ってるよ、ンなことは。それに、もし悪気があったとしても…その気持ちもわかるんだ。俺が異端者だったのは事実だし。大勢の、『同じ者』のなかに1人だけ異端者がいれば、自然と…」 「カノーティス、だったか。あそこにいた薬草師は。彼が処方した薬の内容はあとで聞いた。……処方自体は間違っていなかった」 「俺も聞いたよ。薬草のことなんてのは、俺は詳しくねえけど。親父が説明してくれたからだいたいのことは知ってる。配合の仕方そのものは間違ってなかった。ただ、量が違っただけで。半妖精と、純粋なエルフとで、同じ薬を使っていいかどうかわからなかったから、とカノーティスは言ってたらしいけどな」 「そうじゃな。……その考え自体も間違ってない。森妖精にはきつい薬でも、人間の血が入っていることでそれが効果を現すこともある。また逆もしかりだ。森妖精に効く薬が、人間には効果を現さないこともある。おまえにとって、人間の血がどれほどの影響を与えているかはわからなかったのだからな。……さ、手当は終わりだ。服を着ろ」 言われた通りに、先ほど脱ぎすてた服にラスは袖を通した。ところどころ、血がついている。このいくつかは返り血だろうと見当をつけつつ、小さく溜息をつく。 「……なんでかは知らねえけどさ、カノーティスのこともひっくるめて…俺はあの森のエルフを恨む気にはなれねえんだ。……ま、薬が合わなくて死にかけたってのも、体質の問題もあったんだろうしな。カノーティスだってわざとじゃねえだろ。……ガキの頃の話だ。ただ、体が覚えてて、薬には拒否反応みたいなもんがあるだけで」 「ガキ、か。……そうだな。我と会った頃も、年を聞けばかなりの子供だと思うてはおったが、実際に見るとそうでもないとわかって少し不思議だった。出会った頃は…30にはなっておらなんだのだろう?」 「ああ、俺があそこを本格的に出る少し前だから…25、6ってとこか」 「そして、今は40を越えたと言っておったな。どうやら、あれからいろいろと成長したらしい。……人間の血が混ざっておるのは、成長が早いというのは本当であったか」 微笑むラシェジを、ふとラスが見つめた。 「……あんたも………いや…エルフがそれを言うのは…あり得ねえな…」 「何をだ?」 「混ざりものがうらやましい、とあんたも言うのかな、と思っただけだ」 「そのようなことは……む? 『も』と言うならば、誰ぞそのようなことを口にしたのか?」 「ああ。さっきの路地裏で、寝てた奴ら。混ざりものは、人間よりも器用ですばしこくて、エルフよりも体力があって……それが羨ましいとかほざきやがった」 吐き捨てるようなその言葉に、ラシェジが、ふむ、と小さく息をつく。 「……事実でもあり、思い違いでもあり、と言ったところか」 「俺は………いや……なんて言うか…」 「……おぬしが言わんとするところはわかる。おぬしのような者たちは、確かに器用ですばしこい者が多い。そして、その大半は我らエルフよりも腕力もあるし体力もある。……ただ、おぬしは、我が鍛える前は我よりもひ弱であったがな」 20年近く前の話だ。ラシェジと共にタラントで過ごしたのは、ほんの2〜3年だった。その時に、体力強化と称してしごかれたことを思い出させられて、ラスが苦笑する。 「よけいなことまで思い出さなくてもいい。…まぁ、エルフよりひ弱な奴は確かに多くねえけどさ。人間より鈍くせぇ奴だっているんだ。俺の…今、一緒の部屋にいる女がさ。半妖精なんだけど。んで、俺の相棒ってのが、人間で…カレンって奴なんだけど。その半妖精の女は、カレンより鈍くさいぜ? 俺は……確かに、動きの早さには自信があるさ。盗賊として技を覚えて…そして、実戦で鍛えてきた。けど……それでも、俺より早く動ける人間はいるんだ」 「確かにな。…はしっこさと器用さだけで生き延びられるものなら、森妖精や草原妖精ばかりの世の中になろう。だが事実はそうではない。人間は……一番寿命が短くて、だからこそ一番可能性のある種族だ。我は森を出て長い。……だからこそそう思う。ただ、おぬしはその中でも生き残ってきた。