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これはさやかな言い伝え
1人の女が願いをかけた 夜空に光る白い月に
ああ月よ、銀色の月 どうか愛しいあの人と添い遂げられますように、と
きらめく月は女に告げた
女よ、褐色の肌の乙女 おまえは彼と結ばれる おまえの愛しいあの男
けれどもひとつ ひとつだけ 私の願いを聞いておくれ
女は両手をあげてうなずいた ええ、お月様、何なりと
月は女に微笑んだ おまえと彼との最初の子供 それを私に譲っておくれ
月よ月 銀色の月 一体どうするつもりなの? 月の子供はどうなるの?
時は過ぎ 女は男の子を産んだ
けれどもその子は 父に似ず 母に似ず
白き肌 金色の髪 そうして長い長い耳
男はナイフを握りしめ 怯える女に詰め寄った これは一体誰の子だ?
おまえは俺を裏切った 髪も肌も瞳さえ この子は俺に似ていない
ああ、なんたることか この長い耳 まるで三日月のようではないか
男のナイフは女の命を断ち切った
裏切ったことなど一度もないと 嘆きながら女は息絶えた
男は子供を抱え上げ 小さな舟に横たえて そのまま川へと置き去りに
かくして 夜 月が満ちるのは子供が幸せだから
そうして子供が泣くときは 小舟を恨みながら月は欠けるという
だけどもこれは言い伝え さやかなさやかな言い伝え
さて 真偽のほどはいかなるものか?
「……ずいぶんと変わった歌だね。それは誰かから習った歌かい? それともあんたが自分で作ったのかい?」
しなびた顔の酒場の店主がそう問いかけた。白葡萄酒の入ったグラスを手元に引き寄せながら、小柄なエルフの女性が応える。
「いや。……作ったと言えば作った。習ったと言えば習った」
「どういうことだい? もったいぶった言い方すんじゃないよ」
「それはすまない。そうだな…この歌は、昔…半妖精の友人がいてね。彼女の生い立ちだよ。歌にもあるように、私にも彼女にも、真偽のほどはわからない。彼女が育ての親から聞いた自分の生い立ちを、そのまま私に話してくれただけだ。それを私は歌にした。彼女が語ったことが…つまり、私が歌ったことが真実であるならば、彼女は取り替え子と呼ばれるものだったのだろう。だが、取り替え子はそうそう産まれるものではない。多分……母が、どこぞの妖精か半妖精と閨を共にしたのであろう。裏切ってはいないとの言葉が本当ならば、力ずくであったやもしれん。彼女自身もそう言っていたよ」
そう言ってエルフは微笑んだ。店の薄暗い灯りに、その淡い金髪がわずかにきらめく。瞳は、森の翠を溶かしたようなエメラルド色。小柄なエルフ族のなかでも、彼女はより小柄な部類に入るだろう。背丈だけを見るならば、子供とそう変わりはない。
うらぶれた、場末一歩手前とも言える小さな酒場。夜も更ける頃になって、客の大部分はひけてしまった。景気づけにでもと思ったか、それとも自身の単なる暇つぶしか、店主が、カウンターの隅にいたこのエルフに声を掛けたのだ。何か変わった歌があれば歌ってくれ、と。白葡萄酒一杯でどうだろう、と。それにうなずいて歌ったのが、先刻の歌である。
すでに50の坂は越したと思われる店主が、まるで子供のように首を傾げる。
「まあなぁ…取り替え子なんざ、確かにそうそういるもんじゃねえよな。オレも半妖精は何人か知ってるが、取り替え子は知らねえな。けどよ、半妖精っつーのは、自分の生い立ちとかそういうの、あまり話したがらない奴が多いだろ。歌なんぞにしちまって、その友人とやらは怒んねえのかい?」
「ああ、それは心配ない。すでに死んでいるからな」
「……ほ、そりゃまた…」
店主が、何と言おうとしたのかはわからない。悪いことを聞いたとでも言うつもりか、それとも、それほどに古い話だったのかとでも言うつもりだったか。
