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オランの街から北西に四リーグ(一リーグは約五キロ)ほど歩いたところに、大きな森が広がっています。
小高い土地の上にあるその森は、種々雑多な草木が生え、数多くの鳥や小さな獣たちが暮らし、また噂によればピクシーやフェアリーなどの妖精郷の住人が姿を見せることもあるといわれています。 それを裏づけるかのように、森にはどことなく神秘的な雰囲気が漂っていて、街の人々は滅多に立ち寄ろうとしません。たまに訪ねてくるのは、山野に暮らす野伏、薬用の植物を求める薬草師、精霊との交流を目当てにした呪い師といった者たちくらいで、それすらもそうあることではありません。一年の大半、森は穏やかな静けさに包まれているのです。 ところが、ここ二、三日というもの、森の中にはいつになく賑やかな気配がありました。木々はおちつかなげに梢を揺らし、草花はしきりに葉を震わせ、鳥や獣たちも仲間たちと言葉を交わしていました。 彼らの話題は三日前にこの森へやってきた小さなお客たちのことで持ちきりだったのです。
雑木林の中ほどに開けた広場があり、その真ん中に、四枚の真っ白い布を張ったテントが建っていました。 そばのブナの木にはロバが二頭繋がれていて、なにやら眠そうにしています。 テントの前にはブナの丸太が横倒しになっていて、それらの間で焚火がぱちぱちと燃えていて、その回りに四人の小人たちがいました。 小人は人間の言葉でグラスランナーと呼ばれます。これは「草原を馳せるもの」という意味で、彼らの多くが、国土のほとんどが草原で占められている東のミラルゴ国に暮らしていること、そして、彼らが人並外れて敏捷な種族であることの二つに由来して、このように呼ばれるのだといいます。 小人は人間よりもずっと長生きをする種族ですが、四人――男の子が一人、女の子が三人です――は見たところ、まだ少年期の年頃のようでした。 焚火の上に大きな鍋がかけられ、中からは芳しい香りが漂っていました。それは野兎の肉を入れた香草入りのシチューです。 金髪をおさげにした女の子が、大きなお玉杓子で鍋の中をかき混ぜていました。グラスランナーにしては珍しくすらりとした体つきをしていました。顔立ちも愛嬌があるというよりは綺麗な作りをしていて、なんとなくエルフの子供のようでもありました。 女の子はハミングをしながら杓子をぐるぐると回していましたが、しばらくして片手に持っていた小さな匙で鍋の中身を一口すくって味見をしました。 「うーん、ばっちり。ヘネカちゃんのシチューは今日も味つけ満点なのよう」 女の子が満足そうにいうと、大きな布をターバンのように頭にまきつけた女の子が隣にやってきました。おさげの子よりもややひきしまった体つきで、肌もよく日にやけています。吊り目の中の瞳は淡い青色で賢そうな光がありました。 ターバンの子はわざわざ持ってきた大きな匙でシチューをたっぷりすくって口元に運びました。 「ふむ、なかなかけっこうな味だ。しかしもう少し濃い方があたしは好きだな。うむ、一口ではよくわからんから、もう一口」 女の子はもう一口、もう一口といって合わせて三口食べました。それを見ておさげの子が目を丸くしています。 「うむ、やっぱりこれくらいがちょうどいいかな」 「ちょっとー、なに勝手にたくさん食べてるのよう」 舌なめずりをしてそう言う女の子に、おさげの子――ヘネカは頬を膨らませていいました。 「味見をするなら一口でいいじゃない」 「堅いことを言うな。遅かれ早かれ食べることに変わりはないんだから」 「クーナはお行儀が悪いのよう」 「ふむ、シチューもできたことだし、そろそろ食事にするか」 「ちょっと、人の話はちゃんと聞きなさい」 ヘネカはぷんぷんと怒っていますが、ターバンの子――クーナはまるで気にしていない様子で、ほかの二人に声をかけました。 「サテ、パムル、食事にするぞ」 「あーい」 「わかったにゅー」 少し離れたところで岩をすり潰して絵具を作っていた二人のグラスランナーが元気よく手をあげて返事をしました。 一人は茶色の髪を肩まで伸ばした女の子で、大きくてくりくりした瞳をしています。背丈も三人の女の子の中で一番小さくて、年齢もまだ幼い感じがしました。。 もう一人はサーカスに出てくるピエロのような格好をしたやんちゃな感じの男の子で、筆とパレットの入ったバケツを手に持っていました。 女の子のほうをサテ、男の子のほうをパムルといいます。