それは誇ってよいのではないか?」 「別に……別にさ、俺は自分を卑下してるわけじゃねえんだ。それなりに自信はある。そうでもなきゃ生きてなんかいない。………動きの早さや指先の器用さなんてのは、素質そのものは草原妖精や森妖精には負けるだろうけど、そんなものは経験でいくらでもカバーできる。剣を持つ力や基礎体力は、人間にはかなわないけど……それでもいいと思ってたんだ。確かに…生き残ってきたことは事実だ。半妖精なんてのは、生まれ落ちたその瞬間から生きるか死ぬかの二者択一だ。……みんなそうだと言われちゃおしまいだけどよ。捨てられたり、その場で殺されるガキだって多いんだよ、半妖精は。育ててもらえるか、受け入れてもらえるか…そこで運良く生き延びても、まだその先は終わらない。…終わらねえんだよ。でも、それも全部ひっくるめて…俺は生き残ってきた。ただ、それを羨ましいなんて言われちゃ……多少は、くるものがあってもしょうがねえよなぁ」 困ったように笑って、ラスは軽く肩をすくめた。 「それを言うならば…我らエルフとて、人間の足に追いつけないこともある。人間は一番可能性を秘めている、と言うたはそのせいじゃ。おぬしらのような者たちは…エルフの血によって何かを手に入れて…それと同時に何かを失っておる。人間の血によってもそれは同じこと。血の混ざっていない者が完全を目指すのだとしたら、おぬしらはどうあっても完全にはなれぬのだろうよ」 「……それでもいい、と思ってたんだ。たまたま、俺があいつらより早く動けるからといって、そのことで、半妖精全体を羨ましいと言われちゃ、あの報復は相応のことだったとしか思えない」 路地裏の2人の男は、そろそろ意識を取り戻しただろうかと思いつつ、ラスが呟く。拗ねた子供のようなその顔と口調に、思わずラシェジが微笑む。 「どうせなら剣を持ちたかったと、おぬしなら言うのかもしれんが……精霊使いとしてのおぬしの才には我もかなわぬ。それは種族の才ではない。おぬしの…ラストールドの才だ」 「ラスと呼んでくれ、と……言ったはずだ」 「……名は本質を表す。おぬしに、ラストールドと言う名前が付けられていることは事実だ。どう呼ぼうと、おぬしの本質は変わらぬ。おぬしの父親が……サーヴァルティレルがつけた名前であろう? 確か、意味は……」 「………うるさい。俺だって意味くらい知ってる」 ラシェジの顔は見ずにそう言い放つと、ラスは腰掛けていた寝台から立ち上がった。 「帰るのか? 歩けぬ傷ではなかろうが…泊まっていってもよいぞ。…まぁ……昔を懐かしむ年ではないか」 苦笑いしつつ呟いたラシェジの言葉に、歩き出していたラスがふと立ち止まる。 「……そうだな。あと50年もしたら考えてみるさ。50年後なら、森に帰って昔を懐かしむのも悪くねえ。……なぁ? あの時の俺の力じゃ、親父は……サーヴは助けられなかった。エルルークは、どこかへ行ってしまった親父の心を呼び戻してみせると…そう言ったけど、あれから15年以上経った今でも、多分親父はあの時のままだ。お袋が死んだことに耐えられずに心を失ったあの時の、な。あの時の俺には何も出来なかった。……今なら? 精霊使いとして、それなりに経験も積んだし、腕にはそこそこ自信がある。今の俺なら…助けられると思うか?」 ラスが立ち上がったあとの寝台に、あらためて腰をおろしながら、ラシェジは立ったままのラスを見上げた。薄く微笑みさえ浮かべている従兄弟を。 「さて、な。エントへすらも声を届かせるおぬしならあるいは、とも思うが。エルルークとてその力はある。エルルークに出来ぬことが、おぬしに出来るとは思わぬな」 「そうだよな。俺もそう思う。俺はまだエルルークには勝てない。………だから50年後だ。50年後、俺がまだ生き残っていられたら……50年後でもまだ間に合うのなら。それなら…あの森に帰るのも悪くない」 「なるほどな。……50年か。森にいればそれはさほどの時間ではないが、街に居ての50年は長かろう。とくにエルフではない者にとってはな」 「俺はエルフじゃねえからな」 「なに、たいした問題ではないだろうよ。