「最近の話ではないよ。とりあえず、人間にとってはな。…彼女と共に過ごしたのはもう30年ほど前のことだ。その女性が死んでからも、ほぼ同じだけの時は経っている。私がこの歌を歌うのは…彼女のことを忘れないためだ。歌に仕立てて、ほんの時折でも口ずさめば、私は彼女を思い出す。冒険者らしく…あまり幸せな最期ではなかったあの半妖精も、私がその存在を覚えていてやれば、少しでも手向けになるのでは、と思ってね」
そう言いながら、エルフの女性はわずかに口元を歪めた。
(…………よくも言うものだ。詩人の口など宛てにはならぬな。手向け…そうであればいいと思ったこともある。だが、歌うことで思い出すのは、苦い思いだ。多分…この歌は……そして、この歌を歌うことは…私の償いなのかもしれぬ。彼女が生きている間に贖えなかったことを、私は、歌うことで贖っていると…そう思いたがっている)
くだらない。…そう思いながら喉に流し込んだ白葡萄酒は苦かった。
さて、そろそろ安宿へ戻ろうかと…そう考えながら彼女は店を出た。今宵は、晴れている。透き通るような夜空に、星がいくつか瞬いた。季節は夏。昼間の熱をぬぐい去るかのように吹く夜風は幾ばくかの涼しさをはらんでいる。
近道をしようと、路地裏へと足を踏み入れた瞬間、少し先に何かの気配を感じた。路地裏を照らす灯りなどはもちろんない。晴れた夜空から射し込む月明かりでさえ、そこへほとんど届いてはいなかった。
(……? 気配…? 何か生き物が……いや、人間か?)
危険があるかもしれないと、大通りへと戻ろうとしたその時。
「ああ……やっと…来てくれたんだねぇ…」
ひどくかすれた声が、彼女の長い耳に飛び込んできた。季節に似合わず凍えるような息づかい、溜め息にも似た囁き。
「すまないが…人違いだ。私は通りがかっただけだからな」
そう言い置いて、今度こそ通りへと戻ろうとした。だが、かすれた声がその後を追う。
「あたしゃぁ…待ってたんだ…よぉ…。ああ……ほら…やっぱりだ…妖精さんだろ? 長かったよ…そうさ…ずっと……ずっと待ってた。あんたが……ここに来れば…あたしは死ねるんだ…」
古びた麻布のような声に滲むのは、微妙な満足感、熱に浮かされたような懐古の情、昏く冷たい情熱を湛えた憧憬。
(……気が違っている…のか?)
そうは思いつつも、エルフは足をとめた。いざとなれば精霊に助力を願うことくらいは出来る。そうまでしなくとも、見たところそこにいる人間はひどく弱っているようだ。もしものことがあったとしても、逃げて逃げ切れぬものでもあるまい、と。
その路地と通りが交わるあたりで、エルフは振り向いた。かすかに届く月光が、エルフの、銀に近い淡い金髪を輝かせた。
髪を滑りおちる光の粒が届いたわけでもないだろう。だが、路地裏にいたその人間が身じろぎをする。かぶっていたぼろ布を弱った腕が払いのける。
「……ほぉら…あたしの…思ってたとおりじゃないか。……ロエだろ?」
「………誰だ? 確かに、私をその名で呼ぶ者は多い」
エルフが眉を顰めたタイミングに合わせるかのように、路地裏の人物はエルフに近付いてきた。その余力もないのか、立ち上がりすらしないが、顔はエルフへと向けたまま、膝と腕でにじり寄ってくる。
「チャ・ザさんのお導きさね…。ああ…でも不思議だ。なんだってあんたぁ…そんなに変わらないんだい? あたしゃぁ…年ぃくっちまった。こんな夜にこんな夢ぇ見られるたぁ……チャ・ザさんも味な真似してくれるじゃないか。そうは思わないかい、ロエ?」
微妙に歪んだ口元は、おそらくは笑みのつもりなのだろう。
だが、笑みとも呼べぬその表情で、エルフは何かを思いだした。
「おまえ……イティサか?」
「そんな名前もあったねぇ……誰も…もう、あたしの名前なんざ…呼びやしないけどね」