四人はオランの街に暮らしているグラスランナーの少年少女たちです。パムルは住まいを一つ所に定めずに街の中を転々としていて、サテ、ヘネカ、クーナの三人は〈妖魔通り〉にある薬草屋に揃って居候をしています。 彼女たちは、居候先の主人(アーヴディアという名前の半妖精の女性です)のいいつけで、あちこちの山や丘や森へでかけて薬効のある草花や木の実を採集しにいくことを仕事にしています。この森にやってきたのは、この森に咲く数種類の薬草を採ってきてくれるよう、アーヴディアに頼まれたからなのでした。 いつものように準備を整えて街の北の出口へ向かったところで、彼女たちはばったりパムルに出会いました。パムルもまたこれから街を出ようと思っていたところでした。と言うのも、パムルはとある大きな屋敷の壁に落書きをしているところを見つかって、その家の召使と番犬に散々追いかけられたからです。 パムルはお絵描きが大好きな性分なのですが、カンバスに描くだけでは飽き足らず、家の壁やらに落書きをするのも大好きなため、「落書きピエロ」という大変ありがたくない呼び名を持っています。 パムルは女の子たちの用件を知って、一緒に連れていってくれるようお願いしました。 「街の外へいくんやね? そんならおいらも連れてってほしいにゅ。何日かしたらほとぼりも冷めるし」 「お手伝いするんなら連れてってあげるわよう」 「働かざる者食うべからずというしな」 「大勢でいるほうが楽しいのだ。だからパムルもいっしょに薬草摘みする〜」 三人は特に反対する理由もないことなので承知しました。 かくして薬草摘みの一行は四人になったのでした。 四人はまずオランと北の領地を結ぶ〈蛇の街道〉をしばらく歩いてから、街道を外れて西に向かいました。間もなくして小山にさしかかると、そこからは獣道をたどって奥へ進み、その日の夕方のうちには目的地へ到着しました。 四人はテントを設営するとその日はもう休んで、翌日から採集を始めました。朝から夕方まで森の中を歩き回って、薬草のほかに食べられる草花や果実、木の芽を採ってくるといった生活が二回繰り返されますと、用意しておいた笊や籠の中はほとんど溢れ返りそうになりました。
昼食のメニューは、シチューの他に、堅く焼き占めたパン、蜂蜜にクリーム、食べ加減のチーズ、野草のサラダに熟したベリーでした。 お腹いっぱいになって人心地ついた後、ヘネカは食事の後片づけを、クーナはロバの世話を始めました。サテとパムルは午前中に笊いっぱい集めておいた薬草やら果実やらを分別して毛氈の上に並べ始めました。 それらは実に色とりどりで、香りにもそれぞれごとの個性があり、毛氈の上にはこの森の豊かさが凝縮して収められていました。それはまさに春が生み出した宝石のようでした。 「ほんに、ぎょうさん採ったもんやにゅ」 パムルは感心したようにいいました。 「うい、たくさん集まったのだ」 カンパニュラを髪に挿しながらサテもいいました。 「でもさー、たくさん採ったのはいいんやけど、とても全部は持って帰れんと思うんよ」 クーナが煙管と火壷を手にしてやってきて、パムルとサテの向かいに腰を下ろしました。クーナは火壷の蓋を開いて、おき火から煙管に火を取っていいました。 「そんなことはないさ。いつもよりちょっと多いだけだ」 「うーん、そうかなあ」 パムルはテントの前に置かれた四つの背負い籠に目をやりました。それぞれの籠の中には今までに集められたものがたっぷりと詰め込まれています。三つの籠には既に蓋が載せられて紐で括りつけられているのですが、蓋と籠の隙間からたくさんはみ出しています。残る一つの籠もすでに溢れそうになっています。 「あれに今日の分も入れるんやろ? 蓋、閉まらんようになってしまうんやないかなぁ」 「余った分は今日の夜にでも食べてしまえばいい。ヘネカが調理してくれるだろう」 ちょうど後片づけを終えたヘネカもやってきました。 「ヘネカちゃんはなんでも美味しくしてみせるのよう」 そういうとヘネカは並べられた草花や果実の中から幾つか取り上げました。 「これだけあったらちょっとしたジャムになるのよう」 やがて今日集めた分がすっかり分けられました。