待つ者にとっての時間は短いが、待たせる者にとっての時間が多少長いだけの話。それもまた、どちらも同じ時間であるのだがな」 部屋の扉を開けながら、ラスが振り返る。寝台に座ったままの、年の離れた従姉妹を見る。従姉妹、とは言え、血はかなり遠い。ラスも、そしてラシェジも、正確にはその家系をたどれないだろう。だが、血がつながっていることは確かだ。はとことか、またいとことかに当たるのかもしれない。もしかすると、大叔母なのかもしれない。1000年に近い寿命を持つエルフ族の『親戚』は、その年齢のせいで関係が複雑になりがちだ。だから部族の中では、血の遠い親戚が従兄弟、そして血の近い親戚が兄弟、とそのように呼ぶのが慣わしだった。もともと子供の少ないエルフのこと。幼い子供たちは、集落全体で大切に育てられる。年の近い者たちは、それだけで兄弟となり得た。 「50年が長いかどうかなんてわからねえよ。知ってのとおり、エルフの森ん中と、人間の街ん中と…その両方で俺は生きてきた。だから時間の感覚なんてのは、今でもまだアンバランスだ。……ただ、50年が、永遠じゃないならそれはいつか終わる。そうだろ?」 「ああ……そうだな。長かろうと、短かろうと、終わることに変わりはない」 「それならいいんだ。終わるんなら…終わらねえよりはマシだ。……じゃあな。今日は世話かけて悪かった。……サンキュ」 言い置いて、ラスが部屋を出ていく。扉が閉まりきる寸前、ふと思い出したようにその扉を押さえて部屋の中に向けて声をかけた。 「……あのころ、あんたが作ってくれたメシは嫌いじゃなかった。まだ街にいるなら…そのうちまた作ってくれよ。そら豆のスープをさ」 「ああ……承知した」 ラシェジが微笑みを返す。それを受け止めたもう一つの微笑みと共に、扉が閉じられた。 夕日が街を染める時刻。時節柄、いつもならまだ明るさは残っているはずだが、今日は少し天気が悪いらしい。夕暮れというよりも、夕闇という言葉が似合う街並みが窓の外に広がっている。薄闇の中を、少しだけ不自然な姿勢で小走りに駆けていく後ろ姿を、ラシェジは部屋の窓から見下ろしていた。 「……子供でもあり、大人でもあり、じゃな。サーヴァルティレル、おぬしの息子はそれなりに成長しておるようじゃ。おぬしは…何を願って、あやつにラストールドと名付けた? 名には意味がある。むやみとそれを変えたり略したりするのは、それを損なうやもしれぬ。だからこそ、我らは名を略すことはせぬ。……普通であればな。もとより、我らには時間があるのだから…名を呼ぶ時間を惜しむ者などいまい。ラストールドとて、それは身にしみているはず。………ラスと呼べ、か。名を…受け入れてはいないとでも言うのか? 本質は何ら変わらぬと言うに。……のう? “柔らかき垣根を持つ者”よ」 聞く者はいない。だから答える者はない。それを承知していながら、ラシェジは虚空へと向かって語り続けた。 「さて…我はどうであるのか。同胞パレンティアとくだらぬ諍いをしていたあやつを見て、子供だと笑った我は…。ラストールド…いや、ラス。おぬしはタラントを出た。エルフと人間の夫婦、そしてそれに連れられていた子供を見て足を止めたおぬしは…あの街を出た。のう? 気づいておったか? ……あのとき、あの親子連れを見て我は一瞬足を速めた。おぬしが立ち止まらねばよいと…そう願った。………人間ならば、神にでも祈っていたじゃろうか?」 薄く浮かべた微笑みは、玲瓏ともいえる彼女の白い美貌と相まって、ひどく感情のないものに見えた。だが、一瞬後には、いつもと同じ子供のような笑みを浮かべる。 「独り言とはな。精霊語で語れば、まだしも精霊が耳にするが……まさか精霊にこのような言葉を聞かせるわけにもいかぬ。流れゆく雲がどこに往くのか…50年後、その一端なりと見られるならばそれも良い。どのみち、我も雲のひとつに過ぎぬ」 夕闇が、深くなった。 |
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