「イティサ…そうか。ここはオランだったな。……ああ、おまえの言う通りだ。ロエだよ。正しくはロエティシアだが。……おまえがロエと呼ぶならそれでよい」
エルフ──ロエティシアがかすかに笑った。イティサに1歩近付く。
「オランに…戻ってきてたんだねぇ…何年経ったんだろ。10年? 20年? まるで、つい先月別れたばかりのような気もするけどね…。ああ…本当なんだねぇ。夢じゃないんだ。あんたは目の前にいるんだねぇ…」
がさついた声にロエティシアが微笑む。
「そうだな。おそらく…30年かそこらだとは思うが。確かにおまえの言う通り、つい先月のことのような気もする。……あれからおまえはどうしてた? あの時の仲間たちは……」
「野郎どもはさ…パダに遺跡掘りに行くって…あいつらぁ戦士と魔術師だ。遺跡の誘惑にゃぁ弱いさ。……帰ってきたとは聞いてないけど」
「戦士と魔術師だけに限らぬだろう。冒険者と名乗る者ならば、その誘惑には弱い。おまえとて心ひかれたのではないのか?」
「ははっ…あたしが指先で稼いでたのは昔のことだけどねぇ……その頃は、別の儲け話があったんでね…ギルドもごたついてたし……。それに……ああ、そうだ…あんた、知ってるかい? サシェが…遺跡で死んだって」
イティサが出した名前に、ロエティシアは溜め息をついた。
「サシェ…か。ああ、彼女が死んだことは知っている。おまえたちが戻る前に私はオランを出たが…エレミアにいた頃、人伝に聞いた。たまたま、おまえたちを見知っている人間と出会ったのでな」
「そうかい。…知ってたかい。あたしとサシェと、あと何人かの野郎どもと…遺跡に行って…そして、そん中でサシェは死んだよ。あたしの目の前で。…そうさ、あの綺麗で生意気な半妖精。あたしよっか年上のはずなのに、まるでガキみたいで…猫みたいな女だったねぇ…」
イティサが咳き込む。ぼろ布をまとった骨のような体を二つに折って、激しく咳き込んだ。
「……イティサ。場所を変えて話そう。私がとっている宿がここから遠くないところに…」
言いかけたロエティシアをイティサが制する。
「やめときな。…あたしゃ、物乞いだ。まっとうな宿になんぞ出入りできるもんじゃない」
「宿を追い出されたら、別の宿にゆけばよい。スラムの近くにでも行けば、うるさいことは言わない宿はいくらでもある」
「それでも、だよ。あたしのねぐらはここさ。……薄暗い路地裏で、木箱の切れっ端とぼろ布で立派な家を造ってんだ。なかなかの居心地だよ。陽が射さない場所でも……今みたいな夜なら関係ない。それに月の光なら入ってくるしね。………ロエ、あんたの髪の毛は月みたいだ。30年前と少しも変わらない。サシェがあんたの髪をよく編んでいたよねぇ…」
イティサが眼を細めた。自分の宿へと連れていくことは諦めて、ロエティシアはイティサの隣に腰を下ろした。布で包んだリュートを傍らに置き、白いローブが汚れるのも構わず、はがれかけた石畳の上に、直に座る。
「イティサ。おまえとて変わらぬ。30年経っても。身なりも変わって年をとって…なのに、その目の光は昔と同じだ。冒険者としての誇りを持っていたあの頃とな」
「あんたも変わらないねぇ…。こんな薄汚いところに、その綺麗な服であっさり座っちまうんだから」
笑みを含んだ声を隣に聞いて、ロエティシアが息をつく。
「おまえが、ここが良いと言うならばここで話そう。……おまえたちが遺跡に出かけたすぐ後に、私はオランを発った。精霊使いが必要だから、と…仕事に誘われて。すぐに戻ってくるつもりではあったが……」
「戻る前に、サシェのことを聞いちまった…のかい?」
「……ああ、そうだ。私は……彼女に謝らなければいけなかった。謝るつもりだった。お互いの仕事を終えて、いつもの店で顔を合わせたら…と、そう思っていた。だが、それは果たされぬままだ。謝る相手がいないのであれば、何の意味もない。……だから私は戻らなかった」