特に大切なものから籠の中に詰めこまれて、残りは今晩の食事の材料としてテントの中に運ばれました。 「採集は今日でおしまいだな。今から帰っても閉門までには間に合わないだろう。今日はのんびり過ごして明日オランに帰るか」 クーナの提案に三人は賛成しました。 「それじゃ、水浴びしに行くのよう」 タオルと着替えを手にしたヘネカがいいました。 「そうだな。今日も暖かかったし、汗を流しにいくか」 煙をぽわぽわと吐き出してクーナがいいました。 「水浴び水遊びするする〜」 サテが元気よく手をあげました。 「おいらも一緒に水遊びするする〜」 パムルも元気よく両手をあげました。 「たわけ」 クーナとヘネカのチョップがパムルの頭を直撃しました。示し合わせたようにぴったり息の合った一撃でした。 「うにゃああああ」 どうやら二人はまったく手加減をしなかったようで、頭を抑えて転げ回るパムルの様子からそれが見て取れました。 パムルを見下ろす二人は呆れ顔でいいました。 「今日も同じことをいってる。全然懲りてないのよう」 「また木に吊るしておいてから行ったほうがいいようだな」 二人がテントからロープを取り出して戻ってくると、パムルはあわてて立ちあがりました。 「あうあう、わかったにゅう。もう冗談は言わへんから、今度は吊らんといて。ね?ね?」 パムルは可愛らしくお願いしましたが、ヘネカとクーナは冷たい目でじーっとパムルを見ています。 やり取りの様子を見ていたサテがいいました。 「パムがいい子にしてるなら、あたいはかまわないのだ〜」 サテにいわれて、二人は顔を見合わせました。 「どうしよう」 「サテもこういっていることだしな」 二人はちょっと目配せをし合ってパムルのほうを向くと、怖い顔をして念押しをしました。 「それじゃ、今日が最後だし、ちゃんと約束するなら勘弁してあげるのよう」 「ただし、もし覗いてるところを見つけた時はひどいからな」 「にゅにゅ、ぜったいに悪いことしないって誓うにゅう」 パムルも神妙な顔をして返事をしましたので、二人ともとりあえず納得したようでした。 三人が出かけて行くのを見送ってから、パムルはテントの中に入って、カンバスを抱えて出てきました。絵描き道具の入ったバケツを持って丸太に乗っかると、カンバスを膝の上に乗せて辺りの景色を眺めまわしました。 「今日が最後だと言ってたから、今のうちにバッチリ描いておくにゅ」 森に着いた時から、パムルはここの雰囲気がすっかり気に入っていました。妖精郷に通じていると噂されているだけあって、この森にはグラスランナーである彼らの気持ちを強く引きつけるものがあったのです。初めてこの森に来たパムルはとりわけ魅了された様子でした。 そこで、ぜひともこの森の風景をカンバスに描き留めておきたいと思っていたのですが、毎日薬草採りの作業に追われて明るいうちに絵を描く時間がなかったのです。 「今が最後のチャンスだから。無駄にはできんにゅ」 パムルはコンテを持つと、一心不乱に下絵を描き始めました。その表情は実に活き活きとしていましたが、同時にとても真剣であることがありありと現れていました。 いつもは絵を描いている時でもいろいろと喋っているのですが一言も口を開かず、水辺を離れてきたミソサザイがそばに降り立ってもまったく気づく様子もなく、パムルはコンテを走らせ続けました。
川辺で水遊びをたっぷりと楽しんだ三人が広場へ戻ってきたとき、パムルは絵筆で色塗りをしているところでした。その姿を見て、三人はおや、という顔をしました。 「パムルがおとなしいのよう」 「珍しいこともあるものだ」 「あー、お絵描きしてるのだ」 三人はパムルの回りに集まって、横から後ろからカンバスを覗き込みました。 「おお、これは凄い」 クーナが感心した声をあげました。 「うきゅー、きれいなのだー」 サテが目を大きく見開きました。 「まったく驚いたのよう」 ヘネカがうなっていいました。 そこには、午後の光の中にまどろむ森の一画の様子が鮮やかに描き出されていました。色合いも陰影も見事なもので、まるで森の景色を切り取ってそのままカンバスの上に貼りつけたようでした。 三人はパムルの邪魔にならないよう静かに、しかし食い入るように作業の様子を眺めました。 パムルの持った筆がカンバスの白い部分を丁寧に埋めていきます。そして遂に最後に残されたエニシダの茂みに明るい緑色を塗り終えました。 「ふいー、できたにゅ」