月の光が、石畳の縁に届く。わずかに反射したものの、陽の光のような眩しさはない。熱も持たず、ただ白々と射し込むだけの月光。夜の色が溶け出したかのように、わずかに青みを帯びた白。よそよそしさにも似た、冷たく淡い光。
「……あんたに伝言があるよ。……30年、頼まれっぱなしの伝言がさ」
「………サシェから…のか?」
問いかける自分の声が、歌う時にはまるで月光のようだと評されることがあるのを思い出す。月光 ── それは熱を持たない。ロエティシアは、思わず口を閉じた。だが、そのことにはさして拘泥もせずにイティサが応える。
「ああ、そうだよ。……聞くかい?」
「…………」
「聞きたくないなら…あたしゃ、墓場まで持ってくだけさ」
「……いや、聞こう。聞かせてくれ」
「『あんたに会えてよかった。こないだのことは気にしていない。あんたのことが好きだから』……サシェが言ってた通りに伝えたよ」
囁くようなイティサの声を聞いて、ロエティシアは視線を落とした。自分の足元にある、はがれかけた石畳の縁を見るともなしに見ながら、わずかに微笑する。
「………そうか。あいつは…そう言っていたのか」
「あいつが言ってた、『こないだのこと』が何なのか、あたしゃ知らない。……けど、とにかくそう言ってたんだ」
「大丈夫だ。私にはわかる。……私が謝るべきことと同じことだから。まったく…ずるい奴だ。自分は伝言を残して……私からは何も言えぬではないか」
「そうでもないよ。……あたしがいるじゃないか。あいつに言いたいことがあるなら…聞いておくよ。どうせ…あたしゃ近いうちにチャ・ザさんに召されちまうだろうしさ」
「ならば…サシェに伝えてくれ。すまなかった、と。そして……出来るならば、生きていて欲しかった、と…」
「………伝えるよ」
「それともう1つ……私はおまえを忘れていない、と。……これからも、私はおまえを忘れることはない…そう伝えてくれ」
小さな部屋で、外套を脱ぎ、リュートを傍らにそっと置く。寝台に腰掛けてロエティシアはかすかに溜め息をついた。
(……これも何かの縁なのか…酒場であの歌を歌ったあとにイティサに会うとはな。………ああ…こんな夜はおまえのことを思い出す。おまえは…私を恨んでいるだろうか。20年…30年…私はおまえを忘れていない。おまえは…死ぬときに何を思った? 最期に思い浮かべたものは何だ? ……家族の顔か? それとも仲間の顔か? ……そのなかに…私の顔はあったか? 気にしていないと…その言葉は、真実であったのか?)
小さな窓から月光が射し込む。夏の盛りはまだ早いが、それでもゆるやかな初夏の空気が、窓の隙間からかすかに忍び寄る。
(…ああ…おまえと過ごした頃は…私もまだ駆け出しだったな。ようやく、歌で暮らせるようになったばかりだった。人間の街には馴染んだつもりでも、半妖精という存在には馴染むことのできなかった私を揶揄するかのように近付いてきたおまえ。私の視線はさぞや冷たかったろう。なのにおまえの笑みは何故か暖かかった。…揶揄、だと。そう思っていたのに。それでも暖かかった。……いつしか、私とおまえが繰り広げる舌戦は酒場の名物になって……おまえが冒険に旅立つと聞いて、私は仕方なく旅立ちの歌を贈った。……おまえが子供のようにせがむのがやけに可愛らしくて…)
暗い窓に視線を向ける。だが、夜明けは未だ遠い。シェイドの化身のような窓硝子は、小柄なエルフの姿を映すだけだった。だが、ロエティシアはそこに違うものを見ていた。淡く長い金髪の代わりに、短く癖のある、金色を帯びた赤毛を。森を映した瞳の代わりに、海の滲んだ瞳を。
(……予定よりもおまえの戻りが遅れて…私は柄にもなく気を揉んだ。無事に帰ってきた顔に、皮肉を浴びせた。……それでもおまえは笑んでいた。そうして…いつしか、共に在ることが自然になって…互いの名を呼び合うことが心地よくて……なのに、私はおまえを裏切った)
もう一度、小さな溜め息をついてそのまま目を閉じる。
夢を見ていた。森で暮らしていた頃の夢を。他愛ない日々の夢。木々の合間から射し込む光のなか、穏やかに微笑む兄たち。
「兄者、人間混ざりというのを見たことがありますか? 私はありません。この森にはいませんから…」
「本で読んだか? そうだな…何度か人間の街を訪れたことがあって、私は2人ほど人間混ざりを見かけたよ。……どうも…彼らには馴染めぬな」
苦い笑いと共にそう告げる兄の言葉に首を傾げたことを思い出す。忌まれし存在だと吐き捨てるように言ったエルフもいた。あってはならない存在だと、そう呟く者もいた。哀れむべき生き物、不自然な命。肯定する意見を出した者はほとんどいなかった。
「この森で…エルフとして生きてゆくのなら、おまえがそんなことを思い悩む必要はないよ、ロエティシア」
兄が微笑んだ。
ぽん。
肩を軽く叩かれて目が覚めた。
「ロエ、こんなとこで寝るもんじゃないわよ。懐狙われても知らないから」
聞き覚えのある声。夢から醒めきらぬまま、ロエティシアが顔を上げる。
「ああ…すまない……」
夢と現実が奇妙に入り交じったままの意識で、自分に声をかけた人物を見る。短く癖のある赤毛が、灯されているランタンからの光を受けて金色に輝いた。そして、その隙間からのぞく特徴のある耳。エルフほどには長くなく、人間の耳と言うにはとがりすぎている。
「………っ…! 人間…混ざり…っ?」
口をついて出た。エルフの森で兄と話をしていた記憶が、意識を支配していた。馴染みの酒場で、カウンターに座りながら…それでもそこは、ロエティシアにとっては50年以上前の森だった。エルフと精霊しか存在し得ぬ場所だった。人間など…ましてや半妖精など見かけるはずもない場所。
口に出してから気がついた。自分は森を出てから50年以上は経っている。ひょっとすると60年か70年かもしれない。人間の街での生活にも慣れて、人間や岩妖精、草原妖精、そして半妖精。いろいろな種族の友人たちがいる。さして社交的なほうとは言えなかったが、さすがにそれだけの年を経れば世慣れてはきていた。……そのはずだった。
「………あ……いや………少し…夢を見ていて…」
── 願わくば、先刻の言葉が、目の前の人物の耳には届いていないように。ああ…どうして、自分は忘却の精霊魔法が使えないのだろう。
ゆっくりと、ロエティシアは顔を上げた。青い瞳が見える。陽の光を受けた海の色だと評したのは自分だったのを思い出す。そして、今、その青い瞳を彩っているのは……。
「………こんなとこで寝てちゃ、風邪ひいちゃうよ?」
笑顔を作って見せる彼女が痛々しかった。震える口元を誤魔化そうと、無理矢理に微笑みの形を作って見せる彼女が。
「あ。イティサが来たみたい。彼女、こないだっから、新しい彼氏に夢中でさぁ」
揺らぐ瞳を見せまいと、視線を逸らす彼女が。
「……サシェ。私は……」
「ね。ロエもこないだ言ってた仕事受けたんでしょ? 出発はいつだっけ?」
聞かなかったことにする、と。その全身でサシェが語っていた。サシェ自身のためなのか、それともロエティシアのためなのか。
「ああ……出発は明日の朝だ。おまえも……明日出発と聞いたが?」
聞こえていなかったはずはない。何よりも、傷ついた瞳の色がそれを語っている。多分、先刻の言葉を口に出した自分はさぞかし嫌な表情をしていただろう、とロエティシアは思う。吐き捨てるように、冷たく言い放ってしまっただろうと。口に出した言葉の意味よりも、その表情と口調に彼女は傷ついたのだろうと。分かりすぎるほどに分かっていた。だからこそ言い訳が出来なかった。