満足そうに呟くと、パムルは大きく伸びをしました。 そこでようやく三人が見学していることに気づいたようでした。

「あら、もう戻ってきたん? 早かったねえ」 パムルの言葉に、三人はくすくすと笑いました。 「さっきからいたぞ」 「とっくにお茶の時間は過ぎちゃってるのよう」 「パムはお絵描きにむちゅーになってあたいたちに気づかなかったのだ」 「なんや、それなら最初から声をかけてくれればよかったのに」 パムルは鼻の下をこすって、にひひと笑いました。
四人はそれからおそめのお茶の時間にしました。蜂蜜がたっぷりと入った紅茶を用意すると、丸太の上に並んで腰かけて、その味わいを楽しみました。おやつは街で買っておいた焼き菓子に、集めておいた木の実を出しました。 「なあなあ、お願いがあるんやけどさあ」 お菓子もあらかた食べ尽くされたころになって、パムルがいいました。 「オランに帰るの、あと一日だけ待ってもらえないかなあ」 その言葉は普段のパムルにはない熱っぽい口調でした。 三人はパムルの気持ちをすぐに察したようでした。 「パムはまだまだ森でお絵描きがしたいんだね」 「それなら全然おっけぇなのよう」 「一日くらいずれても構わないしな」 パムルは嬉しそうににっこりと笑うと、丸太の上に立ちあがりました。 「ありがたいお言葉をちょうだいしたにゅ。不肖パムル、感謝感激雨あられ!」 そして身軽な動作で宙返りをすると、ちょうどピエロがするようなおどけた仕草でお辞儀をしました。 人も立ち寄らない静かな森の中に、四人の朗らかな笑い声が賑やかに響き渡りました。
次の日、朝ご飯を済ませるとパムルはカンバスと画布を持って早々と森の中を歩き回り始めました。絵筆やらパレットやらが入ったバケツを両手で持ったサテが、その後ろをちょこちょことついてきました。ヘネカとクーナの二人はテントに残って、それぞれジャムを作ったり、野生のパイプ草の味見をしたりすることにしました。 パムルとサテは森の中をぐるぐる回り、絵を描くのによさそうな場所を探しました。パムルがその場所を気に入ると二人はしばらくそこに留まり、パムルは絵を描き、サテは染料になりそうな果実や草花、石ころを集めて回りました。 お昼前に二人はテントまで戻ってきました。ヘネカがお鍋で野草スープを作っていました。小さなテーブルの上には春の山菜を使った料理が並べられており、その中にはヘネカが得意なベリーのジャムもありました。 「おや、お帰り」 煙管でパイプ草を吸っていたクーナが、帰って来た二人を見ていいました。それから二人の手や顔を指差すと、 「ずいぶん化粧をしてきたね。先に洗っておいで」 といって笑いました。パムルもサテも、顔や手は絵具の色でいっぱいになっていたからです。 「じゃあ、ちょっくら川までいってくるにゅ」 「いってくるのだー」 二人がいなくなってから、クーナはパムルが置いていったカンバスを手に取って見てみました。 「なんだ、昨日の絵とずいぶん違うな」 昨日の写実的な絵と比べると、今度の絵は原色を使った派手な色合いをしていました。構図もどちらかといえば平面的で、輪郭線も太く描かれています。昨日の絵がさながら美術館に並ぶような趣きだとすると、こちらは絵本の挿絵や店の看板に使われるようなくだけた感じでした。 「芸風が広いというかなんというか」 クーナが呟くと、お鍋を運んできたヘネカも絵を見ていいました。 「あら、あたしはこっちの方が好きなのよう」 「そうか。ヘネカは子供だからな」 「むかー、なんでそうなるのよう」 「まあ、それはさて置いて」 クーナはやっぱり気にしていない様子で、カンバスを丸太に立てかけました。
食事が済むと、女の子たちはいつものように水浴びに出かけていきましたので、パムルは一人残ってお絵描きを続けていました。 三枚目を描き終えたところで、持ってきていたカンバスはすべて絵で埋まりました。 「ああ、まだ描き足りないにゅう。こんなことなら、もうちょい持ってくればよかったにゅ」 パムルは残念そうにいって、地面にに大の字に寝そべりました。 春の陽射しはぽかぽかと柔らかく、暖かく、パムルの身体を包んでいます。 「お昼寝にはいい時間だけど、おいらの創作意欲はまだ燃え尽きていないにゅ。さて、どうしたものか」 パムルは左右にごろごろと転がっていましたが、ふとある一点に目が止まると、むくりと身を起こしました。 「おお。まだ描けるものがあったにゅ。あれをカンバス代わりにすれば」 パムルの目はきらきらと輝いています。慌てて左右を見渡しました。 「みんなが戻ってくるまでもうしばらくあるにゅ。そうと決まれば行動は早い方がいいにゅ!」 パムルは画材の入ったバケツを持つと大急ぎで目当てのものの前へ――すなわちテントの前へ――駆けつけました。 そして、両手に大きな絵筆を持つと、ものすごい勢いで色をぺたぺたと塗り始めました。
水浴びから帰って来た三人は、そのありさまを見て、口をぽかんと開けて目を丸くしました。三人とも驚いたやら、呆れたやらで言葉が出てこないようでした。 「やや、お帰りだにゅ」 パムルはちょうど紅茶を煎れているところでした。そして三人の様子に気づくと、 「どう? おいらの力作だにゅ!」 と言って誇らしげに胸を逸らし、腕を伸ばしてその作品、すなわちテントを指し示しました。 もともと真っ白だったテントの四枚の布地の上には今、一面の星空が現れていました。吸いこまれそうな深みのある藍の空に、白から青から赤色までさまざまに輝く星たち、その星々の間を彼らの故郷ミラルゴに住んでいる鳥や獣たちの姿が所狭しと駆け回っていました。その中にはミラルゴの古い言い伝えに現れる上古の時代の生き物たちもありました。 「うーん、今度は本当に驚いた」 クーナがやっとそれだけいいました。目はまだ絵のほうに釘づけです。ヘネカとサテはテントの前にしゃがみ込んでじっと絵を眺めています。 「これはもう芸術なのよう」 「すごいのだー、きれいなのだー」 しばらくしてから二人は口々にいいました。二人とも直に手を触れてみたくてしょうがないのを我慢している様子でした。 「それにしてもわざわざこんなところに描くことはなかったんじゃないか」 クーナはなんとなくもったいなさそうにいいました。 「ちゃんとしたものに描いて世に出せばいいのに」 「おいら、金儲けは嫌いだにゅ」 パムルはいいました。 「有名になったら他人の注文で絵を描かなきゃならなくなるやんか。そんなのつまらない。自分が好きなものを描くから楽しいんだにゅ」 「うん、それもそうだな」 クーナは納得した様子でうなずきました。それからクーナは、このテントが自分たちのものではなく、薬草屋のアーヴディアから借りてきたものなのだと言うことを思い出したのですが、それは言わずにおきました。彼女もこの絵をきっと気に入ってくれることがクーナにはよくわかっていたのです。
翌日、四人はロバを引っ張ってオランの街へ帰っていきました。 アーヴディアはいつになくたくさんの収穫があったことを褒めてくれました。次にテントに描かれた絵を見ると、この絵は記念として店の一画に飾られることになりました。 それからアーヴディアは、パムルに一つのお願いをしました。 それは――。
この頃、オランの街の一角に建つ薬屋「精選香草堂本舗」の入り口に一枚の看板が提げられました。草花の冠をつけた小さい黒猫が絨毯の上で丸くなっている図柄のその絵は実に見事なでき栄えでした。店内には、同じ画家の手になるものと思われる立派な風景画を描いたカンバスが数枚立てかけられており、客の中でも絵を観る心得のある者たちはこぞって、誰が描いたものなのかを尋ねましたが、女主人のアーヴディアは静かに首を振って答えませんでした。 彼らは口々に知る限りの高名な画家の名前を口にし、あるいはオランの街のどこかに隠棲しているのであろう才能ある画家のことを思いながら立ち去って行くのでした。 彼らの後姿を見送るたびに、アーヴディアはこう呟きました。 「この絵はグラスランナーの男の子が描いたものだから……そう説明したところで、どれだけの人が納得するのかしら」 アーヴディアは窓の外を見ました。 今日は、西の小山へ出かけていた四人が戻ってくる日です。 窓を開けて耳を澄ますと、初夏の風に乗って遠くから彼らの元気な声が聞こえてくるようです。
もうすぐ、オランは夏になろうとしていました。
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