「うん、あたしも明日。戻りは多分…1ヶ月くらい後だと思うよ」
……それでも、2人は微笑みあって別れた。
寝台の上で、ロエティシアは目を開けた。眠っていたわけではない。30年の昔に過ぎた記憶をたどっていただけだ。いくつかの時が過ぎた今でも、あの時のことは克明に覚えている。何よりも、あの時のサシェの瞳を。
── 時が過ぎて、僕がいなくなった後でも、君が僕のことを少しでも覚えていてくれるなら、それは嬉しい。
そう言ったのは誰だったか。確か…そう、彼だ。最近、オランの街で知り合った詩人だ。髭をたくわえた半妖精の男。
「覚えている……」
再び、暗い窓に視線を向けながらロエティシアが呟く。
「……覚えている。今でも。これからも。忘れない。だから……許してくれ、サシェ」
必要なのは、許しを請うことではなく、自分がいかにそれを贖うかだろう、と。いつもならそう言う。そして、それは自分でも常から思っていることだ。だが、イティサを介しての伝言を耳にして、思わず彼女はそう呟いていた。許せ、と。
「いや……許しは…必要ない。私を責めているのは…多分、おまえではない。おまえの信頼を裏切ったことを許せないのは……私自身だ」
いっそ責めてくれたら楽だったかもしれない、と…その思いを口に出すことはやめた。忘れないことは容易い。忘れようとしても忘れられないのだから。
酒場の主人を前にして歌ったあの歌は、覚えていようと作った歌ではない。忘れられないからこそ、せめて歌にでもしないと押し潰されそうだっただけだ。…苦い笑みが口元に浮かぶのを感じた。
翌日の夜。イティサと別れた路地に、再びロエティシアは足を運んだ。もう一つの伝言を頼むつもりだった。……許せ、と。
昨夜と同じように、暗い路地奥。月の光さえ届かず、ただ闇だけが支配する場所。そこで見つけたものを前にして、ロエティシアは足を止めた。小さな…本当に小さな溜息を1つだけついて、そこに腰を下ろす。
剥がれかけた石畳。薄汚れた左右の壁。腐臭にも似た臭いが籠もる場所。そして月の光は遙か彼方にとどまるのみ。
「伝言は頼めずじまい…か。……それもよかろう。どうせ、私の戯れ言に過ぎぬ」
そう呟いて、抱えていたリュートの布をほどく。
小さくはじいた1本の弦が、路地裏に響いた。左右の石壁に反響しつつ、その音は空へとのぼっていく。ロエティシアは目を閉じた。
安らかなれ 安らかなれ
自らの望むところに 自らの信ずるところに
おまえの魂が安らかに帰り着くように
安らかなれ 安らかなれ
真綿でくるまれて 優しい風におくられて
眠りにつくおまえが幸いなる夢を見られるように
すれ違う流れのなか 零れ落ちる時のなか
私はおまえを忘れない おまえの瞳を覚えている
巡りくる季節を数えて 巡り会う命を数えて
おまえが生きていた証はここにある
忘るることなかれ 忘るることなかれ
我らが共に在って 共に生きていたこと
苦難の時は遙かに過ぎた 今 おまえの魂が安らかなることを
高く細い声が路地を抜ける。目の前で、布をかぶったきり動かなくなっている者に聞かせようとするかのように。遠い昔の半妖精に届かせようとするかのように。
リュートの最後の一弦の音が消える。目を開けて、空を見やった。翠色の瞳が、闇を見通すかのように月をとらえた。
「……これが私の鎮魂歌だ。イティサ、サシェ。おまえたちの魂は荒ぶってなどいないとは信じている。鎮める必要などないと…。だが、それでも…安らかなれと願う気持ちに嘘はない。だから…私が出来るせめてもの手向けに。歌と…そして忘れないことを」
許せとは…言わなかった。
雲が動く。ロエティシアの瞳がとらえた月が、その光を路地へと零す。
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